2019年9月30日月曜日

「時間管理」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「時間管理」

ヨハネ  11:9 昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。

東日本大震災の時支援活動から事務局に戻った時のことです。朝5時に起床して活動を始めることは同じでも、被災地救援活動の働きとは内容がまったく違っていました。一番の違いは、時間の使い方です。被災地では時間があってないような状況(いつ何がおこるかわからない)でしたので、自分の時間管理ができませんでした。事務局に戻り、再び1週間の時間管理を始めました。自分で作成したエクセル表で管理をしました。目的は空いた時間を捜すこと、造り出すことです。空いた時間こそが自分の時間であり、そこに何をいれるかが大切です。造り出された空き時間こそ、自分を豊かにする時間だと思っています。

エルサレムの近くベタニアの村にマルタ、マリアそしてラザロが住んでいました。イエス様が愛された家族です。そのラザロが病気になり死んでしまいます。イエス様はラザロが死んだあとに彼らの家を訪問されました。イエス様は、ラザロが死にかけているのを知っていながら、その死を待っていたかのような行動をとっておられます。その後、イエス様はラザロを復活させます。ラザロの奇跡を通して御自分の「復活と命」について教えるためでした。その中で「時間」についても語られています。

いまの大江教会の宣教方法とはいったい何か?と考えてみました。一言でいうと「どれだけ教会の門を広げられるか」「どれだけ教会を開けるか」だと思います。教会に関わるチャンスをどれだけ大きくできるかだと思うのです。そのために様なプログラムを考え、イベントをやり、礼拝堂を一般に開放し、礼拝の数を増やし、祈りの時間のために24時間礼拝堂を開放してきたのです。もっともっと開放できないかと考えています。ご批判も多々あることでしょう。教会が開かれれば開かれるほど、交わりが薄れていくように感じますし、自分では把握できないことも多くなってきます。しかし、その点は信徒のみなさんの相互の交わりによって解決できると思います。この様な中から、洗礼者が与えられました。この人々を導くために、導かれた方の祈りの時間があり、交わりが何時間あったか、はかりしれません。神様から与えられた一人の人のために必死で祈って、つきあってきた時間があるのです。私たちの交わりの中で共に生きていくことを大切にしていきたいと思います。

イエス様は「昼間は十二時間あるではないか」といわれました。それをどのように用いて行くか。また夜も十二時間あります。この時間が与えられている私たちは賢くその時間を用いることを求められています。時間の使い方、休むこともその用い方の一つです。自分の成長のために時間管理ができればと願っています。

2019年9月29日日曜日

気ままな休日・阿久根のうどん定食

阿久根でうどん定食を食べました。
素晴らしい味で感動。
さらにホカホカのつけ揚げがおいしかったです。

2019年9月28日土曜日

アースキャラバン2019希望の灯




鹿児島で初めてのアースキャラバンが行われました。
宗教宗派を超えて平和を祈りました。

2019年9月27日金曜日

明日は礼拝です。

説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)
礼拝後は矯風会の後援会があります。
cafeでゆっくりもしていただけます。

2019年9月26日木曜日

「掃除魚」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「掃除魚」
 
 宇部のダイトウ製版の事務所には、働いておられる方の趣味で熱帯魚がたくさん飼われています。私などはグッピーしかわからないのですが、きっといろいろな種類が飼われているのでしょう。とても奇麗で、みんなオシャレなドレスを着ているみたいです。
 
 さて、そのような華やかな水槽のなかに、一見グロテスクなものがいます。どうもナマズの一種のようで、水槽のガラスに張り付いて、あっちこっち移動しているのです。どうして、このようなナマズをと聞きましたら、実は水槽の掃除をするのだそうです。つまりゴミ処理魚というわけです。そこでよくみていますと、水槽をあっちこっちしながら、苔をたべています。また、魚のフンや、その他ゴミといわれるものを食べています。話によると、この一匹で、水槽はとても奇麗なのだそうです。ところが、問題は成長も一番早いとのこと。
 
 水槽を眺めながら、表で働いているものもいれば、裏でいつも働いている者があり、共同して生きているのだと感じました。どちらが表でどちらが裏という考えも間違っていますよね。この両方が、その命では表です。そしてこの命を支えておられる神様がいらっしゃるのです。
 
 華美が初めての通知表をもらってきました。いいとこも、悪いとこも、判断しているのは人間です。神様の判断によれば、すべてが◎でしょう。

2019年9月25日水曜日

「余分な意見」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

余分な意見」

 ヨハネ  19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。

ある時説教に引用した句からいろいろと意見をいただきました。その句は「松の花四十は老の美しき」です。一番多かった意見は「そういえば、四十歳は自分のこれまでを一応区切りをつけた歳だった。四十歳は人生のひとつの節目だ」というものでした。きっと心情も身体もひとつの節目を迎えるのかもしれません。そこに美しき老があるのかも。イエス様は十字架におかかりになった時、約33歳(聖書によれば)だったと書かれてあります。この年齢をどのようにとらえたらいいのでしょうか。ここだけでも多くの意見があるみたいです。違った意見を聞くことも大切だなと思います。

 イエス様は総督ピラトから死刑の判決を受けます。しかし、ピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と告げています。イエス様をなんとか釈放しようとするのですが、群衆の声に負けてしまうのです。その群衆の声は「十字架につけろ」という一つの意見しかありませんでした。違う意見をもっていることを認めない群衆の声が、イエス様を十字架の死へとおいやったのです。

 ある本の中に考えさせられる文を見つけました。「二人の人が同じ意見を持っているとすれば、そのうちの一人は余分である。同じものしか見えない人といくら話をしたところで、何も得るものはない。自分と同意する人といくら話しても、意味がない」というものです。人が独裁者になったり、裸の王様になったりするのは、違う意見があっても聞かないからです。また意見が言えないのは、聞く側に大きな原因があります。聞く側の人にとって同じ意見ばかりのときは、立ち止まって自分自身を省みる必要があります。

 イエス様を死刑にするために群衆はみな「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んでいます。同じ意見の者ばかりがそこにいました。ただ総督ピラトだけは違う意見をもっていました。ところが、同じ意見の者たちに押し切られてしまうのです。意見の違いを理解しないところの結果が、死刑につながっていったのです。ただし、十字架の意味は別の所にありましたが。今日は、意見を聞くことの本当の意味を考えたいと思います。

2019年9月24日火曜日

「期待に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「期待に」
 
 暑い日々が続いています。こんなときはさわやかな笑い話がないかなと考えていまして、一人で思わず思い出し笑いをしてしまいました。
 
 ある時、商工会議所のイベントに呼ばれたことがあります。私が呼ばれるのは大抵が変わった結婚式の司式なのですが。その結婚式は、お祭りの中でのものでした。さて、結婚式が無事終わりホッとしている時、代表の方が挨拶にこられました。そして、「これはほんのお礼です」とかなり分厚い封筒をくださったのです。わたしはとっさに「商工会議所はやっぱりすごいのだ」と関心してしまいました。いったいいくらくださったのか、はやく見たくてしかたありません。挨拶も早々に引き上げ、どこかでこれを見るところはないかと探していました。ゆうゆうよ歩きながら、心は「はやく、はやく」といっています。やっとのことでスーパーのトイレに入りました。期待に胸をふくらませて、中をのぞき込みました。すると、その商店街で使える、100円の商品券が30枚はいっていたのです。トイレの中で大笑いしました。いやいや商品券にではないですよ。自分自身がおかしくなったのです。その後この件について、よくよく考えてみました。きっと神様が、「おまえはお礼をもらうためにやったのか」「これでは不満なのか」「あなたはどこに立っているのだ」と問われていたことに気がつきました。それ以後、頂いた封筒は切らずに、愛する妻に渡しております。

2019年9月23日月曜日

「忍耐強く」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「忍耐強く」

ネヘミヤ 9:17 聞き従うことを拒み、彼らに示された驚くべき御業を忘れ、かたくなになり、エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらなかった。

東日本大震災救援活動の中で思ったことは「東北の忍耐強さ」です。東北の人と出会えば出会うほど、この「忍耐強さ」を感じます。これまで出会った人たちは「氷が張った田圃で田植えをし」「雪降る海で漁をし」「長い冬は出稼ぎ」そのようにして家族を守り生活してきたと教えて下さいました。耐えて生きることを知っておられるのだと思います。与えられた試練で乗り越えられなかったものはない。パウロが示した聖書の言葉さえきかれました。この東北の方々と共に寄り添う活動は、私たちも忍耐強さを学ばなければなりません。そこで活動するボランティアは、仕えるとは何かを問われています。

ネヘミヤ記はエズラ記と共に読まれるイスラエルの歴史書です。しかしその歴史性に関してはこれまでも多くの議論がありました。もっとも大きなものは、いつネヘミヤとエズラがパレスチナで活動したかと言う点です。しかし、バビロン捕囚から帰還した者たちに対する祈りと罪の告白、神様との誓約がまとめられているのがネヘミヤ記です。イスラエルの人々が罪を犯し、神様を離れようとしても、神様は決してみ捨てられなかったというのです。そこに「忍耐強さ」が記されています。

先週のことでした。車に乗り込むと、一匹の虫がフロントガラスにくっついていました。そこで、車を走らせればすぐに逃げるだろうと思い、動かしはじめたのです。ところが、一生懸命にへばりついて逃げません。スピードをあげるといいかなと、そうしても逃げません。それでは遅くしたらと、そうしても逃げないのです。その忍耐力に感心してしまいました。それからが黙想です。はたしてその忍耐とは何か。むかってくる強風に飛ばされないように必死に耐えている姿に感動をしながら見ていました。はたして、自分にはそれだけの忍耐力があるだろうか。はたして、神様の御言葉に耐える力があるだろうかと、いろいろと黙想していたのです。

ネヘミヤは神様を「罪を赦す神」といっています。そして「恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに溢れ、先祖を見捨てることはなさらない」と告げています。その神様に私たちは守られて生きています。忍耐強く私たちを待っておられる神様を信じ、神様に従っていくとき、私たちの進むべき方向は示されていくのだと思います。

2019年9月22日日曜日

きままな休日・スペンサー先生ととんかつ

鹿児島ルター君の朝のみ言葉教会の礼拝に、
J3のスペンサー先生ときました。
で、やっぱりトンカツですね。
大学生のカフェなどみていただきました!交流も!

2019年9月20日金曜日

2019年9月19日木曜日

「携帯電話神経症」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「携帯電話神経症」
 
 どうも最近ある病気になってしまいました。それは「携帯電話神経症」です。この病気の特徴は、電話から解放されないことによる神経症です。まあ勝手に私がつけた病名ではあるのですが。
 
 携帯電話を持つようになって、便利な面と不自由な面と両方あります。便利な面は、どこからでも電話できるし、どこにいても本人がつかまる。これは、いろいろなことが即決できるという便利さがあります。教会においては、常に信徒の皆さんに対応できるということです。
 
 さて不自由な面。これはどこにいても電話に出なければならないということです。たとえば、そこが運転中の車でも、電車・バスの中であっても、そしてトイレで用を足していてもです。またいつかかってくるかわかりませんから、電話を離せないのです。この電話を離せないということは、仕事から解放されないことを意味します。最近の失敗は、松岡牧師の携帯電話になにげなく「いま元気?」とかけたところ、松岡牧師は威厳のある声で「元気だけど、いま火葬場」と。これは困りました。また、よるカラオケで歌っている時に、悩みの相談などなど。これでは神経症になるわけです。電話を見るのが怖くなります。
 
 しかし、神様ってすごいとも感じます。祈りによっていつでも人の思い聞かれるのですから。神様は「祈り神経症」にはならないのです。

2019年9月18日水曜日

「いい・加減で」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「いい・加減で」

 マルコ 6:31 イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」といわれた。

信徒の友に「信仰者とこころの健康」と題して「いい・加減」のすすめを取り上げていました。まじめな人間ほど小さいときかた駆り立てられるような命令のもとに生きているそうです。たいてい5つの事柄で「完全であれ」「努力せよ」「他人を喜ばせよ」「強くあれ」「急げ」だそうです。牧師などは大抵まじめな方が多いようで、これに従って(支配されて)全力疾走しているものだから「燃え尽き症候群」になるといいます。これが親の言いつけを忠実に守ろうとする「良い子」の姿勢なのです。それでは考えるべきか?ある意識をおきながら、この5つを対処すればいいといわれます。どのような意識なのか。「いい・加減」です。5つには「ここまでにする」「これをするだけでよい」「自分が喜んでよい」「自然にふるまってよい」「時間をかけてよい」というおまじないを自分にかけてあげればいいのです。

 イエス様が弟子たちを派遣されたとき「杖一本の他に何ももっていくな」と言われています。これを聞いた弟子たちは一生懸命に宣教したことでしょう。宣教する以上は「きちんと」「熱心に」「他人に配慮しながら」「しっかりと」「しかも迅速に」が求められていたことでしょう。が・・・これが「燃え尽き症候群」に陥るもとだと言われています。

宮城県での救援活動の時に広島へ行きました。震災報告講演会に招かれたのです。現場を離れると急に疲れがでてきました。仙台駅で新幹線に乗った瞬間に、これでもかという疲れが襲ってきました。体が宙に浮くような、微熱っぽい感じです。東京駅まで爆睡状態。そこから飛行機で広島へ。これまた爆睡。ホテルで爆睡。やっと落ち着き、講演を終えたころにやっと体調がもどりました。その時、宣教活動から帰ってきた弟子たちに「しばらくやすみなさい」といわれた、イエス様のみ言葉を思い出しました。休むことも神様の業の中で大切なことです。その夜、久しぶりに長女と「鉄板焼き・お好み焼き」を食べにいきました。商店街にあるかなりおいしいお店です。店長の「何食べる?」に「はい、おまかせで」という会話で、楽しく食べてきました。この時間が自分のすべてを癒してくれたようです。やっと元の状態にもどった感じでした。いまこそ心のクールダウンが必要ですね。

 イエス様も弟子たちの一生懸命にたいして「しばらく休みなさい」といわれました。「休んでいいのだよ」というメッセージをくださるのです。心の休みを持ちつつ与えられた仕事をしましょう。燃え尽きないように。あなたが燃え尽きると、隣の人にも火は移りますから。

2019年9月17日火曜日

「約束って何」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「約束って何」
 
 「約束」ということほど、忘れ去られてしまうものはありません。約束を守るということに、いいかげんになっている自分をよく感じます。つまり、自分の都合で、コロコロといとも簡単に約束を破ってしまうのです。
 
 我が家では、毎晩寝る前に「お父さんによる創作童話」の会を開くことにしています。場所はフトン、聴衆は二人。内容はとりとめのない創作話です。あるときは聖書の話もするのですが・・・。
 
 さて先日のことでした。その日は朝から忙しく、やっとホッとしたのが夜になってからのことでした。それで、「今日はお父さんは疲れているから、お話しはなし」といったところ、それからが大変でした。「約束だったのに」「お父さんのウソつき」「いつも約束を破る」と泣き出してしまいました。これには私もカッときて「約束したけど、お父さんも疲れているのだ」「約束だって守れないこともある」などと言い訳する始末。後から自分の言葉を点検してみると恥ずかしい思いでした。「約束」とは何かを思い知らされる出来事でした。
 
 そのような中で、華美の言葉に嬉しくもなりました。その言葉は泣きながら「はなちゃんは、毎日、毎日、お父さんのお話しを楽しみにしているのに。お話しがあるから嬉しく眠れるのに」というのです。何げない話の中に、神様が与えてくださる絆があるのでしょう。

2019年9月16日月曜日

「自分というメディアの信頼性」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「自分というメディアの信頼性」

使徒言行 9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。

ある本で「想いが通じる5つの基礎」を読みました。最初の項は「自分のメディア力をあげる」と書かれてあります。これは、「何を言うか」より「誰が言うか」で違う時があるというのです。たとえば社会経済の動向を、スポーツ新聞で読むのと、日本経済新聞で読むのでは、同じことでも伝わり方が違うのです。経済の問題を考えるのに、どちらの新聞に信頼を置いているかということです。野球解説を読む場合は逆になります。ということは、話しが通じるためには、日頃からの人との関係の中で、自分というメディアの信頼性を高めていかねばなりません。この信頼性が根底にあるかないか。これが、話しが通じる基本です。礼拝でもおなじことです。信頼を受けてないところでいくら説教を語っても、それは通じないのです。

サウロというのはパウロがキリスト者を迫害していた時の名前です。かれはダマスコ途上で、復活されたイエス様に出会い「なぜ、わたしを迫害するのか」と問われます。そこで彼は回心をし、キリスト者となるのです。パウロはすぐに宣教を始めるのですが、誰も彼のことを弟子だとは信じなかったというのです。

教会掲示板のポスターをみながら、会話してる声がきこえてきました。その時の説教題は「愛されると悲しくなる」でした。「おい、愛されると悲しくなるか。おれはとても嬉しくなるけどなあ」。するともう一人が「わかってないなあ。あんたのは、遊ばれているだけ。おれは悲しくなるのがわかるな あ。うん、本当に愛されたら涙がでるもんよ」。「そうかね。それくらい愛されてみたいもんだ」・・・と。この会話を聞きながら、「それくらい愛されてみたい」という言葉に、現代の人間のもつ寂しさみたいなものを感じたのです。悲しくなるほど愛されてみたいというのは、愛を実感したいというのとはちょっと違うのではないでしょうか。そのような愛に(出会いたい)ということかもしれません。「愛されてよかった」だけでなく、その愛から押し出される一歩を踏み出す勇気を与えられるのです。最高のメディアはイエス様の愛かもしれません。
パウロはキリスト者を迫害していいました。それゆえに初めは信じてもらえませんでした。しかし、その後のパウロの姿、その熱意、信仰によって人々は変えられていったのです。パウロはキリスト者として、弟子として受け入れられていきました。パウロのメディア力は信仰にあると言えます。

2019年9月15日日曜日

きままな休日・茨城のタコ

小沼源七商店からお取り寄せ!
これ美味いっす歯ごたえがバツグン!嚙み切れる!
蒸しタコいいですね!

2019年9月14日土曜日

youth cafeとバーべQ

鹿児島教会。大江教会、youth sense
合同の交流会が行われました。
バーべQで楽しかったです。

2019年9月13日金曜日

2019年9月12日木曜日

「レッテルがある」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「レッテルがある」
 
 禅の話で次のようなものがあります。
 
 池で、あなたの母と妻が溺れている。あなたならどちらを先に助けるべきだと思うか。禅僧がそのような問題を出した。これは大変です。そこに母、妻の両方がいた場合、答えよっては家族争議にもなりかねません。
 
 年をとって弱っている母から助けるべきだ。妻は元気だから少しは泳げるのではないか。いやいや、母は命がもうそんなには長くない。妻はまだ長生きできる。元気な妻を助けて、それから二人で母を助けるのがよい。いやいや、それでは母が死んでしまうではないか。と意見は一致しませんでした。質問をだした禅僧は「おいおい、そんなに議論していると、二人とも溺れ死んでしまうぞ」と言うが意見はまとまりませんでした。
 
 それでは、「老師、老師はどちらから先にされますか」と問いました。すると禅僧は、「わしか、わしは、近くにいるほうから先に救う」と答えた。
 
 これが禅の「空」の思想でしょう。つまり母とか妻とか、レッテルにこだわらない。レッテルを貼っているので、どちらを先にと考えてしまうのです。レッテルをはがしてしまえば、そこに溺れているのは二人の人間です。それがわかれば迷いなく近くにいる方から救えるのです。やっぱり、私はクリスチャン。禅僧にはなれません。神様の御心でどちらかが先に救われると考えているのですから。

2019年9月11日水曜日

「きちんと送ることが」


鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「きちんと送ることが」

創世記 23:2 サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ。

東北の被災地で「最後をきちんと送ってあげたかった」と言う言葉を聞きました。行方不明者の捜索が続く中での言葉です。家族が乗っていた自家用車を必死で探している方にもお会いしました。せめて自動車だけでもみつかれば、そこで生きていた証しに触れることができる、供養ができると言われました。天に召されていった方をきちんと送ることで、次の一歩が踏み出せると言われていました。深い悲しみの中にあっても、先に一歩踏み出さねばならない勇気を持とうとされているのだと感じました。

アブラハムの妻サラが、ハランを共に旅立ったときの年齢は65歳でした。サラが天に召された年齢は127歳とありますから、アブラハムと過ごした年数は62年間でした。彼女はアブラハムの召命と共に旅をする人生を送りました。大変なことだったと想像できます。その妻が天に召された時、アブラハムは「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」とあります。アブラハムは深い悲しみの中にあって、サラの葬式に取り組みました。心を砕き、熱心に交渉し、一つの土地を得るのです。アブラハムがサラの葬式のために多くの時間を費やして取り組んでいることに感動します。

ある兄弟が「牧師と葬儀について話しがしたい」ということで病床に訪問いたしました。「葬儀の段取りとやり方を教えてほしい」とのことでした。自分が死んでから家族があわてないように準備がしたいと言われました。そのような方は初めてでした。ご自分の死が怖くないのかな、どうしていま葬儀のことなのかとも考えました。しかしまなざしの真剣さに打たれ、詳しく話をさせていただきました。死をむかえたらすぐに葬儀屋に電話するからはじめて、前夜式、告別式、その後の諸手続き、納骨、記念会と。そこまでされるのなら、元気なうちに葬儀屋さんと打ち合わせておけばいいですとお勧めしました。それから3日間にすべての準備を終えられたのです。葬儀のときに飾る写真の用意、アルバムの整理。前夜式にはそれをみて賑やかに思い出を語ってほしいと。天に召される日には、朝に銀行へ行かれて手続きをし、墓地を見学して「ここがよい」と決められたそうです。そしてすべての準備が整ったのを感じられたのかアッという間に召天されました。「お父さんは神様のもとへ帰るんだから、旅にでるようなものだから、泣くな」と言われたことがとてもさわやかでした。

アブラハムは、人生の苦難を共にし、神様に従ってきた妻サラの死に嘆き悲しみました。しかし、彼女をきちんと天に送ることができました。アブラハムは、神様から与えられた約束の地に墓地を所有することになりました。この墓地がアブラハムにとってかけがえのない土地となり、いまもなおその信仰を示す場所になっています。

2019年9月10日火曜日

「ねばならない?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ねばならない?」
 
 この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。またけっこうこの思いによって縛られて自由でない方が多いのも事実です。
 
 先日も結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言ってますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。
 
 しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。
 
 主イエスも私たちを縛られません。こうありたいと思う私たちの心を大切にして共に歩んでくださるのです。

2019年9月9日月曜日

「共にいる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「共にいる」

マタイ 28:20 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

「ルーテルさんはいつまでやるの?」。これが最近よく聞かれる言葉です。震災後百日を迎えました。多くのNPO,NGO団体が帰っていきます。緊急支援は3ヶ月ということを決めている団体もおおいです。いろんな意味があります。いつまでも一緒にいて支援を続けると被災者の自立を妨げるとか。資金面でこれ以上活動できないとか。これからは長期戦になり、目的がしっかりしていること、資金力があること、人がいることが大切なポイントかもしれません。そんな中でルーテル支援は期間を決めているか。これ以上の活動をするとなれば、ルーテル教会として大きな覚悟を決めたということです。そうであれば大きなことはできませんが、寄り添い続けていくことがルーテルの使命だと思います。

イエス様が弟子たちを派遣され、天に昇られる前の最後の言葉です。この地上で会うこともできないイエス様の言葉は約束になっています。天に昇っていくが、最後まであなたたちと共にいるという約束です。この約束ができたちを勇気づけたのです。共にいてくださるということがどれだけ弟子たちに力をあたえたことか。それはその後の弟子たちの宣教をみればわかることです。

まだ子どもが幼い時のことでした。長女が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまにりもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。ところが次の日、車を運転しながらある声を聴いたのです。「娘さんは、お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と。私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。

イエス様は「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。この御言葉が私たちを力づけます。人はみな去っていくかもしれません。しかしイエス様は永遠に共にいてくださるのです。共にいて下さるイエス様がおられるから、私たちはこの世でしっかり生きていくことができるのです。

2019年9月8日日曜日

「神様の目は先をみる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の目は先をみる」
 
 帰省ラッシュというのに初めて出会いました。ところが、ちょうど方向が反対だったので、ラクラクとそのラッシュを眺めることができました。しかし、久留米あたりから、関門橋を過ぎてなお車の渋滞には驚きました。動いているように見えてノロノロの渋滞なのです。
 
 初めのうちは「これは大変だろうな」という思い。だんだん「かわいそうだな」になって、「トイレはどうするのだろう」と心配になりました。しかしなお車の列は続いている。「子供を乗せている車は大丈夫なのか」と祈りました。
 
 こんなとき、車にすべて無線がついていて、すれ違う車が、前の状況を伝えるようにすればいいのではと思いました。古賀サービスエリアに入るのに、15キロの列と分かれば近くのインターで降りてドライブインを探すでしょうに。また、子供連れならば、途中で降りて休んだほうがどれだけ楽しい旅行になるかしれません。
 
 そう考えながら、神様の目というのはこんなものかもしれないと思いました。その人の人生の先がすべて分かっている。この道を自分の考えだけで進めば、たまにはラッキーなこともあるかもしれないが、たいていは泥沼の渋滞に入り込んでしまうものです。その時、その時に祈りという無線で神様に聞くのが一番いい方法なのです。車の渋滞をながめながらそんな風に思いました。

きままな休日・AZの定食

鹿児島からの帰り阿久根のAZへ。
ちょっと定食を!
かき揚げ丼定食!まあ量がたっぷりでした。
お蕎麦もついて、、、得した気分だな~

2019年9月7日土曜日

礼拝が増えてきた

今日も20名の参加!
礼拝が復活してきました。
嬉しいで~す!

2019年9月6日金曜日

2019年9月5日木曜日

「正しいという頑なさ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「正しいという頑なさ」
 
 最近では、天気予報がはずれることはありません。しかし、つい一昨年頃までは、大切なときに予報が外れることが多いと感じる天気予報でした。実際はそうでもないのですが。ところで、気象庁では次のような笑い話が語り継がれています。
 
 ある予報官が、明日の天気を「快晴」と予報しました。そして彼は早々と宿直室へいって寝てしまったのです。しかし、翌朝は土砂降りの雨となりました。彼の予報は見事に外れたのです。すると、その予報官は自分のデスクから昨日の天気図を出し、じっとその天気図を眺めました。そして、窓から土砂降りの雨を眺めてひとこと呟きました。「この天気図によると、絶対雨は降らない。したがって、降っている雨が間違っているのだ・・・」。
 
 私たちの人間関係で失敗しやすいのは、この「降っている雨が間違い」と同じかもしれません。人は自分だけが正しいと思っています。また自分しか信じられないという人もいます。自分はあくまでも正しいという頑なさが、人との関係を悪くしているのです。
 
 人間は、みんな正しさも持っていますし、同じようにみんな間違いも持っています。正しさとは神様だと信じているのがキリスト者です。

2019年9月4日水曜日

「嘘と欲」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「嘘と欲」

2ペトロ  2:3 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。

マーク・トウェインの言葉に次のようなものがあります。「嘘というものは無駄に使ってはいけない。いつ必要になるかわからないから」。嘘をつくということは許されることではありません。ひとつ嘘をつけば次から次と嘘を用意しなければならなくなります。結局、嘘は暴かれてしまいます。しかし、嘘をつかなければならない時もあります。それは人生において1回位の事です。そのときのために無駄に使ってはいけないのです。トウェインの言葉に「怪しいとおもったら、真実をかたることだ」というものもあります。真実を語ることが、嘘をつかないということです。嘘を無駄につかわないことなのです。

 ペトロは「偽教師」についての警告をしています。異なる教えを退けなさいと忠告しているのです。これまでもイスラエルには真の預言者と共に、偽預言者もいました。同じように異なる教えを広めるキリスト教分派のような教師たちがあらわれています。しかもその偽教師たちは多くの支持者をえていました。またそこに金銭的な欲もからまって、人々が食い物にされている現実もあったようです。ペトロは、嘘の教えと金銭が人々を滅びへと導いていたことに忠告いているのです。

 若い時『第三舞台』の役者さんのご招待で、『モダン・ホラ-』という演劇を観てきました。言葉の洪水のような、次から次へと襲ってくるギャグとセリフに唖然としました。しかし、よくよく聞いてみると、一つ一つに重いテ-マを抱え込んでいることが解りました。ひとつのテ-マにギャグをふんだんに盛り込んで、それでいて胸にぐっと迫るものがある。笑いのなかにある真実の重みを感じました。「壁があれば倒せばいい。するとまた壁がある。はっはっはっ」。私たちのまわりにはギャグでごまかそうとするものもありますが、その中に何かを訴えようとするものもあります。イエス様の業や言葉をきくとき、「そんなバカな」とふっと笑ったりするときでも、心には何か残っているものです。心に残っているもの、それが真実です。私たちの周りには真実を見つけようとすればできるのです。

 ペトロは「うそ偽りであなたがたを食い物にします」と言います。うそ偽りは私たちを食い物にします。それに騙されないためには、真実を知ることであり、真実を語ることしかありません。その真実は、神様のみがもっておられるもので、イエス様のみ言葉にしかないものです。

2019年9月3日火曜日

「思いやりとは」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「思いやりとは」
 
 久しぶりに東京で吉祥寺から三鷹・西野までバスに乗りました。この路線は神学校時代によく利用したものです。もっぱらパルコ・ブックセンターに行くためのもでした。今回懐かしさもあって、キョロキョロしていますと考えさせられる出来事に出会いました。
 
 ある停留所にバスが止まり、そこには数人のお年寄りが待っておられました。初めの方は半身に障害がありゆっくり乗ってこられました。次のお年寄りは元気そうでしたが、それでもゆっくり転ばないように乗ってこられました。出来事はこれからです。三番目のお年寄りが乗ってこられると、運転手さんが怒鳴ったのです。たぶん後ろに車がつかえていたのでしょう。「はやくして。料金は初めからわかっているんだから、用意しておいたらどうだ」と。するとそのお年寄りは言い返して「年寄りだからしかたないだろう」と言われたのです。
 
 私にはどちらも正論だと思いました。しかし、どちらもおかしいかなとも感じました。どちらにもいえることは「思いやりの欠如」ではないでしょうか。運転手さんもお年寄りも待たせていることは同じなのです。ちょっと思いやりの一言で変わると考えてしまいました。
 
 人々が共に生きていくことの難しさを教えられました。こんなとき主イエスだったどうされるかなと思いながら次の停留所で降りました。

2019年9月2日月曜日

「キリストを背中に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「キリストを背中に」

ガラテヤ 2;20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

最近のネットニュースでは「刺青の消し方」という話題がでています。一度背中や腕に入れ墨を入れると一生消せない。それを消そうとすると大変な痛みと闘わねばならない。また大金がかかる。時間がかかると繰り返しネットニュースででてきます。ということは、それだけ大変なことですからねという忠告かなと思います。しかし、一度入れたら消すことはできない。絵柄も心もというような表現に、キリスト教でも同じような表現を使うなと思いました。この身にキリストを帯びているという聖書の箇所を思い出したのです。しかし、痛みをともなわれるのはキリストなのですが。

パウロは、自分の内に生きておられるキリストを強調しています。キリスト者として生きる者は、徹底的にキリストを受け入れる者です。そして、キリストを徹底的に受け入れるとは、キリストが私を徹底的に支配されるということです。私たちは、信仰によってそれに従うのだというのです。ですから、パウロの行いはすべてキリストからでているものであり、キリストの業であるのです。

東日本大震災でルーテル支援は、被災者のお宅を一軒一軒訪問してきました。そのとき「何かお助けできるものはありませんか」と言葉をおかけします。大抵の方は「私たちより困っている人のところへ行ってください」と言われます。しかし、そこでは助けるものが何もないかというと、そうではありません。そんなときは「助けるものはなくてもお話をきかせてください」とお友達になっていただいています。いま被災者に必要なものは「家と仕事」です。その支援は大きすぎてルーテルさんではどうすることもできません。しかし被災者の方が「ルーテルさんがくると元気になるよ」「ルーテルさん何回もやってきてね」と言われる事が、とても感謝です。被災者のおじいさんがこう言ってくれました。「あんたらはキリストさんをしょってるのだね」と。その一言がどんなにうれしかったことか。

パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」と教えています。宣教に派遣される弟子たちも、みなキリストが内に生きています。私たちが支援活動をさせていただくとき、そこにはキリストがおられます。背中のキリストが、私たちの支援を支え、育み、生かしてくださっているのです。

2019年9月1日日曜日

気ままな休日・赤牛の阿蘇溶岩焼き

熊本にある「花遊」というお店へ。
とても落ち着いたお店でした。
雰囲気も最高で、この溶岩焼きも美味しかったです。
茄子を見て~丁寧な仕事ですよね~