2015年9月8日火曜日


「上野由恵フルート・コンサート」                              小山 茂 

613日午後鹿児島教会で、フルートのコンサートが開かれました。日本福音ルーテル社団主催の企画で、初めて我教会に来ていただきました。伴奏用のピアノが必要と聞いていたので、昨年春にピアノの寄贈を受け備えていました。今年はギターとのデュエットになり、この組み合わせの方が私は好きです。当日南九州は梅雨の真っただ中、生憎の天気でしたが87名の方が聴きに来てくれました。私は30年前に西新宿でフルートを習っていましたが、そこで上野由恵さんが講師をされていると聞き、不思議なつながりを感じました。 

演奏曲目はバラエティに富んでおり、讃美歌・フルート向きの曲・心躍るラテンの曲など演奏されました。新井伴典さんのギターは、時に打楽器のように共鳴板を叩いてリズムを刻み、二人の息がぴたりと合って楽しい演奏でした。90分の演奏を一気にされる、プロのエネルギーを見せてもらいました。合間に、購入したCDにサインをもらいました。 

さらにQ&A方式のワークショップが開かれ、吹奏楽部でフルートを吹いている中高生から上野さんに質問し、アドバイスをもらいました。若い方25名ほどが前の方に座って、目の前で音を出して具体的に教えてもらいました。概して女子学生の方が積極的で、男子学生は恥ずかしがり屋みたいでした。興味を引いたのはフルート「循環呼吸法」で、フルートを吹きながら息を吸う奏法です。これができると息継ぎで中断せず、長い間演奏をし続けられます。実際にやってもらって、本当に驚きました。結局午後2時から5時過ぎまで、上野さんは前に立ち続け、スマートなのに体力のある方でした。生のフルートの音を堪能して、幸せな時をいただきました。ありがとうございました。また、毎月会堂で練習をされているフルート愛好会「素笛」、指導されている池田博幸先生のご協力に心から感謝を致します。

フルート愛好会「素笛」とのアンサンブル


 
 
「主は罪人を招かれる。」   マルコ福音書2:1317  小山 茂 

《レビを招くイエス》
 今朝の福音は、主イエスが徴税人レビを弟子にする物語です。マルコ1章で漁師4人が弟子にされました。その召命の様子は今朝の福音に似ていますので、振り返ってみましょう。ガリラヤ湖畔を歩いておられた主イエスが、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ二組の兄弟に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれ、彼らは網を捨て、父や雇人を残して従いました。そして今朝の場面でも、主イエスはガリラヤ湖畔に来られて、収税所に座っているレビを通りすがりに見かけられます。そして言われます、「わたしに従いなさい。」彼は言葉で応答せず、行動で立ち上がって主に従います。どちらの召命の場面でも、招かれた者が仕事中にもかかわらず、直ちに呼びかけに応じます。 

 主イエスが意図して導かれ、召された者が弟子として従います。私たちにとって不思議な出来事に思えます。聖書は事実だけを語り、弟子とされた者たちの心の動きを伝えません。牧師とされた私にとっても、弟子の召命は他人事ではありません。ですから漁師4人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、今朝の福音から知りたいのです。 

《徴税人・罪人と囲む食卓》
 ところで、徴税人の仕事はどのようなものでしょうか。当時国境を通過する物品に通行税が課され、その税を集めるのが徴税人の仕事です。その業務はローマの税金徴収を請け負った者が、税額を立て替えて先に納め、人々から税金を集めて穴埋めをします。多く集まれば利益を上げられます、少なければ損失を被ります。ルカ福音書にも徴税人ザアカイが登場します。ザアカイとレビとでは、同じ徴税人でも立場がまるで違います。ザアカイは徴税人の頭で金持ちですが、レビは徴税をするために雇われた者です。言ってみれば、社長と従業員の違いがあります。一方は利益を得られる経営者であり、他方は日雇い労働者にすぎません。当時は税率が決まっていなかったので、高く税金を取り立てて私腹を肥やす者も現れました。また異教徒と交わるため、ユダヤ人から汚れた者とみなされました。そんな訳で、徴税人はユダヤ人から軽蔑され、嫌われる仕事でしたから、罪人と同様に扱われました。 

 主イエスがレビの家で、食卓についている時のことです。大勢の徴税人や罪人も、主イエスや弟子たちと同席しています。ファリサイ派の律法学者たちは、その様子を見て弟子たちに言います。「どうして彼〔イエス〕は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」彼らは主イエスを非難して、遠まわしに弟子たちに言ったのです。

 今朝のマルコ福音書のユダヤ人社会にとって、同じ食卓を誰かと一緒に囲むことは、相手を同じ共同体の仲間と認めることです。たまたま食事を一緒に摂るだけではありません。公式に仲間として迎えることであり、その食卓に招かれた人、招かれなかった人、その選びによってどの共同体に属するか決められます。主イエスが罪人や徴税人と一緒に食卓を囲むなら、ファリサイ派は主イエスと弟子たちを、罪人と同様に看做します。そして、彼らは主イエス一同とは、これ以降交わりを断つことになります。ですから、たかが食事を一緒に摂るではなく、その後の人間関係に大きな影響を及ぼします。ですから、律法学者は聞いたのです、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」彼らにとって、誰と食卓を囲むかは大問題なのです。 

 食卓の交わりに関するファリサイ派の問いは、その後のキリスト者の間での関心事であり、筆頭弟子ペトロにも同様なことがありました。「ケファ〔ペトロ〕は、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れて尻ごみをし、身を引こうとしだしたからです。」《ガラテヤ2:12》ユダヤ人社会において、異邦人や罪人と食卓を囲むことに、ペトロでさえ気を使っていたことが分かります。 

《罪人を招きに来た》
 主イエスはファリサイ派の非難を聞かれ、律法学者に直接答えます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」まるで医者について格言を語るように、主イエスは明言されました。それは、ファリサイ派に挑戦するかのように聞こえてきます。確かに病人には医者が必要であり、丈夫な人には必要ありません。さらに、主イエスがこの世に派遣された目的をはっきり伝えられます。ご自分は義人を招くためではなく、罪人を招くためにこそ来られたと。 

 この罪人というのは、彼らの律法を守れない人、律法どおりに暮せない人に、ファリサイ派が貼った「罪人」というレッテルです。そして、彼ら自身は律法を厳格に守るゆえに、神の前に義人であると自負しています。日々の生活に精一杯で余裕がなく、律法を守ることができない人を、彼らは神の前に汚れていると看做しました。主イエスは、律法に従って生きるユダヤ人のために、または律法を守れない異邦人のために、どちら側を招くために来られたのでしょうか。主イエスは罪人を招くために来られた、と神と罪人の間に立ちはだかる壁を突き破られます。それは、驚くべき逆転の真理でした。義(ただ)しい人を招くなら当たり前ですが、罪人を招くからです。ファリサイ派の律法学者は、主イエスから完膚なきまでに論破されました。彼らにとって大きな躓きとなりました。彼らの拠り所である、「自分たちは律法を守る義(ただ)しい人である」、それが木っ端みじんに砕かれたからです。 

 パウロはローマの信徒への手紙でこう語ります。「正しい者はいない。一人もいない。」《3:10》なぜなら、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」《3:23》からです。ルターはパウロにならって、律法によって罪は消えないが、ただ律法によって罪を知ることができる。その罪を認識させ悔い改め、キリストによる赦しが信じられる時、その信仰のゆえに神の前に義とされると言いました。いわゆるルターの信仰義認論で、信仰とは神への100%の信頼にあります。それゆえルターは、信仰者は「罪人であり、同時に、義人である」と言いました。私たちは罪人でありながら、主の憐れみに依り頼み、義しい者とされます。ですから、罪人でありながら、義人でもあると言ったのです。主イエスは漁師たちや徴税人を弟子に招かれただけでなく、罪人もご自分への信仰に招かれます。

《招かれる罪人》
 最初に漁師4人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、知りたいと申し上げました。主イエスの見つめる眼差しが、その5人を捕えて離さなかったのです。「わたしに従いなさい」とは、主イエスがあなたの生涯をわたしに委ねなさい、わたしがあなたの人生全ての責任を負いましょう。その招きの言葉が、彼らの心に響いたのでしょう。そして、徴税人レビ自身が医者を必要としていたのです。彼は道端に座って通る人々から税を集めて、軽蔑の眼差しが注がれていました。できることなら徴税人を辞めたい、でも代わりの働き口が見つからない。彼はそんな風に思っていたのではないでしょうか。主イエスはレビの心を見抜かれて、彼を招かれたのです。弟子とされる根拠は弟子にあるのではなく、主イエスの方にあるのです。 

 かつてルーテル神学校の教職神学セミナーで、カトリックの晴佐久司祭の話を聞きました。この方はカトリックで注目される五十代の司祭で、一度に80人もの受洗者を出すことで知られ、何冊もの説教集を出されています。私が参加したセミナーで、ご自分の神信頼をこう語られました。神が招かれたのだから、神が責任をもって私に関わってくれます。もし上手くいかないなら、神さま何とかしてください、あなたが招いた責任を取ってください。それを伺って、神からの召命をこのように考えてもいい、と本当に驚かされました。主イエスに委ね切る信仰は、傍から見ると不思議なくらい楽観的に見えます。私がルーテル教会の幼稚園から、見守ってくださった牧師夫人の福山ハルヨ姉もそうでした。数年前105歳で天に召されましたが、帰省すると老人ホームに訪ねました。一緒に讃美歌を歌ったり、教会の話をしたり、生き方が前向きで思い煩うことがありません。主イエスに委ねる信仰とは、傍から見ると楽観的に見えてくるものです。

 話を元に戻しましょう。今朝の聖書箇所より、主イエスから「わたしに従いなさい」と呼ばれたら、レビは疑問もなく御後について行きました。主イエスの招きは無条件で即座に従う、それがマルコの召命なのです。徴税人レビの場合は、自ら辞めるなら復職はもうできません。漁師4人は元の仕事に戻ろうと思えば戻れますから、レビの召命の方が厳しいものです。ですから、徴税人レビの覚悟は漁師たちより、優っていたでしょう。 

 
 

   「選ばれた者よ、愛し合いなさい。」 ヨハネ福音書15:1117 小山 茂 

《告別の説教》
 先週の日課は、ヨハネ福音書15章「イエスは真のぶどうの木」でした。それを前編とするなら、今朝はその後編になります。キイ・ワード〔鍵となる言葉〕は、前編と同じく「実を結ぶ」、「愛し合いなさい」、「わたしの掟」です。さらに後編では「わたしの友」、「わたしが選んだ」、「わたしが任命した」と、主イエスの意志が明確に加えられます。引き続いて弟子たちに、告別の説教が語られます。主イエスは十字架にかけられるとご存じの上で、弟子たちがご自分の言葉や行いを引き継いで、宣教を担って欲しいと伝えます。そして、彼らを僕ではなく、私の友であると言われます。また、互いに愛し合うように、愛の戒めを語られます。 

《僕と主人の関係》
 主イエスは弟子たちに命じられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」その互いに愛し合う根拠を、ご自分が彼らを愛したことに置かれます。主イエスが弟子たちの足を洗われたように、彼らも互いに足を洗い合うよう求められます。主イエスがひとりひとりの足を洗われた、その愛を知るなら私にはできませんとは言えません。さらに、愛について、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。その命を十字架で捨てられたのは、他ならぬ主イエス御自身であったと、弟子たちは後になって分かります。 

 主イエスはご自分と弟子たちの関係を、次のように言われます。「わたしはあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」僕と訳された元のギリシア語は、奴隷という意味があります。ですから、主人と奴隷の関係から考えるなら、より分かり易くなります。奴隷は主人から命じられたら、その通りにしなければなりません。ですから、命じられた理由を知る必要はなく、命じられた通りに行うだけです。しかし、主イエスは弟子たちに命じた理由を、父から聞いたことすべてを知らせます。だから、ご自分の命じることを行う者、すなわち弟子たちは友であると言われます。主イエスの選びによって、弟子たちは僕から友にされたのです。弟子たちの主でありながら、自らは彼らの友であると言われます。 

《イエスの選び》
 さらに主イエスは、弟子たちに言われます。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」聖書から私たちは、主イエスが弟子たちを選ばれた、と理解しています。殊に共観福音書のマタイとマルコは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」、と明確に弟子の召命を語られました。しかし、私たち自身のことを考えるなら、事情は違うのではないでしょうか? 私たちは教会を選び、主イエスを信仰告白して、キリスト者にされました。ですから、私たちが主イエスという方を選んだ、と思い込んでいるかもしれません。しかし、実は逆だったのです。主イエスが言われます、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」主イエスの方から、私たちを選んでくださったのです。 

 実は私も主イエスを選んだ、と思っていたひとりでした。神学校入学した時ですから、今から12年前になります。当時の神学校長江藤直純先生は、最初の礼拝でこのヨハネ福音書から説教をされました。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」その御言葉を聞いた時、私は突然頭を殴られたような衝撃を感じました。自らのとんだ思い上がりに気づいて、何か恥ずかしく感じたことを覚えています。それは受け身の召命観と言って構わないものです。でも、私は今でもその感覚を、とても大切なものと思っています。 

 主イエスは、選ばれた者の使命を語られます。「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。」弟子たちを宣教に派遣され、私を信じる者を生み出しなさい、と命じられているのです。それこそが実を結ぶことであり、その実は新たな実を結ばせます。そのために、主イエスは彼らを弟子として任命されたのです。そのために、父なる神に祈って助けを求めなさい、求めるものは何でも与えられると約束されています。 

《愛の実を結ぶ》
 主イエスは結びのお言葉を、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と語られます。ギリシア語には、愛するという動詞が二つあります。ひとつの愛するは神の愛であるアガペーからくる〔アガパオー〕、もうひとつの愛するは友〔フィロス〕からくる〔フィレオー〕です。ヨハネ福音書では、〔アガパオー〕と〔フィレオー〕は同じ「愛する」という意味をもちます。そんな訳で、主イエスの友となる、主イエスを愛する、この二つは同じ主旨をもちます。ですから、主イエスの友とされて主を愛しますし、主イエスを愛してその友とされます。つまり、友となること、愛すること、両者は表裏一体になっています。 

 「互いに愛し合うことが、わたしの掟である。」また、「互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。」これら主イエスのお言葉は、私たちの心に響いてきます。これまでにない強い調子で、掟である、命令である、と言われます。その中心にあるのが、「互いに愛し合いなさい」、つまり相互愛の戒めです。聖書には、「愛」という言葉が頻繁に登場します。殊に今朝の第二の日課の後半、ヨハネの手紙⑴ 4:712には、「愛」という言葉が15回も使われています。「神は愛である」とキリスト教が、愛をどれほど大切にしているか分かります。

 私たちの知恵や常識では、信仰とは私たちが神を愛することから始まります。しかし聖書では、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まります。私たちが神から愛されたことは、私たちの罪を赦すため、主イエスを生贄としてこの世に送られた、とヨハネの手紙は語ります。つまり、信じない者のために、独り子が命を献げられたのです。 

《神は愛である》
 ヨハネの手紙で、「神は愛である」と語られるように、愛する者は神から生まれ、神を知る者なのです。人間は自分の力だけで他の人を愛せません。私たちは神から愛されて、神の愛に触れて、初めて愛し合うことができます。身近に愛し愛される様子を、赤ちゃんが母親の胸に抱かれている姿に見ることができます。赤ちゃんは母親に安心し切っていますし、母親は赤ちゃんから100%委ねられる喜びに満たされます。その一方で、養護施設の子どもたちは愛情を求めて、施設のスタッフを困らせるそうです。子どもの許容されたい限界がエスカレートして、止まるところが見えなくなります。ある施設長は、どれだけ自分を愛してくれるのか、試されることが辛いと語りました。今の世の中、親子でさえ愛し愛されることが当たり前でない、そんな出来事を日々知らされると、相互愛の難しさを改めて感じます。
 
 愛を与えられないから、余計に愛を求めたくなる。それが、素直な人間の気持ではないでしょうか? 愛というのは強制されて、愛せるものではありません。それが、たとえ主イエスの命令であっても、掟であっても同様でしょう。しかし、私たちは主イエスの洗足や十字架を知って、互いに愛するように促(うなが)されます。愛の掟はヨハネの13章で既に語られていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」《13:3435》主イエスの愛によって形成されるもの、それは主イエスの造られた教会です。この阿久根教会であり、鹿児島教会です。そして、人々はその群れの中にある相互愛から、私たちが主イエスの弟子であると知らされます。このようにあなたも既に、主イエスの弟子の一人とされているのです。

「鹿児島中央駅屋上の観覧車」                                                    小山 茂 

 鹿児島市内から鹿児島中央駅を捜すなら、6階建ビルの上にある大きな観覧車「アミュラン」が目印になります。それは地上から高さ91m直径60mで、周りは高いビルに囲まれていますが、夜になると7色のイルミネーションに輝きます。快晴の日に鹿児島中央駅に来られたら、展望を楽しめるお勧めスポットです。料金は大人\500子ども\300、ひとつのゴンドラに4人まで乗って\1200です。ゴンドラは36個あり、シースルー用(透けて真下も見えるゴンドラ)が2個、車いす用(乗り口が広いゴンドラ)が2個あります。 

 高所恐怖の方は、足元が見えるシースルーは避ける方が無難でしょう。私も少し高所恐怖症気味で、山歩きで切り立った危険な尾根筋など苦手です。でも、自ら危険であると認識すると、注意深くなって却って事故を防ぎます。最近高所平気症という言葉を耳にしました。高層マンションに住む子どもに、高所平気症が見られるそうです。子どもは高さに対する感覚が未発達で、高い所にいる意識をあまり感じない。高層マンションの子どもは、高所に慣れる傾向があるため、高さの恐怖心が薄くなりやすい。そして下を覗き込んだりしているうち、誤って転落してしまうケースもあるそうです。
 

 この観覧車は一分間に13m動くそうで、一回転するのに1430秒かかり、思ったより早く感じます。一番高い所でパノラマ写真を狙って撮影しようと、待ちかまえていましたが、あっという間に過ぎてしまいました。今回で2回目ですが実際に乗ってみると、高くなるにつれて周りの視野が広がって、桜島、霧島連山、運が良ければ開聞岳が見えるかもしれません。山歩きが趣味なのでかつて登った山を、真っ先に捜してしまいます。台風6号の過ぎ去ったタイミングを狙って、昼頃行ったのですが期待するパノラマは望めませんでした。一人で乗って写真撮影のため場所を移動すると、ゴンドラも一緒に揺れます。観覧車の骨組みのパイプや、ゴンドラから物を落とさないよう格子状の鉄線があり、意外と写真撮影の邪魔になりました。ただ周りに邪魔する建物より高くなるので、観覧車は四方八方見るには適しています。地元の方は意外と乗られていないようです。一度機会があれば、乗ってみてはいかがでしょうか。

 
観覧車最高点からの桜島遠望

 
下からの見上げた観覧車