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1月, 2019の投稿を表示しています

「お父さんが変わって」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「お父さんが変わって」    子育ては本当に難しいと思います。親の気分で叱ったり、兄弟喧嘩の仲裁をどうするか。神様に「子育ての方法を教えてください」と祈る毎日です。    先週、華美が愛美をいまにも叩こうとしていました。わけを聞いてみると、愛美が自分では知らないうちに華美の足を踏んだとのこと。どうしたらいいのか。華美はわざとやったと怒っている。愛美は叩かれるのが恐くて泣きそうになっている。いままでなら、華美を怒っていることでしょう。しかし、瞬間に神様に祈ってみました。「神様、どうしたらよいでしょうか」と。すると瞬間に言葉がでてきました。なんと華美に「お父さんの足を踏みなさい。お父さんが変わって足を踏まれてあげるよ」とニコッと笑って相言いました。すると華美は弱い力で踏んでくれました。    神様が教えてくださったことは、どんなことだったのでしょうか。それは十字架の意味かなと思いました。「神様、どうぞこの人の罪に変わって私の手の釘をもっと深くお打ち下さい」とのキリストの声が聞こえてきたような気がしました。    私たちは意識しないで、神様に対して罪をおかしています。そのたびにキリストは身代わりとなって、私たちを守ってくださっているのです。このキリストのために働きたい。

「主の御旨のみが」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「主の御旨のみが」 箴言  19:21  人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。 夏の予定でパニックになったことがあります。なんでも OK,OK と引き受けてしまい、後で予定をみてでビックリ。なんとその年の8月は、教会にいる時間は5日しかなかったのです。たとえば、「ミッション系高校の修養会」の講師。それが終わって「インドネシアのバタック教会宣教九十年大会」でインドネシアへ。「名古屋地区伝道修養会」の講師として招かれ。それだけならまだしも、 AVACO 紙芝居の脚本の執筆、児童説教集「おはなしがいっぱい」の執筆、全国聖書日課執筆と締切がすべて8月でした。計画性のなさからこうなったのかと反省しました。 箴言 19 章も知恵の薦めが続きます。格言集ですから様々な角度からの教えが示されています。この章の冒頭では「唇の曲がった愚か者」という言葉があります。これは語る言葉が曲がっているということで、言葉の中に嘘があるということです。つまり言葉の中に嘘があるのは、誠実でないということです。神様に対して、隣人に対して誠実さをもって、人は生きて行くべきだと言うのです。 ある時「計画は計画であって、その通り実行されるかは別の問題」と言われました。それを聞いたときは「それじゃ計画しても意味がない」と思いました。またある人からは「無計画という計画もある」と聞いたことがあります。それは不誠実だろうと感じました。完璧な計画を作った所で、それが実現するかどうかは誰にもわからないということは理解できます。すべての計画が狂うときや、うまくいかない時があります。そんな時に教えられることは「いまは神様のなさることをみていよう」ということです。 箴言は「人の心には多くの計らいがある」といいます。誰でも多くの計画をもっています。それは人生計画であったり、家族の生き方計画であったり。また金銭の計画、旅行の計画などもあります。もちろん教会も計画をもっています。そこで箴言があえて教えているのは「主の御旨のみが実現する」ということです。自分勝手な計画をいくら立てても実現はしません。それが主の御旨にかなっているかどうかです。どうすれば主の御旨がわかるか。祈りつつ神様のなさることを見ているしかないかもしれません。しかし

「扉はいつも開かれて」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「扉はいつも開かれて」    礼拝堂にはいつも不思議なものが落ちています。落ちているというのは失礼なのですが、いろいろなものがそこで生命を終わらせているのです。    ある時はトンボが聖卓の上で死んでいました。なんと幸せなトンボだろうと思いましたが、フラフラと入ってきて出るに出られず、そこで命を閉じたのかも知れません。その他、蝿、カトンボ、クモ、ダンゴムシ、カミキリムシ、そして昨日はテントウムシがそこにありました。    この昆虫たちは、いったいどこからやってくるのでしょうか。たぶん礼拝堂の窓や、扉でしょう。するとそこが開かれていることになります。    教会はいつでも開かれている。それは昆虫たちのためだけでなく、多くの人たちのために開かれているのです。最近では教会で教室が行われているときは、礼拝堂の扉を開け「十字架」に光をあてています。たったそれだけのことからでも、主は人々に語りかけてくださるのです。    私たち一人一人もまた、開かれたキリスト者となりたい。

「口答え」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「口答え」 箴言  18:13  聞き従う前に口答えをする者、無知と恥は彼のため。 久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想しました。さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。 箴言 18 章は、神様から離反する者に対する忠告からはじまります。神様から離反するとは、自己中心的で周囲から離れて行く者のことです。自己中心的な者、利己的な者が人々の間に争いをもたらすと教えます。集団生活において、自己中心、利己的ということは、神様から離反を意味しています。そこから「口答え」ということが述べられているのです。 ネットで「口答え」を検索していたら次のような記事がありました。「不適切なクレーム対応にお客様がキレた」というものです。それは「野菜が生だ」とクレームを言う客に「いつもこうです」と返答したら、「この店の教育はなってない」と店長を呼びつけて強く叱ったと言う話です。この場合、賢い選択は「指摘のあった料理を作りなおす」ということで、「野菜が生だと」と言っている客は「もっと火を通したものが食べたい」と思っているのだと考える。そしてそれを提供する。ところが、この記事にネットで火がついて「ごね得ニッポン」「過剰サービスに慣れ過ぎ。その負担は自分らバイトにまわってくる」など釈然としない書き込みが多く寄せられたというのです。そちらも一理あるなと思ってしまいました。 箴言は「聞き従う前に口答えをする者」と言っています。まずはその人が何をいっているのか「聞くこと」が大切だと教えています。そして「従う」ということ。この「従う

牧のうどん

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ふふふ!博多駅で牧のうどん!おやつに最高!新幹線予約時間までに、1時間もあったので。いくしかないでしょ!柔らかい麺と丸天が素晴らしいのです。満足!帰って鹿児島教会の総会資料を完成させます。これで3つ終わる。

鹿児島教会集会室解体・再生

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鹿児島教会の集会所解体ここまできました。天井の崩落が住んでいるときになくて良かったです。こんな状況だったとは。さてさて、次の段階も計画は進んでいます。今年の鹿児島教会は主の恵みを告げる年となるでしょう。礼拝で祈りました!

明日は礼拝です

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説教者:中村朝美牧師(宮崎教会) ぜひどうぞ

「神様の返事」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「神様の返事」    秋のまっただ中になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。     秋の空やわらなそうな雲の城    青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。最近じっと空を眺めたことがありますか。一度ゆっくり眺めてください。     かあさんいない落葉がとんでいくばかり    この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。    私たちは返事のない辛さはよく知っています。しかし、自分の忙しさの中で返事をしないことがたくさんあるのです。ああここで言葉がほしい、「そうね」という一言だけでもいいのだけれど。それが帰ってこない辛さはいつまでも心に残るのです。    神様はどうでしょうか。私たちの問いかけに必ず返事をしてくださいます。返事なないと思っているのは、返事を聞こうとしないからです。    静かな秋です。神様の返事「聖書」を開いてみましょう。

「水の一滴から」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「水の一滴から」 箴言  17:14  いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。 花 八木重吉  花はなぜうつくしいか  ひとすじの気持で咲いているからだ 牧師館の横にある日々草が太陽にむかって咲いている姿をみて、「ひとすじ」の気持が伝わってきました。予定も先が見え、秋へとすすんでまいります。秋にはどんな花が、「ひとすじ」の気持で咲いてくれるか楽しみです。またそのような花をこの世に造ってくださった神様に感謝する時にしたいと思います。 神様が造られたものは、「ひとすじ」の時が美しいのです。ささやかな感謝から今日もスタートしたいと思います。 箴言の記述法には「比較の詞」が多くあります。2つを並べて比較させ、どちらを選ぶのかを提示しているようです。この「選び」とうのは、聖書のテーマでもあります。新約聖書の中にイエス様の有名な言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ 15 : 16 )。選びとは神様の出来事でもあります。箴言では、神様の御心に従ってどちらを選ぶのかを問われているようです。 小学生の頃「川の源流を探る旅」に参加したことがあります。朝5時に河口である海に集まり、車や徒歩で川を遡っていくのです。大きかった川が少しずつ小さくなり、小川になっていくがとても不思議でした。最終的には山の奥にある、水が岩から滴り落ちるところまでいきました。その時に、先生が河口の写真をみせて「大きな川もこの一滴にはじまる」ということを教えてくださいました。いまでも鮮明に覚えている出来事の一つです。 箴言は「いさかいの始めは水の漏り始め」と教えています。この漏り始めも一滴からです。わずかなことが大きな事へと発展していきます。どとすると、始めの水漏りの一滴に心をくばることを教えているのです。先人たちの知恵というのは、歴史をとおして長く伝えられていくものだと思います。

「手巻きの置き時計」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「手巻きの置き時計」    香港の友人が、中国製の置き時計をプレゼントしてくれました。とってもシンプルで気に入ってます。ところが一つだけ困ったことがあります。それはよく止まってしまう時計だからです。なぜならその時計は二日おきにネジをまく仕組みの時計だったのです。電池入りの時計になれている私にとっては驚きでした。    さて、初めは「なんて不便な時計だろう」と思っていました。しかし、よく考えると「ただネジをまくだけなのに、それさえも面倒と思うようになったのか」と反省させられました。    世の中はとての便利になりました。時計も電池を入れるだけで一年も二年も動くのです。しかも一分とかわらない正確さで動いています。そのような生活はとても快適です。しかし、電池や電気がなくなれば使用できない生活となるのです。    手巻きの時計を眺めながら、毎日毎日、愛情を注いでネジをまくことの意義を教えられたようです。「今日も一日よろしく」と時計に声をかけてみると、一日の大切さを教えられるのです。    聖書を読むことも、毎日心にネジをまくことと同じです。やっぱり、聖書というネジをまいていなければ、信仰も停止してしまうのでしょうね。  

「定められています」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「定められています」 ルカ  2:34  シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。  イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。  動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。  イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオン

「譲り合うおいしさ」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「譲り合うおいしさ」    こんな話を読みました。    日本のテレビで韓国の方が、カップラーメンのコマーシャルをみた。それは一つのカップラーメンを兄弟で奪い合っているものです。「これは僕のだ」「いや僕のだ」と。そして「それほどおいしいカップラーメン」という文字が映し出されるというものです。    私たちはこの映像を何気なく見ています。そして、それほどおいしいのかと思います。ところがこれを見た韓国の方は、「なんとまずいカップラーメンだ」と言ったそうです。また、こんなコマーシャルだったら誰も買わないというのです。    それでは韓国ではどんなコマーシャルになるのかといえば、まず兄弟が譲り合いをしている映像が写ります。「弟よ食べなさい」「いいえお兄さんが食べて下さい」と。そして、それほどおいしいカップラーメンとなるのだそうです。    私たちは、奪い合って食べるほどおいしいと考えます。しかし、奪い合って自分のものにして食べても、後味は悪いのです。むしろ譲り合って一緒に食べた方が、たとえ少量でも格段においしいのではないでしょうか。    主イエスは「互いに愛し合いなさい」と言われています。それは人生を楽しく生きる基本となることです。

「慇懃無礼と応答」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「慇懃無礼と応答」 箴言  15:1  柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。 「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。 大企業 などが クレーマー に対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間では プライド が高く尊大で 自意識過剰 な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度 ? が見られる場合があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。 箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。 私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なのだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。

「一番古い記憶」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「一番古い記憶」    教会員のお宅に赤ちゃんが与えられました。母子ともに健康で、一週間で産院を退院されるという速さに驚いてしまいました。神様の祝福が赤ちゃんを迎えられた家に豊かにありますように祈ります。また、この赤ちゃんは、教会にとっても神様から与えられた宝です。ともに礼拝で祝福を受けるのを楽しみにしています。わが家の娘たちも、赤ちゃんを見て不思議そうにしていました。    さて、自分が赤ちゃんだった頃を、どれくらい覚えているでしょうか。私などの記憶の一番古いものは、二歳の頃の阿蘇の風景です。なぜか横断歩道と、その向こうに見える阿蘇外輪山のその風景をはっきり覚えています。なぜはっきり覚えているか、それはたぶん人生で初めて横断歩道を一人で渡ったからではないでしょうか。なにか満足感とともに思い出されるのです。しかもその横断歩道の後ろには阿蘇山がある。たぶんどっしりとした安心感ではないかと思います。    私たちはどこかで安心感と出会ってます。それは神様と出会った時だと言えます。あなたのことを包み込んでおられ、主イエスに気づいたときではないでしょうか。信仰の記憶をたどっていけば、かならず救われた喜びに到達します。その記憶をもう一度、呼び戻したいものです。

「どのフレームで見るか」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「どのフレームで見るか」 箴言 14:4  牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。 うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ      良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。うらも、おもても、神様にとってみれば一人の愛すべき子供です。だからこそありのままで救われるのです。 箴言 14 章 4 節には農耕に関した格言がでてきます。旧約聖書では王国時代の初期の頃に、牛による農作業がその生産力をあげています。今日の格言は、そのような時代の中で作られています。自分たちの生活の中で、どこに自分の視点をおくかということです。どちらに視点をおいても根本の出来事はかわらないが、視点をかえることで受け取り方は正反対になってしまいます。 心理療法の中に「リフレーミング」というものがあります。枠組みをかえてみるということです。その中に海外に住む一人の婦人の話がありました。彼女は神経質で綺麗好きのため、部屋が汚れるのを極端に嫌っていました。とくに部屋のカーペットが汚れるのが、彼女にとって大変な苦痛でした。またそのことで彼女は精神を病む結果にもつながりました。ある時、医者から「リフレーミング」の話をききます。それはカーペットが汚れるのではなく、人がそれだけ多く歩いているから汚れると見方を変えることでした。人がそこに住んで交わりがあるということへと見方を変えさせられたのです。それは彼女にとって素晴らしい発見となり、その後元気を回復していったというのです。 箴言は「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」と教え

気ままな休日・ホテルの新年会席料理

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  ホテルである例会の新年会がありました。 料理はすべてお魚!肉はない! それもいいですね!

ただいま解体工事中!

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現在集会室一部を解体中です。 ご迷惑をおかけします。 礼拝堂前の木も伐採予定です。

明日は礼拝です!

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礼拝説教:立野泰博牧師 小児祝福式もあります。

「窓の内側」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「窓の内側」    金曜日に二年ぶりで、礼拝堂の窓ガラスを清掃しました。毎日そこで祈っているので、汚れているのは知っていました。ところが「今度やろう、今度やろう」と思っているうちに二年が過ぎ去っていきました。なぜ自分は二年もやらなかったのだろうと考えてみました。    「いつでもできる」「誰かがやってくれる」「もうすこしいいか」という思いがあったのです。もし誰かに「汚れている」と、指摘されていたらどうだったでしょうか。「なぜわたしがしなければならないのか」と反発したでしょう。教会を整えることがいかに大切かをわかったのです。    ところが、礼拝堂の窓を拭いても拭いても奇麗になりません。ホースで水をかけても、ブラシでこすっても奇麗にならないのです。なぜなら、本当に汚れていたのは「窓の内側」だったからです。二年分の礼拝堂内側のホコリは大変なものです。    私たちの信仰生活はどうでしょうか。外からは奇麗にみえても、内側にホコリがあるためにかすんでいないでしょうか。主イエスは「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました。    内側にある信仰をさえぎるホコリは、祈りによらなければ取り払うことはできません。もういちどはっきり見えるように祈りましょう。そういう願いをこめて窓ガラスの内側を磨いていたのです。

「誰と共に歩くの」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「誰と共に歩くの」 箴言  13:20  知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。 エクササイズ本の中でメトカーフという人が、「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と書いています。彼は、「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切なのでしょう。 箴言の 13 章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。 女子パウロ会の本に『動物の祈り』というものがあります。そのなかに「カメの祈り」もあります。「神様。どうかちょっとお待ちを。今まいります。私のお荷物は背負っていかねばなりません。別に好きこのんで背負ってるわけではないのですが・。いいえ、背中にのったこの家に不満なわけではありません。けっこう役に立つのですから。けれども主よ。おわかりくださるでしょうが年中運んで歩くとなるとなかなか重いものなのです。私に与えてくださったこの二重の束縛、甲羅と心の二重のかせゆえにあなたに対して心をとざすことがないようにいつも祈りつづけさせてください。ア-メン」私たちはこれが自分の祈りだというものを持っています。それは自分の弱さかもしれません。しかしそれを聞いてくださる神様も同時に持っているのです。 箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。イエス様が共に歩んで下さるということを考えて

「もっと弱くなれ」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「もっと弱くなれ」    一度は読んでみたいと思っていた作家の一人に、吉川英治がいます。父の書斎に彼の本を見つけたのは小学生の頃でした。しかし、なかなか読む機会にぶつかりませんでした。    ところが最近になって、書店で彼の文庫を見たときに思わず買ってしまったのです。いろいろと伏線はあったのですが、いま夢中になって読んでいます。吉川英治著「宮本武蔵」全8巻。なぜ「宮本武蔵」なのかわかりませんが、この小説は面白いだけでなく、精神面での深い洞察が心を打つのです。    「お前は強すぎる。もっと弱くなれ」と、宝蔵院の日観和尚に言われて悩む武蔵。「もっと弱くなれ」のなかに、主イエスの十字架が偲ばれてなりません。    私もまだまだ駆け出し牧師。キリスト教の強さばかりを考えてきました。しかし、信仰とは強いことなのでしょうか。勝って勝って勝ちまくることなのでしょうか。「もっと弱くなりなさい」との主イエスの言葉が聞こえてくるのはなぜでしょうか。たぶん、「弱くなってあなたのすべてを私にまかせなさい」と十字架の主は言われているのでしょう。

「木の根元に置かれた斧」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「 木の根元に置かれた斧」 マタイ  3 : 10  斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 新興宗教の特徴は「この世の終わりがすぐ来る」と叫ぶことです。終末思想からくるのでしょう。この世の終わりが来るということで恐怖心を与え、それから逃れるには自分たちの教団を信じるしかないというのです。これまでも多くの新興宗教ができました。しかし、大抵は詐欺のような宗教が多く、お金をだまし取られたという被害があります。洗脳というものもあります。恐怖をあおるときに「この世の終わり」を叫ぶことに騙されてはいけません。なぜならそれは神様が決められることで、人間にはわからないことだからです。 マタイによる福音書は、イエス様の宣教開始の前に洗礼者ヨハネの活動を記します。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川の下流地域で独特な宣教活動をしていました。その活動は、彼の死後もヨハネ教団として独特な宗教性を持ってのこりました。洗礼者ヨハネの宣教の特徴は、「終末観」です。まさにすぐそこにこの世の終わりが来ているというかなり緊迫感をもったものでした。すでに斧が木の根元に置かれている。悔改めなければほろびるということでした。私たちキリスト者も、この緊迫感を人生の中に持っているかを問われています。神様の裁きはすぐそこにまできている。その裁きにたえられるような良い実をむすんでいるかということです。また洗礼者ヨハネは、自分の後に来る救い主についても語ります。悔改めのあとにくる福音について指示しておるのです。 ある時、パウロ使徒言行の旅を準備していまして、パウロをそこまで宣教へ駆り立てたものは何だったのかと考えていました。イエス様との出会いによって回心したパウロ、しかしそれだけではなかったことでしょう。何回も彼の宣教旅行、回心などを読んでいまして、ふとこれかもしれないと思えることにぶつかりました。それは、聖ステファノの殉教です。パウロ(当時はサウロ)は、ステファノの殺害に賛成しています。しかし、自らは石を投げず、彼を取り囲んで石を投げている者たちの洋服の番をしていたと聖書には書かれています。パウロの原点はここかもしれないと、ピンと思い当たったのです。殺害に賛成しながらも自らはあたかも傍観者の

気ままな休日・2019年初ぐるめ

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2019年1月1日!最初のグルメは「活あなご弁当」でした。 煮あなごではなく、焼あなご!これが香ばしくて本当に美味しい。 何個でも食べられそうです。今年もB級グルメを食べ歩きます。人生の楽しみですから!

今日が初礼拝です。

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説教者:関 満能牧師(水俣教会) どうぞお越しください!

2019年新年礼拝説教

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2019年新年礼拝説教  あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。   「思い悩んだからと言って」 ルカ  12:22  イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。   利休七則に、心にのこる言葉があります。それは「花は野にあるように」です。何回よんでも深い言葉です。野に「あるがまま」ではなく、「あるように」というところに感銘をうけます。これは野に花が咲いている状態がいまここにあり、それを感じさせるように生けることです。つまり野に花がさいていることを再現しなさというのではありません。たった一輪の花でさえも、野に咲いているように表現できるならば「あるように」ができます。ただそのように生けるには、余計な「モノ」を取り除かねばなりません。 イエス様は群衆の一人に「愚かな金持ちのたとえ」を話されたあと、弟子たちに「思い悩むな」と言われました。弟子たちはすべて(所有物)を捨ててイエス様に従っています。その弟子たちは何も持っていなくても、神様がすべて養ってくださると言われるのです。命のこと、食べること、着ることで思い悩まなくても、神様はすべて配慮してくださるから「思い悩むな」と教えられたのです。 「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。 イエス様は「 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。 今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日

「祈りの力を知る」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「祈りの力を知る」    「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。    「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。    祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。    状況は厳しければ厳しいほど、私たちは祈らざるをえません。しかし、祈りは、神様の御心にそってきかれるのだ、という信仰を持っています。  

「心の安定に大切なもの」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「心の安定に大切なもの」 マタイ 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。 正月は近くの神社も賑わっていました。ニュースでは有名な神社も今年は人が多いということです。それだけ社会情勢が不安定なのだと解説していました。それを聞きながら、不安定なときだけでなく、安定しているときから神様と出会っていれば何もあたふたしなくてもいいのにと思います。しかし、それでも神様のことを考える時間が少しでも与えられていることは恵みです。物や人に中心をおいても人の心は安定しません。いつどうなってしまうかわからないからです。神様を中心においた時だけ、人の心は安定するのです。 イエス様の指摘は私たちの心に鋭いものがあります。人から認めてもらう、称賛をえることをあてにした行いは、それが善いことであっても所詮は地上に富を積み上げることにしかならないのです。なぜなら、そこに自分の心、自分の関心、自分のこだわりがあるからです。イエス様は、「本当の富とは、天に積むものだ」と言われます。心がそこにある本当の富、その富の価値とはいったい何かが問われます。私たちは何に価値をおいているのかということです。 「小さな幸せに気づく24の物語」中山和義著に書かれてあった話です。ある知的障がい児童施設での出来事です。社会にでても通用するようにお金の価値の勉強をしていました。 1 円から 500 円までの硬貨を順番にならべ、お金の価値を学ぶというものでした。一人の女の子に先生が「一番大切なお金はどれですか」と聞きました。すると笑いながら 10 円を指しました。先生は何回も「 500 円が一番大切よ」と教えましたが、女の子はいつも 10 円を指すのです。先生は困り果て「どうして 10 円が大事なの」と聞きました。すると女の子は「だって、この 10 円をあの公衆電話に入れたら、大好きなお父さんの声をきけるから」と答えました。この女の子にとって本当に価値があるのは、お金の額ではなくお父さんの声をきくことだったのです。 イエス様は「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。自分は何に価値を見出しているか、それは天にあるものかどうかを点検してみなければなりません。今年与えられている働きの中で、天に富を積

あけましておめでとうございます。

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