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2月, 2019の投稿を表示しています

「有能な妻」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「有能な妻」 箴言  31:12  彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。 箴言の最終章は「有能な妻」についての格言で締めくくられています。人生における最大の幸福は、よき伴侶を見つけることだというのです。ここに登場する「有能な妻」は、料理や洗濯などの家事がよくできるというのではありません。彼女の働きは家の中の経済活動の中心です。生活全般の要の役割を担っています。そこでは、彼女がどのように生きているかが問われ、神様と共に生きる事が「有能」であると言います。 M.ルターの奥さんは、カテリーナ・フォン・ボラという人です。彼女は良妻とも悪妻ともいわれます。人々の記憶に残る働きをし、影響を与えた人だったのでしょう。だから、いろいろな伝説がのこり、人々が言い伝えてきたのだと思います。性格的には激しい人だったので悪妻などと揶揄されたのでしょう。しかし、最近発掘されたルターの家の地下台所からは、その生活ぶりや多くの人々の世話をしたカテリーナの働きの大きさがわかってきました。 私が感銘をうけた逸話は、ルターが宗教改革の動きに行き詰って塞ぎこんでいいた時、カテリーナが部屋に喪服をきて部屋にやってきます。ルターは「誰か天に召されたのか」と聞きます。すると彼女は「あなたのイエスさま・キリストが死んでいます」と言いました。ルターはハッとさせられ、それから宗教改革をより強く推進していくことになったという話です。カテリーナは、ルターにとってかけがえのない存在でした。 箴言は「彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない」と言います。これは妻だけのことではなく、夫も同じだと思います。お互いが神様を中心として結びあっているならば、そこには幸いがあります。夫婦関係だけでなく、家族でも、職場でも神様を中心として共に生きることの大切さを思います。

「宣教の力を信じる」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「宣教の力を信じる」    神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。    「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。    神様は私たちの信仰によって、底知れぬ「宣教の力」を与えておられます。この教会に遣わされて七年目がやってきました。牧師としてこの六年間「宣教の力」をどれほど信じてきたかを振り返ったとき、信じてなかったことを告白せねばなりません。    この教会にとって今の状態は、あの放蕩息子のように神様の財産を食いつぶしているようなものかもしれません。一人一人の信徒・牧師が神様の十字架の前にひれ伏して、赦しをいただかねばなりません。今年「宣教する教会」は、十字架の前にひれ伏すことから始めます。

「小さな存在の中に知恵」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「小さな存在の中に知恵」 箴言  30:25  蟻の一族は力はないが、夏の間にパンを備える。 六日市集会への道には蛍の道があり、蛍がたくさんいます。ローマ・カトリックの祈りで「蛍の祈り」というものがあります。  「神様。ほんの少しだけ あなたの光りを 遠ざけてくださいませんか?        わたしはこんなに小さい 消し炭みたいなものですから        どうしても 夜がこないことには・・・        闇の中なら わたしの心は勇気をふるって        希望の星をほのかにきらめかせるでしょう。        そして どんな貧しさの中にひそむ この小さなよろこびを        人々の心に伝えることができるでしょう」   ひとつの蛍の光りはちいさいものですが、多くなれば山全体がクリスマスツリ-となります。 箴言 30 章は「アグルの言葉」となっています。しかしこのアグルという人物が何者で、どこまでがアグルの言葉なのかはっきりしません。冒頭には「神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた」とアグルは言います。アグルが神様の知恵を探し求めたが、結局はわからなかったということです。しかし、神様が作られた小さな存在の中に「知恵」を見つけたということでしょうか。 「黒い絨毯」という映画がありました。アマゾンを舞台にした、恋愛映画のような不思議な物語でした。アマゾンで農地を開拓し大金持ちになった主人公が、アマゾンにいる蟻と戦ってすべての財産をなくすというストーリーでした。その蟻の描き方は、1匹から始まって最後には全てを食いつくす集団として出てきます。山中に広がった様子が「黒い絨毯」と呼ばれていました。この蟻は、実存するらしいのですが、まずは1匹の偵察蟻が集落に紛れ込みます。そこに食べ物があれば数日後には何百万・何千万の大群となって押し寄せてきます。そして財産を食いつくされる。映画は、主人公の男性がこの蟻と戦い全てを無くすが、最後に奥さんに言うのです。「あなたに与えるものは愛しか残らなかった」と。 箴言は「蟻」「岩狸」「いなご」「やもり」という小さな存在のなかに「知恵」を見ています。どんなに小さな集

きままな休日・日本三大饅頭だって

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仙台来客がありました。 そして、おみやげに薄皮饅頭をいただきました。 日本三大饅頭の1つとか! うん、朝から美味しい恵みをいただきました。感謝!

素敵になりました

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鹿児島教会の十字架が見えるようになりました。 いかがでしょうか!さらに美しくなります!

明日は礼拝です

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説教:立野泰博牧師 ぜひお越しください!

「結婚式の恵」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「結婚式の恵」    結婚式の献金を「宣教基金」とすることを決めてから、結婚式の申込の多さにビックリしています。「宣教基金」をどのように使用するのか祈りを結集し、神様の御心を聞くことが大切だと身が引き締まります。    とはいっても、結婚式自体が宣教ですから、結婚式が御言葉に立つものとなる祈りも必要です。つまり、どれだけ主イエス・キリストにあって誠実にかかわることができるかです。    神様はそんな私たちに、素晴らしい結婚式を与えてくださっています。二人だけの結婚式がありました。神様の前で約束を真剣に求めている二人でした。そして今回、またまた素晴らしい結婚式を三月に与えてくださったのです。それは二組同時結婚式です。兄妹の二組のカップルが結婚式を同時にされることになりました。    新郎であるお兄さんは、もう何回も教会にこられました。そして、いつも何か言い出そうとして帰られるのでした。そして、やっと言われたことは、「私は十人兄弟の九番目です。一番下は妹がいます。もう結婚して一年になるのですが、事情で式を挙げてません。私たちの結婚式にいっしょにできないでしょうか」でした。感動いたしました。そして神様に感謝しました。しかももっと感動したのは、それを願われたのは新郎さんではなく、新婦さんだったのです。    結婚式は宣教です。そこから私たちも神様の恵みをいただくのです。  

「報告書」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「報告書」    今年も教会総会の季節がやってきました。毎年のことではありますが、資料の作成には頭が痛くなってきます。とくに今年の資料作りは気持ちが乗らないばかりか、どうしてもワープロを叩こうという熱意がわき上がってきません。なぜだろうと考えてみました。たぶん、この報告書はいったい誰のために書かれるのか疑問があるからでしょう。    七年目にしてやっと「あれもやった、これもやった」式の報告の無意味さがわかってきました。「これもできなかった、あれもできなかった」のなら、なぜ報告するのか。できなかったことをまず、神様にざんげするしかないと思えます。    一年の歩みはすべて神様が知っておられます。ならば言い訳などできないのが信仰者です。同じ事を繰り返さないための報告書ならば、同じことを繰り返している私たちは、神様にとってどんな存在なのでしょうか。    宣教するしかない。それは主イエス・キリストが私たちに与えてくださった使命です。ここにある六年分の報告書を見ながら、今年はもっと聖霊の働きに参与させていただきたいと願っています。

「冷静になって」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「冷静になって」 箴言  29:11  愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。 雑誌で会社内でのトラブル相談という特集記事を読みました。多くは上司に対する不満が多く、理不尽に感情的になる上司に対してどう対処するかというものです。多くの回答が「まともに相手にしないことです。まともに相手にしたら、あなたの品格が下がります」というものが多かったです。人間の心理からいえば、感情的に発言された言葉はほとんど聞かれていないという調査があります。何回も感情的になって上司が怒鳴っても聞かれてないのは、言葉が届いてないから。だから同じことを繰り返すだけだと。そう思えば「まともに相手にしないことです」という回答の意味はそこにあります。 箴言 29 章では、教育の限界をのべています。いくら教師から忠告をうけ、懲らしめられても聞き従わない者(頑固者)がいる。現代風にいえば、つっぱる生徒に教師はお手上げの状態になることがあるというのです。そのような時に教師はどうするか?まずは教師から「冷静になれ」と教えています。 風邪の治し方は、昔からいろいろあります。野菜ジュ-スを飲むといいとか、ニンニクをすりりおろして水に溶きうがいをする、卵酒、熱湯に入れたレモンを飲む、足を熱いお湯につける、山芋シップ、梅干しの黒焼き・・・。それほど風邪は治しにくいというか、治し方が見つからない病気かもしれません。風邪は万病のもと、なんとか早く治しておかなければなりません。それでは何が一番よい方法かといえば、それぞれです。ある有名な風邪博士のお医者さんたちに、「あなたが風邪をひいたらどうしますか?」と質問しました。全員が同じ答えだったそうです。「安静にして寝る」。人間には自分で治す力が備えられています。そのように神様が守っていてくださるのです。風邪をひいたときは、神様が「安静にしてなさい」といメッセ-ジを送られているのです。 箴言は「愚か者は自分の感情をさらけ出す」とあります。感情をさらけ出す愚かさは、それが相手に伝わらないからです。「知恵ある人はそれを制し静める」とは、本当に伝えたいならば自分を静めること。冷静になって伝える努力をすることなのでしょう。感情的な言葉では伝わらないけれど、静

「いなくては・・・」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「いなくては・・・」    人間はだいたい五種類に分けられるのだそうです。なんでもこの分け方をしたのはお釈迦さんだと伝えられています。さてその五種類とは・・・。    一、いなくてはいけない人    二、いた方がいい人    三、いても、いなくてもいい人    四、いない方がいい人    五、死んだ方がいい人    なんと過酷な分け方だろうかと思います。これはあくまでも自分はどうあるかを振り返るためのものです。あの人はどうかと考えるならば、それは本意ではありません。    さて、主イエスにとって、あなたはどんな人ですか。たぶん、主イエスによっては、「一、いなくてはいけない人」しかないと言えます。あなたのために十字架にかかってくださったのですから。教会にとっても「一」しかありません。しかし、自分でそれを知ることが大切なのです。主イエスはいつでもあなたのことを待っておられるのです。

「一言聞いてあげれば」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「一言聞いてあげれば」 エフェソ   4:29 聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。 最近ある電話がかかってきました。高級毛皮の売り込みで、「愛する奥さんにどうぞ」とのこと。「いくらですか」と一応聞いてみました。すると「三百万円」だそうです。小さな教会の一年分の予算くらいだなと思いました。とうぜん断りましたが、それからです。その電話のセ-ルスマンが、「よろしいですよ。私も無理だとは思っていたのですが。ダメでもともと、あてにしないでお電話したのですから」というではありませんか。おかしいやら、知っているなら聞くなと、なんとも言えない気分で受話器をおきました。まったく役に立たない言葉でした。 パウロは悪い言葉を戒めています。言葉とは生き物で、言葉一つで人を励ましたり、祝福したりできます。しかし、使い方を間違うととんでもないことになります。言葉には命がありますから、言葉の中にある神様の命を大切にせねばなりません。 熊本空港にドライブにいってきました。早くもお盆休みをおえて早めに帰京する人々で満席の状態でした。事務局の時の飛行機の往復を思い出しました。私はいつも真ん中の座席の通路側に座ります。そこは3人がけになっており、隣には小学校5年位の男の子と、お母さんがすわりました。ところが座ったとたん、男の子は独り言をしゃべり始めました。「この飛行機はもうすぐでるかな」「パイロットはどんな人で何人いるか知っているよ。2人だな」とか。自問自答するのです。しかもそれから飛行機を降りるまで約2時間、しゃべりっぱなしでした。お母さんはということ、完全無視。ひとことの相槌もなく、雑誌を読んでいました。とてもつらい光景でした。きっと男の子はお母さんと話したいのでしょう。でも聞いてくれない。また聞いて言葉をかえしてくれない。これから大変だろうなと想像しました。 パウロは「聞く人に恵みが与えられるように」といいます。そのために「その人を造り上げるのに役立つ言葉」を語りなさいといいます。聞く人と語る人がいつ。この間に言葉があります。その言葉には神様が存在しておられるのですから、私たちも聞くこと、語ることに注意したいと思います。

きままな休日・バレンタインはケーキで

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今年のバレンタインはケーキが! しかも「イチゴ大福」まで入っている。 チョコもいいけど、ケーキも最高ですね。 いやそれよりも愛がいっぱいでした。

十字架の輝く教会へ

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鹿児島教会の顔である十字架が見えました。 クリスマスツリーを植えて30年。 伸びすぎて十字架がみえませんでした。 いかがでしょうか!

明日は礼拝です。

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説教者:関満能牧師(水俣教会) ぜひお越しください。 

「貼り紙に教えられ」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「貼り紙に教えられ」    子どもを叱りながら、いつも心に思うことがあります。それは、「なんでこんなにイライラしているのだろう」ということです。普段なら許せることが許せない。止めよう止めなければと思いつつも、エスカレートしてくるのです。そんな時ほどイヤな嫌悪感に打ちのめされるのです。    先週の金曜日でした。いつものように嫌悪感に落ち込む叱り方をしたので、礼拝堂で祈っていました。神様に懺悔をして家に帰りますと扉に手紙があってありました。皆さんはこれを読むことができますか。(手紙挿入)    解説すると、「おとうさん、このおうちはおこったらはいらないでね」だと思います。私はこの貼り紙をみてなぜか涙がでてきました。ここは牧師館だった。ここは神様の家なんだと実感させられたのです。自分のイライラや、自分中心の怒りがどれだけ人を傷つけるかを教えていただきました。教会・牧師館は神様に聖別された場所です。同じようにみなさんのお宅も神様に聖別された場所です。そこを汚すために社会のいろいろな誘惑が襲ってきます。しかし、そこは聖霊の家なのです。その聖霊の働きがあるからこそ、私たちは守られて生きていくのです。

「私たちの中に」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「私たちの中に」 マタイ 18:19    どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 東京の教会にいた頃「この教会の基礎は腐っていますね」とある人に言われました。牧師である私は、「そんなことはありません」と反発しました。しかし、それは本当なのです。となりのビル工事の建築家の眼でみれば事実なのです。私は聖書を読んでいたので、建物の基礎と教会の基礎をだぶらせて聞いてしまったわけです。建物にとって基礎とは何か。基礎のない建物はありえないこと。一番に気をつけるところが基礎であること。建築家の話を聞きながら、私たちの教会は幸せだなとしみじみ感じました。それは、イエス・キリストという土台の上に建っているからです。その土台の一つに祈り共同の祈りがあります。 イエス様は、「兄弟が罪を犯した場合にはまず2人だけになって忠告しなさい」と教えます。それでもダメなら、一人か二人をつれていって忠告しなさいと教えます。それでもだめなら教会に申し出なさいと。一方、願いごとに関しては、「あなたがのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら」といわれます。どちらも「まず二人で」ということが基本になっています。この二人という単位は何だろうかと思います。 会議用のワークショップ入門書を読んでいます。その中に、「私たちとは何か」という問いかけがありました。面白かったのは「You and I」と「We」の違いは何かというものでした。どちらも日本語では「私たち」になります。その本によると、「あなたと私」に第三者が加わったときに「我々」となると教えていました。この第三者をいつも感じ、受けとめている重要性をといていました。まだ読み始めたばかりなので、そのことの意味はこれから学んでいきますが。たしかに人間関係においてこの第三者の視点は確かに重要だと思います。 イエス様がまず二人でと言われるときも、この第三者の存在があるように思えます。その第三者はイエス様です。つねにそばにイエス様を感じるところで「忠告」「願い」がおこるのです。私たちの事務局の仕事の中にもこの「第三者」である、イエス様を感じながら与えられた働きを勤めていきましょう。

「戒語としてのイエス様」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「戒語としてのイエス様」    「良寛は己に厳しくには優しかった。不機嫌な顔を見せたことがなく、いつも優しい微笑みを欠かさなかった」と、ある本で読みました。実を言えば、私は良寛さんと一休さんが大好きです。このような僧侶にはなれそうもありませんが、どれだけ近づけるかが私の課題でもあります。    さてその良寛さんには「戒語」といわれるものがあります。ひそかに自分で戒めとして作り、常々自分に言い聞かせていたそうです。紙に書くのも恥ずかしいと、囲暖炉の灰の上に書いてはそれをながめ、消してはまた書いていたそうです。その「戒語」はたくさんありますが、少し紹介いたします。    一、言葉の多き    一、口の早さ    一、問わず語り    一、さし出口    一、人のもの言いきらぬうちにものを言う    一、よく心得ぬことを人に教える    一、人の話の邪魔をする    一、親切らしくものを言う    一、たやすく約束をする    良寛はどれもこれも自分の姿だと言います。私たちはどうでしょうか。しかし、私たちには「戒語」としての 主イエスがおられます。その主イエスは戒めだけでなく、そこから救いも問いかけて下さるのです。

「死ぬことはない」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「死ぬことはない」 箴言  23:13  若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。 バナナには種があるのでしょうか。食べながらふと思いました。実は今のバナナには種がないのです。「うそつけ、真ん中に黒い点があるじゃないか」といわれそうですが、それなら植えて出てくるか試してください。あれは種ではなく種の名残なのです。人間が食べやすいように品種改良され、種なしになってしまったのだそうです。それでは新しいバナナはどうやってできるのか。実がなったあと、根本からばっさり切ってしまうと新しい株がでてくるというわけです。人間の発見も素晴らしいですが、自然の力には驚かされます。ばっさり切られてもまた生えてくる。倒れても立ち上がる。その背後にある力を感じます。 箴言 23 章も若者に対する教育のことが書かれてあります。私の子ども時代は、先生の体罰というのをよく見かけました。納得できるものもありましたが、そうでないものもあったなと思います。納得できるものであれば心の傷は残りません。しかし、納得できない体罰が子どもの心をいかに傷つけるかを教えられます。 プロ野球楽天イーグルスの監督が星野仙一氏になり、とても興味深くみていました。初期のニュースでは、「緩慢なプレーには鉄拳制裁も辞さない」と書かれていました。星野監督といえば、鉄拳というイメージがあり怖いという印象です。しかし、その内容をきいてみると、プロの勝負師としての考え方があるのでしょう。「緩慢なプレーは許さない」という一言に、何のために野球をしているのかを問うておられるのかなと思います。楽天イーグルスがどうなるか、なんと日本一になったというからすごいと思わざるをえません。今年は苦しんでいるようですが。 箴言は「若者を諭すのを控えてはならない」といいます。いまの社会では「いってもしょうがない」という感じで諭しを控えることも多いようです。逆ギレというものもありますから、若者を諭すのには勇気がいることかもしれません。しかし何のために「諭す」のか。それは、若者自身の人生のためであり、神様が彼を導こうとされているからです。「鞭打っても、死ぬことはない」という表現は、箴言の時代には若者を諭すときの鞭打ちは普通のことだったのかもしれません

きままな休日・天草ホテルでタコ

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牧師会が天草でありました。夜は会席料理!親睦会です。    今年は天草ということで「タコの煮つけ」がいつもついています 。これがめちゃ美味い!柔らかい!    天草ってやっぱり最高です!

集会室の解体終了

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鹿児島教会ナオミホームの解体が終了しました。 次のステージへ!

明日は礼拝です!

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説教者:立野泰博牧師 どうぞお越しください!

使命と生命」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 使命と生命」    「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが   書かれてありました。    「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。    この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。    九三年はどんな年でしたか。あなたの命が生かされましたか。クリスマスがやってきました。主イエスはご自分の命を、私たち罪人のために十字架の上でお使いになられました。それによって主イエスの命だけでなく、私たちも命も生かしてくださったのです。    クリスマスおめでとうございます。心から主に感謝です。

「道の初めに」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「道の初めに」 箴言  22:6  若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。 ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要だといっています。教育って本当に難しいです。 箴言は教育の書とも言われています。若者が道に迷わないように、また子どもたちが確実な道を歩むようにと願う格言も多いです。とくに教育に関しては、曲がった道を歩むのは、道が曲がっているのではなく、曲がった心の者が教えるから道が曲がると教えているようです。 日本人としてはじめて中国シンクロチームのコーチとなった、井村雅代さんの本を読みました。中国チームは北京オリンピックで、中国としてはじめて銅メダルを獲得しました。井村コーチは日本人としてはじめて外国のチームのコーチと成られた方です。彼女がまず中国チームの若者たちに教えたのは、「挨拶」「愛想笑い」「ありがとう」の3つだそうです。「シンクロ協議は水の中だけの協議ではなく、会場に入って出るまでのすべてが採点の対象である」と書いてありました。いつも見られているという認識と、空気を見方につけなければ世界に通用しないというのです。中国チームにはお国柄でしょうか「愛想笑い」というものがなく、挨拶やありがとうの言葉も少なかったといいます。だからこそ、選手と言う前に人としての問題から教育したのだと。北京オリンピックで銅メダルをとった中国チームの背景が少しわかりました。教育はじめに何を置くかだったのだと思います。 箴言は「若者を歩むべき道の初めに教育せよ」と言います。道の初めにどんな教育を受けるかは大切です。若者は年老いてもその道を歩いていかねばならないからです。若者は道の初めに誰と出会うか、何を聞くか、そして何を信じるか。教会学校

「あなたの神に聞け」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「あなたの神に聞け」    マカオにある観音堂の「おみくじ」は、よくあたると言われています。私も今回の旅行でひいてみました。この「おみくじ」のやりかたは日本のものとは少し違います。まず、百本くらいの棒が入った筒を渡されます。それを観音様の前に出て振るのです。つまり自分が抜き出すのではなく、振っているうちに一本だけがピョンと飛び出てくるのです。ただし聞きたいことは一つのみです。不思議ですが、すぐにピョンと出るときと、なかなか出ないときがあります。中国の友達にいわせれば、観音様も考えておられるのだとか。    さて、同行したクリスチャンの友達がこの「おみくじ」に挑戦しました。するとこれまた不思議にすぐにピョンと出てきたのです。観音様もすぐにおこたえくださったということです。ところがその「おみくじ」をみてびっくり。そこにそこに書かれてあったことは、「あなたには神様がいる。だからあなたの神様に聞きなさい」と。    「あなたの神に聞け」。そのとおりです。私たちには祈りがあるのです。主イエスに聞くことができるのです。祈りましょう。私は主イエスのためにどんな働き手となれるでしょうかと。その祈りを主イエスは待っておられるのです。

「何かを一つ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「何かを一つ」 箴言  20:24  人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。 死刑囚の記録だけを集めた本があります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を上るまでの、ある者にとっては長い、またある者にとっては短い「待っている」時間の記録です。その中に一人の男性の記録がありました。その男性はある日突然、花を生けはじめたのでした。といっても、単に粗末な花瓶に一輪の花を生けはじめたのです。しかしそれ以来、死刑囚特有の無気力な凶暴さからうってかわって、見違えるほどに元気になったそうです。死刑の直前、その訳を尋ねた看守に、その男性は言いました。「仕事がある。明日起きたら花ビンの水を取り変えるという仕事がある。夜寝るとき私はそう思いました。だから少なくとも明日は生きていける」と。何か1歩でも歩むことができるということは希望を生むのだと思います。 箴言の 20 章には、心の中にある深い知恵について語る箇所があります。 5 節「思い計らいは人の心の中の深い水」という表現で出てきます。これは汲みだすことが難しいということです。心の中にある隠された計画は、他人にはよくわからない。しかし、賢者はそれを見つけ出すことができる。その賢者とは神様と共に歩む者だというのです。 あるスポーツのコーチが指導方法について書いていました。選手が壁にぶつかった時はどうするかということです。選手が全然うまくならないときがある。その時は「なんでうまくならないのだろう」と悩みます。そんな時にコーチは「でも今日はひとつだけ、何かを上手にして帰らそう」と思うのだそうです。そしたらいつかうまくいく。家が片付かなくて途方に暮れる時、パニックになってもしょうがない。そんな時は何も考えずに、何かを一つ動かす。するといつかは片付くのだと。立ち止まるのではなく、一歩でもいいから前へ進むことだと言うのです。 箴言は「人の一歩一歩を定めるのは主である」といいます。人間はどこへ行くのか、自分の道についても理解してはいない。しかし、神様は人がどこへ行くかを知っておられるのです。またその一歩を定めるのも神様なのです。この神様に信頼し、勇気をもって一歩踏み出す時に新しい道が開けてくるのだと言えます。行き詰った状況の中でそれを解決する

きままな休日・ホテルごはん

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ホテルで会席料理 たまにはいいでしょう。 しかし、しかし、なんと魚ばっかりでした!

熊本ですが、、、

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明日は礼拝です

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鹿児島教会定期総会礼拝 説教者:立野泰博牧師 礼拝後に総会が行われます。