投稿

2019の投稿を表示しています

2019年感謝!

イメージ
今年も感謝でした。 新年礼拝は熊本の大江教会のみで行われます。 2020年もどうぞよろしくお願いします。

「何のために片づけ?」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「何のために片づけ?」 マルコ  11:13  葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 広島ではお好み焼きをよく食べます。広島の人たちはお好み焼きが大好きで、いたるところにお店があります。美味しい店の特徴は、鉄板の種類とその厚みにあるようです。20ミリ以上というのがいいとか、銅板がいいとか、いろいろありますが。先日のお店は鉄板を大切にされており、焼くたびに鉄板を綺麗に磨き整えておられました。いつもピカピカです。お店のご主人に「なぜ?たびたび磨くのですか?」と聞いてみました。すると、意外な答えでした。「今日最後の片づけのために」でした。火を落とすときのためだと言われたのです。 イエス様はベタニアの街で、1本のいちじくの木を呪われました。しかし、この話は私には釈然としないものがあります。イエス様は、いちじくの実がなる季節ではないときに、「実がなっていないか」と思われたのです。それがなっていなかったために呪われ?(聖書では言葉を言われただけですが)たのです。いちじくの木は枯れてしまいました。神様に求められたときにすぐに応えることができる「準備」をしておかねばという話なのだと思います。しかしそれだけではなさそうな気がします。 鞆の浦・仙酔島というところで宣教会議が行われました。なぜ?なにのためにここなのかと思いました。ここは離島になっているからです。午後10時になると船がなくなってしまいます。家に帰れない、何もない所での会議でした。しかし、「何のために生きているのか気づかせてくれる島」というコンセプトで、新しくオープンした民間委託の国民宿舎でした。しかも、目の前は海。ですから自然を感じていただくために、部屋にはテレビがありません。料理は最高。温泉も最高というところです。私たちは朝から晩まで、模造紙を広げてとことん話し合うことができました。島から出られないし、遊ぶ場所もない。雨が降っているので外へは出られず。こんなもってこいの環境でした。しかも、波の音がすばらしく感動しました。なんと寝るときにたえず波の音が聞こえてくるのです。こんなにリラックスして眠れたのは久しぶりでした。 私たちの実は何だろうか。信仰の実は何

きままな休日・ポットラック!

イメージ
教会の特別な祝日には よくポットラックがあります。 いわゆる持ち寄りパーティです。 これがすごいんです。 次回はいつかな~

クリスマス礼拝

イメージ
今年も無事にすべての礼拝を終えることができました。 クリスマス礼拝には30名を超える方々が! 新しい年も神様の祝福を祈ります。

明日は今年最後の礼拝

イメージ
2019年最後の礼拝です。 説教:立野泰博牧師(主任) どうぞお越しください!

「信仰のセンターライン」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「信仰のセンターライン」  六日市集会の行き帰りはとても楽しいひとときです。落語を聞いたり、音楽を聞いたり、説教を考えたり、伝道計画を練ったりしています。ところが、帰り道で大変なこともあります。それは、濃霧がでたときです。それでも1年に5回位でしょうか。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうこともあります。先々週がそうでした。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。  私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。ところが、足元をみれば、きちんとセンターラインがあり、それが道を教えてくれるのです。 私たちの人生は道だとすれば、センターラインとは何にあたるのでしょうか。それぞれの人によって違うでしょう。私たちキリスト者にとっては、「キリストの御言葉」でしかありません。ひとつひとつの白いラインが「キリストの御言葉」であるならば、その道は確かに神様へとつながった平安の道であるといえます。 濃霧に悩まされながらも教会の十字架の灯が見えたとき、守られていたことを実感できます。すべてのラインは主の十字架へとつながっているのです。

「何がわかるか」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「何がわかるか」  フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。  フランシスコ・ザビエルの言葉に「神もイエスも知らない人は、いったい何をしっているのだろう」というものがあります。自分が何を知っているかを考えるとき、本当に知らねばならないことを知っているのかと問いたくなります。たくさんの本を読んで知識があっても、その人が本当に知らねばならないのは、他にあるかもしれません。生命の神秘を探求するために顕微鏡をのぞいても、そこに神を発見できないならば真実を知っていることにはなりません。どんなに多くの知識があってどんな難問に応えることができても、イエス様の何を知っているでしょうか。それに答えられないとすれば、真実を知っていることにはなりません。だとすれば「何」をという問いは私たちにとって永遠の問かもしれません。  パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。私たちが「何」を知り、それをどう求めているか。いつも考えています。 ある新興宗教の宣教師たちと対話を持っています。82万の信徒がおられるそうです。全世界には何人かはわかりませんが。キリスト教ではないと扱われてきました。どこがどう違うのかを知って話し合う機会が与えられたのです。しかし、やっぱり対話にはなりません。マニュアル通りの受け答えしかないからです。いくら質問してみても、マニュアルのような本で「それはここです。その問題はこれです」という具合です。わたしはこう信じています、という声が聞こえてこないもどかしさを感じます。それでもまた来ますといわれると、「マニュアル通りではないあなたの言葉を聞かせて」と思うのですがだめなのです。信仰にはマニュアルはないと思います。信仰にあるのは、「私はこのように信じさせていただいている」という自分の告白だけです。何を信じているか、どのような信仰を与えられているか、それ

クリスマスおめでとう!

イメージ
クリスマスおめでとうございます。 世界のすべてに神様の愛と平和を! 新しい年も神様の祝福を祈ります!

「祝福されたものを」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「祝福されたものを」 マルコ  6:43  パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 コンビニで大量のお弁当が捨てられるのを目撃しました。まだ食べられるものだと思いますが、会社のルールなのでしょう。娘のバイト先でも大量に残った食べ物を、バイトが持ち帰るのではなく廃棄処分となるとききました。いつもどうにかならないかと思います。食べ物を粗末にすると罰が当たると教えられてきました。捨てられる弁当を見るたびに、食物は神様が与えて下さる恵みなのにと思うのです。大量にある支援物資はこれからどうなるのでしょうか。 イエス様の奇跡に、有名な五千人の給食があります。イエス様は大勢の群衆をみて憐れみ、み言葉を語っておられました。時間もたち食事の時間になりましたが、その用意がありませんでした。そこでイエス様は、「五つのパンと二匹の魚で大勢の群衆に食べ物を与えなさい」と弟子たちに命令されたのです。その結果、五千人以上の人が食べて満腹し、残りは十二の籠にいっぱい残ったというのです。 先週もたくさんの支援物資が届きました。感謝です!「その日に届いた物資はその日の内に行き先を見つける!」その意気込みでネットワークをふるに用いています。コーヒーと喫茶セットは今日 FB で支援願いがあった YMCA へ!避難所カフェのために早速旅立ち。アレルギーミルクは備蓄して必要な方の連絡待ち!どうぞお知らください!離乳食共々揃っています。車椅子必要な方、ルーテル教会救援に 7 台あります!これらの支援物資はみなさんの心がこもっています。気持ちが込められています。イエス様に押し出された愛がそこにあります。だから無駄にさせてはいけないのです。 イエス様が、五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹されたとき残ったものがありました。しかしそれを人々はどうしたでしょうか。翌朝生ごみとして捨てたでしょうか。きっとイエス様が祝福された食物として持ちかえり、大切に食べたのでないかと思います。イエス様の手が触れ、祝福された食べ物だからです。そう考えるとすべての食べ物は神様が造られ、神様の手が触れています。無駄にしてないかと問われています。

きままな休日・1000円和風定食

イメージ
和風定食を食べに行きました。 これで1000円でした。やす~~~~ これで十分だとおもいました。和食はいいな~

クリスマスおめでとう!

イメージ
今日の礼拝はクリスマス礼拝です。 み子イエスのお誕生をお祝いします。 この画像が、実際のクリスマスはこんな感じだったかな というものです。馬小屋ではなく家畜と共に住んでいましたから。

明日はクリスマス礼拝

イメージ
クリスマス礼拝です。 説教者:立野泰博牧師(主任) 大江教会との合同礼拝です。

「温泉以上に暖かい」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「温泉以上に暖かい」    友人の結婚式で、熊本へ帰る機会が与えられました。やっぱり故郷というものはいいものだと感じました。今回もまた、ウイナスという温泉に行きました。といっても、私の生まれた村(長陽村)が建てたものなので、近くにあるのです。 さて、ある父子が脱衣場で話しているのを耳にしました。その会話を聞いていましたら、温泉以上に暖かいものを感じたのです。5歳くらいの子供がお父さんに聞いていました。    「お父さん。お父さんと温泉に入ると、どぎゃんなっと。からだん大きくなっとね。それっとんきれいになっと。おしえちくれ」。 (訳:お父さんと温泉に入ると、どうなるの。からだが大きくなるの。それともきれいになるの。おしえてよ)    するとお父さんが答えました。「お父さんと温泉にはいると、幸せになっと」。 (訳:お父さんと温泉に入れば、幸せになるんだよ)    普段あまり会わない父子かもしれません。たまの休みに家族いっしょに温泉にきたのでしょうか。それにしても、親子で温泉に入れば幸せになれるとは、何とここちよい言葉だろうかと思いました。    私たちは、隣にイエス様を感じたとき幸せになります。ということは、いつもいつも幸せを感じることができるのです。いつも共にいてくださるから。

「恐れの中に神を見る」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「恐れの中に神を見る」 マルコ   4:41  弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。 牧師として、被災地でみ言葉を語ることの畏れを感じます。3月11日の東日本大震災の日、はそこに共にいなかった者として、何を語り、何を共にすればいいのか。神様はこの震災を通して何を語ろうとされているのか。神様はいま何をしようとされているか。問いの日々でした。しかし救援活動の中で「もし神がいるのなら助けにこい」「神はなんで大震災に沈黙しているか」「神なんていない」といった言葉を聞いたことはありません。むしろ私のほうが問うているのかもしれません。被災者の方々がおっしゃらないのはなぜだろう。そのことはもっと私自身が深めて考えることです。 イエス様と弟子たちは向こう岸に渡るため舟にのり湖に漕ぎ出しました。しかし途中で激しい突風がおこり舟は大波をかぶって沈みそうになりました。弟子たちはこの自然の猛威のなかでどうしてよいかわからなくなりました。自分の命が危ないと思ったのかもしれません。イエス様は眠っておられました。しかし、弟子たちの問いに、風と湖を叱りつけるという方法で自然をおさめられました。弟子たちが一番恐れたのはそのイエス様に対してでした。 今回の熊本地震でのキーワードがあるとすれば「車中泊」ではないかと思います。家にかえることができない。車の中でなら安全でいられる。それだけではないように思うのです。東日本大震災のときには「恐れ」がテーマでした。しかしこんかいは「不安」なのだと思います。死と向き合った「恐れ」と、余震がいつくるかわからない「不安」。これはどこでどうちがうのかと思うのです。炊き出しの数が減らない。この不安からの解放がいつできるのでしょうか。「恐れ」と「不安」。しかしイエス様は大丈夫だといわれます。「安心しなさい」と。 弟子たちは「 いったい、この方はどなたなのだろう」と驚愕しています。彼らは荒れ狂う風や湖の中にイエス様を見たのです。恐れの中で、イエス様をみつけて安心したのです。いや、イエス様の御言葉をきいて安心したのです。目の前にある想定外の自然の脅威のなかで、神様をみたのです。

「み言葉が身につく」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「み言葉が身につく」    何げなく買った本の中に、次のような一文をみつけました。    「私たちはいろんな人から、生きるうえでの知恵を教えてもらう。他人は、自分の知らないことをたくさん知っている。私もこれまで様々な人から多くのことを教えてもらった。そうして最近気づいたのは、『普段実行していない人から習ったことは、身につかない』ということである」。    この文を読みながら、大笑いしたあとに、まてよとギクッとしました。根本的なところは、「知恵と知識の違い」ということでしょう。しかし、あらためて自分に問うみると、普段実行もせずに教えていることはたくさんあるのです。    テレビでは毎日、健康のためにと知識をたくさん与えられます。それを人に教えてもきっと身につかないのだとつくづく思います。自分がやってみて本当によかったといえるものしか、人の心を打つことはできないのです。    広島教会の森牧師が、「りんごダイエットをしよう」と呼びかけています。なんでも、90キロの体重が正月に97キロまで増えたそうです。そこで「りんごダイエット」を始めたところ、みるみる7キロやせたそうです。はたして身につくことやらと思いつつ、やってみたくなりました。    キリストの言葉が身につくのは、神の業がそこにあるからです。なかなか身につかないと思っている人は、身についているのに気がつかないからでしょう。

「天罰ではない」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「天罰ではない」 ゼファニヤ  1 : 18  主の憤りの日に地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を地上に住むすべての者に臨ませられる。 災害が起こるたびに、いろいろな宗教が天罰だと言いだします。私にも日本のこれまでの罪に対する天罰がくだったというメールが数通きました。そのメールは続けて、だから悔い改めて神様を信じるチャンスをいただいたというのです。教会にとっても宣教のチャンスだと。本当にそうかなと思います。日本に住むすべてのものが共に祈りつつ、この災害をどう乗り越えていくかです。天罰かどうかの問題ではなく、いま神様は私たちに何を求めておられるのかを聞き、それを実行していくことが大切だと思います ゼファニヤは、主の憤りの日には、地上のすべては主の熱情の火に焼きつくされることを告げます。主の熱情は人間への愛と期待のゆえに、それに対する裏切りと背信に対して、焼きつくす怒りをもって報いると預言しています。なぜ主の情熱があるのでしょうか。それは人間がどういきるべきか、どのみ言葉に立つべきかの期待の故だと言えます。 今回も避難所でカフェデモンクが行われています。宣教を目的とせず、傾聴する喫茶です。傾聴するだけでなく、その心に寄り添うことを求められます。しかし、いろいろな宗教団体が入り込んでおり、宣教しようとしています。いまこそ天罰がくだったのだから悔い改めなさいと。しかしそれは寄り添いではありません。いま必要なのは、神様を信じなさいではなく、神様はともにおられると伝える事です。それが神様のみ言葉に従った奉仕だといえます。。 ゼファニヤは「主の憤りの日に地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる」と預言しました。もし神様の声に聞き従わないならば、ということです。私たちは人生における様々なことから自分の罪を見させられます。そのときに悔い改め神様に従う決心をするのです。神様は今回の震災を通して何を語っておられるでしょうか。具体的になにをせよ言われているでしょうか。神様のみ言葉から答えを聞きとり、それを実行していきましょう。

きままな休日・感謝祭のターキー

イメージ
今年も感謝祭はターキー 七面鳥でした。 ことしはおいしかったな~

2019年の鹿児島教会クリスマス礼拝

イメージ
今年のクリスマス礼拝は 21日(土)10:30~です。 大江教会との合同礼拝となっています。 ぜひお越しください。

明日は礼拝です

イメージ
説教者:立野泰博牧師(主任) どうぞおこしください。 クリスマス礼拝は21日(土)10:30~です。

「神様の計画だから」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「神様の計画だから」    なんと、東北は雪になりました。今年はよく降るなあと思っていましたら、またまたドカンと降りました。本当に今年は雪がよく降ります。と思っていましたら、反対に九州では雪が少ないとのこと。いったいどうなっているのでしょうか。    熊本生まれの私にとって、雪はとても楽しみの一つでした。なにせ1年に1回の雪合戦ができる時だったからです。そしてもうひとつの理由は、雪が降ると近くのテレビ局が、かならずニュースのために撮影にくるのです。そのニュースにどうやれば写るかを考えるのがとても楽しみだったのです。しかし、子供たちにとってはこんなに楽しい時でも、この雪で困る人達がいるのも同じニュースで観ることができました。神様はとても不思議だなとと思った最初でした。同じ出来事でも、それが嬉しい人と、悲しい人を一緒につくってしまうことに不思議を感じていたのです。    神様の働きは人間では理解できないことがたくさんあります。むしろ分からないのが神様の働きといえるかもしれません。ある人には試練ばかりを与えられる。ある人にはいつも祝福がある。不公平だなと思っていると、試練のときにはいつも共にいて守ってくださる。こう考えていくと、神様の計画なのだからしかたない。信じて従うのが私たちだとしかいえませんね。  

「苦しみは避けられないのなら」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「苦しみは避けられないのなら」 ヨハネ黙示録2:10 「あなたは受けようとしている苦難を決して恐れてはならない」 テレビで派遣社員の孤独死をみた。何が彼を死に導いたのかなと思いながらテレビを眺めていました。人生の最大の苦しみは無気力にさせられることかなと思います。孤独になって、誰にも相談できず、家族にも話せず、苦しみの中で餓死という現実。どうやったらそこから抜け出せるのか。 黙示録では「苦しみを恐れてはならない」とあります。そこに続くのが「死に至るまで忠実であれ」とあります。苦しみは避けられない。ならば苦しみを恐れず、死に至るまで苦しみに対しても真っ向から向かい合わねばならないと思います。 「大川小学校に母子の石碑が建てられた」というニュースを東北支援のときにみました。写真ではよく見えなかったのですが、母親が子供を抱き締めている像でした。子どもたち、教職員を含む84名の方々が流された場所で「命」ということを考えました。慰霊碑には「百日たったいまも、会いたくて、会いたくて、会いたくて・・・」という、子どもを天に送られたお母さんの手紙がありました。教会、学校、幼稚園、保育園、施設。今回、ルーテル教会が母体となっている関連施設は、すべて「命」を預かるところだということを深く教えられました。いまはネットワークが必要です。出来る限りのネットワークをもちいて「命」に向き合う時だと思います 4 避けられない十字架の苦しみの前に、死に至るまで忠実であったイエスがそこにおられます。神様にあって苦しみ受けとめたとき、新しい命の冠が与えられると聖書はのべています。苦しみは避けられない。ならば苦しみを受け取る信仰の力を求めたい。

「底知れない力を」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「底知れない力を」    「精いっぱいの嘘」という、従軍体験をもとに書かれた本に次ぎのように書かれてあります。    「兵隊が完全武装で強行軍をする。たいてい六里(23.6キロ)でぶったおれる。しかし、撲って叱咤すると立ってあと二里(7.9キロ)歩く。が、もう動けない。ところがそこへ敵が現れた。彼らは起き上がって一里(3.9キロ)逃げる」。    このことを通して作者がいいたかったことは、どんな人間でも自己の限界までは出し切っていないものなのだ。ギリギリのつもりでも、実は四割程度の余力を残していることが多いということでしょうか。    私たちは、「ベスト」をつくしたと思うことが多いものです。「ベスト」をつくしたのだからしかたがない、とあきらめてしまいます。しかし、実際は余力をもっているからこそその言葉がでてくるのでしょう。    神様は私たちに、底知れない力を与えておられます。もうだめだと言う言葉を必要としない位の力を与えておられるのです。その力を信じることができるでしょうか。信じる者にはもっともっとその力を与えてくれるのではと思うのです。    最近「ああ疲れた」「もうだめだ」と思うことが多くなりました。そのようなとき上記の文を読み心を引き締めました。

「受け入れてもらえなければ」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「受け入れてもらえなければ」  マタイ  10 : 42  わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。 被災地で活動している多くの人々に出会います。「やっている」「やってあげている」という感じを受けることもあります。被災地に雨が降り活動が中止になると「せっかくここまできてやっているのに」と声を荒げてクレームを言ってくるボランティアもいます。なぜ雨の日は中止せざるをえないのかをちょっと考えてみるとわかるのですが。お金と時間をかけて東北へきているということもわかりますが。ただ、そのとき「受け入れて下さる方がいなければ」を考えてほしいなと思います。私たちは被災地の方々に受け入れてもらえなければ活動はできないのです。  イエス様は弟子たちを宣教へ送り出すにあたり、多くの言葉を語られました。その最後に「受け入れる人の報い」を教えられました。弟子たちは宣教活動の中で、喜んで迎えられるばかりではない。むしろ迫害をうけることが多いかもしれない。しかし、必ず受け入れる人がいる。その人々は神様の報いを受けるといわれました。それが冷たい水1杯であったとしても。  いつも大江教会で出会う海外からのゲスト、先週のサムも含め、いつも同じ言葉で感謝されます。それは「日本という国のお客さんへの接待は素晴らしい。とくに大江教会のおもてなしは最高だった」というものです。お世辞もあるかもしれませんが、それでもなお。「親切だ、親切だ」と感謝されました。この言葉がなによりの慰めでした。その言葉の背景には「受け入れてくださって感謝」という言葉を聞くからです。イエス様は「旅人をもてなしなさい」といわれました。もてなすということは、受け入れることだと思います。そして受け入れることは、イエス様を受け入れることでもあると言えます。神様が様々な出会いを用意してくださっています。  イエス様は「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われています。そこまでの関係を持つことができれば、互いに祝福をうけるということです。「してあげる」「してもらう」だけでなく、互いに復興へむかうことが「となりびと」の役割だと思います。

きままな休日・またまた赤牛の丸焼き

イメージ
阿蘇YMCAキャンプ場で赤牛の丸焼き! 8キロありました。塩コショウ、ニンニクで シンプルな味付けです。いや~食べて元気がでた~

礼拝堂がかわる

イメージ
現在礼拝堂十字架にタペストリーをかける プロジェクトを進めています。 お楽しみに!

明日は礼拝です

イメージ
説教者:中村朝美牧師(宮崎教会) ぜひお越しください。

「伝道マニュアル必要論」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「伝道マニュアル必要論」    教会の伝道についても「マニュアル必要論」が多くなってきました。いまや、なんでもマニュアルの時代になりつつあります。あるハンバーガーショップなどは、世界の人に同じ味とサービスをということで、なんと1万ページにおよぶマニュアルと90本のビデオがあるそうです。本当にそれだけ必要なのでしょうか。もし必要であってもなにかそこには寒いものを感じます。    一方、東京ディズニーランドの掃除マニュアルには次のようにかいてあります。「ハイハイできる赤ちゃんが、ハイハイしても汚れないこと」。たったこれだけです。なんと単純なことでしょうか。しかし、本当はこれだけでよいと思うのです。あとは自分が考えることが大切だといえます。    さて、教会の「伝道マニュアル」は何と書きましょうか。きわめて単純なことでよいと思います。《礼拝を守る》です。この世界において礼拝を守れるということは奇跡です。その奇跡に気が付いていないのが私たちなのです。毎週たった1時間を厳守できないのです。リズムをつくることができない。《礼拝を守る》というたったひとつのことが、すべての信仰を表していくのだと言えます。    私たちの生活は何が中心なのか。どこに中心をおいているのか。誰が支えてくださっているのか。そのことを問い直してみると、伝道マニュアル「礼拝を守る」これだけでいいように思えますが。どうでしょうね。

「となりびとに寄り添う」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「となりびとに寄り添う」 ルカ  10:36  あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。 東日本大震災救援活動の時、キリスト教文書センターから毎月出版される「本のひろば」に依頼され、エッセイを執筆しました。表紙をめくるとすぐある「出会い・本・人」のところです。まさか自分がこの欄にエッセイを書くことになるとは思いませんでした。とても光栄に思います。今回は東日本大震災救援活動で感じたこと、出会ったみ言葉について書きました。その冒頭にも書きましたが、M・ルターが書いた「キリスト者の自由」の中の 1 節が、今回のルーテル教会救援の根底にあると考えています。それは「となりびとに対して、私も一人の小さなキリストになる」という言葉です。そのことを具体化することが「被災者に寄り添う」ということだと書きました。多くの方からメールや電話で感想をいただき、反響の大きさに驚きました。その時「寄り添う」とは新しい視点でした。  イエス様の有名なたとえ話に「善いサマリア人」の話があります。強盗に襲われ、瀕死の状態にあるユダヤ人を、祭司・レビ人(ユダヤ人)は助けなかった。しかし、ユダヤ人と敵対していたサマリア人は「その人を見て憐れに思い」最後まで世話をしたという話です。このたとえ話は、イエス様が「隣人を愛しなさい」と教えられたことに対する、律法学者からの「隣人とは誰ですか」という質問に答えられたものです。  今回のルーテル教会救援は「できたしこ」です。いま 1 ケ月たってこの言葉の意味を考えています。「できるだけ」という意味ですが、出来るだけはその人によってかなり違います。救援活動をしていると「できるだけ」は必死になって頑張ってやり続けるということになりかねないかなと思います。すべての活動が終わって「できたしこ」という名前がつけられればいいです。それには終わり、けじめをつけて活動することなのかなと思います。しかしイエスさまには「できたしこ」はないかなとも思います。とことん仕えて行かれるのですから。だとするとどこかで私たちにはできませんと告白する時も必要だと思います。  イエス様は話の最後に「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と律法学者に質問されています。「

「困難の中で」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「困難の中で」    「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。    「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。    私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。    クリスマスの出来事は、実は非常に困難な出来事の上にあります。結婚してないのに身ごもったマリア、大きいおなかを抱えて旅をする二人。泊まる宿屋がない。馬小屋で出産。このような次から次へと起こってくる困難の中で、マリアとヨセフはただ信じたのです。何を信じたのか。それはただひとつ「神様の御言葉」です。前向きに生きるために《御言葉》は命です。  

「ふさわしく」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ふさわしく」 1ペトロ 4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。  東日本大震災が起こり、現地教会の牧師は何を語ったかという特集記事を読みました。教会の季節は受難節であり、すぐに復活祭を迎えました。「何を語るか」を根底から問われたと言います。ある牧師は震災後すぐの礼拝では「安息日」について「まず休みましょう」と語ったといいます。また「被災地をもとの姿にもどしましょう」という呼びかけに対して、「もとどおりって何か、もとにもどってはいけない」と語ったそうです。三陸海岸地方は人口も減りさみしい町になっていたからだそうです。もとにではなく、希望に満ちた街を新しく創造しようという対話を教会員の方々としているといいます。しかし「もとにもどそう」という心のなかにある深い思いを牧師が聞いているかを問われているというのです。 ペトロは手紙の最後に、神様の御心に従うために教会はどうあるべきかを教えています。まずは祈りが大切であるといいます。外からの迫害に屈しない心の平静さを保つべきだというのです。また、教会の信徒に与えられている賜物を生かすことを求めています。その中で、神様のみ言葉を語る者は「ふさわしく語りなさい」と教えています。この「ふさわしく」ということは一体何かを考えさせられます。  被災地の教会として毎週の教会で何を語るかを考えます。何を語るにしてもイエス様のみ言葉以外のことは語りません。イエスの言葉はいまこの被災地で何が語られ、聞かれているのか。どうしても出来事からしか語れません。イエス様のみ言葉を出来事に合わせようとしています。しかしそうではなく、イエス様のみ言葉そのものを語ることによって、福音を明らかにしたいのです。現場の苦悩に身を置く。それは十字架そのものです。人間の言葉はいらない。むしろ十字架の見えないみ言葉に寄り添うだけでいいのかもしれません。  ペトロは「 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい」と教えています。神様の言葉をふさわしく語るということは、神様の御心を知って語るということです。牧師はいつの時でも、どんな場所でも説教者として立たされています。その賜物が生かされ、福音が宣べ伝えられるように願います。ふさわしく語ることの意味をもう一度考えさ

きままな休日・ポテトグラタン

イメージ
北海道ジャガイモでつくったグラタン? いや、ポテトラザニア? いやミートソース焼き? いずれにしてもおいしかった!

麦の芽ホーム訪問のあと

イメージ
麦の芽ホームへ訪問のあとは ソフトクリーム!美味しかったです。

明日は礼拝です

イメージ

「どこに焦点を」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「どこに焦点を」    説教集「神様の色鉛筆」がやっと出版にこぎつけました。ひとつの本を出版すると、さまざまな反応が返ってきます。その反応が、ときには大変な気づきとなることがあります。    さて、今回の説教集への反応は二通りあります。その一つは、「若い感覚の説教集ですね」「わかりやすい説教です」「簡単な言葉で神様の福音が語られているような気がします」といったもの。これはルーテル教会内の方々からの反応です。    一方、もう一つの反応は、「前回のクレヨンからはちょっと難しくなりましたね」「私たちにはついていくのがやっとです」「考えさせられる内容でした」「少しミッションの学校でのことを思い出しました」といったものです。この反応は教会外の方々、結婚式で教会に来てくださった方々の反応です。    この二つの反応から、牧師が語る内容は、とても難しく受け止められているのだと思いました。教会内の方々は聞き慣れた内容だけに、それが変わった視点で語られることに好意的だといえます。しかし、教会外の方々にとっては、もっと分かりやすい内容、言葉にしなければ福音は届いていかないのだと気がつかされました。言葉(キリスト)を伝えることは、大変な作業です。どこに焦点を合わせるのか、そのことがこれからの課題です。

「大切であるとわかる」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「大切であるとわかる」 ルカ  15:6  人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。 東日本大震災救援活動の時、関西にある保育所の園長さん2名をつれて、石巻市北上にある相川保育園を訪問してきました。阪神・淡路大震災を経験された園と、東日本大震災で被災された相川保育園をつなぐ役割を果たしました。子どもたちの命、防災、心のケアについて熱心に語られていました。相川保育園の玄関には7段ひな人形が飾られていました。趣のあるしっかりとしたものです。相川保育園の被災のことを新聞で知った関西の老夫婦が、長年大切にしてこられたひな人形を寄贈してくださったのです。ひな人形から感じられる雰囲気でしょうか、これまで大切にされてきた様子を感じました。子どもたちもしっかり眺めて大切にしているそうです。きっと人形から、大切にされてきたことを感じ取っているのでしょうと、園長先生が語られていました。 イエス様はルカによる福音書で「見失った」たとえを3つ語られました。「見失った羊」「見失った銀貨」「見失った息子(放蕩息子)」の話です。これらの話に共通することは、失われたものが発見されたときの喜びの大きさです。その喜びの大きさによって、それがいかに大切なものであるかを知るというのです。失くしたものの大切さは、再び得たときにわかるものです。 熊本地震支援活動も、新しい段階にはいりつつあります。益城などはまだ緊急支援です。しかし、宮地、一の宮の阿蘇は落ち着いて今後は自立支援に変わっていきます。この自立支援へ移行するのが一番大変です。ここでうまくいかなければ、これまでも、今後もかなり生活支援が難しくなると東北で学びました。その中で被災地の子どもたちのために、阿蘇 YMCA 尾ヶ石保育園では森のブックカフェができています。自然災害でうけた心の傷は、自然が癒す。思いっきり自然とあそんで、森のブックカフェでひとやすみ。一人の魂を大切にするブックカフェです。 イエス様は、見失った羊を見つけた羊飼いは人々を集めて「 見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うと教えられました。羊飼いにとって1匹の羊は、大切なかけがえのない存在です。それがわかるように羊飼いは人々に示すと言われ

「それぞれの信仰」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「それぞれの信仰」    娘が3人与えられていますが、それぞれの性格の違いに驚いています。その中で(まあ、3番目はまだわかりませんが)、かなり積極的なのは、次女です。誰に似たのでしょうか。    実は次女には「ゆうすけ」くんという、好きな男の子がいるのです。その子へのアタックは親も驚くほどなのです。まず、ゆうすけくんに「誰が好きか」と聞いたそうです。彼は「まなちゃんといっちゃん」と答えました。すると次女は、遊んでいたいっちゃんを連れてきて、「どっちが好きか」と聞いたらしいのです。彼は優しいので、「両方」と答えました。納得しないのは愛美です。「それじゃどっちと結婚するか」と詰め寄りました。彼も「両方」とは言えなかったのでしょう。「○○ちゃんとする」と答えてくれたのです。次女は得意になって報告してくれました。「わたしゆうすけくんと結婚することに決めた」。    この押しの強さを少しわけてもらいたいほどです。たぶん次女の信仰もこのようなものではないでしょうか。「ストレート信仰」だと思います。一方長女は違います。これは「てれやの信仰」でしょう。良く言えば「おしとやかな信仰」でしょうか。彼女の信仰は「イエスさまおまもりください」によく現れているといえます。    どんな信仰でも、受け継いでくれたらそれだけでアーメンです。

「はじまりの視点」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「はじまりの視点」 1ヨハネ   4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。 海外で出版されたビジネス書の翻訳本を読んでいます。面白い内容ですが、どこかできいたようなフレーズがたくさんでてきます。「人にしてもらいたいことをする」「大勢よりも一人を大切に」「種が全体を膨らませる」「内から出るものに気をつけよ」。そこには聖書の言葉がたくさんでてきます。表現自体は変わっているのですが、翻訳の問題なのでしょう。しかし、あえてビジネス本の中でよむと新鮮に感じました。結局基本は神様のみ言葉にあるということです。み言葉を生活の中で聞いているか、それをどう生きているかを問われています。どの視点から聖書を読むかで全く違うのだとおもいます。ただ、始まりの視点がどこか、神様か人か金かでまったく違うものです。私たちはすべてのことを「神様」から始めねばなりません。  ヨハネは「霊」に関して、それが神様からでた霊かどうか確かめなさいといいます。ヨハネにとって「霊」の問題は、イエス・キリストとの関わりの中で考えられるべきであるというのです。その見分けかたは、イエス・キリストが肉をとってこられたと告白する霊か、そうでないかによるといいます。根本にあるのは信仰告白であり、中心はイエス・キリストであるということです。そのことはイエス様のみ言葉によって公にされていることを確かめることです。  教会では臨床宗教師と行政の話し合いが持たれました。現在被災地にカルトが入ってきているとのことでした。キリスト教や仏教の顔をしながら、支援品やお金をばらまいているようです。人の痛み苦しみにつけ込んで、最終的には人を惑わす道に引きずり込もうとしているのかもしれません。私たち臨床宗教師は公共性をもちながら活動しています。公共性と言う中には「惑わす」と言うこといっさいありません。宣教を目的としない宗教者とは考えられませんが、それこそが公共性であり惑わさない寄り添いだと言えます。  ヨハネは「 真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」といいます。それは神様を知ることによると言