2013年5月24日金曜日

復活後第1主日説教 ルカ24:13~35 「共に歩かれるお方」 2013.04.07


《序 エマオでのイエス》

 ルカ福音書24章『エマオでの復活されたイエス』は、ルカ福音書の中でも特に私の好きな聖書箇所です。まるでカウンセラーのように傾聴される主は、自ら復活のイエスとは決して明かされないで、相手の気付くのを辛抱強く待たれます。それに比べると、ヨハネ福音書20章『トマスに自らの釘跡を示す復活されたイエス』は、弟子トマスにご自分の十字架の痕跡に触れて、復活を信じなさいと言われます。二つの主イエスのお姿は、受動的(相手を受け止める)と能動的(相手に働きかける)に、対照的に描かれています。

 

《2 皮肉に満ちた会話》

 今朝の福音は、主イエスが十字架につけられて死んでしまった、その哀しみのうちに意気消沈した二人の弟子が、エマオという村に帰る途上にあります。イエスこそが、イスラエルを解放してくださる方と信じて、彼らは一心に期待してきました。それなのに主イエスは、三日前ユダヤの指導者たちに、死刑にするため引き渡され、十字架につけられて死んでしまいました。彼らの大きな希望は、膨らんできた風船が突然破裂してしまったように、一気に絶望の淵に落とされました。そして、二人は意気消沈して、エマオという村に向かって、とぼとぼ歩いています。彼らはこれまで主イエスに起きた出来事を、振り返って語っています。すると、復活されたイエスが、その二人に寄り添うように歩まれています。しかし、彼らはその見知らぬ方が、主イエスとはまったく気づきません。
 
その理由を聖書は語ります、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」二人が復活されたイエスに気がつかないのは、彼らの理解が足りないのではなく、主が二人の目を遮られていたからです。そして、今その閉じている目が開かれます。主イエスは尋ねます、「歩きながら互いに交わしていた話は、何のことですか。」クレオパという名の者が答えます、「エルサレムに滞在しながらあなただけが、この数日間に起きたことを御存じないのですか。」その重大事件を知らないのは、道連れのあなただけだと決めつけます。しかし、実は復活されたイエスこそが、すべてを知っている唯一の方です。彼らはその出来事について、道連れより詳しく知っていると思っています。それでも、主イエスは見知らぬ人として、ひたすら聞き役に徹しています。私が復活したイエスであり、あなたの前に立っています、と口に出そうとはされません。 

主イエスはこれまで、人々に向けて行動され、言葉を語られてきました。この日の主イエスは、まるでカウンセラーのように、ひたすら彼らの話を聴かれます。彼らの話しにじっくりと耳を傾けられ、彼らの哀しみをご自分の哀しみと受け止められます。傾聴される主イエスのお姿は、私たちにとても新鮮に見えます。カウンセリングの手法は、相手の話にもっぱら耳を傾け、相手が語ることから、自ら気づきを与えられるものです。
 

《3 食卓に着いた時》

 エマオの村に近づくと復活されたイエスは、まだ先へ行かれようとされます。二人はこのまま別れるのが、惜しく感じられたのでしょう。無理に引きとめます、「一緒にお泊まりください。間もなく夕方で、日も傾きましたから。」そこで主イエスは家に入られ、一緒に食卓につかれます。すると、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを献げ、パンを裂いて二人に渡します。その時二人の目が開いて、目の前の方が何方かはっきりと分かりました。主人と客が入れ替わって、二人が主イエスから招かれていると気づきます。その瞬間に、復活されたイエスは、目の前から消えました。見えていた時は復活のイエスと認めなかったのに、見えなくなった時に復活のイエスと認めました。 

 復活されたイエスが現れても、二人の弟子と一緒に歩かれても、主イエスが彼らの心の目を開かなければ、主が復活されたと分かりませんでした。二人は、イスカリオテのユダを除く11人の弟子グループに入っていなかったようです。それは、彼らがエルサレムに戻ると、11人の仲間と会ったことから分かります。最後の晩餐に同席していなかった二人は、五千人の供食の場面に招かれていたのでしょう。主イエスが5つのパンと2匹の魚をとり、天を仰いで祈られ、裂いて弟子たちに渡して群衆に配られました、そのお姿と食卓の主イエスが重なりました。復活されたイエスとの出会いは、そのお方の働きかけによって、伝えることができます。そのために、復活のイエスは弟子たちに、そのお姿を現されたのです。
 

《4 熱い心に促されて》

 二人は一緒に歩かれた間に、話されたことを思い起こしています。『私たちの心が熱く燃えていたではないか。』彼らの内側から燃え上がった心は、復活されたイエスと出会ったことを、互いに話さずにいられなくなりました。それゆえ、彼らはエルサレムにとんぼ返りして、主の復活の出来事を他の弟子たちと確かめ合いました。 

 エマオへの途上で、主イエスはひと言も口を挟まれずに、二人の哀しみと絶望に最後まで耳を傾けられました。そのお姿は、傾聴そのものです。もしエマオに近づいた時、無理に引きとめなければ、主イエスは先に行かれ、二人は自分の故郷に留まったことでしょう。彼らの心が熱くされたから、見知らぬ人と別れがたく、一緒に泊まってくださいと頼みました。また彼らの心が熱くされたから、直ぐエルサレムに戻って、他の弟子たちと再会し、主の復活を語り合いました。死んでしまったと思っていた主が、復活されたと知ってどれほど力づけられたことでしょう。復活の主の命は、死んだような二人を、生き返らせる命でもありました。復活された主に出会った者は、主が復活された事実を他者に知らせたくなります。 

 エルサレムからエマオまで11kmありますが、主イエスが二人の弟子と共に歩いてくださるとは、羨ましいような気がいたします。その間モーセから始まり、聖書すべての話をされました。二人だけのために、御言葉を解き明かしてもらいました。心ふさがれる思いでエルサレムを立ったのに、エマオに着くころには素晴らしい旅路となったゆえ、二人の心は熱く燃え上がっていました。まるで聖霊降臨の時、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまって、聖霊に満たされたようです。二人の内側から燃え上がった熱さは、エルサレムへ直ぐに引き返すほどに、彼らに力を与えられ励まされました。 

 今朝も聖餐式がありますが、復活の主は弟子たちと共に、最後の晩餐と同じように、食卓を囲まれました。二人は「パンを裂いて下さったときに、イエスだと分かった」とあります。裂かれたパンを通して、主が共におられると知ったのです。十字架にかけられる前夜、主イエスはパンを取り「これはわたしの体である。」またぶどう酒を取り「これはわたしの血である」と言われました。私たちも主イエス・キリストの体であるパン、そして血であるぶどう酒を、口と舌で味わいます。二人の弟子のように、週の最初の日である日曜日に、礼拝を守っています。彼らの体験と証言が私たちまで伝えられています。主の食卓に備えられたパンとぶどう酒をいただき、私たちは復活された主と今朝も出会っています。