2019年3月31日日曜日

きままな休日・一休の紅白まんじゅう

入学お祝いに「紅白まんじゅう」いただきました。
あの一休みの饅頭です。
餡子が最高に美味しいです。

2019年3月30日土曜日

鹿児島教会が変わります!

鹿児島教会リニューアル!
聖なる空間プロジェクト進行中
フリースペースのカフェを建築中です!
お楽しみに

2019年3月29日金曜日

2019年3月28日木曜日

「肌の温もりがある」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「肌の温もりがある」
 
 娘たちの影響で、「セーラームーン」の再放送を見ています。初めはなんでこんなに人気があるのだろうか、と思っていました。ところが、みるみるうちに私もファンの一人になりました。内容はいたって簡単。正義の味方セーラームーンが悪い妖魔をやっつけるという勧善懲悪ものなのです。しかし、それが人気の秘密ではなさそうです。
 
 いろいろと分析してみますと、この主人公「月野うさぎ」が、実はいままでの正義のヒーローのパターンではないことがわかりました。仲間たちの中では一番弱い。ドジでまがぬけていて、泣き虫、すぐに逃げ出す。学校の成績は最悪で、自分勝手で、マンガが大好きという設定です。実は、とっても身近な存在なのです。肌のぬくもりが感じられるような、どこにでもいるような存在といってもいいくらいです。
 
 ある人の言葉を思い出しました。「私は、イエス様の肌の暖かさを感じることがあるんです」と。イエス様がそこにおられると感じるまで、御言葉を噛みしめてみたいものです。

2019年3月27日水曜日

「約束を信じる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「約束を信じる」

ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。まずは神様の力を信じることが求められていると思います。

 イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。

 保育園では新年度がはじまると、帰りの時間近くに門のところに立っている子どもたちがいます。お迎えを待っているのです。保育園に泣きながらやってくる子どもたちです。小さな子どもたちが、たとえ昼間であっても親元からはなれて園で生活するのは大変ことです。不安で寂しいのでしょう。朝から泣き叫ぶ子どもに親たちは約束をしていきます。「5時には迎えにくるからね」と。だから門のところで待っているのです。しかし、多くの親は5時に迎えに来ることはできません。園長先生は「できない約束はしないでください」と言われます。この時、子どもの心のなかで「信じる」ということがどのように受け止めているのでしょうか。

 エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。

2019年3月26日火曜日

「神様っておるん?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様っておるん?」
 
 長女が車の中で突然聞きました。「お父さん。神様って本当におるん」。突然の質問に驚きと喜びを感じました。とっさにどんな答え方をしようかと考えましたが、たった一言「神様はおるよ」と答えました。「神様は生きておられる」それだけで充分でした。
 
 数週間して、長女がまた聞きました。「お父さん。人間の神様は二人おるんよね。一人はマリア様で、一人はイエス様だよね」。そのときは「よく分かるね。でもちょっと違うよ。神様はイエス様だけだよ。マリア様は信じることを教えてくれる人なんだよ」と答えました。長女は不思議そうな顔をしていました。
 
 そしてまた週週間たちました。「お父さん。お友達が神様はおらんというけど、わたしはおるってしっとるんよ。だってお父さんがおるって教えてくれたもんね」。
 
 私たちは信仰において、はっきりした態度を要求されるときがあります。要求する相手が子供であっても同じ事なのです。その時は聖霊が語ってくれる時でもあります。「神様は生きておられる」。この一点だけは私の家庭では他に譲れない一点です。

2019年3月25日月曜日

「心強い存在がある」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2019年3月22日金曜日

2019年3月21日木曜日

「信頼して一歩」

クレヨン牧師のミニエッセイ

信頼して一歩」
 
 坂村真民さんの詩集につぎのようなものがあります。
 
 すべてとどまると
  くさる
  このおそろしさを
  知ろう
  つねに前進
  つねに一歩
  空也は左足を出し
  一遍は右足を出している
  あの姿を
  拝してゆこう
 
 復活の主イエスに出会うためには、墓へ一歩近づかねばなりませんでした。女たちは不安で仕方なかったのに、一歩踏み出したのです。
 
 とどまってはいけない。どんなことがあっても、主イエスを信頼して一歩前進したい。キリスト者には、それしかないのです。

2019年3月20日水曜日

「わかっているから」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

2019年3月19日火曜日

「存在を確かめて」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「存在を確かめて」
 
 最近、我が家では次女がお父さんといっしょに寝ることになっています。ちいさい子供と寝るのは、いろいろと世話もありますが、とっても幸せな気分になります。その暖かさがホッとさせてくれるのです。
 
 このごろよく、次女の足が夜中にぶつかってくるのに気がつきました。それも明け方によくあります。その足は脇腹をくすぐるように触ってくるのです。一体何をしているのでしょうか。実は、どうもお父さんが「いるか」「いないか」を確かめているみたいなのです。もし触らなかったら起きて泣き出してしまいます。
 
 私たちも安心して生活をしていても、ふと神様の存在を確かめてみたくなることがあります。ちょうど寝ていても、「いるか」「いないか」と足で触って確かめてみるようなものです。しかし、神様はいつでもそこに居て下さる。仕事のためにいないとか、ほかの部屋に寝ているとかありません。
 
 私たちにとって神様はいつでも共にある存在です。しかし、忘れてしまう存在でもあります。つねに、忘れず生きていくことができるでしょうか。もちろんできます。私たちは聖書のなかで、御言葉を通していつも出会っているのです。そして祈りを通して会話もしています。

2019年3月18日月曜日

「別の道を」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「別の道を」

マタイ 2:12 「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ある教会からの帰り道でのことでした。通り抜けようとス-パ-の信号へ差しかかったとき、地面を動いているものを発見しました。よく見るとカニが道路横断中だったのです。わりと大きなカニで体調十センチはあったでしょうか。しかも、車がどんどん通り過ぎるなかを、車に対してはさみを振り上げ威嚇していたのです。それを見ながら二つのことが頭に浮かびました。「一、自分を知らないということは恐ろしいことだな。二、ここに道路さえなかったら、カニは死なないでよかったろうに」ということです。そしていろいろと考えながら、自分を知らない人間ほど恐ろしいものはないという結論に達したのです。自分を知ること。これには自分を別な角度から見ることが求められます。第三者の視点、それがは別の視点であり、神様の視点だと思います。

イエス様の誕生のとき、東方から3人の博士がやってきます。彼らはまず、ヘロデの所に向かいます。ユダヤ人の王様が誕生することを星によって知らされていました。ヘロデはこれを聞いて不安を感じます。自分ではない王様が誕生するというのです。その後3人の博士はベツレヘムでキリストを拝みました。これがクリスマス礼拝です。ところがイエス様の誕生を知ったことで、ヘロデから命を狙われることになり、神様が示される別の道を通って自分たちの国に帰ることになりました。

 大都市の交差点には、目の不自由な方のための音の出る信号が設置されています。とくに車の流れが多く危ない所に設置されています。ところが、ある都市ではこの音がなるのは午後7時までと決まっているそうです。理由は周辺住民から、その音がうるさくて騒音だという苦情があったのだとか。市の管理、警察が話し合って午後7時までにしたというのです。「目の不自由なものは午後7時以降の外出はするなということですよ」と、それを利用している方が言っておられました。それが必要ない方にとっては騒音になる。しかしそれが必要な方々おられる。何かよい別の方法はないのかなと思いました。その方法を考えるのは「管理者、住民、目の不自由な方」の3者と、それを聞いた私たちなのだろうと思います。共に生きるという視点から考える時に、神様が別の方法を教えてくださるのではと思うのです。

 クリスマスの時、3人の博士は「別の道を通って・・・帰って行った」とあります。この別の道を示されたのは神様でした。ヘロデの難から逃れるための道です。私たちの人生、行き詰ったときでも必ず道が用意されています。その道を見いだすには、つねに神様のみ言葉に触れていないといけません。別の道も神様の道なのです。

2019年3月17日日曜日

きままな休日・あさの簡単メニュー

出張などに行ったとき
簡単に朝食を済ませるにはカフェへ。
結構楽しいひとときです。

2019年3月16日土曜日

聖書科の授業にお坊さん

私が受け持っている九州学院の聖書の授業
ミッション系ですがお坊さんをお招きしました。
その様子が宗門の機関紙に記載していただけました。

2019年3月15日金曜日

2019年3月14日木曜日

「誤り迷いが大切」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「誤り迷いが大切」
 
 「この頃、数学教育で、なにより憂慮されることは、解答が誤りとわかると、すぐに全部を消してしまう生徒が増えたことだ」と、数学者の森毅さんが指摘されていました。
 
 私たちは人生の中で誤ることは多々あります。また、わからなく迷うことも多々あります。大切なことは、どこで誤ったか、何に迷ったかを知ることです。誤りや迷いを全部消してしまっては、それを知ることはできないという意味でしょう。
 
 私たちの信仰生活でも同じだといえます。自分はどこで迷ったか、誤ったかをはっきり知らせてくれるのが「聖書(みことば)」です。自分の失敗を知れば知るほど、神様の愛がよくわかります。自分の愚かさを示されれば示されるほど十字架の愛がわかります。しかし、それを隠そうとしたとき。すでに神様から離れているのです。

2019年3月13日水曜日

「向かい合う」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「向かい合う」

マルコ  12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。

はじめて赴任した教会には幼稚園がありました。その園で飼っている鶏とアヒルは、注意深くみると私たちに素晴らしい警告を与えてくれました。それは人間も同じだなということです。

ある時、こんなことがありました。毎朝えさをあげるのですが、えさの桶は二つあります。二羽しかいませんので、一羽に一桶という計算になります。単純にはそうですが、この桶の取り合いが傑作なのです。ちゃんと同じにわけても、一つの桶を二羽が取り合いをするのです。しかも最初に口をつけたほうを、二羽で取り合いをしている。たまたま一羽が途中でもう一つに移れば、またそれを取り合いしているのです。これを眺めながらある意味でぞっとしました。他人のものはよくみえるということは、人間に限らないということです。そこに欲望・恨み・嫉妬の根源があるような気がします。自分は何を見ているか、何と向かい合っているかが問われます。

 イエス様の時代には、神殿にラッパの形をした献金箱がおかれていました。人々はこのラッパに向かって多くの献金を投げ入れていたのでしょう。その中にわずかな献金を入れたやもめがいました。イエス様は、やもめを無視なさいませんでした。金額の大小ではなく、やもめの信仰に目をとめられています。投げ入れたか、入れたかは大きな違いです。イエス様は賽銭箱の向かいに座っておられ目をとめられたのです。

 いじめが原因で自殺した小学生のニュースがありました。いつ聞いても胸がつまります。同じ年頃の女の子をもつ親として痛みを覚えます。今回も学校の対応、教育委員会の在り方に疑問をもちました。PTA会長をやっていた時と同じ疑問です。なぜ向かい合うことができないのかなと。ある時、市PTA連絡協議会で中学校のPTA会長さんと席が同じになりました。その方が、なぜPTA会長をしているかを話してくださったのです。彼は「自分の娘は中2で妊娠し子どもを生みました。そこから地獄の日々を過ごしました。学校も先生も教育委員会も娘を助けてくれなかった。でも親である私はそこで娘と真剣に向かい合ったのです。その時、私一人が最後まで向かい合う決心をしたのです」と教えてくれました。

 イエス様は、賽銭箱の向かいに座っておられました。すべての人と向かい合っておられたのです。そこで1人の貧しいやもめと出会われました。イエス様が彼女の中に何をみたのか。それはすべてを神様に捧げる信仰だったのです。向かい合ってはじめてわかることがあります。

2019年3月12日火曜日

「Macの宣教師」

クレヨン牧師のミニエッセイ

Macの宣教師」
 
 Macのパソコンが、牧師室にやってきて三週間になります。やりだしたらやめられない楽しさがあり寝不足の毎日です。
 
 初めはおそるおそる触っている程度でしたが、ちょっとやそっとでは壊れないと気がついたとたん大胆に扱っています。ところが、私よりも娘たちの方が覚えかたが早いのにはビックリです。パソコンはあるルールを覚えれば、初歩の扱い方はできます。そのルールを覚えるのが子どもたちの方がはるかに早いのです。先入観がないからでしょうか。私はワープロのイメージが抜けず頭の切替ができないのです。先入観がないほうが、パソコンをありのまま受け取ることができ楽しんでいるのです。そういえば信仰もありのままに受け取るほうがいいのです。
 
 Macを扱う人を「エバンジェリスト」というそうです。日本語では「福音の宣教者」という意味です。このMacを使う喜びを伝えたくてしかたがないからです。

2019年3月11日月曜日

「成長すること」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「成長すること」

二ペトロ  3:18 わたしたちの主、救いイエスさま・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。

事務局長時代のひとつの課題は、会議全体を整えることをでした。資料の作成、事前配布、審議方法の簡略化、フォーマット作成、速報を流す体制つくりなど。また席を指定し、名札をおいて同席・陪席の色分けを行いました。整えられた会議はとても気持ちがいいものでした。ある日のことでした。35年も働いておられる掃除のおばちゃんが出席者の名札をみて一言。「あれこの子、偉くなったのね」と。学生の頃から知っている名前がそこにあったのでしょう。「ちゃんと成長したのね」と喜んでおられました。その成長がイエス様においてであればいいのですが。

 聖書にはペトロの名前をしるした2通の手紙があります。この2つ目の手紙は、著者とは異なるキリスト教理解を主張する「偽教師」を退け、その主張に惑わされないように警告しています。本日の箇所は、この手紙の最後の結びの言葉です。私達はイエス・キリストの恵みと知識において成長しなければならないことをのべています。

 中国の昔話です。「ある人が種をまいてから、毎日毎日その畑を見回っていました。ところが、となりの畑の方が芽の伸びがよい。うちの方が悪すぎるということに気づきました。そこである夜、自分の畑にでかけていき、一本一本手で引っ張って伸ばしました。翌日あれからどれだけ伸びているか期待してみにいきますと、全部の芽がお辞儀をしていました」。笑い話ですが、よく考えると笑えない話です。神様はその人にあった成長を一番よく知っておられます。ところが私たちは無理に伸ばそうとして駄目にしてはいないでしょうか。

 ペトロは「イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」と教えました。自分勝手に振る舞うのでなく、キリストの恵みと知識において成長することを求めています。私達を成長させて下さる恵み、与えられる知識はすべて神様のもの。み言葉に謙虚になることが成長のカギだと思います。

2019年3月10日日曜日

きままな休日・石窯ピザ

YMCA阿蘇尾ヶ石保育園に石焼きピザ窯が
設置され、祝福式をおこなってきました。
最高の焼き上がりです。

2019年3月9日土曜日

2019年3月8日金曜日

2019年3月7日木曜日

「結婚式の恵」

クレヨン牧師のミニエッセイ

結婚式の恵」
 
 結婚式の献金を「宣教基金」とすることを決めてから、結婚式の申込の多さにビックリしています。「宣教基金」をどのように使用するのか祈りを結集し、神様の御心を聞くことが大切だと身が引き締まります。
 
 とはいっても、結婚式自体が宣教ですから、結婚式が御言葉に立つものとなる祈りも必要です。つまり、どれだけ主イエス・キリストにあって誠実にかかわることができるかです。
 
 神様はそんな私たちに、素晴らしい結婚式を与えてくださっています。二人だけの結婚式がありました。神様の前で約束を真剣に求めている二人でした。そして今回、またまた素晴らしい結婚式を三月に与えてくださったのです。それは二組同時結婚式です。兄妹の二組のカップルが結婚式を同時にされることになりました。
 
 新郎であるお兄さんは、もう何回も教会にこられました。そして、いつも何か言い出そうとして帰られるのでした。そして、やっと言われたことは、「私は十人兄弟の九番目です。一番下は妹がいます。もう結婚して一年になるのですが、事情で式を挙げてません。私たちの結婚式にいっしょにできないでしょうか」でした。感動いたしました。そして神様に感謝しました。しかももっと感動したのは、それを願われたのは新郎さんではなく、新婦さんだったのです。
 
 結婚式は宣教です。そこから私たちも神様の恵みをいただくのです。

2019年3月6日水曜日

「日曜日の夕方の飛行機で」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「日曜日の夕方の飛行機で」

マタイ  20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

イソップの話です。「神が、いいものをみんな、酒がめにつめてふたをしてから、ある人にやりました。その人は、がまんできずに、なにがはいっているのか見ようとして、ふたをとりますと、中にはいっていたいいものが、神さまのところへ、飛んでいってしまいました。しかし、おおいそぎで、ふたをしたものですから、希望だけは残りました。そこで希望だけが人間のところにいて、にげていったものがいまにまたくるといってきかせるのです」。希望だけが残ったという話は、滑稽なようでいても、心にずしりというものを感じます。私たちは見なければいけない事実から目をそらしてはいけないと思います。

 イエス様は「ぶどう園の労働者」のたとえを話されています。これも理解するにはよく考えねばならない話です。朝から雇われ真面目に働いた者と、最後の1時間しか働かなかった者が、主人の思いから同じ賃金を受け取るというものです。しかし、これは天の国のたとえ話ですから、神様(主人)の御心はどこにあるかを考えねばなりません。自分のことばかりしか見えてない者には「不平」しかないのです。

 事務局に勤務していた時の話です。日曜日の夕方、地方から羽田への便はいつも満席です。雰囲気的も「明日から仕事か~」とか「旅行も終わりだな」とか疲れている感じです。そんな時、乗客からの不満が多く聞かれます。結構、自分勝手な人たちが多いものです。昨日も「なんで満席なのに空席があるの」と乗務員さんに怒鳴っておられる人がいました。どうもキャンセルがでず、同行者とは別々の飛行機になったのでしょう。たまたま、自分の前に大物政治家の方がおられ、その横がひとつ空席だったので、政治家を優遇しているように思えて腹が立ったのでしょう。その後、どのような説明がなされたかはわかりませんが、そのやりとりを聞いている政治家さんも大変だなと思いました。

 イエス様のたとえ話の中で、不平をいった労働者の意見もわかります。1時間しか働かなかった者と同じ賃金では割が合わないからです。しかし、初めの約束は何だったか。主人の思いは何であるか。を考える余裕があれば不平を言わずにすんだかもしれません。怒鳴っていた乗客の方もきちんと説明をされたら納得なれたでしょうが、怒鳴ることによってまわりに与える影響は?と考えてみてもよかったかも。
 
※東京出張のため2日ブログをお休みしました。

2019年3月3日日曜日

きままな休日・コンビニおにぎり

車で出かけるときなど、食事の時間がないときはコンビニおにぎりです。
簡単便利ですから。しかもマヨネーズタイプが大好きなのです。
ホントは健康のためには、、、でも大好きです。

2019年3月2日土曜日

今年も受難節です。

大江教会で「行われますが
どうぞ受難節の始まりを覚えましょう。