2016年9月30日金曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ

 『大きな声で讃美歌を』

 歌は不思議な力を持っています。人をひとつにしたり、そのなかにメッセージを含むもの、気持ちを軽やかにするもの、力づけるもの、そして心の支えになるもの。

  あるとき教会学校で夏にお化け屋敷にいったことがあります。大人の私が怖いと思うほどの屋敷でした。あちこちで子供が泣き、それはもうパニックになりかけたころ「主われをあいす~」と一人の子供が歌いだしたのです。いつのまにかそれが大合唱になり、なんとかそこをくぐりぬける事ができました。

  その出来事を通して、讃美歌がいかに人の心に勇気をあたえ、しかも支えになりうるかと驚きまた感謝しました。

  讃美歌を歌うことは神様との対話です。それはいつでもどこでも予約なしにさせて頂けるのです。歌いましょう。大きな声で讃美歌を。

2016年9月29日木曜日

鹿児島ルターくんの「朝のみ言葉」

ルカ  10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 「私は○○だから・・・」という言葉を聞くことがあります。この「・・・」には何がはいるのかなと思います。きっと「私は○○だから、でも・・・」と言いたいのでしょう。わかってもらいたいのは「…」の部分です。しかしその大切な部分が聞いてもらえないもどかしさを感じます。「でも…」の部分を聞くためには、じっくり向かい合わなければならないからです。

ルカ福音書の中でも「マルタとマリア」姉妹の話は有名です。イエス様の接待に忙しい姉マルタとその足元で話を聞いているだけの妹マリア。ついに姉マルタはイエス様に訴えるのです。「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。妹マリヤのことを訴えているようですが、責任はイエス様にもあると言いたいのでしょうか。なぜ彼女からイエス様に対して、このような心にもない言葉がでてきたか。それは「せわしく」(聖書には忙しいという言葉はありません)立ち働いて、何かを見失っていたからでした。自分がしていることが神様から喜ばれると自分勝手に考えていたのでしょう。すべては「せわしく」心を乱していたのです。

 たま~に子どもたちと私だけの時がありました。その時は主夫になりました。主夫初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。しかし、家の仕事はなんでもあるのだと思います。いそいそと働きながら、実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエス様に仕えることなのです。どんな仕事や役割も、すべてはイエス様に仕えるということがなければむなしいものになっていきます。しかし、この仕事はイエス様に仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。

イエス様は「せわしく」働いていたマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。そして必要なことはただ一つ、目の前におられるイエス様のみ言葉きくことだと言われました。心が亡んでしまわないように、いま何をイエス様は求めておられるかを考えましょう。忙しそうに働くことではないと思います。

2016年9月28日水曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『あなたの顔』
 
 「顔のはなし」・・・
 ある国に勇猛な王様がいました。強いだけに体はたくましくその顔はたいへん恐ろしいものでした。一目見ただけででも震え上がるほどなので誰も近寄ったりできません。ましてや、お妃さきなんてとても見つかりません。さてその王様にある賢者が知恵をつけてくれました。「優しい顔のお面をつくり取り付けては・・・」そこで国一番のお面職人に命じ、ぴったりとした、しかも食事も出来、笑うことも出来、目を閉じることもできるお面を作らせました。王様は大喜びですぐにお妃さきがやってきました。一年たち王様は良心の傷みをおぼえるようになり、夜も寝られずついに愛するお妃に秘密を告白することにしました。鏡のまえに座りお面をはずそうとしたとき突然お面は粉々にくだけてしまいました。あわてた王様はこのまま死んでしまおうとしました。しかし鏡に映ったのはあのやさしいお面の顔だったのです。王様はその顔に合わせて生活しているうちにあの顔になってしまったのです。
 イエス様を土台にいきる人は、イエス様の信仰によってかえられるのです。

2016年9月27日火曜日

鹿児島ルターくん「朝のみ言葉」

ルカ  12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。

 「ブッダの教え」という本を読みました。そこにブッダが悩まない理由は何か?ということが書いてありました。簡単にいえば「智慧」があるからです。その「智慧」によって、いつでも正しい答えを持っているからだと書いてありました。ブッダにとっては、どんなことが起きても問題ないのです。なぜなら、どんなことにも答えを持っているからです。瞬時に正しい対応が出来ると言うわけです。私たちは答えをもっていないので「どうしよう」と心配ばかりするのです。いつでも本当の答えを持っていることが悩まないコツのようです。

イエス様は群衆の一人に「愚かな金持ちのたとえ」を話されたあと、弟子たちに「思い悩むな」と言われました。弟子たちはすべて(所有物)を捨ててイエス様に従っています。その弟子たちは何も持っていなくても、神様がすべて養ってくださると言われるのです。命のこと、食べること、着ることで思い悩まなくても、神様はすべて配慮してくださるから「思い悩むな」と教えられたのです。

 私たちは「なぜ」という疑問をもちます。「なぜ、生きているのだろう」にはじまり「なぜ、神様は」と。しかし私たちは、この「なぜ」の答えをある程度、自分でもっているようにも思います。教会に相談に来てくださる方も初めは「なぜ」と言われます。しかし最後は自分のもっている答えに納得して帰られるのです。ある神父さんが書かれた本の中に次ぎのような話をみつけました。ある一人のおばあちゃんが神父さんに質問しました。「神父さん、私はなぜここにいるのですか」と。みなさんはどんな答えをされますか。いろいろと話をきいて、その神父さんは次のように答えました。「おばあちゃん。あなたは長い人生でさまざまな苦労や試練を乗り越えて、ここまで頑張ってこられたでしょう。それは、ご家族や私などには大きな励みになりますよ」と。この話をよんで、さわやかな気分になりました。人はなぜと考える。自分では自分の価値を見いだせないときもある。そのなぜの答えは自分の中にあるのでなく、人を通して、神様を通して答えは与えられるものだと思うのです。あなたの「なぜ」の答えは、神様の御言葉によって与えられるのだと思います。

 イエス様は「思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるか」といわれました。しかもこんな「小さな事さえ」と言われます。神様がすべてを配慮し、導いてくださるという「答え」を自分のうちに持っているなら、思い悩むことはないのです。今日1日のすべてに、神様の配慮を感じながら生活しましょう。

2016年9月26日月曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ

『教会の基礎』

 「この教会の基礎は腐っていますね」とある人に言われました。牧師である私は、「そんなことはありません」と反発しました。しかし、それは本当なのです。となりのビル工事の建築家の眼でみれば事実なのです。

  私は聖書を読んでいたので、建物の基礎と教会の基礎をだぶらせて聞いてしまったわけです。そのことでいろいろと話ができました。

  建物にとって基礎とは何か。基礎のない建物はありえないこと。一番に気をつけるところが基礎であること。建築家の話を聞きながら、私たちの教会は幸せだなとしみじみ感じました。それは、イエス・キリストという土台(かなめ石)の上に建っているからです(エフェソ4:20)。腐ることなく、倒れることなくいつも支えて下さる。私たちは無意識のうちにも、そこに建つことをゆるされているのです。

  一人一人の基礎もイエス様・キリストであれ。

2016年9月25日日曜日

鹿児島ルター君の「朝のみ言葉」
 
マタイ  6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

私たちの生活は、自分たちだけで生きているわけではありません。私という一人の人間が生きていくうえで、かなりのものが自分の知らないところで使われていくのだと思います。食べ物ひとつとってみても、私の存在のために毎日毎日その命を犠牲にしているものがあるのです。そのことを神様は赦しておられ、私たちのために配慮してくださっているのです。生きるということは、やっぱり感謝だと思います。

イエス様は祈りについて教えられました。イエス様にとって祈りは、神様とのごく自然な交わりでした。ですから祈りを宗教的儀式としては扱っておられません。「主の祈り」といわれるイエス様が教えられた祈りも、神様を「父よ」と呼びかけています。そのなかで赦しのことが祈られ、神様との関係において赦しが語られていることがわかります。

子どもたちが喧嘩をするとき最後の言葉は「絶対ゆるさない」というものです。この「絶対」という言葉に「ゆるさない」ではなく、「ゆるしたくない」という強い思いみます。人間は「ゆるさない」ではなく「ゆるしたくない」という存在なのでしょう。自分がゆるされていることは棚に上げて、人をゆるしたくないと言っている姿を神様はどう見ていらっしゃるでしょうか。微笑みながら、しかし真摯にみておられるように思います。

イエス様は「もし人の過ちを赦すなら」と言われました。まず自分から赦すことをしなさいと教えられたのです。赦しがたい事柄でも、その中に働かれている十字架の愛を知り自分はどうなのかを考えることです。私の方から赦すことがないならば、神様も私をお赦しにはならないと思います。

 

2016年9月7日水曜日


熊本の教会から宣教応援ツアーがやってきます。
何時もより礼拝出席3倍をめざして!楽しい語らいのひと時を!
お待ちしています!

2016年9月6日火曜日


始めまして!
2016年4月から、鹿児島教会の牧師となりました。
立野泰博です。
いつもは、熊本の大江教会におります。
4月から礼拝時間が変更になりました。

毎週土曜日 10:30~です。

これからブログを充実させてまいります。
よろしくお願いします。