投稿

4月, 2019の投稿を表示しています

「大切なことを見失う」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「大切なことを見失う」    東京での会議のあと、新幹線に乗ってまず祈ります。この会議で神様は一体何を教えておられたかを確認するためです。次に「うなぎ弁当」を食べる。これが日課のようなものです。食事が終わると、次は何か本を読むことにしています。大抵、熱海までくると眠くなってきて京都まで寝ます。    今回はアントニー・デ・メロさんの黙想説教集を読みました。その第一編の終わりに一つのたとえ話がありました。それは次のようなものです。    「観光客の一団を乗せたバスが、目の覚めるような美しい田園地帯を走っている。湖、山、草原、川が次々と姿を現す。しかし、窓の日除けはおろされている。乗客たちは、バスの窓の向こうに何があるのか知ろうとしない。旅行中ずっと、誰が上席につくか、誰が拍手喝采を受けるか、だれがよく思われるか言い争ってゆく。旅が終わるまでずっと」。    これはどんなたとえ話でしょうか。ある人にとっては人生のたとえ。ある人にとっては、いま忘れかけている信仰のたとえかもしれません。私はこのたとえを読んでとっさに窓の外をながめました。第一編に与えられた聖句はこれでした。    「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」マタイ十六章二十六節

「神のみ言葉は隠れない」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「神のみ言葉は隠れない」 マルコ  4 : 21  隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。 P.F. ドラッカーの本に、ギリシャ時代のことが書かれてありました。フェイディアスという彫刻家がいました。かれはパルテノン神殿の彫刻を任された長でした。無事にその仕事を完成させアテネの会計官に請求書をだしました。すると、アテネの会計官は支払いを拒んだのです。「誰にも見えない彫刻の背中の部分まで彫って、請求してくるとはなにごとだ」というのです。するとフェイディアスは次のように答えたのです。「そんなことはない。神々が見ている」と。 今日はイエス様の有名なたとえの一つです。神様の目には、隠されているもので表にでてこないものはないということでしょう。灯は神様の言葉と同じ意味を持っていますので、み言葉はかならず表にでてくるというたとえでもあります。私たちの信仰生活で、神様の目から隠れることもできないし、隠すことのできないのがあります。それはみ言葉です。このみ言葉に照らされながら私たちは生きています。そして、このみ言葉こそが我が足の灯です。だからこそ隠れることも、隠されることもありません。 シンガポールという国はとても小さい島です。しかし、ありとあらゆる民族が集まった国でもあります。マレーシア系、インドネシア系、アラブ系、タイ系、中国系、ヨーロッパ系、などなど。歴史のある貿易港だったことがわかります。ですから、ありとあらゆる食べ物があります。シンガポールに行くだけで世界グルメになれるほどです。また、シンガポールはとても奇麗な国です。なんと塵ひとつ落ちていないのです。道路は整備され、地下鉄は駅まで全冷房。しかも駅はピカピカ。日本が奇麗だと思っていた私は驚いてしまいました。日本よりも美しいのです。それもそのはず、モラルに対する罰金が高いのです。バス・地下鉄の中でタバコを吸ったら、 S $1000の罰金です。日本円にすれば七万円の罰金です。麻薬などを国の中に持ち込んだ場合、その場で死刑です。ですから、「ここで・・すれば罰金 S $1000」という看板の多いこと多いこと。しかし、シンガポールを歩きながら、寒々しくもありました。奇麗すぎるものですから。一

きままな休日・モールオブアメリカのポテト

イメージ
ハンバーガについてくるポテト! チリとチーズのトッピングを頼んでみました。 なかなかの味でした。でも普通のフレンチフライがいいかも!

この時期の教会光

イメージ
この時期は聖壇中央に青い光が! すごい綺麗ですよ!ぜひ来てみませんか!

明日は礼拝です

イメージ
説教者:中村朝美牧師(宮崎教会) ぜひいらしてください。

「大切なことを見失う」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「大切なことを見失う」    東京での会議のあと、新幹線に乗ってまず祈ります。この会議で神様は一体何を教えておられたかを確認するためです。次に「うなぎ弁当」を食べる。これが日課のようなものです。食事が終わると、次は何か本を読むことにしています。大抵、熱海までくると眠くなってきて京都まで寝ます。    今回はアントニー・デ・メロさんの黙想説教集を読みました。その第一編の終わりに一つのたとえ話がありました。それは次のようなものです。    「観光客の一団を乗せたバスが、目の覚めるような美しい田園地帯を走っている。湖、山、草原、川が次々と姿を現す。しかし、窓の日除けはおろされている。乗客たちは、バスの窓の向こうに何があるのか知ろうとしない。旅行中ずっと、誰が上席につくか、誰が拍手喝采を受けるか、だれがよく思われるか言い争ってゆく。旅が終わるまでずっと」。    これはどんなたとえ話でしょうか。ある人にとっては人生のたとえ。ある人にとっては、いま忘れかけている信仰のたとえかもしれません。私はこのたとえを読んでとっさに窓の外をながめました。第一編に与えられた聖句はこれでした。    「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の得があろうか」マタイ十六章二十六節

「法則を習慣へ」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「法則を習慣へ」 1コリ  14:33  神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。 「聖書を読むことを習慣とする」。これはいつも考えてきたことですが、大抵は三日坊主に終わっていました。習慣にするには意識を持つことが大切だと思います。だらだらと読めば習慣になるかと言えばなりません。時間をきめ、計画的にやってはじめて習慣となります。良いことも、悪いことも習慣となった時には、そのこと自体が影響力をもってくると思います。  パウロはコリントの教会信徒に「集会の秩序」について語っています。集会のなかで、預言、異言、教え、啓示、それにともなう解釈などが秩序なく行われていたようです。そうならないように教会の「秩序」を教えています。それはすべて教会を建てるためにものであると理解するようにというのです。神様は無秩序の神ではないという言葉が印象的です。   これだけは毎日やっていることは何かと考えてみました。それが習慣だと思いますが、数えてみるとたくさんあります。意識的に繰り返しているものがあります。そいて、ついてしまったものもあります。よい習慣は意識的につけたもの、悪い習慣はついてしまったものです。「習慣は紙の折り目のようなもの。一度ついたら中々とれない」という言葉を教えていただきました。この「紙の折り目」という表現は素晴らしいです。よく言い当てていると思います。両端をきちんと揃えて、意識的に折ったものの折り目は美しいです。折り紙などの美しさもそこにあるように思います。しかしいい加減に折ったもの、また仕方なく折られたものの折り目からは美しいという感じは受けません。問題は、一度ついてしまった折り目を元に戻すことは困難だということです。むしろ無理に近いことです。強制的にアイロンでもかけないといけません。そう思うと、意識的につけた習慣は人から見て美しいものがたくさんあります。たとえば挨拶、礼儀など。しかし、そうでないものは、いがいと見たくないものが多いようです。  パウロは「神は無秩序の神ではなく」といいます。世の中には多くの法則があります。しかし、すべては神様の導きの中にある法則です。しかもその法則は神様の御心を伝えるための法則だと思います、何を持って成功とするか。そのミッション系の高校は、神

「大人の国に旅して」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「大人の国に旅して」    ドイツはとても奇麗な国でした。はじめてのヨーロッパでしたが、「大人の国」なのだという感想を受けました。    フランクフルトに着き、まず驚いたことは「入国審査」が簡単なことでした。チラっとパスポートを見せるだけなのです。そして駅。なんと改札には人が誰もいないし、改札さえないのです。つまり、自分の良心と責任で切符を買いなさいということでしょうか。ただ乗りなどするような人はいないよとでも言われているみたいです。すべてがそのような感じでした。バスに乗っても自己申告ですし、会議にはすべて、ビール、ワイン、ジュース、水と置いてあり、自分の責任において飲みなさいということでしょうか。飲み過ぎて酔っぱらう者などいないのでしょう。人として生きる上で何が大切なのか。神様を愛し、人を愛することが徹底しているような国に感じました。    ところが、教会への礼拝出席は悪いのです。五千人入る礼拝堂でも三十人か四十人。地方の教会でよくて二十人。悪ければ五人という教会もありました。生活の全てがキリスト教化されてしまって、いつのまにか、もっとも大切なキリストの存在がなくなってしまっているのかもと感じました。今回のドイツへの旅で神様は何を教えてくださったのか。じっくりと考えているところです。

「祈り・願い・お願い」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「祈り・願い・お願い」  フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。  パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。 北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。   落葉焚けばおもしろ、   櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。   萱(かや)の葉はちょろちょろ、   松の葉はぱちぱち。  なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。  教会から出ていろいろなことに忙しくしていると、何か大切なことを忘れてしまうことがあります。忙しい中にいるときは、その時のことしか考えられず、一番いい時を過ごしていると思います。しかし、神様がなぜそこに自分を遣わされたのかを忘れてしまうのです。どんな状況にあっても感謝していたいと思います。  パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これ

きままな休日・九州学院特製どら焼き

イメージ
九州学院特製のどら焼き 母校からいただきました。 これがまたうまいのです。大盛堂さんのどら焼き

十字架が輝く教会に

イメージ
  鹿児島教会も復活 十字架が見えてきましたよ! ぜひお越しください!

明日は復活祭

イメージ
説教者:立野泰博牧師(大江教会) ぜひいらしてください。

「礼拝時間の謎」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「礼拝時間の謎」    ペンテコステの日曜日、朝早く洗礼式を行うために柳井教会へ行きました。早朝のドライブはとっても気持ちがいいですし、緑が青々としてして心が清らかになりました。    さて、車を飛ばしていると、いま田植えの真っ最中です。多分日の出のすぐあとから働いておられたのでしょう。そろそろ仕上げにかかろうとしておられるのがわかりました。それをながめながら、礼拝がどうして十時半からなのかわかったのです。    私たちは無意識に十時半の時間を迎えます。いったい誰がこの時間を決めたのでしょうか。そしてなぜ十時半なのでしょうか。実はこれは農作業をしておられる方たちの時間と関係がありそうです。朝一番の仕事のあとの休息時間なのです。    一番平安な時間。それは一仕事終えた時間でもあります。そこに本当の感謝や喜びがあるのです。私たちはこの時間を大切にしたいと思います。その時間を脅かすものが多いのですから。

「時満ちて道がある」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「時満ちて道がある」 エフェソ   1:10 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。 私とキリスト教の初めての出会いは、カトリック系の幼稚園に入園したことからでした。親がとくに意識したのではなく、近くにあった幼稚園に入れられたものと思います。しかし、その幼稚園との出会いが、いまを築いたと思われます。本当に楽しい幼稚園生活でした。しかも、年に1回ある健軍教会でのミサで、十字架に磔にされたイエス様との出会いが、牧師への道を決定づけたと言えます。それくらい衝撃的でした。その出会いが、時が満ちて高校の時に花開いたのです。 パウロは、キリストの「血によって贖われ、罪を赦された」ことを、神様の恵みによると言います。この恵みが隠されたものではなく、いまや公に公然と語られるようになったというのです。それは神様の時が満ちたからです。神様の時が満ちることで救いが完成され、すべてのものはキリストのもとに一つにまとめられると教えました。中心はキリストにあるというのです。神様の計画がそこにあるのです。 九州の山奥に過疎化のために若者が一人もいなくなった村があります。この村が若者に帰ってきてくれるために努力した話を聞きました。きっと涙ぐましい努力があったと想像しますが、その逆でたいへん楽しい努力だったそうです。まず、村のお年寄りは「楽しさ」をテーマとしました。とにかく楽しい村にしようとしたのです。いろいろな計画がもちあがり、何が一番楽しいかを考えました。結果的には自分たちが一番楽しいことがいいとなったのです。そこでみんなで梅の木を植えまして、梅製品を造り始めたのです。なんでそれが楽しいのかといえば、その梅製品の販売利益でみんなでハワイ旅行をしようときめたのです。そして、その旅行の楽しさや、梅造りの楽しさを新聞にして、村から出ていった若者に毎月送り届けたというのです。「いまこれが楽しい」「みんなでいったハワイ旅行は楽しかった」「村のこれがいま楽しい」などなど、楽しいことを企画してその楽しさを届けたのです。数年後その村がどうなったかおわかりでしょう。いまや若者とお年寄りのバランスのいい村となったのです。この話を聞いて、「これからの大江教会の宣教はこれだ」

「主婦の仕事は神様の祝福」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「主婦の仕事は神様の祝福」    水曜日から主夫をしています。というのも、照美姉が「婦人会連盟総会」のために留守なのです。    初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事がま待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。    しかし、主婦の仕事はなんでもあるのだと思います。それら全部が実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそ主イエスに仕えることなのです。    どんな仕事や役割も、すべては主イエスに仕えるということがなければみなしいものになっていきます。しかし、この仕事は主イエスに仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。    「今日もこの仕事を通して主に仕えさせてください」。そのように祈ることから一日を始めることができました。

「自分が変わらねば」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分が変わらねば」 ヤコブ 1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。 「自分が変わる」ということは難しいことです。最近の説教ではそのことをよく話していると教えていただきました。確かに新しい教会に赴任して、いままでと違うことに戸惑いを感じることもあります。そんなとき、それを受け止めるには自分が変わることを求められます。また同時に教会も変わることを求められます。ただし、教会には変わらないもの、変えてはいけないものもあります。それは「み言葉」「信仰」「神様の恵み」です。それをはっきりさせるために変えていく努力をしなければなりません。イエス様が大江教会に求めておられることは何かを常に考えています。 ヤコブは、神様の言葉を聞いて実践するというテーマを持っています。その時、自分中心をどのように乗り越えるべきかを語ります。最初に3つのことの実践するように勧めます。「聞くのに早く」「話すのに遅く」「怒るのに遅く」です。これを読んでみると、すべては相手に合わせなさいということでしょうか。自分が変わるということを求められているようです。ヤコブの時代にも教会内で様々なトラブルがあったようです。そこには生身の人間の集まりがありますから、言い争いや分裂などもあったことでしょう。しかし、神様が与えてくださった交わりはそれを乗り越えるために相手を思い、愛し合い、赦しあうという恵みを与えてくださっています。そのためには「わきまえる」ことが大切なのです。 教会からの手紙を書いてくださる姉妹が、牧師室でこんな素敵な話しをしてくれました。「牧師先生、毎回教会からの手紙を書かせて頂いていて気がついたことがあります。実は『受』けるとい字を書いていると、いつの間にか『愛』という字を書いてしまうのです。上の方は同じなのですが、いつも愛になってしまう。受けることは愛に変わるのですね」と。意味のある言葉だなと思いました。神様からの恵みを受けとめたときに、そこに愛が生まれる。その愛を必要としている人たちと共有するときに愛は働くのだと。そして人は変わっていくものです。 ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにし

きままな休日・阿久根教会春ごはん

イメージ
阿久根教会では月に数回お昼ご飯がでます。 これが絶品なんです。美味しい! しかも、懐かしいおふくろの味! お煮しめなど最高です。味わってください。

来週は復活祭の礼拝です。

イメージ

明日は主任牧師の礼拝です。

イメージ
説教者:立野泰博牧師(大江教会) ぜひいらしてください。

「こんなことなら」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「こんなことなら」    中国の昔話「笑林」に次のようなものがあります。    ある人が道を歩いているとき、けつまずいてころんだ。やっと起きあがって、いくらもいかないうちに、またころんでしまった。    その人はカンカンになってののしった。   「ちくしょう。こうと知っていれば、起きあがらないでいたのに」   よく考えてみると、笑えない話かもしれません。「私の人生ぜんぜんいいことない。こんなことならクリスチャンにならなきゃよかった」という人もいます。「こんな結果なら祈らなければよかった」という人もいます。しかしはたしてそうでしょうか。    神様は願いを聞いてくださいます。しかし、それは御心にそって聞いてくださるのです。もし、自分勝手な願いごとをいつも聞いて下さった、それこそ傲慢になり自分を神様とするような重大な罪に陥ってしまうでしょう。試練や聞き届けられない祈り、それは神様の愛がそうなさるのであって、私たちが道(キリスト)を踏み外さないようになさるのです。

「あこがれ」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「あこがれ」 2 コリント   7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。 ある幼稚園新聞の9月号のテーマは「あこがれ」でした。子どもたちにとって「あこがれ」を持つとはどんなことか。こんな人になりたいという「あこがれ」をもつことが、子どもたちの心の成長を促していくという事が書いてありました。私がチャプレンをしていた幼稚園の卒園文集には、いつも子どもたちが「何になりたいか」を書いて残してありました。幼稚園の先生、お花やさん、ケーキ屋さん、おまわりさん、サッカー選手などなど。みんな「あこがれ」をもっているのです。その中で印象的なことを書いた子どもがいました。彼は電信柱になりたいと書いていたのです。大笑いしながら理由を聞いてみると、暗い夜に明るいからとのこと。大きく解釈すれば、人の暗闇に光を灯す人にあこがれていたのかもしれません。そのあこがれを持ち続けてほしいと思いました。  パウロによるコリントの信徒への手紙1,2をまとめると、少なくとも5通の手紙をコリントに書き送ったのではないかといわれています。その中に「涙の手紙」というものがあります。パウロが「涙ながらに」としるしている手紙です。その後「和解の手紙」が送られているのをみると、コリントの信徒の人々に悔い改めが起こったのでしょう。「神の御心に適った悲しみ」が悔い改めに導き、そのことによって「あこがれ」がもたらされたと書いています。新約聖書ではここだけにしかない言葉です。   現代の子供たちに「いま、一番ほしいものは何か?」という質問をすると、どんな答えが返ってくるのでしょうか。一番多い答えは「お金」だそうです。ほかのどんなものより、お金にあこがれ、お金を手に入れたがっていると、ある本にかいてありました。土地とか一戸建ての家とかいう答えも多いそうです。あまりにも現実すぎていやになってしまいます。それでは自分に問うてみます。「一番ほしいものは?」。とっさに答えを思いつきませんでした。たしかにほしい物はたくさんありますが、一番といわれると答えようがありません。しかし、お金と土地ではないことだけはわかります。それでもこれだということができないくらい「幸せ

「本気」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「本気」    坂村真民さんの詩に「本気」というものがあります。    本気になると  世界が変わってくる    自分が変わってくる    変わってこなかったら    まだ本気になってない証拠だ    本気な恋    本気な仕事    ああ    人間一度    こいつを    つかまんことには    私たちはどれだけ「宣教」に本気でしょうか。いま本気になりつつある自分を感じています。主イエスに導かれて変わっていくことが感謝です。  

「最後に言う」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「最後に言う」 エフェソ   6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 「メールのやり取りでは、本当に伝えたいことは追伸で書け」と教えられました。それは 、一番伝えたいことや気の利いたひと言は最後の一文に入れるのが有効的であるというものです。普通のメールでも仕事のメールでも、最後に笑えるような余談が入っていたりするだけで、そのメールは好印象を与えるそうです。なぜなら、人はその内容に反応したくなるようにできているからです。本文と追伸( P.S )をうまく使い分け、相手に興味を持ってもらいたい内容は最後に入れる。すると印象が強くなって本当に伝えたいことが効果的にその人に伝わるそうです。 パウロは手紙の最後に、エフェソ教会の信徒たちを励ましています。キリストの体である信徒は、この世の中で教会の大切な部分として立ち続けてほしいという言葉でした。そのために信徒は、「神様に依り頼むこと」「その偉大な力を信じること」そして「神の武具で身を固める事」を薦めています。パウロは、それらの励ましを「最後の最後」にのべているのです。 香港の新空港は大きくて素晴らしいものです。中心部までも「機場快速」という列車が走っており、シートにはすべてテレビ付きという飛行機なみの列車でした。香港に行っていつも戸惑うのは、この列車・地下鉄などの切符の自動販売機です。まず行き先の画面のボタンに触れます。つぎに行きだけか、往復かに触れる。大人か子供か選択し、人数を決める。金額が表示されます。普通ならばそこでお金を入れて買います。ところが、それではお金ははいりません。金額の表示のあとにこれで決定するに触れないとお金は入っていかないのです。つまり、最後にもう一度、決定するかしないかを念を押してくるのです。たいていの旅行者はそのボタンに触れないのでお金が入っていかず戸惑って列車に乗り遅れるみたいです。私はお節介にも販売機の横で日本人に教えて感謝されました。最後に意志決定するかしないか、もう一度確認する。今までの自分の生き方を確認して先に進めと言われているみたいでした。  パウロは「 最後に言う」のあとで、励ましの言葉を伝えました。パウロが最後の最後に伝えた福音は、神様に依り頼みなさいということでし

きままな休日・福来亭の水餃子

イメージ
熊本水前寺駅そばに「福来亭」があります。 中国のコックさんご夫妻のお店です。 これがものすごく美味しい!さらに安い! お母さんの手作り水餃子は絶品です!

月曜から聖週です。

イメージ
今年の聖週は15日~20日です。 主の十字架の苦しみを偲ぶ週です。

明日は礼拝です。

イメージ
説教者:関 満能牧師(水俣教会) ぜひいらしてください。

「宣教のビジョンは」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「宣教のビジョンは」    「第一回伝道セミナー」に参加してきました。学ぶことの多いセミナーでした。一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。    宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。    さて、今回のセミナーでわかったことは、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということでした。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。    二十人くらおの家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。   百人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。    この教会の皆さんのビジョンは何ですか。祈ってそのビジョンを与えられたいと思います。ビジョンは大きいほど、神様の恵みは豊かにあります。  

「壁のうちに平和を」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「壁のうちに平和を」 詩篇   122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。 被災地で救援活動していたころ、避難所にもよく出入りをさせていただきました。私たちがいったころは避難所生活も1ケ月を過ぎた頃でしたから、各家庭の場所が整理されプライバシーが守られていました。しかし、このプライバシーをどうやって作ったかといえば、隣りとの境界線に壁を作ることからだったそうです。実はこの壁が避難所生活のなかで大きな問題となったとも聞きました。壁が出来たばっかりに「共に」ということがなくなったのかもしれないと。プライバシーとは何か、それを守るとは何かを考えさせられました。 旧約聖書・詩篇にある「神殿にもうでる歌」です。内容は、エルサレムを称える歌です。エルサレム巡礼に出発するときの喜び。困難な巡礼の旅を終えてエルサレムに入城した喜び。巡礼者たちが平和を願うように促され、それに応えて歌うというものです。その中で、壁のうちに平和がと唱えています。 事務局にいたころ、毎朝掃除のおばちゃんと少しだけ話しをしました。ある日のテーマは謙虚になるということでした。おばちゃんはいまでも高校の校長先生の訓示を覚えているそうです。それは「自分がつくった壁から覗くと、人は壁の向こう側の人を見下すことになる。自分の後ろにはもっと高い壁があることを覚えておきなさい」という話だったそうです。おばちゃんは、その後ろの壁から見ておられるのが神様だと思うと言っていました。人はすぐ壁をつくってしまうけれど、壁の中で平安に生きるには、謙虚になることだと。そのように生きてきたら壁もなくなってまわりが平和にきたと。朝から考えさせられる言葉でした。 私たちは人との関係ですぐに壁をつくります。自分を壁の中において、そとを覗きながら生きています。そのとき、人を見降ろしていることに気がつきません。壁のうちにある自分に平和があるとき、壁はなくなり人を見降ろしたりしないですむのだと思います。そのためには、いつも見守ってくださっている神様に気がつくことが必要です。もともと自分の後ろに高い壁などなく、神様がともにいてくださるだけなのですが。

「父の恋愛小説」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「父の恋愛小説」    祖母の葬儀に出てきました。八十七歳でした。葬儀が終わってから到着したのものですから、行ったときには思い出話で賑やかでした。    さて、いろいろな思い出が話されるなかで、拙著「神様のクレヨン」の話になりました。皆さんがいうには、私が父の血をひいているというのです。そして突然、父の弟にあたる叔父が「そういえば、兄は小説を書いていた。たしかあれは恋愛小説だったよ」というのです。    父が小説を書いていたなんて、ちっともしりませんでした。そしてまさかそれが恋愛小説とは思いもしませんでした。その小説をぜひとも読んでみたくてしかたありません。本当の父と会えるような思いがするのです。    私たちは直接イエス様と出会うことはできません。しかし、弟子たちがイエス様の言葉や行いを書き残してくれました。それを読むごとに、イエス様と出会うことができます。イエス様のお言葉のひとつひとつが、その体のぬくもりを通して語りかけきてくださるのです。    父の「恋愛小説」を探してみようと思います。父が何を考えて、何を思い続けてきたのか。私にとって父と出会うことは、キリストと出会うことでもあると思います。

「真理の道」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「真理の道」   ヨハネ   4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。  教会を離れる原因の第1位は「人間関係」だそうです。教会内の人間関係につまずいたということだそうです。しかし、ちょっと考えるとそのおかしさに気が付きます。神様との関係はどうなのだろうと。イエス様との関係はどうか。それは個人でもつながっておれるという意見のようです。本当にそうでしょうか。同じ信仰持つ者の交わりが教会です。神様との関係もこの交わりの中にあると言えます。人間関係につまずいたという人の意見はなにか違うものを感じます。  イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。 私には思いでの道が4つあります。1、阿蘇の田舎道。この道は幼いころの記憶の中にあり、阿蘇山へ続くまっすぐな道です。子供心にその雄大さを思い出します。2、始めて中国の大地に立った時の道。この道は香港から広東省に入ったときにまっすぐに伸びていた道です。この道の上に立った時、ここはイスラエルにつながっている。ここを歩いていけばイスラエルに行けるのだと感動しました。3、カファルナウムの道。ここにはローマ帝国がおいたマイルストーンが現在もあり、すべての道はローマにと実感した道でした。そして4、聖墳墓教会の入り口へ向かう道。聖墳墓教会の入り口には2本の石の柱があります。そこには無数の十字架がほられています。巡礼者が彫ったものだと言われています。人々は世界中からこの入り口を目指して歩いてきたのです。イエス様は「私は道であり、真理であり、いのちである」と言われました。私たちにとって救いの道はイエス様です。イエス様そのものが道であり、真理であり、私たちはその道の上を自分の十字架を背負って歩い