2012年12月23日日曜日

「60年見守ってくださった方」


「60年見守ってくださった方」 小山 茂

 福山ハルヨ姉というひとりのキリスト者を語らせてください。12月9日午後、福山ハルヨ姉が天に召されたと妻から知らせがありました。阿久根での礼拝を終えて帰宅して、ホッとしてくつろいでいました。もしこの方と出会っていなければ、私はキリスト者になっていませんし、まして牧師とされていませんでした。4年前から東京老人ホームに入居され、105歳と9カ月のご生涯でした。幼稚園の時から60年間、私を見守ってくださいました。25年前に天に召された福山猛牧師と福山ハルヨ夫人(皆さんこの呼び名をされていました)、このお二人の存在が私にとってどれほど大切な方であったか、改めて振り返えらせてください。

 私の通った近所の幼稚園は、東京品川にありました五反田ルーテル教会でした。我が家は当時第二京浜国道と呼ばれる広い通りに面して、食料品の小売をしていました。食事や弁当のおかずなどは、私の家でほぼ揃うような店でした。ですから、福山夫人も五反田駅からルーテル教会の途中にある店に、よく寄ってくださいました。福山夫人をこの9月に訪ねた折、「家の前で、よく三輪車で遊んでいたわね」と言われました。家の前は広い歩道があり、両親が店番をしている前で、私はよく三輪車で遊んでいました。我が家は私が小学校2年の時、東京西部に引っ越しました。そんな訳で私はルーテル教会から離れ、ご夫妻とは年賀状や暑中見舞いの往復だけになりました。私はよく版画の年賀状を手作りし、その印象から皆さんが私を憶えてくれました。

 福山猛先生が牧師を引退され、東京老人ホームに用事で来られる途中、武蔵野市の我が家に寄ってくださったことがありました。久しぶりにお会いする先生は、昭和天皇に似た雰囲気をお持ちでした。幼稚園時代の先生は、サンタクロース姿の写真が私のアルバムに残されています。しかし、幼稚園児の私と先生は、かなり年が離れており、話した記憶は余りありません。そして、私が30歳を過ぎた時人生に躓いて、自らの心を開けなくなりました。そんな折、教会に来ませんかと勧められて、武蔵野教会の礼拝に行くようになりました。

 教会の皆さまに温かく迎えられ、少しずつ心を開けるようになり、35歳のイースターに受洗をしました。教会がきっかけとなり紹介された妻と知り合い、37歳で結婚しました。賀来周一先生に司式を、福山猛先生に説教を創世記から力強いメッセージをしていただきました。猛先生はたいへん筆まめな方で、山から便りを出すと返信をくださり、年賀状には和歌が載っていました。その先生も25年前に召天された後、福山ハルヨ姉との交わりが始まりました。猛先生の後を引き継ぐかのように、我が家の歩みをじっと見守ってくださいました。子どもの誕生日、進入学など憶えていてくださり、カードと心のこもったプレゼントをいただきました。初めての子を授かった時、新生児室まで見に来られて、とても喜んでくださいました。我が家の二人の子ども〔24歳の息子と22歳の娘〕は、「福山のおばあちゃん」と呼んでいました。

 私が53歳の時27年間勤めた職場から、リストラされて突然解雇されました。それが私の躓きとなり、なかなか立ち直ることができませんでした。半年の間悩んで、私が神学校に行くと決めた折、福山夫人はずいぶんと心配されたそうです。私には直接いわれないで、どなたかに漏らされたそうです。6年かけて神学校を卒業し按手を受けて、老人ホームにお邪魔して、最初に聖餐をご一緒したのが福山夫人でした。とても喜ばれたお顔をされ、今でもよく覚えています。

鹿児島に牧師として赴任し、毎月送る月報を楽しみにされ、自宅に戻る時は老人ホームを訪れました。最後に訪ねたのは9月中旬でした。11時半に行きましたら既に昼食中で、部屋で待ってほしいと言われました。終わるまで待ってから2時間ほど話しました。少し耳が遠くなられ、ホワイトボードで筆談をしました。一緒に讃美歌を歌い、子どもたちの近況を伝え、そろそろ失礼します、と申し上げました。最後に手を握るとなかなか離してくれず、また来ますからといいました。お名残惜しそうに何度もじっと私を見て、送り出してくれました。

召天される数日前に妻が娘を連れて訪ねた折、お会いできたのは何よりでした。3週間前から食事をされず、アイスクリームを口にされていると伺い、気になっていました。福山夫人の一生は、主に委ねたキリスト者の生き方と思います。何度も骨折をされたり、肺炎で入院されたり、その度ごとに病院から戻られ、命の恵みをいただいていると思います。また、好奇心が強く、前向きで、委ねるがゆえの楽観的になれる方でいらっしゃいました。お茶がたいへんお好きで、誕生日、敬老の日など、差し上げていました。老人ホームに入られてから、差し上げられなくなっていました。ある時介護士さんに、特別にお茶を贈りたいのですが、と相談しましたら、承諾をいただきました。それから鹿児島茶を差し上げるようになりました。

 福山猛先生、ハルヨ夫人との交わりは、さまざまな形で広がりました。御長女の尚美姉は、幼稚園で私の担任でした。折に触れてご夫妻の5人のお子様方ともお会いしました。神学校の教会実習で訪れた藤が丘教会では、お孫さんの内藤裕幸兄がいらっしゃいました。私が教会に戻れたのは、福山猛先生が筆まめだったからで、私もそのようになりたいと念願しています。もうお茶や月報を送ったり、ホームを訪ねたり、する必要がないと思うととても寂しい気がします。どうぞ天の国から、猛先生と御一緒に私たちを見守ってください。そして、いつか再会できることを楽しみにしています。

 たいへん個人的なことを書いて恐縮ですが、こんなキリスト者にされたいと思いながら、これまで交わりに迎えてもらいました。福山猛先生とハルヨ夫人、そんな素敵なご夫妻が、ルーテル教会の信徒としていらっしゃったことを知っていただきたく、文章にいたしました。

2012年12月16日日曜日

説教・神のご計画の中に


待降節第3主日 説教原稿   鹿児島にて  2012.12.16
サムエル下7:8~16 ローマ16:25~27 ルカ1:26~38「神のご計画の中に」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにありますように。アーメン

《序 受胎告知》
 待降節第3主日の日課はルカ福音書1章で、受胎告知が語られています。天使ガブリエルが、マリアは身ごもって男の子を産む、と告げたところから始まります。「受胎告知」というと、私たちはどんなイメージを持っているでしょうか。「受胎告知」という題の絵はたくさんありますが、エル・グレコによるものは1600年頃に描かれています。マリアが天使ガブリエルから主イエスを受胎すると告げられる場面が描かれています。天使が左手に持つのは、マリアの純潔をイメージする白百合の花であり、 中央に舞い降りて来る鳩は、聖霊をイメージしています。この絵は第一次大戦直後の混乱の時、日本に買い取られて倉敷の大原美術館に所蔵され、そこでオリジナルを観ることができます。このエル・グレコの絵は古い宗教画というより、赤と黄の鮮やかな色使いは恵みを表しているように見えます。

 よく知られている「受胎告知」ですから、多くの画家がこの出来事を描いています。レオナルド・ダビンチを始めとするほとんどの絵は宗教画の枠の中に留まり、落ち着いた色合いで描かれています。マリアに告げられた神の意志を考えるなら、彼女にとって恵みの出来事、と素直に受け取られるのは、難しいのかもしれません。身ごもっていることがいいなづけに知られるなら、困ったことになるからです。そして、神から与えられた使命を、若い彼女は負担に感じるかもしれません。乙女マリアがどのように神のご計画を知って、天使の御告(みつ)げに答えるのか、ルカ福音書に聴いてまいりましょう。

《2 伝えられた神の御計画》
 神はご計画を伝えるため、天使ガブリエルをマリアに遣わします。天使はマリアに伝えます、「おめでとう。恵まれた方。」マリアはメッセージを聞いて、何がめでたいのか、どうして恵まれているのかさっぱり分かりません。彼女が身に覚えのないことで、戸惑うのはもっともなことです。さらに天使はいいます、「あなたは身ごもって男の子を産むが、・・・神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。」自分が身ごもって男の子を生み、その子に王座が準備されていると告げられます。動揺するマリアは天使に答えます、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」まだ男性を知らないから、そんなことはありえません、と乙女マリアは天使の御告げに疑いをもちます。

 ナザレという小さな町に住む、マリアという僅か12歳ほどの乙女に、神はご計画を明かし、この出来事が始まりました。乙女の穏やかな暮らしに神は介入され、思いがけないことが彼女に降りかかってきます。戸惑う彼女に天使はいいます、主があなたと共におられるから恐れることはありません。そのように告げられても、分かりましたとはいえません。彼女はいいなづけのヨセフと婚約しており、ユダヤ法では結婚と同じ意味をもっています。もしも姦淫の罪で訴えられたら、石打ちの刑にされるかもしれません。天使ガブリエルは、マリアを恐れざるをえない状況の中においているのです。マリアは御告げを信じるかどうか、決断を迫られています。

《3 人に分からない、神のご計画》
 私たちは信じる前に、いや信じたと思った後でも、自らの決断を疑うことがあるのではないでしょうか。私たちは誰にでも必死に考えて悩み、袋小路に入って抜け出せない、いくら考えても分からないことがあります。乙女マリアはこの時そのような状態にありました。彼女は天使の御告げを確かに疑っていたと思われます。それでも、「お言葉どおり、この身になりますように」と答えます。彼女がそのようにいえた理由が、聖書のどこにも見当たりません。マリアの気持ちをさまざまに考えますが、どうしても分かりません。神のご計画は、私たち人間に分からないことがあります。  今朝の聖書はその理由を明かさずに、謎としているからです。私たちが勝手な意味づけをして、解釈すべきことではないようです。

マリアは決断して、神にお任せしています。それが信仰というものではないでしょうか。すべてが分かってから信じるなら、私たちの信仰はスタートラインに、何時までも立てないかもしれません。説教の最後に「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように」と申し上げます。私たちの知恵や知識を超えて、神はご計画をされて御旨を伝えられます。ですから、神の意志すべてを人間が理解して、成るほどよく分かりました、といえるとは限りません。それでも信じられる、それが本当に主に委ねる、そして平安を与えられる、ということではないでしょうか。

天使はマリアの疑問に応えて、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」といいます。彼女に聖霊が降り、神の力に覆われます。そして天使は「神にできないことは何一つない」といって、神は全能であり、神にとって不可能なものは何もないと告げます。そしてマリアは最後に、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言葉を返します。マリアは分からないながらも、最後に決断し主に任せていきます。この「はしため」と訳されている元のギリシア語は、女奴隷という意味があります。神の呼びかけに対して自らを奴隷のように、主に従う者であると信仰告白をしています。そして神のご計画が、わたしマリアを通して成就しますようにと祈っています。

《4 旧約預言の成就》
 今朝の初めの日課は旧約サムエル記下7章で、預言者ナタンがダビデに告げた言葉です。ナタン預言と呼ばれる12~14節はこのように語られています。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

神はダビデの子によって王国の王座をとこしえに堅く据(す)えると告げ、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と神の約束を記しています。そして新約ルカ福音書では、天使ガブリエルはマリアの子が「永遠にヤコブ(イスラエル)の家を治める」と告げます。このように、ダビデにされた約束は、ダビデの家系である父ヨセフを通して、主イエス・キリストがダビデの子孫として王とされます。イエスと名付けられた救い主は、この世を治め、その支配は永遠に終わることがない、と天使を通して宣言されています。サムエル記7章のナタン預言は、ルカ福音書に記された通りに、こうして成就されていきます。

 主イエスに与えられた父ダビデの王座とは、金銀宝石を散りばめた豪華な王座ではなく、私たちが救われるための十字架でした。主イエスを生贄として罪赦されるため、神がその独り子を私たちに献げてくださったからです。このような思いもかけないご計画を、私たち人間が考えて理解できるものでは到底ありません。それほどまでに豊かな恵み、神の御旨を私たちはいただいているのです。

《結び 主に委ねる》
 先ほどのマリアの言葉「お言葉どおり、この身に成りますように」は、信仰の告白です。主が自分に働かれる恵みを受け止める、それはマリアにとっての十字架となります。この後に両親ヨセフとマリアは、幼子イエスを連れて初めて神殿に詣でます。その折、老シメオンが幼子を腕に抱き、救い主に出会うことができたから、もう思い残すことなくこの世を去ることができる、と賛歌を次のように歌います。それが礼拝の中で歌われる「ヌンクディミティス」です。♪「今わたしは、主の救いを見ました」で始まる歌です。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ちあがらせたりするためにと定められています。また、反対を受けるしるしとして定められています。」《2:34》幼子イエスは将来人々から嘲(あざけ)りや侮辱(ぶじょく)を受ける、その対象とされます。我が子がそのような苦難を受け、30年後に十字架につけて殺されると、乙女マリアはまだ知らなかったことでしょう。彼女が決断して信じていく、神のご計画に従っていく、若い乙女の潔(いさぎよ)さを見る思いがいたします。

 神はマリアだけでなく、私たちにも働かれます。神が皆さまに働かれ助けてくださった、と後になって気付かされることは、ありませんでしょうか。その時は分からなくても、自らの歩んだ道を顧みるなら、あの時主は私と共に歩いてくださった、と思えることがありませんでしょうか。よく知られた「足跡(あしあと)」という詩にもあります。主が私と共に歩まれた道を振り返ると、ひとつの足跡しかないところを見つけ、主は私を見捨てられたと言います。そこで主は応えられます、「足跡がひとつだった時、私はあなたを背負って歩いていた。」そのような経験を、皆さまもお持ちではないでしょうか。私たちが最も困難にある時、主は私たちを背負って歩んでくださるお方です。

 待降節第3主日(アドベント)の今、3本の蠟燭(ろうそく)が灯され、来週はいよいよクリスマスの訪れです。御子イエス・キリストのご降誕を待ち望みながら、マリアの決断を聞いて力づけられ、主イエスの御後に従えるよう、導かれています。マリアのように、「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」と告白しつつ、私たちに働かれる主の御旨を、受けてまいりましょう。

《祈り》慈しみ深い主よ、マリアは天使の御告げを受け、「お言葉どおり、この身になりますように」と、神のご計画を受け入れました。あなたのご計画は、私たちにはその時分かないことが、後になって分かります。それでも、あなたに委ねて、御後に従う者とさせてください。主イエスのご降誕を待ち望む、私たちのところに来てください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン
 

2012年12月2日日曜日

ブラジルと鹿児島がつながる



「サンパウロからいちき串木野へ」   小山 茂

 ブラジル日系ルーテル教会の徳弘浩隆先生より、11月29日電子メールが私に入りました。手紙と写真18枚が添付され、いちき串木野市の親族に届けてほしい、と依頼されています。徳弘先生の教会に来られている女性のご主人が11月21日に召天され、翌日ブラジルの慣例により徳弘先生が葬儀と埋葬をされました。ご主人は鹿児島のご出身で、奥さまは日本語で親族と連絡を取るのが難しく、徳弘先生が鹿児島の親族に電話をされました。さらに私が訪問して召天の経緯や写真を渡すことになりました。その29日に車を1時間ほど走らせて、親族の家に到着しました。88歳の叔母、従妹、そのご主人の3名にお会いして、託されたものを手渡して2時間ほど話してきました。初対面の方々なのに、心開かれる会話ができました。

 召天された男性と娘さんは、鹿児島に来られたことがあるそうで、その時に撮影した写真が飾ってありました。叔母様はずいぶん気にかけておられた様子で、連絡がないことに腹を立てていらっしゃいました。この度遺された奥様が鹿児島と連絡を取りたいと望まれ、徳弘先生と私の連携プレイによって、サンパウロと鹿児島の絆が取り戻せました。殊に気にかけていらした叔母様は、召天の知らせでしたが、ほっと安堵されたようでした。叔母様に甥御さんを、許してあげてくださいとお願いしました。なおこの日の夕方、徳弘先生が依頼された本教会経由の手紙も、親族に届いたと後から連絡がありました。

 話はそれで終わりませんでした。お会いした従妹の弟さんから電子メールが、徳弘先生に届けられました。また、次の日曜日12月2日鹿児島教会の礼拝に、お会いした従妹とその妹さんが出席され、感謝献金をいただきました。地球の裏側になるブラジルと日本で、両国の時差は12時間あります。徳弘先生の配慮によってつながりました。12月2日にサンパウロで初7日の記念会を予定され、親族から返信を期待されていました。遺された奥様が、たいへん喜ばれたと伺いました。主が取り持ってくださった親族のつながり、そのお手伝いができて私もとてもうれしく思いました。

2012年11月4日日曜日

説教・「共に喜ぼう」 ジェムス・サック先生


フィリピの信徒への手紙4:4~9  「共に喜ぼう」 ジェムス・サック先生 2012.11.04

 おはようございます。阿久根教会の皆さまもおはようございます。放送されることに慣れていないので、今日は初めての経験をしてみます。先ほど、(小山)先生がおっしゃったように、テキストを変えてもらって、喜びというテーマは如何でしょうか。それで、フィリピの箇所を選んでもらいました。

 皆さんに聞きます、喜ぶ、楽しむ、嬉しがる、それぞれのことはクリスチャンと関係ありますか。クリスチャンの生活にどのような関係があるでしょうか。多くの一般の日本人は、教会は自由のない、窮屈な所というイメージを持っているようです。けれども、皆さんは今までどうですか、今までキリスト教の生活、当然人によって様々な経験がありますが。私にとって、この喜びは根本的なキリスト教、信じている部分だと思います。当然に悲しいこと、辛いこと、困ることがあります。その時は、喜ぶことは難しいけれども、やっぱり喜びがあると思います。大人より子どもは、自分の本当の感情を表すことは易しいみたいです。子どもはやっぱり何でも正直に言う人間ですね。今私の子どもたちは31歳、26歳、21歳ですけれども、幼い頃は困る程正直ないい方をしました。長男は31歳ですが、ジャンといいます。彼が4歳の頃、私たちは佐賀と大町教会で牧会していました。彼の4歳の時の思い出があり、とても喜びました。一緒にお風呂に30~40分遊ぶ、楽しい時間になりました。そのため指に皺ができて、ドライ・プルーンのようになりました。水泳で習ったことをお風呂場で練習しました。ブ・ブ・ブ・パッと呼吸の練習を繰り返しました。彼の幼い人生で習ったことに、適応することになりました。おもちゃで遊ぶこともあって、けれどもいつも楽しいことだけでなく、時々たいへんなことにも出会いました。例えばシャンプーが目に入ると、死にたいと思うほど泣きました。ある時二階のお風呂場から「お母―さん!」という声を聞き、妻が急いで飛んで行きました。おもちゃが沈んでしまったから、拾って欲しいということで、ホッとしました。とにかく色々な大変なことに出会いました。

 私たちの人生を考えると、私たちの生活の中にも、色々な楽しいことがあると思います。正直に言うと私は果物が大好きです。イチゴの上にクリームをかけて、食べることがすごく好きです。もうそろそろその時期が来ます。その時私の目的は何でしょうか、その美味しい味を経験することです。それは楽しいことです。若者だったらボーイフレンドやガールフレンドから電話が来る、メールが入る、楽しみにしていると思います。または、教会で結婚式、子どもが生まれたこと、教会として皆が喜ぶことになります。神さまの創造は、すべて良いものですね。今朝来る前に創世記を読んで、神さまが宇宙すべてを造られ、終わったら神はご覧になり良しと言われた。ですから、神さまが作られたものすべてが良いものとして、私たちが創造の中で楽しむことenjoyすること、ひとつの目的だと思います。

 「愛少女ポリアーナ物語」を憶えていらっしゃるでしょうか。〔1986年に「ハウス世界名作劇場」で放映されたテレビアニメ〕ポリアーナとお父さんは“glad game”何でも喜ぶ遊びを作って、思い出してこう言いました。お母さんが天国に行ってしまって、とても寂しかった時に、二人で聖書の中から「喜べ」とか「楽しめ」という言葉を探したら八百もありました。そして、お父さんがこう言いました、「いいかいポリアーナ、神さまが八百回も楽しめとか、喜べとか言われているのは、私たち皆が喜ぶことを望んでいらっしゃるから、これからは聖書の中だけでなく毎日の暮らしの中から、喜びを探してご覧なさい。きっとどんなことにも嬉しいし、ああ良かったと思えることがあるはずだよ。お前とお父さんとどちらが良かったことを探せるか、競争しようと言いました。ポリアーナが良かったことを探すのが難しいほど、見つかった時は嬉しいし、生きていることがとても楽しくなるよ。」私たちは自分の人生の中で、辛いこと悲しいことに出会います。だから、その時の悲しみを否定はしません。その時身内の何方かが亡くなってしまえば、それは悲しいことです。充分に悲しみ、悼んで構いません。けれども、その時期が終わったら、神さまの恵み・神さまの祝福・神さまの愛を受けて、喜びは私たちも毎日の経験ではないかと思います。

 私はこのように思っています。私たちが持っている問題はギフト、プレゼントだと思います。問題の起こらない生活を望んでいるかもしれませんが、問題があるとそれは刺激になります。そして、問題にどのように向き合えるのか、乗り越えられれば力が与えられます。牧会カウンセリングとして、色々な方と話をするチャンスがありますが、私はできるだけ本人が持っていらっしゃる問題点、その中に意味は何だろうか一緒に考えたいと思います。この問題の中本人のために、良いものが良い意味があるのではないかと思っています。無理やりに見つける訳でなくて、心から問題の中に喜びとか良い所がどこにあるだろうか、それを引き出してもらいたいと思います。クリスチャンとして私たちは、天のお父さんとの関係に入りました。私たちは信頼関係を築けるはずです。喜びが関係を通して、与えられると思っています。神さまが愉快なことも苦しいことも赦します、人生の中で色々な経験をさせてくれますが、喜ぶことも辛いこと両方とも、私たちの人生にとって何らかの意味があると信じています。だから、どんなことに出会っても、得るものがついてきます。神さまは私たちを見捨てることは、全くありません。苦しみの向こうに、何らかの意味あることが待っています。

 やはり喜びは戻ってきます。神さまの絶対的な部分は喜びだと思います。喜びの源は神さまです。キリスト教、クリスチャンの生活の中で、詩編が役に立つと思います。百五十篇ありますが、人間が経験することが詩編の中にあります。喜びもあるが、悲しみとか神さまに対する怒りも、神さまが赦してくださいます。ですから、正直に自分の感情を表してもいいと、神さまが教えてくれます。今日の喜びというテーマを、詩編から取り出したいと思います。《16:11》「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」口語訳 同じく《詩編4:7》「あなたがたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。」やっぱり喜びがあるのです。新約聖書では、ペトロが生まれた時から身体障害者に出会って、その方が癒され歩き回ったり、踊ったりして神を賛美すること、これも本当に喜びのひとつです。けれども私たちもまた自分の人生の中で、乗り越えることが難しいこともありますが、神さまは私たちを見捨てるわけではありません。一緒に歩んでくださいます。それもキリスト教のコミュニティ=交わりの目的です。私たちも喜ぶ時は一緒に喜び、悲しい時も一緒に悲しむ役割を与えられます。だから、この交わりは神さまの御家族だと思います。

 如何でしょうか、新約聖書の福音書に書いてありますが、光を枡の下に置く者はない、むしろ燭台の上において、神の中の全てのものを照らさせるのである。皆さんどうですか。とても自分にとって意味ある本を読んだら、どうしますか友人とか家族とかに伝えますよね。昨日読んだこの本はとてもよかった、とshare分かち合うと思います。昨日のレストランは、私にとってよい食事処で、それも友人に伝えたい。同じように私たちは自分の信仰、意味あるものなら誰かに分かち合います。喜びがあれば隠さずに、周りの人と分かち合います。特にルーテル教会の皆さまは、控え目な人たちが多いようで、あまり感情を表に出すことは苦手と思いますが、やってもいいと思います。何か喜びに出会ったら、ぜひshare分かち合ってもらいたいと思います。神さまは命を与えるお方です。そして皆さんご存知ですか、「エデンの園」の意味は「喜びの庭」です。だから神さまが地球を造られた時は、アダムとエバが生活できる所、喜びの場所を造ってくださったのです。だから、私たち今生きている皆さんも、この世界に行ってエデンと同じようなものではないかと思います。

 《フィリピ4:4》「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」口語訳 幸せと喜びとは違うのではないかと思います。幸せhappyというのは、ちょっと浅い表面的なことだと思います。しかし、喜びは根が深く大変なことに出会っても、自分の心の中に希望・神さまの愛、それを体験するので、喜びが笑顔でなくても残っていると思います。神さまに信頼することができるので、喜びがあります。だから私たちが生きる毎日は、問題が贈り物であり、自分の態度によって、一日に影響を及ぼします。東京から鹿児島に来て暖かいと思っていましたが、こんなに寒い穏やかな朝になりました。起きたら桜島も曇っていましたが、山の形を見ても私にとって意味あることです。だからどうですか、私たちは今この一日を考えたら、どんな一日になるでしょうか。自分の態度によって変わります。雨が降っているからやだと思ったら、ずうっと一日心が塞ぐようになるかもしれない。けれども雨が降っても心が晴れているなら、素晴らしい一日になると思います。だから私たちも今この瞬間のために、神さまに感謝することができます。生き生きしているならspiritualityですね(霊的に豊か)。Spiritの意味は風・息ですから、息をすることから神の存在が私たちの中にあるのです。それは、証拠のひとつです。今日このひとつですから、贈り物として考えることができます。

 うちの連れ合いCarolは、現在に生きる力をもっています。私は過去のこととか未来のこととかを、考えてしまう人間なのです。だから、過去の失敗とか過去の間違い、未来の問題・将来の不安とか考えてしまう傾向があります。今現在に生きるなら、喜びをもっと得ることができると思います。私たちが心配することの8割以上は、実際に起こらないという研究結果があります。私は子どもの頃から歯が弱く、虫歯が数えられないくらいありました。学校が終わったら歯医者に見てもらいます。それで私は一日中心配をします。けれども、心配する必要ありませんでした。実際に注射をされて一寸痛かったけれども、それが終わったら何でもありませんでした。一日中心配をしたのは、もったいないことですね。私たちの心配した8割以上は、起きません。この一日、この一時間、この瞬間でも、神さまの命をいただくことができます。今皆さんどうですか。感謝することは何ですか。もちろん人によって違いますが、命・健康・この日・救いなどなど、色々感謝することがあります。やっぱり、十字架がある。これを考えたら、十字架はどんな道具でしょうか。これは元々、死刑を与えるものです。イエスさまも、これに架けられ亡くなりました。けれども、こういうことを通して私たちひとりひとりは、神さまの恵み・神さまの救いをいただくことができました。だから、私たちも死刑の道具を見ながら、神さまからいただいた喜びを経験できます。悲しみ・痛み、たいへんなことがあります。けれども、同時に喜びを得ることができると思います。ローマへの信徒への手紙12:15「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」自分の人生の中で一番意味ある時期は、誰かと一緒にすることだと思います。だから、community交わりも大切です。互いにこの教会の中でも、誰かに教えたり、誰かに教えられたりすることです。互いに励ますことができるし、誰かのために祈ること、誰かに祈ってもらうこと、それがcommunityの意味です。今日はどうですか。皆さんはこの一日、この時間をどう考えていらっしゃるか。最後にヨハネ福音書10:10にイエスさまがおっしゃった、「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」口語訳 

 私の希望は、皆さんひとりひとりこの日、何らかの喜び、神さまの恵み、具体的に経験できるようにということです。

《祈り》愛する神さま、この一日が与えられて、本当に感謝しています。どうか私たちが、この日あなたに出会うことができるように、導いてください。そして、私たちもひとりひとり、あなたがくださった喜び・恵み・祝福が感じるように導いてください。今日何らかの病気によって、教会に来られない方がいらっしゃるかもしれません。どうか、その方々へ、あなたが癒しの御手を伸ばしてください。鹿児島教会、阿久根教会、それぞれの場所で良き証しを示すことができるよう、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン






2012年10月28日日曜日

牧師エッセイ・「思いがけないプレゼント」


「思いがけないプレゼント」

 35名からなる混声合唱グループが、私ひとりのために「ねがい」という歌を歌ってくれました。会堂を利用されたお礼と、高校生の皆さんが心を込めて。東日本大震災をテーマにした曲で、被災地を回って歌われたものだそうです。胸に迫るような歌声を聴いていて、涙が出そうになりました。初めて聴く曲でしたが、いくつかの歌詞が印象的に、私の心に残されました。「笑顔になりますように、幸せになりますように、お願いをしよう、お祈りをしよう」という言葉でした。私ひとりで聴くのはもったいない、素敵な歌のプレゼントでした。歌のお返しにその場で、皆さんの努力の成果が出せますように祈りました。

 どうしてそんなチャンスに巡り合えたのか、その経緯をお話しましょう。今から二月程前に、旅行代理店から電話がかかってきました。鹿児島で全国合唱コンクールが開かれるので、練習に会堂を使わして欲しいと言う依頼でした。紹介者が知り合いであり役員会には後で承諾をしていただけると、直ぐに了承しました。コンクール前日金曜と当日土曜の朝早くから、鹿児島教会の会堂が使われることになりました。

 土曜日のコンクールなら時間の都合がつけて、聴きに行こうと思いました。しかし、チケット入手はインターネット販売で、既に完売とのことでした。直前に世話をされる旅行代理店から、コンクールのプログラムをいただき、学校の情報を知りました。岩手県立不来方(こずかた)高校で合唱の名門校と知りました。金曜日朝6時前に来られ、高校生の男女35名を先生から紹介され、課題曲はヨハネ福音書6章48~50節から取られたラテン語の歌詞だそうです。その聖書箇所について、話をして欲しいと頼まれました。皆さんを歓迎する言葉を述べ、御言葉から短く話しました。

 土曜日朝8時過ぎまで練習され、皆さんコンクルール会場に向かわれました。1番目にステージに上がり、9時50分に演奏されました。その時間に祈りますと申し上げましたら、午後2時頃電話があり混声合唱部門で金賞を、総合2位の鹿児島県知事賞も受賞と伺い、お祝いを申し上げました。会堂を練習会場に使ってもらって、嬉しくなりました。そんな訳で、私ひとりのために35名の高校生が、歌ってくれる豊かな恵みに与りました。数日前にその高校の先生と学生さんから礼状をいただきました。おめでとうございました。

2012年10月7日日曜日

牧師エッセイ・「イチロウのmotivation=動機づけ」


「イチロウのmotivation=動機づけ」

 イチロウ選手が9月末に週間MVPを受賞した。9月4週目の成績は、打率6割、ホームラン2本、打点5、得点7、盗塁6だった。彼のコメントがふるっていた、「このタイミングは熱いですね。(4度目の受賞に)すごいね。オールスターより難しいんだね。毎週チャンスがあるのにね。」マリナーズからヤンキースに移って、それまでと違う活躍をみせる。その理由はどこにあるのだろうか?

 私はイチロウのモティベーション(動機づけ)が、素直に高められたのではないかと思っている。チームが変わり、役割も変わった。それまでマリナーズ時代は、一番・右翼が固定されていた。ヤンキースでは打線の兼ね合いから、守備位置が変わり、打順も2番や下位であったりする。素晴らしい選手ばかりのチームだから、時に先発から外れることもある。それでも高い集中力を、保ち続けるのはさすがだ。

 かつてのマリナーズではシリーズ後半になると、優勝戦線から早々と離脱していた。おそらくモティベーションを持ち続ける工夫を、独自にしていたのだろう。ヤンキースではその必要がなく、常に集中力を持てる状況にあるそうだ。経験豊富な素晴らしい選手たちに囲まれ、マスメディアから注目を浴び続けるヤンキースならではだろうか。オールスター前に自らお膳立てをした移籍、どうやらいい決断であった。

 何をするにもモティベーションは大切なものと思う。人生常にその動機づけが上手く持ち続けられるなら申し分ない。では牧師にとってのモティベーションとは、何を言うのだろうか。よく言われるのは召命感で、神学生の頃はしばしば聞かれ、その度毎に確認をしてきた。果たして牧師とされてから、あなたの召命感を聞かせてください、と言われたことはない。本を読んだり、誰かと話したりして、気づきをいただいてきた。私が御言葉から気づかされたものは、ヨハネ18:16「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。」
ルターは召命を教職に限定せず、一人ひとりが神からの使命を受けていると語った。世の中で従事する職業も、神から受けた使命であると言った。

2012年9月30日日曜日

説教・「受け入れられる幸い」


聖霊降臨後第18主日 説教準備 宮崎教会にて     2012.09.30
エレミヤ11:18~20 ヤコブ4:1~10 マルコ9:30~37

「受け入れられる幸い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにありますように。アーメン

《序 受け入れられる》
 NHKの朝のドラマ「梅ちゃん先生」が、昨日で終わりました。見ていて、はらはら、どきどきの連続でした。ああ、そんなお節介を焼かなければいいのに、また失敗するのではないだろうか、果たしてその通りになっていきます。でも不思議なことに、そのお節介がいつの間にか、人々の交わりや和解を生みだします。端で傍観者として黙って見ていられない、そこが梅ちゃん先生の本領が発揮されるところです。こんな人が傍にいてくれたら、どんなに日々の暮らしが豊かにされることでしょう。彼女は気にかかる人を見つけると、自ら関わりを持とうとします。気がつくと他人の世話を焼き一緒に悩み、相手を受け入れています。そして、他人の喜ぶ顔を見て、自分の喜びとしています。

 松子、竹男、梅子の3人兄弟の末っ子である彼女は、優秀な上二人に比べられ、いつも劣等感をもっていました。父建造から「何をやっても中途半端で、駄目な子だ」、といつも言われました。自分の名前が「梅子」であることから、鰻重を注文する時、松竹梅の順に値段が安くなるように、一番軽く見られているのが自分である、と思い込んでいました。父親から期待をかけられていないし、自分は駄目な子なのだと思っていました。しかし、父から「最寒三友」という中国の故事から付けた名前で、冬の寒さに堪える三兄弟の松・竹・梅であれとの願いが込められたものと知ります。そして、医者の父が苦しんでいる子どもを、目の前で応急措置をして助けた姿を見て、一念発起して無理と言われた、医者になる学校に合格します。卒業して念願の地元の町医者になって、地域の人々の健康を守ります。父親は梅子を認めて、その全てを受け入れます。父建造はこんな風に言います、「もう私の助けは必要ない。梅子、一人前になったな。お前はもう大丈夫だ。」このようにして、彼女の他人への一途なお節介は、頑固で舌足らずの父親を変えました。

 私たちは相手から受け入れられ、「一人前になった、もう大丈夫だ」と褒められると、とても嬉しくなります。その反対に「何をやっても駄目な奴だ」とけなされると、悲しくなります。人間関係を上手くつくるのに、相手を受容することは大切なことです。私たちは相手を受け入れて、相手に受け入れられます。「完璧な人間は何処にもいません、それでも構いませんよ、私はあなたを丸ごと好きですよ、あなたを愛していますよ。」そのように言われる方が主イエスです。私たちがどのように受け入れられるのか、今朝のマルコ福音書に聴いてまいりましょう。

《2 最後の者は仕える者》
 ガリラヤへの途上で主イエスは弟子たちに、二度目の受難と復活の予告を語りました。彼らは主の言葉が分からないまま、尋ねることも恐くてできませんでした。それどころか、受難と復活の予告を聞いたすぐ後、12弟子の内で誰が一番偉いかと議論さえしていました。主イエスは彼らに何を議論していたかと尋ねました。彼らは恥ずかしかったのでしょう、尋ねられたことに答えられませんでした。

 カファルナウムの家に着いて、12弟子を呼び寄せて言われます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」主イエスの言われた逆転の発想が分かりません。主イエスは後に、ご自分が仕える者であると語られます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」《10:45》まさに、主イエスこそは仕える者であり、ご自分の命を私たちにくださるために、すべての人の最後になられた方でした。ご自分の弟子にすべての人の後になり、仕える者になりなさいと求められます。

《3 子どもを受け入れる》
 主イエスは子どもの手を取って、彼らの真中に立たせます。そして、抱きかかえて言われます。「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」子どもを受け入れる人を、主イエスは神につなげてくださいます。弱く小さな子どもを受け入れる、それは私イエスを受け入れている、さらに御自分を遣わされた父を受け入れている、と語られます。ですから、子どもを受け入れる人は、神をすでに受け入れているのです。

 当時の子どもは、どのような状況に置かれていたのでしょうか。三人に一人は生まれて直ぐに死に、子どもが6歳頃まで育つと、親はひと安心できました。そんな厳しい子育て環境でしたから、飢餓・戦争・病気・混乱、それらの影響をまともに受けたのが子どもでした。それだからでしょう、当時の社会は、子どもの存在価値をほとんど認めず、弱い立場を大切にされなかったようです。受け入れられない子どもを、主イエスが愛する対象とされ、弟子たちにも受け入れるよう求められます。

 主イエスが子どもをどのようにご覧になっていたか、次の言葉から分かります。「『子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」《10:15~16》世は子どもの存在を受け入れませんが、主イエスは子どもを抱き上げ、自分たちの中に迎え入れます。子どもこそが、神の国に入れる存在であると語ります。主イエスは子どもを抱きかかえて、弱く小さい者への愛を示され、頭に手を置いて祝福されます。それは、小児祝福式をされる主イエスの姿です。

《4 受け入れて、受け入れられる》
 2週間前に帰省した折に、兄の孫に会ってきました。生まれて一月半の女の子で、まるで天使のようでした。抱いてみたかったのですが、残念ながら眠っていました。ふっくらとした顔は、まるでお多福のようでした。それを見て、我家の24歳の息子と21歳の娘、二人の生まれた時を思い出しました。子どもが親に全てを委ね切る姿は、生まれたばかりの赤ちゃんにあります。そして、この子のためなら何でもしてやりたい、親としての自覚と責任が湧いてきました。

 それに比べると仔馬は、生まれて直ぐに立ち上がります。母の胎内で十分に育って生まれるので、既に外敵から逃れる術を身につけています。人間の赤ちゃんは立ち上がるまで1年ほどかかります。生理的に未熟なままで産まれてくるからです。人間の赤ちゃんが母の胎内で十分に成長すると、頭が大きくなりすぎて出産が難しくなるそうです。そんな訳で他の動物と比べると、赤ちゃんは至れり尽くせりの世話を受けます。それは愛が具体的な行為となって、子育てがされるものではないでしょうか。言い換えれば、赤ちゃんを丸ごと受け入れるから、赤ちゃんに仕えるようになれます。それも、心から喜んで仕えることができます。

 しかし最近、児童虐待が注目されています。そして、虐待した親がかつて愛されずに育ったケースが報告されています。私たちは愛されたから、愛することができる、のではないでしょうか?愛されなかったので、どう愛していいか分からない、そんな話も聞きます。もちろん、子どもの頃に愛されなくても、愛することができる方もおられます。愛されるとは当たり前ではなく、相手に主が宿ってくださるから、私たちが愛せるのではないでしょうか。ある児童養護施設のお披露目に訪れたことがあります。そこに止むを得ない事情で親から離れて、共同生活を送る中高生たちがいます。スタッフが自分をどこまで受け入れるか、どこまで赦してくれるか試すそうです。愛情に渇いているゆえに、相手から愛情を確認したいと、これでもかこれでもかと困らせるそうです。訪れた時は新築の施設でしたが、施設長がこの壁にはいずれ拳骨の穴の跡が残されるでしょう、と言われたことを憶えています。そして、試されることが辛いと言われました。幾度となく施設を辞めようかと考えた程だそうです。その方は今も働かれていますから、子どもたちを受け入れ続けておられます。子どもたちが受け入れられて、受け入れる人に変えられるよう祈っています。

《結び 相手を最後まで受け入れる方》
 私たちは受け入れることを、安易に考えることができません。相手を受け入れたなら、自分が傷つくかもしれません、相手から裏切るかもしれません。ですから受け入れるまで、この人はどんな人なのだろうか、信頼できる人なのだろうか見極めようとします。具体的な例でいうと、借家の保証人になってくれますか、婚姻届の証人になってくれますか、と求められます。実際に先日ある人から、婚姻届の証人になって欲しいと依頼されました。そのカップルは信徒でもなく、礼拝に来たこともなく、何度か厄介をかけられた人で、教会の牧師なら証人になってくれる、と期待されたのでしょう。他に証人を頼める人がいなかったのでしょう。でもこのカップルのことをほとんど知らないという理由をつけて、一寸迷ってから断ってしまいました。二人に何かトラブルが起きたら、和解の労をとることになるかもしれません。いざとなった時に仲裁する、その覚悟ができませんでした。

 主イエスはそれと反対に、何の前提条件もつけずに、最後まで受け入れる方です。それは主イエスが私たちの罪の赦しのため、十字架にかかられたことから分かります。主イエスは「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来られた」、と言われました。この方はひとりひとり値踏みをされず、裏切られるかもしれない人を、命がけで受け入れてくれました。人間は自分を窮地に陥れることから、逃れたいと言う自己防衛本能が働きます。その一方で、私たちは「主よ、憐れんでください」、と常に祈り願っている自分がいます。見返りなしで相手を受け入れる、主イエスでなければ、とてもできないことです。私たちは最後まで受け入れられ、私たちに仕えてくださるお方がいてくださる、その幸いに心から感謝をいたします。そのような憐れみ深い主イエスに、私たちが信じて御後に従わずに、どうしていられるでしょうか。受け入れてくださる主イエスに頼り、今週も一緒に生かされてまいりましょう。
 

《祈り》慈しみ深い主よ、あなたは私たちを、条件無しで受け入れてくださいます。そして、弱く小さな子どもを受け入れる者を、父なる神につなげてくださいます。また、私たちが相手を受け入れ、相手から受け入れられる者とされるよう導いてください。主イエスは私たちの身代金として、ご自分の命を献げるために、この世に来られました。父なる神が大切な独り子を私たちに賜るほどに、私たちが受け入れられました。どうぞ、私たちがあなたの御後について行けますよう、聖霊を送ってくださり、確かな信仰を与えてください。この祈りをイエス・キリストの御名によって、御前にお献げいたします。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン