2018年11月30日金曜日

2018年11月29日木曜日

「ありのままで」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ありのままで」
 
 カウンセリングの本に次のような話が書いてありました。
 
 外国のある学校の話です。その学校はとても評判の悪い学校でした。卒業生の中にはまともなものはあまりいず、警察のお世話になるものばかりでした。あるときそこの学校の先生は、驚くべきひどいことをしました。それは卒業生名簿を持ってきて予想を書き込んだのです。「こいつは泥棒。こいつは殺人犯。こいつは詐欺師」と。よその子の分まで将来の予想を書き込み、あたるかどうか同僚と賭けたのだそうです。
 
 十年後、その先生が追跡調査をしました。すると一つのクラスに限ってことごとく予想が外れてみんな立派な人になっていました。その学校始まって依頼のことでした。追跡調査の結果そのクラスの全員から、一人の女の先生の名前が聞けました。しかし、その先生は教師としての能力がないということで一年で止めさせられた先生だったのです。
 
 別に普通の先生でした。特に教育理論もない先生でした。今は老人ホームに入っているその先生からは特別なことは聞けませんでした。しかし、ただひとつ違うことは、卒業名簿をながめながら、「ああこの子は好きだったわ。この娘はどうしているだろう。好きだった。この子はやんちゃで好きだった」と涙を流していたのでした。
 
 人はありのままで愛されると変わるのです。キリストもありのままの私を愛されるのです。

2018年11月28日水曜日

「まじめにコツコツ」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「まじめにコツコツ」

箴言 7:2 戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。

「父や母が教えてくれたこと」というテーマの本があります。人はそれぞれの家庭で、その家にあった教えをうけて成長します。その家庭が大切にしている教えでもあります。どの教えも「もっともだ」と思います。そのなかでもよく聞く教えは「まじめにコツコツと」というものです。人のすることはすべて神様が見ておられる。だから誤魔化さずに、「まじめにコツコツと生きること」だという教えです。この誰もみてないようでも、神様は見ておられるという教えは大切なものです。

箴言の7章には父の諭の中に、若者が女性に誘惑される場面がでてきます。聖書には「わたしが家の窓から、格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人、意志の弱そうな若者がいるのに気づいた」とあります。誘惑を受ける若者は、浅はかな者だけでなく、意志の弱い者であると忠告しています。

ある少年と死の話をしたことがあります。その少年もまた小学生のときに突然お父さんを天に送らねばならなかった子でした。じつは私と同じような境遇の少年だったのです。「人はなぜ死ぬのだろうか、私のお父さんもなぜ死ななければならなかったのだろうか」と話していました。するとその少年は次のように教えてくれたのです。

 「牧師先生、お父さんは死んでないんだよ。だってみんな僕をみてお父さんにそっくりだという。顔形も言葉も話し方だって。そして少し猫背のところまで似てるっていうんだ。だからね、お父さんは死んでない。僕の中に生きている。僕をみればお父さんを見ることができるんだ」と。そして、「先生の中にもお父さんを見ることができるんだよ」と。イエス様も「私を見たものはすなわち父を見たのと同じである」と言われました。それはイエス様の中に父なる神が生きておられるからです。同じように、私たちの中に父、母がいます。そしてずっとさかのぼっていくとキリストまでいくことができます。実は、私たちの中にはキリストがいてくださり、私たちを見たものはキリストをみたことになるということなんです。

 箴言は、「わたしの教えを瞳のように守れ」といいます。瞳のようにとは、注意深く見つめることを意味し、目をそらさない、中心を見ぬくということでもあります。神様の教えをそのように守ることを教えています。み言葉から目をそらさずに、その教えをきちんと守っていくことこそ、まじめにコツコツと生きることなのです。その姿は自分の中に神様を見ることです。

2018年11月27日火曜日

「ジャングル温泉」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ジャングル温泉」
 
 夏に指宿へいってきました。とても楽しい時を過ごしましたが、蒸し暑さにはまいってしまいました。南国特有のバケツをひっくり返したような雨。その後一時の晴れ間。そしてまたバケツをひっくり返したような雨。これでは蒸し暑いのもしかたありません。しかも火山のすぐそば。熊本生まれの私にとっては懐かしさもありました。
 
 そのような雨の中、イッシーで有名になった池田湖をみて、砂風呂を見学(地熱がこれだけあれば蒸し暑いはず)、その後、指宿のジャングル温泉へいきました。一番喜んだのは娘達ではなく、二人の牧師たちで、観葉植物に囲まれながらお風呂に入るのは最高でした。しかもとにかく広いとくれば言うことなしでした。
 
 神様の作られた自然は、私たちをゆっくりとさせてくれます。そこにただ自然があるだけで心が落ちつくのです。なぜでしょうか。それは人間も自然も、神様が造られたものだからだと思います。もともとは一つのものだからではないでしょうか。私たちは機会の一部としてではなく、自然の一部としての人間なのです。もういちど行きたいジャングル温泉です。
 

2018年11月26日月曜日

「神様と私の距離」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「神様と私の距離」

創世記  30:36 自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた。

「あの人とはちょっと距離をおいている」という表現があります。この距離の意味は何だろうと思います。しばらく会わないようにしよう。無視しよう。関係ないように振舞おう。たくさんの意味があります。また「ちょっと距離をおいてみたら」というアドバイスもあります。人間関係にはほどよい距離が必要かもしれません。しかし、この距離がうまく働けばいいですが、距離があるためにうまくいかないこともあります。

 旧約聖書の物語に、ヤコブと舅ラバンの話があります。ヤコブは兄エソウの怒りから逃れる旅を強いられやっと親戚の家に出会います。その地でラケルと出会います。しかし、その父親ラバンの巧妙な策略によってヤコブは騙されたり、不当な労働をしいられたりするのです。ついには、ヤコブとの距離を3日ほど置いたと言う話です。この3日の距離を置かねばならなかったほど、この関係は冷たいものだったのでしょう。

はじめての漁船の運転、ジェットボートの運転をした時のことです。漁船の舵をとりながら、海の風の心地よさにすっかり満足してしまいました。しまし、船をまっすぐに走らせることは大変むずかしいことです。すぐによろよろとしてしまいます。その日の風にもよるし、潮の流れ、波の状態を見極めなければならないからです。また、島を回りながら走るときには、島との距離をつねにみながら走らせなければなりません。また、どこに海面下に岩があるかわからないのです。つねに自分の位置、まわりの状態、自然環境を知って置かねばならないのでしょう。私たちの人生の歩みも、自分がどこにいるのかを探しながらの旅かもしれません。それがはっきりしている人生は楽なのですが、そう簡単にはいきません。つねに迷ってばかりいます。神様と私の距離を知らないからです。

 イエス様は、「神の国は、あなたがたのただ中にある」といわれました。これは中のことではなく、「間」という意味もあります。人と人との間にはイエス様がいてくださるのです。お互いがこのイエス様とつながって距離間を保つとき、平和がくるのではないかと思います。イエス様を間にはさんだ距離とはどれくらいでしょうか。しかし、その距離は間にあるイエス様を通るということで、「愛し合う」「赦し合う」「認め合う」というフィルターを通ることになります。

2018年11月25日日曜日

きままま休日・ハンバーグ食べ放題

90分ハンバーグ食べ放題!
過酷な挑戦をしてまいりました。
さて何個食べたでしょう。実は13.5個でリタイヤ。
そのくらいが美味しく食べる限界でしょうか。ははは

2018年11月24日土曜日

鹿児島教会のイノベーション

鹿児島教会は来年生まれ変わります。
なんと、カフェを設置する予定です。
お楽しみに!

2018年11月23日金曜日

明日は礼拝です。

明日は礼拝の日です。
1ケ月ぶりに立野牧師(大江教会)の担当です。
ぜひどうぞ!

2018年11月22日木曜日

「蛍の乱舞にさそわれて」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「蛍の乱舞にさそわれて」
 
 この雑文に書きたい話題が多い週でした。松山での出来事。フェリーでの出来事。どれもこれも楽しい出来事でした。そんな中で、やっぱり書きたい出来事は、今年も蛍の季節になったということです。
 
 六日市集会にいく道では、6月は蛍が乱舞しています。車でスピードをあげて通り過ぎると何もみえません。しかし、車を止めてライトを消し、静かに川をながめていると、一つ、二つと灯が増えてきます。そして五分もすれば川中に蛍の群れが飛び交っているのがわかります。不思議に思うのは、みな一定のリズムで光っているということです。バラバラには決して光りません。光るときは一斉に光るのです。神様の創造の業の不思議さを思います。
 
 さて、友人と一匹捕まえようということになりました。ところが、これが大変でした。子供の頃はあんなにたくさん捕まえたのに。しかし、やっとの思いで一匹捕まえて、車の中に離しました。そのままの状態で、六日市、益田、徳山へと車を走らせているうちに何だか蛍に対して気の毒になってきました。たった一度限りの命ではないか。神様の業の中で生まれてきたのではないか。そう考えてみると、蛍も私も同じだなと思ったのです。
 
 やっぱり川に返すべきだと思ったとき、ちょうど捕まえた場所に着いていました。いそいで車の中から探しだし、同じ場所に戻した時、前にもまして大勢の蛍に取り囲まれていたのでした。

2018年11月21日水曜日

「信頼性」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「信頼性」

使徒 9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。

ある本で「想いが通じる5つの基礎」を読みました。最初の項は「自分のメディア力をあげる」と書かれてあります。これは、「何を言うか」より「誰が言うか」で違う時があるというのです。たとえば社会経済の動向を、スポーツ新聞で読むのと、日本経済新聞で読むのでは、同じことでも伝わり方が違うのです。経済の問題を考えるのに、どちらの新聞に信頼を置いているかということです。野球解説を読む場合は逆になります。ということは、話しが通じるためには、日頃からの人との関係の中で、自分というメディアの信頼性を高めていかねばなりません。この信頼性が根底にあるかないか。これが、話しが通じる基本です。礼拝でもおなじことです。信頼を受けてないところでいくら説教を語っても、それは通じないのです。

サウロというのはパウロがキリスト者を迫害していた時の名前です。かれはダマスコ途上で、復活されたイエス様に出会い「なぜ、わたしを迫害するのか」と問われます。そこで彼は回心をし、キリスト者となるのです。パウロはすぐに宣教を始めるのですが、誰も彼のことを弟子だとは信じなかったというのです。あまりのパウロがキリスト者を迫害していたから、そういった印象が人々に焼き付いていたのでしょう。これを払しょくするためにパウロは徹底的にキリストのみ言葉に仕えています。パウロは、ユダヤ人にもキリスト者にも信頼をしてもらうために試練をあえて受け入れているのです。

牧師会での出来事です。「みんな本音をだしあってケンカしよう」「はっきりいってケンカうってます」という言葉を聞きました。何のために牧師たちがケンカする必要があるのでしょうか。ケンカすることによって新しい関係がうまれ、お互いがよく知り合えると弁解していましたが、そうは思いません。お互いケンカしなければ仲良くなれない牧師たちってどんな存在なのか。考えてしまいました。ある若い牧師は「僕はケンカは嫌いです。牧師の中からケンカしましょう、ケンカうってますという言葉がでてきて寂しいです」と言いました。なぜ寂しく感じたのか考えてみました。やっぱり、神様の平安に反するからだと思います。意見の違いはあってもいいのです。しかし、そこには信頼というものがあるからです。お互いの人間を信頼するのではなく、私たちの間におられる主を信頼できるかだといえます。若い牧師たちに、「私たちは同じ主イエスに召されている」という信頼があるでしょうか。そこは語られなく、ケンカしましょうでは分裂を生むばかりだと感じました。

パウロはキリスト者を迫害していいました。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」とある通りです。それゆえに初めは信じてもらえませんでした。しかし、その後のパウロの姿、その熱意、信仰によって人々は変えられていったのです。パウロはキリスト者として、弟子として受け入れられていきました。パウロのメディア力は信仰にあると言えます。

2018年11月20日火曜日

「悪魔の悪魔」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「悪魔の悪魔」
 
 「波」六月号を読んでいましたら、次のような言葉に出会いました。
 
 「世の中には優しさという言葉が流行っているようだが、悪を生きたことのない人には優しさなんて表現できないのではないか」。これはある文学賞を受賞された作家の言葉です。
 
 「悪を生きる」とはどんなことでしょうか。私は善でありたいし、人からもそうみられたいと思います。もしも「悪」と言われたらきっと落ち込むでしょう。しかし、その落ち込みが優しさを生むのかもしれません。
 
 ある牧師が、「悪魔に勝つには、悪魔にとっての悪魔にならないと勝てない」と言われました。なるほどだなと関心したのです。なぜなら主イエスは悪魔にとっての大悪魔だったからです。
 
 主イエスは聖書時代の律法学者たちからは「悪を生きた」方でした。しかし、それが故に律法学者たちに見捨てられた人々に「優しさ」の表現ができる方だったのです。
 
 「自分が善だ、自分は正義だ」と言い切る人たちには優しさは感じられません。優しさを持つと自分だけではいきていけないからです。悪に生きるとは、弱さに生きることかもしれません。

2018年11月19日月曜日

「伝え、励む、時

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「伝え、励む、時」

2テモテ  4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。

小さい頃から鍵っ子で、家に一人でいることが多いものでした。何もすることがない時は、よくテレビのワイドショーを観ていました。その関係で、いまでも芸能ニュースには興味があります。恋愛関係や事件などではなく、その人の生き方と才能、隠れている努力とかを知ることが好きです。しかし、人気が出る人は何かしらもっておられる方が多いようです。その何かがわかればいいですが、でもその何かの背景になっている努力とか、運とか、いろいろとあると思います。きっと励んでいることがるのでしょう。

パウロは、若いテモテに愛情を注いでいます。それはキリストの宣教を共働する、同労者としての信頼でもあります。この若き弟子に対してまず「御言葉を宣べ伝えなさい」と励ましています。キリストの御言葉によって救われた私たちの、まずなすべきことは「キリストの御言葉を宣べ伝える」ことです。パウロがいうように、そのことを「折が良くても悪くても励む」ことです。伝えることは難しく大変なことです。しかし、キリストと共に働く仲間がいることで励まされるのです。

AKBはいまだに人気があり、普通の女の子がなぜ人を引き付ける魅力を持てるようになるのかと思います。影なる努力が凄いのだろうと思っています。最近、プロデューサーの一人が雑誌のインタビューで次のように言っていました。「人気が出るメンバーは、やるべきこと、できること、やりたいことを自覚して、それをバランスよくきちんと実践できている子だと思います」と。この3つを自覚することは大変なことです。しかしあえてそれをしているのだと感心します。私たちにとってこの3つは、宣教にいかせるように思えます。

パウロも3つのことを言っています。御言葉を「伝えること」「励むこと」「時」です。キリストの御言葉の恵みに生かされた私たちが、その喜びを伝えることはキリスト者の使命です。喜びからくる思いを伝えていくことが大切です。私たちの教会も「やるべきこと」、「できること」、「やりたいこと」をしっかり考えてみたいと思います。そこから御言葉を伝えることに努力していきたいと願っています。

気ままな休日・収穫感謝祭りが


何といっても収穫感謝は七面鳥!
丸ごと焼いて食べてみます。うまくいくかな?

2018年11月17日土曜日

2018年11月15日木曜日

「賛成でも反対でも」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「賛成でも反対でも」
 
 出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。
 
 「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、「神様のクレヨン」が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。
 
 先週の宣教協議会に出席し、教会の会議のあり方を考えています。主イエスを中心とした会議にはみえなかったからです。話し合いという名の責め立てあいのようでした。私はそこにいたたまれず、帰ってきました。批判するなとはいいません。しかし、そのやり方に問題を感じます。宣教協議会は法廷闘争を準備した話し合いではないはずです。あくまでも、宣教の役に立つ話し合いのはずだと思うのです。
 
 批判するのは簡単なことです。しかし、そこからどうやって前向きに進めていくか、いや決断して中止するかなのです。ある信徒の方が次のようにいわれました。「賛成でも反対でも、それをどうやって宣教に役立たせるかという視点で考えたい」。もっともだと思います。(

2018年11月14日水曜日

「受けるだけでなく」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「受けるだけでなく」

2コリ 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

広島のストリートにハギーというミュージシャンがいました。夢を追いかけていたに違いありませんが、33歳の若さで天に召されました。夢だけで生きていたら終わりということも知っている彼でした。夢を追いかけるためには、昼間は重労働し汗まみれに働いて、よるデパートの前で唄っていたのです。彼の歌で「自由詩人」というものがあります。繰り返しでてくる言葉は「奪うことは止めにして、与えて生きていこう」でした。イエスが言われた「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉と重なりました。彼の中にもイエスが御言葉をまかれていたのですね。彼は長崎の五島列島出身でした。

この手紙の8章9章は、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金を訴える趣意書のような内容です。パウロは「異邦人の使徒」であったが、エルサレムの聖なる者たちへの募金活動を、ガラテヤ、マケドニア、アカイアの各地方で行っていました。コリントの人々はパウロとの関係で、この募金を停止していたようです。そこで、もう一度再開するようにと呼びかけています。その中で、コリントの人々が豊かに受けている恵みをあげ、それゆえに奉仕することを促しています。

イスラエルに「死海」という湖があります。地球上で最も低い所にある湖で、海抜マイナス418メートルにあります。海水の塩分が3%に対して、死海は30%あります。当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにあります。この死海についてイスラエルの旅行ガイドは次のように説明しています。「死海はヨルダン・ガリラヤの何本かの川から命の水を受けているが、自分から外にだすことはない。受けるだけで与えることがなければすべては死んでしまう」と。神様からのたくさんの恵みを受けるだけで隣人に与えることがないならば、その人の信仰は死んでしまうということです。

パウロは「すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言います。神様から受けたものを与えることによって、自分も豊かな者になるということです。イエス様の言葉として使徒言行録には「受けるよりも与える方が幸いである」と記されています。

2018年11月13日火曜日

きままな休日・収穫感謝祭


何といっても収穫感謝は七面鳥!
丸ごと焼いて食べてみます。うまくいくかな?

「一日を大切に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「一日を大切に」
 
 牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。
 
 さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。いま三十二歳と半年なので、ザ~っと計算そても「一一八00日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の娘では「一九0五日」ですが・・・。
 
 いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできなものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。
 
 益田教会からの帰り道で鹿野を通りました。いま新緑がもっとも素晴らしい季節です。いつもなら車の中から眺めておわりですが、車を降りてみました。すると太陽に輝く新緑とウグイスのさえずり、蛙の鳴き声、小川のせせらぎが聞こえてきました。生かされていることを実感したのです。
 
 神様の前に立つ一日を大切にしたい。

2018年11月12日月曜日

「種から育つ」


鹿児島ルター君の朝のみ言葉
 
「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。

2018年11月8日木曜日

「共に祈る恵み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「共に祈る恵み」
 
 子どもを叱っていると、自分がむなしくなってきます。「人格の未熟な親ほどよく子どもを叱る」の言葉を思い出すのです。
 
 最近、娘・華美がイライラして、いつも怒ってばかりいました。きっと親に十分遊んでもらっていないのが不満となっているのだと思いました。そこで一緒に遊ぶことにしたのです。それでもなおイライラはとまらず、とうとう同じように怒ってしまいました。はじめは「いい加減にしろ」からはじまり、だんだんエスカレートしていきました。手はでないものの、グジグジとなってきます。この辺で終わればと思いつつ、歯止めがきかないのです。そして、「叱っている自分はどうなんだ」という心の声を聞いて悲しくなったのです。
 
 「このままではいけない。しかしどうすればいいのか」と迷いつつ、礼拝堂へいこうと思ったのです。華美も反省しているらしく、礼拝堂へ行こうと言えばついてきました。そして二人でざんげの祈りをしたのです。華美は、「神様。イライラしてごめんなさい。ゆるしてください」と祈りました。私は自分の未熟さを祈りました。
 
 主イエスを中心に向かい合うことができるのは、本当に感謝です。これからもいろいろな衝突があるでしょうが、共に祈ることができる。それが私たちの信仰の宝だと言えます。

2018年11月7日水曜日

「今日何を行う」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「今日何を行う」

1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。

パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。

ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。

パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

 

2018年11月6日火曜日

「存在感」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「存在感」
 
 少し年上の牧師から、「そろそろ存在感のある牧師にならないと」という言葉をいただきました。「存在感」とはいったい何だろうかと考えています。また同じ時に「自分はこれだというモノを持っていないと」という言葉もいただきました。「これだ」というモノを持つ必要を考えています。
 
 きっとその牧師には、「存在感」があり、「これだ」というモノがあるのでしょう。しかし、自分が思っているほど人には伝わっていないということもあるのですが。
 
 さて主イエスには「存在感」があるでしょうか。もちろんあります。しかし「存在感」がないときもあるのです。野の花はそうだと思います。「存在感」があるとかないとか、野の花はいいません。しかし、関わりを持つ人によっては素晴らしい「存在感」をもっているのです。それでいいと思います。
 
 たぶんその牧師は、「あなたは存在感があるね。あなたないはこれだというモノがあるね」と言われたかったのかもしれません。

2018年11月5日月曜日

「信仰というよりも」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。