2015年5月20日水曜日

『友人の信仰が赦す罪』 マルコによる福音書2:1~12 小山 茂

 福音書記者マルコは、サンドイッチ構造〔パンの中に具を挟む形〕に語ることが好きで、今朝の福音書にも使っています。外側のパンは「中風の男性の癒し物語」で、内側の具に「律法学者と主イエスの論争物語」が挟み込まれています。ですから、今朝の福音書は二つのテーマがあります。
 ①主イエスが友人たちの信仰を見て、彼らの連てきた病人を癒すこと。
 ②主イエスが罪を赦す権威は、律法学者が言う神の冒涜にあたるの
   か。
主イエスのされる業の評価が、人々と律法学者とではまるで違っています。それでは、今朝の福音書に入って参りましょう。 

 最初のテーマである、「主イエスが友人たちの信仰を見て、中風の人を癒す物語」から語りましょう。主イエスはガリラヤ中に行かれ、それぞれの場で宣教され、悪霊を追い出されます。数日後にカファルナウムに再び戻って来られ、主イエスがシモンの家におられることが知れ渡ります。大勢の人々がその家に集まり、入口からびっしり人で埋まっています。その中心で主イエスは御言葉を語っておられます。そこに、友人四人が中風の男性運んで来ます。中風というのは今でいえば、脳梗塞などによって手足の麻痺が残り、自分の身体を思い通りに動かせない病です。癒しの業の評判を聞いた友人たちが、中風の男性を主イエスの所に連れて行けば、きっと癒してくださるに違いない。友人たちの一途な願いから、寝たままの男性を運んで来ます。入り口から主イエスの所まで人々でいっぱいで、男性をそこまでとても連れていけません。

 それなら外で待って、人々が帰ってからお傍に連れて行くより他ありません。でも友人たちは待ち切れずに、とんでもない方法を思いつきます。主イエスのおられる辺りの屋根に上がり、その屋根を剥がし、男性を寝床ごと吊り降りします。四人の手が床の四隅に結んだロープを降ろします。当時この地方の家には外階段があり、梁を渡す角材の上に屋根を葺いていたようです。病人は主イエスの目の前に、吊り降ろされました。主イエスは友たちのご自分への信頼をご覧になって、病の男性に宣言されます。「子よ、あなたの罪は赦される。」友人たちの大胆な方法に、彼らの信仰をご覧になり、主イエスは応答されました。

 さらに、主イエスは男性に言われます、「起き上り、床を担いで家に帰りなさい。」すると、その男性は起き上って、床を担いですたすたと、皆の前を通って行くではありませんか。人々は今しがたまで床に横たわっていた男性が、主イエスのひと言でその中風を癒されました。彼らはその一部始終の目撃者となりました。人々は正気を失うほど驚いて、『こんなことは、これまで一度も見たことがない』と、神を賛美しました。 

《友人たちの信仰》
 ここで意外なことがあります。マルコ福音書が中風の男性の信仰について、何も語っていないことです。主イエスは友人たちの信仰をご覧になって、男性の罪が赦されると宣言されました。友人たちがこのお方イエスなら、男性の病をきっと癒してくれるに違いないと思う信頼を、主イエスは彼らの信仰と呼びました。元のギリシア語〝ピスティス〟は、聖書では信仰と訳され、信頼という意味もあります。でも、当の男性は信仰の告白をした
わけではありません。主イエスは本人の信仰を問うてはいません。彼らが大胆な行動にでたのは、男性が癒されて自分たちと同じように動けるようになって欲しい、その一点の願いからでした。

 鈴木浩先生の注解書「ガリラヤへ行け」にあるコメントに、私は成程と思えるところがあり、主要な部分を紹介させてください。「明治以来、日本のキリスト教は、『個人の信仰的決断』を強調してきた。・・・しかし、その点だけが過度に強調されて、信仰が持つもうひとつの重要な側面が見失われてしまうとしたら、危険だと言わねばならない。つまり、我々一人一人の信仰は、教会の信仰から離れてはあり得ないという点である。・・・ひとりひとりの信仰は、教会の中で、教会と共に信じる信仰なのである。信仰には、従って、個人的側面と共同体的側面とがあることになる。・・・この四人が中風の人の信仰の代理をしているのではなく、この中風の人を『包み込んでいる』信仰なのである。この人と無関係でいいような信仰ではなく、この人が救われないなら、自分だけが救われたいとは思わないような、そういう信仰なのである。だからイエスは『その人たちの信仰を見て』、この中風の人に罪の赦しを宣言されたのである。」他の注解書にはない、鈴木先生独特のコメントで、感動的でさえあります。私たちもこのような『包み込む信仰』をぜひ持たせて欲しい、と思いませんか。大切な人のために必死になって願う、その願いを叶えてくださる方に百%信頼するのです。 

 教会の信仰とはその群れの中で養われるもので、教会共同体の中で互いに祈り祈られます。教会生活の中で証しをしたり、聖書研究会に参加したり、周りの人から祈られたりされます。礼拝の中で私たちが、教会の祈りを献げるのも同様です。教会員の中に痛みをつ人を憶えて祈ったり、世の中で困難に陥っている人を憶えて祈ったり、災難にあって希望を失っている人を憶えて祈ったりします。周りから「包み込まれる信仰」によって、祈られた人の信仰は背後に隠れたまま、主が祈りを聞き届けてくださる。それは、私たちにとって、大きな慰めであり、希望となります。四人の友人はまさに中風の友のために祈って、屋根を破ってまでして、主イエスの前に彼を降ろしたのです。

《罪を赦す権威》
 二つ目のテーマである、「主イエスが罪を赦す権威をもっているか」、について語りましょう。主イエスが中風の人に言われます、「あなたの罪は赦される。」それを聞いた律法学者たちが、「この人は神を冒涜している」と心の中で考えます。ここから両者の論争物語が始まります。彼らは、「罪を赦すことができるのは神お一人だけ、その他に誰もいない」と考えています。彼らから見れば、主イエスはただの人に過ぎません。主イエスが罪を赦せるなら、この方は神でなければなりません。まさにその通りなのですが、彼らにはその真実が見えません。それゆえ、主イエスは神を冒涜していると断定します。彼らの権威は律法を拠り所としていますので、主イエスが罪を赦す権威をもつとは知る由もありません。もし、主イエスが「起きて、床を担いで歩け」とだけ言われて、中風の男が癒されたなら、彼らは文句をつけなかったでしょう。それほどに、「罪の赦し」と「病の癒し」とは違うものなのです。数学でかつて「集合」を習いましたが、「罪の赦し」という大きな円の中に、「病の癒し」はすっぽり入ってしまいます。 

 主イエスは律法学者たちを、挑発されるように言われます。中風の男性に「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」主イエスの業の及ぶ範囲は、「赦される罪」の方が「癒される病」より遥かに大きいのです。「赦された罪」のひとつに、「癒された病」も含まれます。主イエスは畳み掛けるように迫ります、「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう。」罪を赦されたと宣言された中風の男性は、既に病からも癒されています。それでも、主イエスは駄目押しをされるように、「わたしはあなたに言う。起き上り、床を担いで家に帰りなさい。」この時から律法学者たちは、主イエスが神を冒涜したと、両者の対立が始まります。 

《包み込まれる信仰》
 友人四人が中風の人を主イエスの前に、連れ出すためにとった大胆さを、彼らの信仰と認められました。この方の前に友を連れて行けば、癒してくださるに違いない、その確信が彼らに大胆さを生み出しました。そして、友人たちのこの方への信頼を、主イエスは彼らの信仰と認められました。どちらが先でどちらが後かではなく、双方の意志がぴたりと合ったから、起きた奇跡の出来事になりました。中風の男性の信仰は背後に隠れていますが、彼を取り巻く友人たちの信仰に、主イエスは応答されました。共観福音書のマタイ、マルコ、ルカにそれぞれ、「あなたの信仰が、あなたを救った」《マルコ5:34》と主イエスの救いの宣言があります。今朝の福音では、「あなたの友人の信仰が、あなたを救った」と言い換えてもいいでしょう。本人の信仰より先に備えられる、友人たちの信仰によって、私たちが救われることがあります。

 私たちは何かに阻まれて、神に向き合えない時があります。自分を阻む壁を前に思い悩むより、その壁に風穴を開ける大胆さを持ちたいものです。さらに私たちの抱える課題、主イエスの前に吊り降ろす勇気もあったらいいですね。そして、周りの人たちが友を憶えて祈るなら、友人を包み込む信仰によって、主イエスはその祈りをきっと叶えられます。その友人がキリスト者かどうか、主イエスはそんなことに頓着されない、太っ腹をお持ちなのです。この主イエスについて行かないで、私たちは誰について行きますか。
 
(2015年2月8日 顕現節第6主日)