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8月, 2019の投稿を表示しています

礼拝後のカフェは美味しい

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礼拝後のカフェの様子です。 参加者は思い思いにテーブルを囲みます。 ヘルシーな美味しいものが出ますよ。 これも楽しみです。

明日は礼拝です。

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説教者:立野泰博牧師(主任牧師) お待ちしています。

「本当の子育て」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「本当の子育て」    親というものは、自分の子供に対しては冷静になれないものだ、とつくづく感じます。冷静に接しているように思えても、親としての愛が積もり積もってエスカレートしていくと、怒鳴ったり叩いたりです。    一年生の華美が、いま足し算の勉強をしています。問題はいたって簡単なものです。「5は□と2です」。さて□にはどんな数字をいれるかというものです。親にとっては簡単なのは当たり前です。しかも、それが簡単にできるように勉強するのが一年生です。ところがそれを忘れてしまうのが親なのです。    「なんでわからないの」「だいたい基本がわかってない」「こんなのもわからないなら学校やめなさい」と怒りだす。しまいには「クラスであなただけがわからないの。となりの子はできるんでしょう」と、つまらないことを言ってしまうのです。涙を流しながらやっている娘をみていると、そんなに問題となることではなく、できないのがあたりまえなんだと思います。    神様は私たちを子としてくださいます。だとすれば、私たちにとって親です。親なる神様は私にどのように接しておられるのでしょうか。怒鳴ったり叩いたりはなさいません。ましてや人と比べたりはなさいません。よき子育てもまた神様に聞くのが本当ですね。これまた祈りです。

「苦しまれたからこそ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「苦しまれたからこそ」 ヘブル   2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。 東北被災地救援終了にあたって、これまで出会った被災者の方々に挨拶をしたときのことです。そ一人のおじいちゃんに「これから奈良にいくんだっぺか」と聞かれました。何のことかと思いました。どうも台風豪雨被害にあった奈良に救援活動にいくと思われたみたいです。被災者の方々はよく「わたしよりももっと大変な人がいるから」と言われます。「うちは流された人が2人だから。5人6人は大変だぁ」とも。自分のこともですが、被災にあって苦しんだからこそ、隣にいるひとの苦しみがよくわかると言うのです。現場にいなければわかないことがたくさんありました。救援活動の原点は現場に共にいることだと思います。 ヘブル書における「試練を受けている人たち」とは、ローマ帝国によって迫害されている人たちをさしています。しかし、迫害ゆえに信仰の疲れが生じ、信じることが出来ないというような内面的な試練の意味が強いと思われます。その試練さえも、イエス様の十字架の試練によれば取るに足らないと言います。イエス様が試練と苦しみに打ち勝たれたからこそ、苦しみ悩む者を助けることが出来る。苦しむ悩む者の試練をよくわかっていてくださるというのです。 奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられる方がいました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを亡くなってのち額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れいつもつけておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。 前夜式では1ヨハネ4章をお読みしました。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」と。 イエス様は十字架という試練を体験されました。そこでイエス様みずから苦しまれた。そしてそれをのりこえて復活されたのです。痛み苦しみと共におられるのです。その体験によって私たちを苦しみから救い出してくださるのです。試練を共に体験したものが、より深くそれを思うことができる。そこに愛があると思います。

「祈られて生まれてくる」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「祈られて生まれてくる」    いよいよ二十六日に第三子が与えられることになりました。帝王切開のために予定が決まっているのです。しかし、親がその子供の誕生日を選べるのも不思議な気持ちがしました。お医者さんの「二十六日と翌月の二日と、どちらがいいですか。どうぞ決めてください」という言葉は、子供の誕生日を決めてくださいと聞こえたのです。    そのことを通していろいろと考えました。この三番目の子供は、実はとっても幸せなのだと思います。なぜなら、二十六日と決められているということは、その日は皆が祈っていてくださるのですから。もちろん子供は祈られて生まれてくるのですが、確実に今日から祈ってくださる方々を与えられているのです。    与えられる第三子が大きくなったとき、「あなたの誕生日はお父さんとお母さんが決めたのだよ。だからみんなが祈っていてくれたんだよ。あなたは祈られていきているのだよ」と、伝えることができます。    教会の子どもたちはみな祈られて生まれてきました。そしてこれからも祈られて育っていきます。なんという幸せなことでしょうか。

「思い悩むと」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「思い悩むと」 マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 禅の話に次のようなものがあります。「池で自分の母と妻が溺れていたら、どちらから先に助けるべきか」という話です。自分ならどうするだろうと思いました。その行動によって「愛」「思い」が表にでてくるような。思い悩んでいるうちに2人とも溺れてしまいそうですが。禅僧の答えは簡単なものでした。「自分に近い方から助ける」です。これは「空」ということのたとえだと思いますが、母か妻か、どちらが大切か、あとでどうなるとか思い悩む必要はないということでしょう。目のまえの出来事に素直に生きていくことです。 イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。 ある会合で、90歳の会社社長さんのお話しがあり、テーマは「年金なんかもらわないほうが長生きできる」というものでした。というのも、人間はやることがなくなれば早死にするといわれるのです。お友達の例をとって、「ここ数年、現役で仕事をしたり、大学教授をしていた友達が、家族から『もう歳だから仕事はやめて年金生活でゆっくりしなさい』と、仕事を辞めさせられた。すると3ヶ月もしないうちにみんな死んでしまった」と笑いながら話されるのです。人は生きるために、自分が必要とされていることが大切だと力説しておられました。「今日やることがある」「自分が今日も必要とされている」という人生は、人を生かしていく。ということでしょうか。 今日をしっかり生きることが明日へつながります。今日の命を感謝して、神様へ信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせして、明日の問題とすることでしょう。与えられた今日、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

鹿児島教会礼拝復活へ向けて一歩

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鹿児島教会の礼拝が増えてきました。 明るく、楽しい礼拝です。 礼拝後はCaféでゆっくりしています。 復活へ向けての一歩が始まりました。感謝。

礼拝です

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礼拝説教:立野泰博牧師(主任) お待ちしています。

「聖書の早合点読み」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「聖書の早合点読み」    インドの笑い話に次のようなものがあります。    旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。    「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」    「そうだな、三・四十分というところだな」    「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもら えませんか」    「いいとも。乗りなされ」    それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。    「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」    「そうだな、一時間くらいかな」    旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。    「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」      進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。しかし、このような間違いを聖書を読むときにしてませんか?早合点読みです。黙示録の早合点読みが、終末思想をあおり立てています。    終末は必ずやってきますが、そのときは主イエスが来て下さる救いの時です。喜びの日であって、悲しみの日ではありません。今、主イエスとともに生きることがどれだけ大切なことでしょうか。

「指」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「指」 ルカ  1:76  主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。 テレビの取材をうけました。テーマは「なぜ男性は結婚指輪をはずしてしまうのか」というものでした。そこで「結婚指輪とは本来何か、どうして左手の薬指か?」という取材でした。あらためて聞かれるとはっきりと知っているわけでないので、困ってしまいました。通説では心臓に一番近い指だからとありますが、何の根拠もないのです。指輪を与えるということはすでに旧約聖書・創世記41章42節にでてきます。エジプトの王ファラオがヨセフに指輪を渡しています。これは「あなたが私の財産のすべてを管理しなさい」ということでした。それがローマ帝国のころは自分の奴隷たちに指輪をさせ、自分の財産のしるし、自分に仕えるしるしとなったのです。お互いにはめるのは、互いに仕えあうというところからきてるのでしょうか。それが発展して結婚指輪・契約のしるしとなったとのことです。 ルカによる福音書の1章には預言と呼ばれるものが記されています。本日の箇所は「ザカリアの預言」とよばれるものです。ザカリアとはバプテスマのヨハネのお父さんにあたります。この預言の前半はイスラエルのエジプトからの解放と、その後のメシアによる民の救いという内容です。後半はこれに加え、バプテスマのヨハネの姿を指示しています。このヨハネこそ「指」です。  バプテスマのヨハネといっても、あまり馴染みはありません。悔い改めの季節にあらわれる人と言えば、このヨハネ以外はありませんが。クリスマス前のアドベントの季節、そして受難の季節。この季節に共通することは「悔い改め」です。さて、バプテスマのヨハネの役割は何でしょうか。私にとっては『指』のような存在です。バプテスマのヨハネはつねに指差しているのです。その指を追ってみるとそこにはイエス様がおられるのです。バプテスマのヨハネがのべ伝える悔い改めをとおしてイエス様をみることが大切だといえます。 バプテスマのヨハネの悔い改めは、私達に罪の赦しによる救いを教えます。そのこと自体がイエスの十字架のできごとです。バプテスマのヨハネによって示された悔い改めをもう一度心に留めてみたいものです。

「心に余裕があれば」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「心に余裕があれば」    華美が一年生になって一ヶ月が過ぎました。幼稚園時代はあんなにおとなしい娘だったのに、いまではハイテンションでガチャガチャ娘へと変身してしまいました。    先日も一緒に寂地山に山登りに行ったのですが、落ちつきのないハラハラの連続でした。何回怒ったことか。ところが山に登り、カタクリの可憐な花をみたとき、「自分はどうしてこんなに怒ってばかりいるのだろう」と、ふと考え込んでしまいました。きっと何か自分に問題があるはずなのです。するとやっぱり、余裕がないことに気がつきました。いろいろな仕事を多く与えられ、ありすぎるために何一つまともにできないイライラがあったのです。お弁当を食べながら、まわり一面に咲いているカタクリが、心に余裕を与えてくれました。    心に余裕がでてくると、「華美も子供らしくなったものだ」と感心したのです。いまこの交わりの中で、華美はありのままでいられるのだなと思いました。学校の緊張から解放され、自然ととけあって遊んでいる。やっぱり、主イエスを中心とした教会の交わり、そして神様が創造された自然の包容力は見事なものだと感心しました。

「信仰の扉を開く」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「信仰の扉を開く」   黙示録   3:7 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。  何か新しいことをする時、大江教会の一部からいつも同じ言葉が聞こえてきます。「説明してください」と。説明することは大切だと思って、丁寧に説明してきました。しかし、何回説明してもそれが理解していただけないということに気がつきました。そこで「説明してください」の意味が違うのだと思いました。それを理解したいと言われているのでなく、自分の知らないところでなされることに抵抗があり、すべてが受け入れられないのでしょう。ということは何度説明しても同じだなと思うようになりました。本当に聞きたい言葉は「説明しろ」ではなく「一緒にやりたいので教えてください」かなと思います。  ヨハネの黙示録には7つの教会にあてた手紙が書かれてあります。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラディルフィア、そしてラオディキアの教会宛です。その中でもフィラディルフィアの教会は高い評価をうけています。最終的に救いに至る道が既に開かれており、恵みの根拠としてキリストの言葉に心を開き、信仰に堅く立っているからです。  ビジネス本にあった言葉です。「誰も説得によって人を変えることはできない。すべての人は堅くガードされた心の変化の扉を持っており、その扉は自分で中からしか開けられない。説得や感情に訴えることによっても、その扉を他人が外から開くことはできない」。人の持っている心の変化の扉とはいったい何だろうと思います。それは自分中心の見方でしかないと言えます。自分を開くのは自分しかないという言葉が当たり前のようで、一番できないことだと私たちは知っているのではないでしょうか。  ダビデの鍵を持つ方とは、イエス・キリストのことです。イエス様のみ言葉を受け入れるときに自分の扉を自分で開けることができるようになります。自分中心からキリスト中心へと変わることが大切なことです。しかも信仰によって開かれた扉は、誰も閉じる事が出来ません。また不信仰によって閉じた扉は人では開くことができなくなります。神様が閉じられるからです。

きままな休日・Caféソーメン

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鹿児島教会の礼拝後にCaféでそーめん 具がたくさんあって、素晴らしい。 塩分、糖分調整の健康ソーメンです。感謝!

youthCaféへどうぞ

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夏はイベントがたくさんあるみたいです。 ぜひ一度どうぞ!

明日は礼拝

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礼拝説教:立野泰博牧師(主任) お待ちしています。

「みんなと再開します」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「みんなと再開します」    「キリストと笑い」という本の中に、ひとつのユーモアがあります。    カール・バルト(神学者)は少ししつこい婦人から、永遠の生命について尋ねられた。「先生、教えてください。私たちが天国で私たちの愛する人々にみな再開するというのは、本当に確かなものでしょうか」。バルトは、その婦人を鋭く見すえながら、おもむろに、しかし力をこめて言った。「確かです。だが、他の人々とも再開します。    婦人は、愛する人再開できるかと聞きました。バルトは、愛する人と再開するけれど、同時に会いたくないと思っている人たちとも再開しますと答えたのです。これはとても面白い話です。    この婦人は、自分の都合のいい愛する人たちとだけ再開したかったのです。ところがこの考えは、自分勝手で虫のいい願いです。主イエスの十字架を思うとき、私に都合のよい人だけの十字架ではありません。むしろ、私に都合の悪い人にとっても赦しの十字架なのです。私の立場がどうであろうと、主イエスは救いに導かれるのです。それでなければ、主イエスを信じたりはしません。    神様の救いは全ての人のためにあります。だから、神様の国ではみんなと再開するのです。ただし、神様に救われた人たちになった姿で再開します。

「天の星のように」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「天の星のように」 出エジプト   32:1 あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」 心の片隅に覚えていた小さな詩があります。絵本の中の言葉だったと思いますが、あるカトリックの神父さんの本で紹介されていました。小さな子どもの言葉をそのまま書き記した口語詩のひとつです。     おほしさんが     ひとつでた     おとうちゃんが     かえってくるで  夕暮れに小さな子どもが空を見上げると、光り輝く金星がひとつあった。その星をみた子どもの心に映ったのは、世界でたった一人のお父さんが帰ってくる姿。なんだか暖かく、家族ってこんなものだなと感動しながら読みました。「かえってくる」ではなく「かえってくるで」という、この「で」に、子どもの気持ちが表れている。この「で」を読んだとき、そうだ!と思いました。星を見ながら人は様々な思いを持つのです。  出エジプト記の中で神様は、イスラエルの民のかたくなさに激しく怒り、民を滅ぼそうとなさいました。それに対してモーセは、切々たる執り成しの祈りをしました。そこで神様は民に下そうとされた審判を思いとどめられたのです。その切実な祈りが今日のみ言葉です。  昨日礼拝後に釧路のことで話が盛り上がりました。その時に帯広教会(帯広・池田・釧路)の信徒修養会に招かれて、屈斜路湖のペンション「ぱぴりお」にいった時のことを思い出しました。ここは信徒の方がやっておられるペンションで、素晴らしい露天風呂もあり自然を満喫してきました。ヨシュア記を学び、就寝前にはテサロニケの信徒への手紙を輪読し、聖書のみ言葉を自然の中で聞くという恵み満ちあふれました。そして寝る前に屈斜路湖に。明かり一つない湖、上を見上げると満天の星。星の数が半端ではありませんでした。空全体が星だったのです。この夜空をアブラハムもみたのだと思いました。  神様はアブラハムに 「わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わた

「間」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「間」    ヤクルトスワローズの野村監督が、ある対談で次のようなことを言ってました。監督によれば野球の打者は打つさいに、「イチ、ニイ、ノー、サン」と唱えなければいけないそうです。この「ノー」が入らない打者は、「ノー(能)なしなのだ」と言ってました。    バッターが構え、振り上げて打つとき、真っ直ぐの球ならその動作は「1、2、3」でよい。しかし、微妙な変化球を打つには「ノー」を入れた「間」が必要だというのです。大切なのはこの「間」だと言ってました。    私たちの人生にはこの「間」があるでしょうか。間のない人生のことは「まぬけ」というのかもしれません。信仰にも同じことが言えます。これでなければならない、という考えには「間」がありません。宗教の恐ろしさとは、この「間」がなくなったときだと思います。熱狂的になるあまり本来の姿を見失ってしまうのです。    しかし、「間」ばっかりでもいけません。信仰まぬけにならないためには、つねにキリストの御言葉を聞くことしなかいようです。しかし、それが一番難しいのですが・・・。

「応答」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「応答」 ヨハネ 14 : 23  イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住。 2週間分の週報を作ってみますと、先のことはわからないのだと思います。やっぱり先のことより今この時の恵みに、どのように応答していくかという信仰生活の大切さを感じています。「情報は生ものです」という言葉を耳にします。私たちにとっては「信仰は生ものです」かもしれません。つねに新しい命をもつ信仰が、イエスから私たちに与えられています。先のことはわからないけれど、このいまの信仰が先の事柄への平安を生み出していることに気がつきました。毎朝の神様と自分の応答の時間を大切にしたいと思います。それがこの朝礼拝でもあります。  ユダという名前の弟子は、一人ではありません。有名なユダは「イスカリオテ」のユダ。このユダはイエス様を裏切ったユダです。本日のユダは別の人です。そのユダが質問しました。イエス様が弟子たちにはご自分が誰であるか示されるのに、人々には示されないのはなぜかということでした。啓示の問題です。これに対しイエス様は啓示とは一方的なものではく、人々を選択して与えられるものではなく、応答だと言われました。そこで愛の問題を語られています。簡単に言えば、愛というものは往復切符であり、愛されても応答し愛を返さない限り片思いになると言われるのです。つまり、人が神様を信じるという選択も、イエス様との応答の中でこそはっきり与えられるということです。 こども説教を作るときにいつも「応答」ということを考えます。「問」と「答え」を大切にしたいということです。多くのこども説教は「教える」ということにポイントがあります。しかし、イエス様のみ言葉は「教える」ことではなく「伝える」ことがポイントだとおもうのです。教えるなら一方的でいいが、伝えるにはそこで応答が必要です。 イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われました。イエス様を愛するという行為の応答はイエス様の言葉を守るということです。この応答が大切です。私たちはイエス様を愛するから、イエス様の言葉を守る。イエス様の言葉を守ることで信仰が豊かにされていきます。

きままな休日・焼き鳥でしょう!

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やっぱり夏は生ビールでしょう。 つまみは、、、焼き鳥でしょう! この焼き鳥は最高に美味しかったです。

youthCaféやってますよ!

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今日もyouthCaféはオープンしていますよ! 夜はカフェバーになっているみたいです。

礼拝で待ってます。

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  礼拝説教:立野泰博牧師(主任) お待ちしています。

「朝六時の柳井駅ホームにて」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「朝六時の柳井駅ホームにて」    先週の火曜日の朝六時頃に、柳井駅にいました。というのも前日の徳山行き最終列車に乗り遅れて柳井止まりだったのです。この日は長女・華美の入学式があり、とにかく早く帰らねばならなかったのです。ところがここでも一番列車に乗り遅れてしまいました。    朝六時の柳井駅ホームにひとりぼっちで立っていると、なんだかとてもむなしくなってきました。「自分はここで何をしているのだろう」という思いがわき上がってくるのです。誰もいないホームには希望のかけらもないように思えてしかたありませんでした。そんな時、宣教も同じかもしれないと思ったのです。    次の列車まで三十分ありました。いままでの自分を振り返りながら待っていました。すると、十分位前からポツポツと人がこられるようになりました。そして五分前になると大勢の人たちでホームがいっぱいになったのです。しかも、徳山駅までの一駅ごとに人数は多くなり、櫛が浜駅では満員電車へと変わったのです。    「宣教も同じだ」と思いました。神様は粋なことをなさいます。誰もいないホームから満員電車まで、あなたの宣教は無駄ではないよと励ましてくださったのです。私たちは小さな群れでも、「復活列車」はいつも満員なのです。キリストが一つ一つの駅に止まっては、そこにおられる方々を乗せておられるのです。ゆっくりでいいです。

「自分のいいところ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分のいいところ」   ヤコブ   2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。  研修会で経営コンサルトの話をきいてきました。園内、職場環境をよくするということがテーマだったようです。話の中で「自分のいいところ探し」ということがありました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これはとても難しいです。7個位はでてきますが・・。それでも多すぎでしょうか。次に家族の誰かをきめて、また20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし、書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。  聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。 ある会で講演をしてきました。主催は「 LCL 」という会でした。代表の方は、叙情詩人の方で、県下に1500人以上の受講生がおられ、全国ではもっと多くの数になります。この会は氏が34歳の時に「満足して死を迎えるために」ということから始めた講座だったそうです。それから25年、現在では「充分満足に生きたものが、満足した死を迎えることができる」という考えのもと、いまの人生を充分に生きるということを考えておられました。その中で「心とからだ」がテーマになってきたということでした。その心の部分の講演を頼まれたのです。テーマは「私の幸福論」でした。参加者の方々の熱心さに心を打たれて帰ってきました。まったくキリスト教の素地がない方々へ、キリストを直接語らないで、キリストの愛をいただくことの幸福を話そうという試みだったからです。何が一番の幸福か、それはキリストが私を愛してくださっていることを知ること、そして、私もまた愛するものを持っていることだと思います。キリストに

「幸せを探すことが」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「幸せを探すことが」    阪神大震災救援活動のとき、西宮教会で「大阪ムジカ」の皆さんのご協力により「こころなごむコンサート」が行われました。これは学童の子供たちと被災者の方々のためのクラッシックコンサートでした。すべての曲が感動的なものでしたが、なかでも私の目頭を熱くしたのが二曲ありました。    一つはプログラムにはない、祈りとして演奏された「 G 線上のアリア」です。これは言葉では表現できません。本当に祈りでした。そしてもう一つは「めぐる季節」です。この曲はアニメ「魔女の宅急便」の挿入歌だったと思います。たぶん子供たちのために演奏してくださったのでしょう。なぜか私には涙でいっぱいとなる曲でした。    さっそく CD を買いました。そして歌詞カードをみてもう一度感動したのです。出だしはこうです。「薄紅 花景色 せつなさを知った春 はかなく散ってゆく 風の指先ふれて」。この繊細さに驚きました。その歌詩の途中には「幸せを探す人が一番幸せだって」というところがあります。ここが一番感動しました。    主イエスと共に十字架にかかった一人の強盗は、最後まで主イエスをののしっています。しかし、もう一人の強盗は「私を思い出してください」と主イエスに信仰の告白をしました。十字架上で主イエスと共にある幸せを探したのではないでしょうか。彼は人生の土壇場で神様と出会う幸せを探し求めたのです。    「めぐる季節」の最後の歌詞は、「明日はどんな風 歩き出す窓辺から、もうすぐみえてくる夢を渡ってゆこう」とあります。この曲が演奏されたのは神様の配慮だったのだと信じています。

「天国も秋」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「天国も秋」 エフェソ  2 : 4-5   憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです。 五、七、五のなかにすべてを集約させていく俳句。その俳句をつくってみようと考えましたが、やっぱりだめでした。どうしてもとってつけたような言葉になってしまうのです。素直に感じたままを言葉にするのは大変なことだと思います。まして愛を表現するのは大変なことです。日頃の生活の名kで、言葉を選ぶよりも、こころを伝える姿勢に変わりたいと思います。俳句とはこころを震動させて伝えることだとわかったのは、ひとりの小学生の句に出会ったときでした。    天国も もう秋ですか おとうさん   塚原 彩 『ちいさな一茶たち』より。 何かこの句は、人を生かす力を持っています。死んでいた心に命をふきこむような。 パウロはエフェソの教会人々は、救われる以前の「死んでいた」状態であったと告げています。エフェソの人々の過ちに、罪が加わり、さらに多くの罪を重ねた生き方は、生きていながら死んでいる状態だというのです。そういう人間に対して神様は3つのことで、罪ある人間を救われたのです。「憐れみ」「愛」「恵み」です。この3つが、人間を絶望の状況から救いの状況へと逆転させたと述べています。パウロは「わたしたちをこの上なく愛してくださり」といいます。イエス様がわたしたちをこの上なく愛してくださったのです。その愛を中心に憐れみ、恵みがあります。 テレビで「心霊現象」の番組が最近多いことが話題になりました。私は小さい頃からそのような番組は観ないことにしています。きっと怖いからかもしれませんが、観たあとに必ず熱をだしてしまうのです。これも気分の問題でしょうが。さて、ご主人を先に天国に送られた方が「いまでも隣にいる感じがする時がある。昨日も夜中に目が覚めて、ハッと隣に主人を感じた」と言われました。すると、もう一人の方が「そうなのよ。台所で炊事をしていると、隣の部屋でお茶を飲んでいる主人を感じることがある」と。またまた別の方が「私もそんなときがあった。ふとテレビを観ていると、横で主人も観ているような感じがす

きままな日曜日・大地の恵みソーセージ

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生ビールの季節ですね。 となるとソーセージですよね。 大地の恵みポークのソーセージは阿蘇の香りがする! 生ビールに会いますよ!

鹿児島教会とある日曜日

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鹿児島教会の日曜日!お祭りのようになってると報告がありました。礼拝堂ではフルート教室!youth cafeはコーヒー飲み比べの交流会かな。カレーがあるらしい。日曜日に教会があいて活発な行事がおこなわれているのは何十年ぶりかなぁ!よかった!教会改革はまた続く!

明日は礼拝です

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明日は平和を求める祈り礼拝 説教者:関満能牧師(水俣教会) お待ちしています。

「抱かれていると知ってても」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「抱かれていると知ってても」    九条武子さんの歌に次のようなこのがあります。     抱かれてあるとは知らず 愚かにも      我 反抗する 大いなる手に    久しぶりに、日本ルーテル神学大学(現・ルーテル学院大学)へいってきました。全国の中高生キャンプが今年は東京で行われたからです。私にとって神大は母校ですが、いつまでも忘れがたいのは八年間を過ごした「ルター寮」です。いまでは女子寮となってしまった懐かしい部屋を見上げながら、よくあれだけ反抗したものだと感慨深くなりました。    神様との格闘。負けることはわかっていても、どうしても反抗したくなる時があります。「神様は実はいない。助けてくれない。信じている人は弱いからごまかしているだけ・・・」などと、神様を否定しようと努めるのです。しかし、最後にはとらわれてしまい、降参することになります。それでいいのですが。    私たちは神様から抱かれている存在です。逃げられないのです。神様に「私の全てをお願いします」と明け渡したときが、本当の救いの時なのです。安心してジタバタできる信仰ということです。