「選ばれた者よ、愛し合いなさい。」 ヨハネ福音書15:1117 小山 茂 

《告別の説教》
 先週の日課は、ヨハネ福音書15章「イエスは真のぶどうの木」でした。それを前編とするなら、今朝はその後編になります。キイ・ワード〔鍵となる言葉〕は、前編と同じく「実を結ぶ」、「愛し合いなさい」、「わたしの掟」です。さらに後編では「わたしの友」、「わたしが選んだ」、「わたしが任命した」と、主イエスの意志が明確に加えられます。引き続いて弟子たちに、告別の説教が語られます。主イエスは十字架にかけられるとご存じの上で、弟子たちがご自分の言葉や行いを引き継いで、宣教を担って欲しいと伝えます。そして、彼らを僕ではなく、私の友であると言われます。また、互いに愛し合うように、愛の戒めを語られます。 

《僕と主人の関係》
 主イエスは弟子たちに命じられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」その互いに愛し合う根拠を、ご自分が彼らを愛したことに置かれます。主イエスが弟子たちの足を洗われたように、彼らも互いに足を洗い合うよう求められます。主イエスがひとりひとりの足を洗われた、その愛を知るなら私にはできませんとは言えません。さらに、愛について、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。その命を十字架で捨てられたのは、他ならぬ主イエス御自身であったと、弟子たちは後になって分かります。 

 主イエスはご自分と弟子たちの関係を、次のように言われます。「わたしはあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」僕と訳された元のギリシア語は、奴隷という意味があります。ですから、主人と奴隷の関係から考えるなら、より分かり易くなります。奴隷は主人から命じられたら、その通りにしなければなりません。ですから、命じられた理由を知る必要はなく、命じられた通りに行うだけです。しかし、主イエスは弟子たちに命じた理由を、父から聞いたことすべてを知らせます。だから、ご自分の命じることを行う者、すなわち弟子たちは友であると言われます。主イエスの選びによって、弟子たちは僕から友にされたのです。弟子たちの主でありながら、自らは彼らの友であると言われます。 

《イエスの選び》
 さらに主イエスは、弟子たちに言われます。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」聖書から私たちは、主イエスが弟子たちを選ばれた、と理解しています。殊に共観福音書のマタイとマルコは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」、と明確に弟子の召命を語られました。しかし、私たち自身のことを考えるなら、事情は違うのではないでしょうか? 私たちは教会を選び、主イエスを信仰告白して、キリスト者にされました。ですから、私たちが主イエスという方を選んだ、と思い込んでいるかもしれません。しかし、実は逆だったのです。主イエスが言われます、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」主イエスの方から、私たちを選んでくださったのです。 

 実は私も主イエスを選んだ、と思っていたひとりでした。神学校入学した時ですから、今から12年前になります。当時の神学校長江藤直純先生は、最初の礼拝でこのヨハネ福音書から説教をされました。「あなた方がわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」その御言葉を聞いた時、私は突然頭を殴られたような衝撃を感じました。自らのとんだ思い上がりに気づいて、何か恥ずかしく感じたことを覚えています。それは受け身の召命観と言って構わないものです。でも、私は今でもその感覚を、とても大切なものと思っています。 

 主イエスは、選ばれた者の使命を語られます。「あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。」弟子たちを宣教に派遣され、私を信じる者を生み出しなさい、と命じられているのです。それこそが実を結ぶことであり、その実は新たな実を結ばせます。そのために、主イエスは彼らを弟子として任命されたのです。そのために、父なる神に祈って助けを求めなさい、求めるものは何でも与えられると約束されています。 

《愛の実を結ぶ》
 主イエスは結びのお言葉を、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と語られます。ギリシア語には、愛するという動詞が二つあります。ひとつの愛するは神の愛であるアガペーからくる〔アガパオー〕、もうひとつの愛するは友〔フィロス〕からくる〔フィレオー〕です。ヨハネ福音書では、〔アガパオー〕と〔フィレオー〕は同じ「愛する」という意味をもちます。そんな訳で、主イエスの友となる、主イエスを愛する、この二つは同じ主旨をもちます。ですから、主イエスの友とされて主を愛しますし、主イエスを愛してその友とされます。つまり、友となること、愛すること、両者は表裏一体になっています。 

 「互いに愛し合うことが、わたしの掟である。」また、「互いに愛し合いなさい、これがわたしの命令である。」これら主イエスのお言葉は、私たちの心に響いてきます。これまでにない強い調子で、掟である、命令である、と言われます。その中心にあるのが、「互いに愛し合いなさい」、つまり相互愛の戒めです。聖書には、「愛」という言葉が頻繁に登場します。殊に今朝の第二の日課の後半、ヨハネの手紙⑴ 4:712には、「愛」という言葉が15回も使われています。「神は愛である」とキリスト教が、愛をどれほど大切にしているか分かります。

 私たちの知恵や常識では、信仰とは私たちが神を愛することから始まります。しかし聖書では、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まります。私たちが神から愛されたことは、私たちの罪を赦すため、主イエスを生贄としてこの世に送られた、とヨハネの手紙は語ります。つまり、信じない者のために、独り子が命を献げられたのです。 

《神は愛である》
 ヨハネの手紙で、「神は愛である」と語られるように、愛する者は神から生まれ、神を知る者なのです。人間は自分の力だけで他の人を愛せません。私たちは神から愛されて、神の愛に触れて、初めて愛し合うことができます。身近に愛し愛される様子を、赤ちゃんが母親の胸に抱かれている姿に見ることができます。赤ちゃんは母親に安心し切っていますし、母親は赤ちゃんから100%委ねられる喜びに満たされます。その一方で、養護施設の子どもたちは愛情を求めて、施設のスタッフを困らせるそうです。子どもの許容されたい限界がエスカレートして、止まるところが見えなくなります。ある施設長は、どれだけ自分を愛してくれるのか、試されることが辛いと語りました。今の世の中、親子でさえ愛し愛されることが当たり前でない、そんな出来事を日々知らされると、相互愛の難しさを改めて感じます。
 
 愛を与えられないから、余計に愛を求めたくなる。それが、素直な人間の気持ではないでしょうか? 愛というのは強制されて、愛せるものではありません。それが、たとえ主イエスの命令であっても、掟であっても同様でしょう。しかし、私たちは主イエスの洗足や十字架を知って、互いに愛するように促(うなが)されます。愛の掟はヨハネの13章で既に語られていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」《13:3435》主イエスの愛によって形成されるもの、それは主イエスの造られた教会です。この阿久根教会であり、鹿児島教会です。そして、人々はその群れの中にある相互愛から、私たちが主イエスの弟子であると知らされます。このようにあなたも既に、主イエスの弟子の一人とされているのです。

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