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7月, 2019の投稿を表示しています

「動いていると」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「動いていると」   ヨハネ   5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」  「あなたは落ち着きのない子ね」とよく言われました。落ち着きがないのではなく、いろいろなものに興味があるから絶えず動いていたのだと思います。幼稚園でも「落ち着きのない子」と言われている子どもほど、本当に面白い個性を持っています。絶えず何かに関心を持ち、それをひたすら追いかけているのです。落ち着きがないのではなく、興味がありすぎると言う個性を持っているとみてあげたらいいと思います。   エルサレムにある「ベテスダの池」での出来事です。イエス様は、長い間病気で苦しんでいた人を癒されます。池の水が動いたとき、一番はじめに池に入ったひとが癒されるという伝説があったようです。しかし彼はそこに行くことができず、誰も彼を池に連れていってくれなかったのです。池は間欠泉であったといわれていますが。イエス様は「水が動く」ことではなく、「心の動き」を重視されました。「よくなりたいのか」というみ言葉への「はい」という信仰。まずイエス様から心を動かされる。そしてそのイエス様にむかって心を動かすことを大切にされたのです。これが信仰なのでしょう。神様に対してたえず心を動かしておくことを教えられるのです。   パソコンの前にもう動かない腕時計がひとつあります。まだ電池を交換すれば動くのですが、そのままにしてあります。実はこの時計は、教会で葬儀をされた方のご遺族からいただいたものです。この方とは天に召される数日前に病床でお会いしただけでした。その後なくなる直前に洗礼を受けられました。葬儀をキリスト教で行い、式が終了してから奥様に「主人が使っていた時計です。感謝のしるしとして受け取ってくださいますか」と言われ、喜んで頂くことにしました。その時はまだ動いていましたが、いつのまにか止まってしまいました。何度も電池を交換しようと思いましたが、なんだかできず1時36分でとまったままです。しかし、この時計を見るたびに、その方の人生に触れるようなきがしてなりません。いろいろと思いめぐらしては、きっとこの時計はこの方の人生を知っているのだなと楽しく思えてなら

「何をしてほしいのか」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「何をしてほしいのか」    たまにですが、愛美は夜中に泣き出すことがあります。大抵は喉が渇いたので牛乳をほしがります。ところが、ごくたまに何で泣いているのかわからない時があります。きっと自分でもわかっていないのだと思いますが、これは親としては困ったものです。「これをしてほしい」というものと、それが言える相手があるのは幸せなことです。    阪神大震災のお手伝いをさせていただいている時、毎日全壊した家の前に立っているお年寄りを見かけました。何をするでもなく、ただ毎日同じ場所に立って呆然としておられたのです。声をかけてみましたが、「何をどうしていいのか、さっぱりわからないのです」と言われました。    主イエスは癒しを願う人に、「何をしてほしいのか」と言われました。私たちは何と言うでしょうか。本当に求めてくる者に、主イエスはその心の深みにある願いをいいなさいと言われるのです。どうでもよいこと、どうでもよくないことを判断して申し上げなければなりません。    全壊した家の前に立つお年寄りは「家庭の匂いを返してほしい」といわれました。人間の生命線がそこにあるように思います。

「目的をもって」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「目的をもって」 2コリント   5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 学生の頃、目的地に無事に到着するには、正確な地図を必要とすると教えられました。当たり前のことだと考えていました。しかし先生は、「人生の目的」「人生の地図」を持っているものはいますかと問われ、すこしドキッとしました。「何のために生きるのか」をじぶんはわかっているだろうか。そのために必要な手段や道具を持っているだろうかと思ったのです。目的と手段。この二つを信仰生活の中に見出しているか?そのような問いかけを持ちながら生活しているように思います。 パウロはキリストがすべての人のために死んでくださったと教えています。その目的は何か。キリストと共に「新しい人」としてキリストのために生きるためだと言います。生きる目的は、キリストのために生きることなのです。それがパウロの心を駆り立てています。パウロにとってこの目的はたせつなものでした。何をしなければならないか、どうしてそれをするのか。そして何のおくてきでするのか。パウロの答えはただ一つ、キリストのために生きるでした。 「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。大江教会はどこに行こうとしているのか。目的地はどこなのか。宣教する教会となるには、目的が必要です。大江教会のビジョンはみえています。 パウロは「 その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方

きままな休日・大牟田のうどん

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大牟田教会の礼拝に行く途中の「あずま」のうどんです。 福岡のうどんって麺が柔らかいですね。 出汁がきいており美味しかったな~

youthCaféと教会のミーティング

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より良いカフェになるように 定期的にミーティングを開いています。 夏も面白いイベント満載のようですよ。

明日は礼拝です。

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説教者:立野泰博牧師(主任) 午後からyouthCaféやってます。 どなたでもどうぞ!

「ストライキ金魚」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「ストライキ金魚」    子供の頃から大好きだったので、いまでも金魚を飼っています。といっても二匹しかいないのですが。いまの金魚が我が家では四代目になると思います。生死を繰り返しているのです。    あるときは餌のやりすぎで水が腐ってしまいました。留守中にポンプが故障してしまったり、水温の調節がうまくいかなかったり。大抵は死んでしまったのですが、それでも金魚が大好きで飼いたくなるのです。    いま我が家にいる金魚は、娘たちが選んだものです。だんだん大きくなってきました。餌の量も増える一方です。この金魚の名前は「ストライキ」と言います。なぜなら餌をあげないとすぐストライキを始めるからです。その方法はひっくり返って抗議をするのです。初めは苦しいのかなと思いましたが、「はやくくれ~。おなかがすいた~」とだだをこねているみたいなのです。    人間はどうでしょうか。神様に対して同じことをしているのかもしれません。ストライキするほどの信仰があればよいのですが。

「聞くのは大変」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「聞くのは大変」 ルカ  9:35  「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。 格言集を開くと次のような言葉に出会いました。「『 listen (耳を傾ける)』という単語は、『 silent (無言)』と同じ文字で出来ている」。良くできているなと感心しました。そのことを自慢げに娘に教えてみました。すると素直にきいていました。確かに耳を傾けて聞くときには無言でなければなりません。それができないので自分が話してしまいます。また無言の中には答えはありません。みな答えようとして聞いていると無言になれずに聞けなくなるのでしょう。聞くということの本質をもういちど考えてみたいものです。 イエス様の変容の出来事は、マタイ、マルコの福音書にもあります。3つの記事のなかでルカの特徴は、イエス様が祈っておられたときに変容の出来事が起こったことです。祈りという神様との会話がありました。また、モーセとエリヤとの会話もあります。その中でも興味深いところは、神様の言葉「これに聞け」という声(弟子たちとの会話)が聞こえたとき、そこにはイエス様だけがおられたと記しているところです。つまり、これに聞けとはイエス様に聞けということでした。 この暑さの中、イライラしているときは「笑い」が一番。健康にも「笑い」が一番。さっそく、以前から買っておいた「爆笑漫才大ヒットパレード CD 」を聴いてみることにしました。さすがに、「ダイマル・ラケット」「いとし・こいし」「かしまし娘」「千里・万里」「レッツゴー三匹」「唄子・啓助」といった大御所だけに大笑いしてしまいました。ところが、長女はあまり面白くなさそうです。普段は吉本新喜劇をみて大爆笑しているのに、いっこうに笑いません。どうやら、動きがないのが面白くない原因のようでした。生まれてこの方、テレビで育った娘たちにはラジオで聴く漫才は興味がないらしいし、どこが面白さのポイントかがわからいようでした。この世の中、だんだん言葉だけでは伝わっていきにくくなっているのかもしれません。キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。イエス様のみ言葉を聞いて理解することは大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。 イエ

「臨時学童保育を震災で」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「臨時学童保育を震災で」    阪神大震災の教会における救援活動に派遣されて、約一ヶ月西宮教会へ行った時のことでした。みなさんもテレビなどでご承知のとおり、教会の周辺はほとんど家が全壊状態でした。いまも水道、ガスは止まったままです。一日も早い復興を祈るばかりです。    西宮教会での救援活動はだいたい三つのことでした。一、臨時学童保育。二、大谷避難所訪問。三、地域の方々への奉仕(水汲み、救援物資配布、夜回りなど)。    これらの活動のうち、臨時学童保育は大変意義深い活動でした。被災後すぐに現地へ入られた方々の選択が間違ってなかったと思います。この震災で子どもたちが受けた心の傷を癒すこと。また、保護者の方々が安心して後かたづけできることの手助けができたからです。    ある保護者の方からは「学童にいくようになって子供が私から離れて遊ぶようになりました」「子供が夜泣かずに寝れるようになりました」「子どもたちが学童に行っている間、安心して家の片づけができます」といった感謝の言葉をいただいています。    これからも臨時学童保育は続けられます。そしていまでは幼稚園児の学童保育も始めました。定員二十名をはるかに超え、三十名になりました。牧師(西宮教会)は「神様がこの礼拝堂を残して下さったのは、何かに使えということだね」と言われます。何ができるか模索し、そしていま学童保育が与えられました。

「魅力とは何か」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「魅力とは何か」 ルカ   4:20 会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 秋に宣教会議が行われています。ある時の会議の中で、現代の教会は若い人たちにとって魅力のある場ではないという意見が出されました。若手牧師が、教会に新しくきた青年にきいたところ、いまの自分が興味ある順番を教えてくれたそうです。1、バイト・学校。2、友達と遊ぶ。3、時間がありヒマなら教会。中高生ならば1、部活・クラブとなるそうです。なるほどだと思います。あと加えて牧師の子どもたちが礼拝に出席しないということも言われました。なぜ牧師の子どもが礼拝にでないのか。教会に興味がないからでしょうか。 イエス様は、ユダヤ教のきまりに従って安息日には会堂で礼拝をされています。当時の礼拝は「シェマー(聞け、イスラエル)」で始まり、祈り、聖書朗読と続きました。その聖書朗読の時にイエス様に巻物がわたり、イザヤ書を朗読されたのです。その内容が「主の恵みの年を告げる」というもので、この解釈について人々の目がイエス様に注がれたのです。何を語られるかに興味津津だったと言えます。 秋葉原で不思議なカフェをみつけました。「スモーキングカフェ」です。ビル一画のガラス張りの部屋があります。そこの中は煙がモウモウ!よく見るとタバコの自動販売機が、たくさん並んでいます。そうです、ここは気兼ねなく自由にタバコを吸ってもいい空間です。最近は千代田区など、歩きながらの喫煙が規制され、罰金をとられます。はじめのうちは吸っている人もみかけました。最近では隣に位置する新宿区で歩きながら吸っている人々も、千代田区にはいるなりタバコをしまう姿がみられます。タバコを自由に吸える空間が無くなってきたのです。そこで登場したのが「スモーキングカフェ」なのでしょう。私自身タバコを吸わないのでわかりませんが、何かタバコがもっている魅力があるのでしょうか。やめられない魅力とは何でしょうか。「は~この一服が安らぐ」という言葉をききます。多くの人は緊張して生きているってことかもしれません。その緊張をほぐす役割があるのでしょうか。「安らぎ」。これはどこからくるのでしょうか。もちろん神様からですといいたいのですが、安らぎはそこにあるのに、受け取ることができない問題もあるなあ~と考え

きままな休日・鹿児島教会カフェごはん

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鹿児島教会の礼拝後はCaféでごはん。 じゃがいもごはんと健康ゴーヤ! トマトのソースがかかったヨーグルト。 皆さんもどうですか。 成人病の方々に優しいメニューです。

礼拝後のCafé

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礼拝後は新しくなった集会室カフェで 楽しく過ごしています。 皆さんもいかがですか?

明日は礼拝です

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説教者:立野泰博牧師(主任) お待ちしています。礼拝後はyouthCaféで! ゆっくりお過ごしください。

「新しい試み」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「新しい試み」    徳山教会は様々な新しい試みができる教会です。柳井教会との連立教会としてだけでなく、牧師を神様の働きために送り出す教会でもあります。そのことは特別伝道にいった先々の教会でいつも話題になるのです。「留守礼拝はどうされているのですか」と。    これまでいろんな留守礼拝を守ってきました。ビデオ礼拝、テープ礼拝、信徒証言礼拝、祈祷礼拝。そしていま行っているのが「朗読説教礼拝」です。これまでいろいろな試みをしてきましたが、この「朗読説教礼拝」がいまのところ一番よい方法だと思われます。    説教とは神様の言葉です。それは牧師を通して、そして朗読奉仕をしてくださる方々を通して語られる福音です。そう考えれば、それがビデオでも、テープでも同じです。しかし、そこに人の存在があるかないかは大きな違いです。朗読される方を神様は用いて祝福を与えられるのです。    これから牧師数が減少していきます。そのとき徳山教会の試みが全体教会の益となればいいと思います。ご意見をください。

「安易な答えでなく」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「安易な答えでなく」 黙示録 2:5 どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。 ある本で読んだ話です。毎日職場に遅刻する職員がいました。上司は再三注意し、彼に遅刻をしないように解決策を出させました。彼が出した解決策は「目覚まし時計を増やす」というものでした。ところが、遅刻は改善されませんでした。上司の方が考えを改め、問題を根本的に考えてみることにしたのです。「何についての問題か」朝起きられないこと。「何が問題か」睡眠時間が少ない。「それはなぜか」遅くまでテレビゲームをしている。「何が問題解決のカギか」夜23時以降はゲームをしない。この話はとても面白いと思いました。安易に答えをだしてしまうより、問題の発生源までとことん考えようということです。それが見つかったら本当の解決策がありそうです。あとは本人がやるかどうか。それで仕事を続けられるか辞めざるをえなくなるか。そこからは本人の問題なのです。 本日読みました黙示録の箇所は、エフェソの教会にあてた手紙の一節です。ここに「落ちる」という表現があります。これはキリスト信仰から外れることを意味しています。エフェソの人々は初期に伝えられた福音とは異なる信仰に陥っていたようです。むしろ信仰の緩み、疲れが問題とされています。このような状況の中で、神様に従うことへ立ち返るように「悔い改め」を筆者は勧告しているのです。 「ここで陸終わり、海はじまる」という言葉を航空機内の雑誌で読みました。マカオの観光案内にポルトガルの言葉として紹介してありました。ポルトガル大航海のスローガンだったようです。ポルトガルの岬に立った彼らは「ここで陸が終わる。新しい出発のために海に出ていく」との決意を現した言葉でした。その後マカオについた彼らは、次ぎのように叫んだといいます。「ここで海終わり、陸はじまる」と。キリスト教の宣教、み言葉もこうやって海を渡ってきたのだと、ちょっと感慨深く思いました。と考えながら・・・はたしてキリスト教はこの日本の陸に立っているかと疑問をもちました。簡単にいえば土着しているかということです。まだ海の上にあって、私たちの国にとっては、いまでも外国の宗教として受け取っているのではと思ったのです。海が終わる直前まで来ているけれど、まだ

「神様のベット」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「神様のベット」    幼子の寝顔はやっぱり平和だなとしみじみ思います。    先日、愛美と昼寝をすることになりました。同じ布団に入り枕を並べて、しかも手を握って昼寝をせねばならなくなったのです。たぶん三番目がで来たことで甘えん坊になったのでしょう。    さて、横にいて違うことを考えていました。「人間が眠る瞬間とはどのような時だろうか」とふと思ったのです。そこで愛美が眠る瞬間を見てやろうと薄目を開けて眺めていました。ところが眺めているうちに、私の方が寝てしまったのです。あまりにも平安に満たされた顔をしていたので、私の方が先に安心しきってしまったようです。    「平安」とはいったい何でしょうか。それは幼子の寝顔そのものだといえます。私たちの寝顔もそうかもしれません。なぜならば、本当に安心しきってないと充分に眠ることができないからです。幼子たちが私たちに教えてくれる平安とは、すべてを委ねきった安心感でしょう。    私たちはどこにいても、いかなる状況でも神様の懐という一番安心できるベットを持っています。それだけでも幸せです。

「自分で考えてみる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分で考えてみる」 マタイ 12:12 安息日に善いことをするのは許されている ある宗教学者が「遅刻のすすめ」を書いています。わざと毎日遅刻しなさいというものではありません。会社・学校では遅刻は絶対ゆるされません。1分の遅刻であっても、校門の扉に挟まれて死亡事故がおこるような現代です。子どもたちは遅刻しまいとして必死で、朝ごはんも食べないで脇目もふらずに学校へいくのです。その学者がいうには、「もし、いま登校途中で困っている人に出会ったら子どもたちはどうするだろう。きっと見捨てていってしまう。なぜなら、遅刻は悪いことだから。私は自分の子どもには、遅刻はいいことだ。困っている人を見捨てるくらいなら、どうどうと遅刻せよと言っている」と書いていました。そういう遅刻ならばゆるせるでしょう。何を大切にしているかという問題です。 イエス様はある安息日に片手の萎えた人を癒されます。これはユダヤ人からすると律法違反です。安息日は何もしてはならないと理解し厳格に守っていたのです。しかし、イエス様は律法を守ることと、律法を生きることの違いをしめされました。律法は何のためにあるのか、神様との関係においてどう生きるかを問われます。私たちは間違ったことをしたくないために「ねばならない」ということにこだわります。ねばならないと決めた方が楽かもしれません。それをしていればいいのです。しかし、イエス様の教えは信仰によって自分で考えなさいということが多いようです。 世の中「こうでなければならない」が多いように思えます。先日も結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言ってますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「そうでなければならないことはありません」です。 しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持

きままな休日・阿蘇赤牛の丸焼き

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大江教会では毎年阿蘇YMCAで野外礼拝をおこなっています。 そして毎年恒例なのがこれ! 赤牛の丸焼きです。今年は10キロでした。感謝。

鹿児島教会・youthCafé大人気

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鹿児島教会のカフェで行われている youthCaféが地域の方々に喜ばれています。 教会は場所を用意してお貸ししているだけですが。 楽しく有意義な場所に慣れて感謝です。

明日は礼拝です。

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説教者:立野泰博牧師(鹿児島主任牧師) どうぞお出かけ下さい。

「神様がセキュリティー」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「神様がセキュリティー」    教会には、多くのセールスマンの方がやってきます。事務機関係、電話帳、公告関係、新聞、有線放送、書籍などなど。先日もある業者の方がやってこられました。しかし、ちょっと首を傾げて帰っていかれたのです。その業種とは「セキュリティシステム」です。    セールスマンいわく「このシステムは防犯のために役立ちます。いろいろな方の入室が防げます。二十四時間体制ですので安全です」とのことでした。私は「この教会はたとえそれが泥棒でも入ってよいのです。二十四時間鍵はかけてありません。いろいろな方が自由に入室してもいいのです。神様みずからがセキュリティーです」と答えました。すると彼は「そんな無茶苦茶でいいんですか」と言うのです。    私たちにとって教会を守ることは大変なことです。しかし、それを機械まかせにしたり、誰かを雇ったりはできません。教会を守るということは、一人一人が祈るほかないのです。どうか祈ってください。教会がどんなときでも地域にたいしてオープンであることを、祈りで支えてください。神様の守りこそが最高のセキュリティーですし、そこに奇跡がおこるのです。

「行動変容がなければ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「行動変容がなければ」 ヨハネ 21:17 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか 自分は思考方の牧師ではないなと思います。すぐ考えもせず行動する牧師だと思うのです。多くの課題を、これからあれもこれもしていくのでしょうか。もっと大切な「たった一つのこと」がないだろうかと思うのです。牧師として「これのみ」を探したいと願っています。ある本を読んでいますと次のようなことが書いてありました。「これからの親は『何かをする』とかに対してではなく、むしろ『何かをしない』という愛情のために心のエルルギーを使うべきである」。なるほど、なるほどと思いながら、何もしないでいることができないのが私という牧師です。 復活したイエス様がペトロに3回聞かれたことばが「わたしを愛しているか」でした。多くの意味を含んでいると思います。十字架のとき3回もイエス様を知らないと否定したペトロ。だから同じように3回も聞かれたのだと。そうなると「裁き」かな?と思います。しかし、何度も読んでいるとイエス様の大きさを感じる言葉です。イエス様の方から先に「わたしはあなたを愛しているよ」と聞こえてくるのです。その言葉をペトロが意識した、その瞬間に使徒ペトロは誕生したのです。3度目にイエス様から「愛しているか」と聞かれてペトロは「悲しくなった」と聖書は記しています。悲しくなるほど愛されているのがわかったのです。 鎌田實さんが脳卒中のことを講演した時のことです。塩が悪いという話をされたそうです。みんないい話を聞いたといっていたが、講演後すぐに野沢菜が大量にでてきたといいます。その塩分が悪いと話していたのに。人の習慣をかえるのは難しいといわれていました。その記事の中で、次のように言われています。「行動変容を起こすには、まずその人が『これを改めよう』とはっきり意識しないとダメです。テレビ番組を見るだけでは、行動変容は起きにくいですね。何となくいいと思っても、番組が終われば、忘れてしまう。行動変容には結びつきません」。続けて「顔と顔を突き合わせて直接聞いた話とか、本を読んでいて線を引いた内容のほうが、行動変容を起こす力を持っています。僕は新聞を読んでる時、大事なところに印を付けたり、切り抜きをしたりして、忘れないようにする習慣があるんです。そのよ

「人生の天然酵母」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「人生の天然酵母」    宇部教会の松岡兄から、「手作りビール」をいただきました。その味たるや、まろやかで、とっても美味でした。この手作りビールについての苦労話を少しお聞きすることができました。    この手作りビールの大変な所は、その温度管理・調節にあるそうです。なんでも室温二十五度から三十度を保たないと酵母が死んでしまうのだそうです。この温度を保つことがどんなに大変なことか、想像するだけで感謝していただけます。    私もいま、天然酵母のパンを焼いています。酵母をつくるのに四十八時間かかります。それをパンにするまでに、今の季節では十二時間から十六時間を必要とします。酵母を死なせないように、絶えず見守っていくことが、ビールでもパンでも大切なのだと言えます。    私たちの人生もまた、天然酵母(キリストの御言葉)が必要です。ちょっと目をはなしたら死んでしまいそうです。しかし、この御言葉酵母の素晴らしいところは、死んでもまた復活するとこにあります。御言葉酵母はたえずいただくことが大切です。復活させるには御言葉を読むことです。  

「まずお茶をどうぞ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「まずお茶をどうぞ」 ルカ  14 : 28  あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。 本日の聖書をみてみましょう。テーマとなっているのは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。前半部分では、「家族だけでなく、自分の命までも憎まないなら」とでてきます。これは憎むというよりも、放棄するとか脇におくという意味です。文字通りによむと憎らしく思うという意味にとれますが、そうではありません。イエス様の弟子の第一の関心は家族や自分の命ではなく、もっぱらイエス様にあるべきだといわれるのです。また、後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。 人に何かを教えるということは大変なことです。ある本に「人から50習いたければ、相手に50与えねばならない」という言葉を見つけました。一方的に教えるのではなく、相手からも教えて頂こうという姿勢がなければ講演は成功しないと考えています。しかし何を学べばいいのでしょうか。講演の依頼を受けるときは「喜んで」と受けます。期日が迫ってくると「なんで引き受けた」と悔やみ、最後の一週間は「逃げ出してしまいたい」となります。そして前

きままな休日・ワイン

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さすがにアメリカでした。 ワインの種類が多すぎる。 味のちがいがわかればね~

礼拝の後はCaféで

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土曜日礼拝の後は Caféっでゆっくりしてください! お待ちしています。

明日は礼拝です。

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大雨でした。被害はありませんか? 明日の礼拝:説教者:関満能牧師(水俣教会)

「信頼の欠如かな」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「信頼の欠如かな」     KRY ラジオの「宇宙船かたつむり発進」に、ゲストコメンテーターとして出演させていただきました。といっても、ラジオ局からの放送でなく、ザ・モール周南のサテライトスタジオからの公開生放送でした。テレビには何回か出演(なんと役者としてセリフもあったんです)したことはありますが、ラジオの生放送は初めてでした。結構多くの方が聞いてくださったようで、どこへいっても、ラジオに出てましたねと言われてしまいます。    さて、この番組では、アナウンサーとのトークが主体でした。ですから、いろいろと聞かれたわけです。まあ、クリスマスのことが多かったのですが、「キリストは一番弱く、さみしいところにお生まれになった」と話したときでした。アナウンサーの方がすかさず「牧師さんはいじめについてどう思われますか」と聞かれたのです。いきなりの質問で絶句してしまいました。どのように答えればよいのか、瞬間に必死でいのりました。    すると突然に自分の口が動いたのです。「信頼の欠如でしょうね」と。苦しみ痛みを受けとめてあげられる「信頼の場」がない。いじめている子はそのことに走らざるをえない心の苦しみを出せる「信頼の場」がない。いじめにあって苦しんでいる子にはそれをあるがままにだせる「信頼の場」がないと思うのです。    キリストも痛み苦しみを人から受けられました。しかし、そこでキリストはあくまでも父なる神を信頼し従われたのです。そして父なる神もまたそれを受けとめておられたのです。信頼して生きることができればどんなに幸せでしょうか。

「やった気になって」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「やった気になって」 マタイ 23:3  彼らが言うことは、すべて行ない、また守りなさい。しかし、彼らの行ないは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 礼拝堂で毎朝祈っていますと、聖霊を感じることがあります。心が安定して気持ちよくなってきます。そして不思議なことに出会うことがあります。先週の水曜日に祈っていたときのことです。礼拝堂の窓ガラスをトントンと叩く音が聞こえてきました。一瞬ドキッとしました。誰だろうとみてみると、なんと野鳥が窓を叩いていたのです。きっと野鳥も祈っていたのでしょう。 一回だけの偶然かなと思って窓のところへ行ってみますと、毎日来ている様子がわかりました。皆さんも見て下さい。礼拝堂の窓です。汚れているのではなく、野鳥が毎朝つついたあとなのです。もしかすると何かを訴えているのかもしれません。童話の話みたいですが、この教会がここに存在することの素晴らしさを教えられたようです。毎日の祈りこそです。 イエス様は律法学者、ファリサイ派の人々の教えと行いについて弟子たちに注意を促されました。ファリサイ派の人たちが民衆に律法を教え、具体的に生活の中でどのように守るべきかを指導してきたことは認めておられます。しかし、問題はその教えではなく、彼らが言うだけで実行しないことだと言われます。いい事を人に押しつけるだけで、人を助けようとしないことを問題とされました。「言うだけ人間」になってはいけないと戒められ、本来の働きをしていないことを指摘されたのです。 大江教会に赴任して変わったことは、パソコンの前に座る時間が少なくなったということです。また毎日処理するメールの数が10分の1になりました。事務局時代は毎日やってくる多量のメールを処理することが仕事だったように思えます。対外的な関係の仕事が多かったということでしょうか。しかし、このメールのやり取りは気を付けないといけません。仕事をした気になるからです。いま振り返ると、パソコンの前に座ってメールを処理し、文書をまとめるとそれで仕事が完結したように思っていました。いま、パソコンからはなれ足で歩きまわっていると、人と人の関係の大切さを思います。今度は歩き回ることだけが仕事にならないようにしなければなりません。出かけて

「ちょっと時間を」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「ちょっと時間を」    牧師という職業の恵みの一つに、いつでも家にいるということがあります。ところが、いつでもいるということは、かえって家族には不満なところもあるようです。その一つに、子供と遊ぶ時間をとらないということがあります。いつもいるわけですから、まとまってその時間をとる必要はないと思っていたのです。「お父さんは、ぜんぜん遊んでくれない」と不平を言われてはじめて、その時間をとってないことに気がついたのです。    先日もいつものように長女が、「お父さん遊ぼう」と言ってきました。すかさず「仕事があるから」と私。「いつも遊んでくれない」との長女の言葉に、「お父さんには仕事がたくさんある。いつもいっしょにいられるだけ良いと思いなさい」と怒ってしまいました。ワープロを打ちつつ窓の外を眺めてると、長女が一人でままごとの道具をいっぱい持って公園にいくところでした。その後ろ姿がせつなくて涙がでてきました。そこで、たったわずかな時間じゃないか、いっしょに遊ぼうと決心したのです。    二人でブランコに乗り、青空に足がとどきそうになるくらい、思いっきりこいでみました。そのときの清々しさに感動しました。そしてふと隣りの華美をみると、同じくらいブランコをこいでいました。そのリズムが一つになったとき、娘はこんなに成長したのかと、神様に感謝しました。青空と長女の笑顔、一生忘れられないものです。

「神のために合わせて」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「神のために合わせて」 1 コリント   3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。 東日本震災救援をしていたとき、ボランティアセンターの受付をしました。たくさんの方々が受付に来ますが、対応に苦慮したのは宗教関係のひとたちでした。とくにキリスト教関係の人たちは自分勝手な思いを押し付ける団体がありました。自分が牧師という立場だったからそう思ったおかもしれません。ただ、受付に来る団体は私がキリスト教の牧師と知らないのです。自分たちは神様の業をしている。聖書には奉仕がどんなものであるか書いてある。あなたに教えてあげましょうという態度でした。あたかも神様の代弁者のようでした。これにはとてもついていけませんでした。 パウロは教会を、神様が奉仕者たちを用いて「耕作する畑」「建てる建物」といいます。ここに神様の同労者であるという表現が用いられています。これは神様と共に働く者という意味ではなく、神様のために、神様に用いられて、私たちが共に働く者という意味です。神様と同じことをしているという意味ではありません。その辺を誤解すると、裁きへとつながっていきます。自分たちは神様と働いているのだという思いで、相手をつい除外してしまうことにもなりかねません。  熊本地震支援活動で宗教団体の姿がみえなくなったとお聞きしました。たぶん支援活動の区切りが半年を見据えて終わってきたのでしょう。緊急支援から始まり、避難所支援、がれきの撤去などの活動が落ち着いてきたのかもしれません。ただある人が次のように言われました。「残念ですよね。宗教の出番はこれからなのに、帰っていくのですよね」と。確かにそうだなと思います。宗教のもつ心の寄り添い、傾聴はこれからです。そこには目が向かずに活動を終了したり、違う活動へと流れたり。きっと見ているところが違うのかもしれません。私たちは力を合わせて働きます。しかし、私たちの賜物を忘れてはいけません。そこに神様から与えられた使命と言う者があります。いま被災地に留まり、踏ん張る寄り添いが求められているように思いますが。 パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く」と教えています。力を合わせて行くということは、自分一人ではできません。