2019年10月31日木曜日

「否定語を使わずに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「否定語を使わずに」
 
 「ひと言のちがい」という本に次ぎのような話がありました。
 
 「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。
 
 さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけづにすむものです。「京都の人は否定語を使わずに断るのがうまい」と作家・渡辺淳一さんは言います。どのようにうまいかといえば、男性がデートに誘う。相手方がその気がなければ次のようにやわらかく断る。「おおきに、ほんまごいっしょでけたらよろしおすな」。こういうふうに言われると傷つくほうも少ないように思えます。
 
 さて、主イエスの言葉はどうでしょうか。主イエスによる否定語ということを考えてみますと、あまりピンときません。むしろどんな御言葉にも励まされているように思えます。たとえいけないという言葉でも、それが私たちのことを考えた深い言葉であるならば、人は前向きに受け取ることができるのです。主イエスの御言葉はどんな言葉でも感謝して受け取ることができるのです。

2019年10月30日水曜日

「ミッションを明確に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「ミッションを明確に」

 ヨハネ  2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。

震災救援活動も3ヶ月目に入りました。緊急救援からはじまり、物資支援、がれき撤去、仮設支援とその活動も広がってきました。ところが「活動は点が多く線になってない」「線と線がつながって面になっていない」と心配されています。東日本で活動した私にとってもそれは心配するところです。

支援センターを訪問し、なぜ点が線、線が面になっていかないかを考えてきました。そこで問題となるのは「救援活動のミッションは何か」ということです。スタッフ・ボランティアもこのミッションが共有されているかどうかです。ルーテル教会救援「でしたしこ」のミッションは被災者と徹底的に寄り添うことだと思います。そのために物資支援等が行われてきました。このミッションがはっきりしていることで、活動の原点に立つことができつながりが生まれるのです。しかもこのミッションは、これから被災地で一番求められることです。

 ガリラヤのカナで婚礼が行われ、イエス様と母マリア、弟子たちが参加していました。婚礼の席でぶどう酒がなくなり、母マリアはイエス様にぶどう酒がなくなったことを訴えます。その答えが「わたしの時はまだ来ていません」というものでした。イエス様の時とは、この世にきてくださったミッションが完成する時です。ヨハネ福音書では「栄光の時」と示されています。

 イエス様は「わたしの時はまだ来ていません」と言われました。イエス様の時とは十字架と復活を意味しています。そのミッションに集中しておられる。そのミッションのためにすべての出来事はつながっています。私たちキリスト者によって大切なことは、イエス・キリストのミッションを絶えず確認し、それを共有し、共に福音にあずかることです。

2019年10月29日火曜日

「自然と求めるもの」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自然と求めるもの」
 
 「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているもの」と、どこかで読みました。そこで振り返ってみますと、私の場合は野菜が食べたくてしかたありません。ということはビタミン不足かなと思います。
 
 さて、あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきにくらいに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返したのではなかったでしょうか。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。
 
 いまにして思えば、あの頃の母は仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。
 
 自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうとか、この本ばっかり読んでいるとか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の求めているものだと言えます。私はどれだけ、主イエスのことを考え、御言葉を口に出しているだろうか。そこに求めているかどうか、自分を吟味している秋です。

2019年10月28日月曜日

「それでも寄り添って」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「それでも寄り添って」

マタイ 176 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。

熊本地震と東日本大震災の違いがあるとすれば、被災者の心のケアと自立支援だと思います。「恐れ」と「不安」の違い、家は残っているがこれからどうするという問題もあります。どうしてよいかわからない状況の中で、いま一生懸命に踏ん張っておられる方があります。しかし、それでも、これでもかと続く余震と大雨。もううんざりします。しかし、その中に私たちは神様をみる瞬間があります。

イエス様はエルサレムへ向かう前、タボル山で変容されたと聖書は記しています。そのとき、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけがそこにいました。真っ白に輝き、モーセとエリアと話しておられる姿を見た時、神様の言葉が聞こえてきたとき、弟子たちは「非常に恐れた」とあります。直接、語りかける神様の声を聞いたからです。その体験は弟子たちの心の中に深く刻まれています。受け取った出来事は、弟子たちにとって恐れとして刻まれたのです。

先週は大きな余震がありました。これまでも毎日のように余震はありましたが、最近では久しぶりに特に大きく揺れました。もっとも恐怖だったことは「大雨・洪水警報」が出され、各地で大きな被害がでたことでした。被災者のみなさんは時間がさかのぼり41416日が再び心の底から突き上げてくる状況におかれました。共に働いている被災者の方は、「もういや。もうたくさん。なんで地震や大雨がくるの」との叫んでおられました。復旧への道を歩み始めた被災者に、これでもかというくらい余震が続き、更に別の災害がおこる。そのたびにあの日がよみがえってくる。私たちも何もできずに寄り添っているしかない。毎日が痛み苦しみとの戦いなのだということを教えられています。やっぱり、それでも踏ん張るしかないのです。

イエス様は恐れている弟子たちの近づき、手を触れていわれました。「恐れることはない」。恐れる弟子たちに近づいて手で触れておられます。ここにイエス様の愛を見ることができます。恐れのなかにあっても、イエス様は共にいてくださるということです。手で触れてくださるというのです。私たちのとなりにいてくださるイエス様が恐れる人たちに触れてくださる。私たちはそう信じて寄り添っているのです。

2019年10月27日日曜日

きままな休日・じじやの新幹線寿司

新幹線が運んでくるお寿司です。
これで3400円はすごおおおおおおい
また味もおいしかったですよ。

2019年10月25日金曜日

阿久根でコンサート


チェンバロ 加藤麻衣子さん プロフィール

エリザベト音楽大学、東京藝術大学大学院修了。2010年、トゥールーズ地方音楽院をプルミエプリを得て卒業。2013年、同音楽院にてチェンバロのDEM取得。2014年、トゥールーズ高等芸術院にて、国家演奏家の資格を取得。これまでに、トゥールーズの国立オーケストラ、J.P.カニヤック率いる古楽アンサンブルのサックブチエを始めとする数々のアンサンブルと共演。また、古楽器ホルン奏者のJ.ランバックやサックブート奏者のD.ラサル、F.ミリシェールと共演。2010年、ジャン=ルイ・フローレンツ国際オルガンコンクール優勝並びに、フランス芸術院よりグランプリ受賞。2013年、ジンバーマン国際オルガンコンクールファイナリスト。同年、グザヴィエ・ダラス国際オルガンコンクール第3位、聴衆賞受賞。オルガンを戸沢真弓、廣野嗣雄、椎名雄一郎、M.ブヴァール、J.W.ヤンセンの各氏に師事。日本福音ルーテル東京教会オルガニスト。日本オルガニスト協会、日本オルガン研究会会員。

 
ヴィオラ・ダ・ガンバ 木村鐘靖さん プロフィール

1959年生まれ、幼少よりヴァイオリンを広瀬大喜氏に師事、高校2年生の時、熊本交響楽団に入団。大学生の時、グループ葦と出会い、ヴィオラ・ダ・ガンバを引き始める。

土曜日は鹿児島教会へ

説教者:立野泰博牧師(主任)
どうぞお越しください。

2019年10月24日木曜日

「神様はどこに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様はどこに」
 
 神様がどのように働かれるのか、その経緯は人間にはわかりません。あれは失敗したとか、あの方の悩みを解決できなかったと思うことの方が多いものです。しかし、どんなに人間が失敗したと思っていても、そこには神様の御心が働いているものです。
 
 先週一人の婦人が教会にみえました。まったくお会いしたことのない方でした。その方は「今日は献金を持ってまいりました」と言われたのです。よくよく話をきいてみますと、「私は2年位前に、電話で悩みを聞いていただいたものです。あの時はありがとうございました」とのこと。私はすっかり忘れてしまっていて、いまでも思い出すことさえできません。
 
 1週間のうちに何人もの方々が相談の電話をしてこられます。いつも「神様が語ることを教えてください」と祈りながら電話にでます。しゃべり過ぎないこと、よく聞くことが基本です。答えられないものや、受け止められないものの方が多いのが現実です。しかしつねに「神様この方のかたわらにいてください」と祈ります。何もできないかもしれない。しかし、神様はきっと働いてくださっているという信仰があります。その信仰がなければ電話を受け取ることはできません。
 
 教会の修養会や会議に出ていると、神様が見えないことがあります。自分たちでなんとかしようと聞こえるのです。神様はどこにと探しています。
 

2019年10月23日水曜日

「つもりが怖い」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「つもりが怖い」

ルカ 2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

子どもたちが小さかったときよく「~しなさい」と言ったものです。「勉強しなさい」「早く寝なさい」「早くお風呂にはいりなさい」などなど。するときまって子供たちが次のように言いました「いまするつもりだったのに」。このとき「つもり」という言葉は一体何かなと考えてしまいました。確実なことは「つもり」では何もやってないということだけでした。

福音書の中では、ルカによる福音書にのみ「少年イエス」の出来事が記されています。家族の中でマリアとヨセフの子どもとして生活されていた出来事です。神様であるイエス様を、自分の子どもとして育てることは私たちには想像できません。しかし、人として同じように生きてこられた神様であるということを思わされる出来事です。親であって親ではない。これが「つもり」にならなければいいのですが、マリアとヨセフにとってはいつも間違いやすいものではなかったでしょうか。

「つもり」というのが一番危ないことだと思います。「~しているつもり」。つまりできてないと言うことです。自分ではできているように感じます。しかしできてないこともわかっているから「つもり」なのでしょう。勉強しているつもりで、他のことをしている。やっぱり自分をだますのは、自分が一番巧妙なのでしょう。自分が自分だまされいあためには「つもり」を考え直すことかもしれません。

マリアとヨセフは、イエス様の親でした。それが「つもり」に変えられる一瞬があったようです。イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われています。実際は親であるが、神様からみ子をあずかった存在です。このことをしっかりと自分のうちに確認できないと、親のつもりになってしまいます。マリアとヨセフがこの世では育ての親であろうとも、イエス様は神の子なのです。そしてマリアとヨセフでさえもイエス様の十字架によらなければ救われません。私たちもキリスト者のつもりというのが大変な問題です。

2019年10月22日火曜日

「あたえられた時間の中で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「あたえられた時間の中で」
 
 アナトール・フランスの随想録「エピクロスの園」に、次ぎのような話があります。
 
 「ある精が一人の子供に一つの糸毬を与えていう。『この糸はお前の一生の日々の糸だ。これを取るがよい。時間がお前のために流れてほしいと思う時には、糸をひっぱるのだ。糸毬を早く操るか永くかかって操るかによって、お前の一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。』子供はその糸毬を取った。そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、それから子供たちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手にするために、そして最後に、悲しいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っ張った。その結果は、子供は精の訪れを受けて以来、四か月と六日しか生きていなかったという」。
 
 若いころは、自分はどうなるのかと未来を見てみたくてしょうがありません。一方、老人になればいまの時を見たくないとの思いがでてきて、時よはやく進めと思います。しかし、時間は神様によって決められているのです。その日その日が神様が決められた時間であって、早くも遅くもすすみません。
 
 神様が時間を早くも遅くもなさらないのは、その時の自分をしっかり生きてみなさいとの励ましだといえます。病気の時にはそれを受け入れ、楽しい時には楽しみ、それぞれが与えられた時間の中で生きるしかないのです。
 

2019年10月21日月曜日

「一つになって」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「一つになって」

使徒言行 2:44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った、そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。

仮設支援協議のために会議に出たことがあります。仮設支援は、一人の孤独死も出さないようにというテーマをもって各団体が活動をしています。しかし孤独死は増えるばかりです。ルーテル救援も仮設でお茶っこ会(サロン)をしていました。課題は男性の参加者がいないということでした。ある仮設では多くの男性参加者がおり、活動も活発です。そこの違いは「自治会」だそうです。自治会組織が仮設で形成できたところは、自治会の中に男性がおられるのです。その自治会をどうやって作り上げて行くか。課題もそこにあります。そのためには核となるリーダーを必要とします。

使徒言行録は初期の教会の様子をしるしています。「一つになって」「共有」「神殿に参り」「パンを裂き」「食事を共にに」「神を讃美する」。これらは教会の理想像かもしれません。しかし、まず「一つになって」が最初に来ていることに、教会の基本をみます。

熊本地震でもこれから仮設への移住が始まります。その時、上に立つリーダーは何を考えるのでしょうか。仮設という考え方からではなく、たとえ仮の住まいであってもそこは住居であるというところから始まってほしいと思います。仮設では、お店もないし、病院もないし、教育施設もないし。しかし、たとえ仮設であってもそこには町をつくるという発想が出来ないものか。そこからはじめられないものか。そこは上に立つリーダーの考え方次第なのかもしれません。

教会の初めも、12使徒というリーダーがいました。このリーダーたちの信仰に支えられた共同体があったのです。その中心にはイエス・キリストの福音がありました。この福音があったからこそ「一つ」であったといえます。

2019年10月20日日曜日

きままな休日・あずまの麦とろろ定食

草刈り作業のあとはごちそう!
秋はそばの季節ですよね。
麦とろろも最高でした。

2019年10月18日金曜日

2019年10月17日木曜日

「信仰の抗菌剤とは」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰の抗菌剤とは」
 
 出張続きで、ややバテ気味になっております。もっとパソコンが使えたら、家でできるようになるのにと思っています。しかし、パソコン通信も相手ができなければいけないと思うと、まだまだ出張が続きそうです。
 
 さて、出張の楽しみの一つに駅弁があります。最近では神戸の「肉めし」「すき焼き弁当」が美味しいなと思っています。これが大阪になると「3段重ね弁当」になるし、京都では「純和風弁当」(これは量が少ない)。この他、富山の「鱒ずし」。以外と「ぶりずし」もいける。東京は「うなぎ弁当」。あと「鯖姿ずし」に、「柿の葉ずし」「峠の釜めし」「あわびめし」「ねぎトロ弁当」「広島夫婦あなごめし」「かにちらし」「松本そば弁当」と話はつきません。
 
 今回の出張では、神戸「肉めし」の中に不思議なものを見つけました。「ワサオーロ」という1枚の紙です。その紙には説明書きがあり、「私たちが日頃食べているワサビやカラシのあのツンとくる香りに強い抗菌力があることは古くから知られています。『ワサオーロ』はこの抗菌力を生かすべく開発した天然の抗菌剤です」ということ。つまりワサビの香りがする紙なのです。これで抗菌できればいうことなし。
 
 さて、私たちの信仰の抗菌剤は何でしょうか。これもまた紙です。しかし、ただの紙ではなく、神様の言葉が書かれている紙。すなわち聖書です。
 

2019年10月16日水曜日

「行って、宣教する使命」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「行って、宣教する使命」

 マタイ 10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい

使命・ミッションが何かを知ることの大切さを説明した言葉があります。それは「船長のミッションが船を守ることであるならば、船長は船を港からださないであろう」です。自分たちが与えられた使命が何であるか、それは間違ってないかを点検しなければなりません。教会も維持することのみがミッションとするならば、外に向かっての宣教を考える必要はなくなります。各個教会が何をミッションにしているか。また、そのミッションを共有出来ているかを考えてみなければなりません。

 イエス様は弟子たちを宣教へと派遣するにあたり、御自分と同じ権能を与えておられます。宣教する弟子たちの働きは、イエス様の活動と同じ内容でした。弟子たちが出て行って伝える教えも、イエス様と同じ「天の国は近づいた」と、み言葉を宣べ伝える使命が与えられたのです。

「サッカー好きの少年が広場に集まって練習してもプロにはなれない」という言葉を読みました。そんなことはないと反発したくなりました。「好き」ということがまず大切で、「楽しく」やることで成長すると思ったからです。その本を続けて読んでいくと、「なるほどそうだ」と考えを変えました。「プロになる」。これが目標になったら、「好き」「楽しい」だけではいけません。指導者に基本を学ばねば将来プロにはなれない。遊びに終わるだけでいいなら十分です。プロになるという目標があるのなら基本から学び、やるべきことはわかっているというのです。教会の宣教はどうでしょうか。なにを使命としているのでしょうか。これがいまの私の問です。事務局時代にいろんなルーテル教会の礼拝に参加することができました。「どこも同じ」という印象です。礼拝形式から内容、会員構成、財政問題、次世代へのアプローチ問題、出席人数など。同じ問題を抱える原因はどこにあるのでしょうか。「使命」が何かを、教会全体で共有してないことかなと漠然と思っています。れから考えていかねばなりません。ただ、基本は「宣教する」という、イエス様からいただいた使命です。この基本にまず帰ってみることの重要性を感じています。

 イエス様は「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われました。外に向けて出かけていき、み言葉を語り、奉仕する使命・ミッションを与えられました。しかも具体的な指示をされています。ミッションがはっきりしているので、弟子たちはみ言葉を信じ、安心して出かけていったのでしょう。私たちに与えられている神様のミッションがわかっているか。そのミッションに従っているかを考えて今日一日を生きてみましょう。

2019年10月15日火曜日

「どちらでもないよ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どちらでもないよ」
 
 私たちは現実の社会に生きて行く中で、つまらないことに悩むことが多いものです。いや、どうでもよいことに悩むことが多いかもしれません。こんな話しをききました。
 
 一人の子供がいました。彼はあるとき、大人から聞かれたのです。「おまえは、お父さんがすきか、お母さんがすきか」。このような問いは残酷な問いと思います。しかし、私たちはよくこの質問をします。でも、こんなことは子供には聞いてはいけないことなのです。その子供は困ってしまいました。
 
 ところが、彼はそこに一枚の煎餅を持っていたのです。彼はおもむろにその煎餅を二つに割ります。そしてその大人に問います。「おじさん、この煎餅のうち、どちらが好きですか」と。するとそのおじさんは答えます。「同じ煎餅じゃないか。どちらが好きだなんて、馬鹿なことを聞いてはいけないよ」。するとその子供はおじさんに言いました。「それと同じですよ。同じ親なんだもの、どちらが好きかだなんてそんな質問には答えられません」と。
 
 これはよくできた話しだと思います。まったくその通りです。私たちにとって一枚の煎餅を割った二枚のうちどちらが好きかなどどうでもよいことです。しかし、このどうでもよいことに悩んでいるのです。答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。

2019年10月14日月曜日

「一緒に歩くとなりびと」



鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「一緒に歩くとなりびと」

ルカ 24:15 イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

ルーテル支援センター「となりびと」は、仙台市内にある聖公会支援センターに事務所を置かせていただきました。これまでも聖公会とはエキュメニカルな対話を続けてきましたが、この災害が対話を具体化するものとなりました。聖公会とルーテルは協働し、宮城県の支援に携わっていきました。私たちルーテル支援は「となりびと」、聖公会は「いっしょに歩こうプロジェクト」と名前がつけられていました。どちらもその教会支援の特徴を表現しています。この2つのオフィスが一つになったことで、一緒に歩くとなりびとになりました。まさにイエス様の活動そのものだと思います。

ルカによる福音書は、イエス様の復活後の出来事をガリラヤではなくエルサレム周辺の出来事として記しています。エルサレムからその後の伝道は始まったことを描きだしています。2人の弟子がエマオへの道を歩きながら、十字架の出来事や復活のことを論じ合っていました。そこにイエス様が現れたのです。不思議なことに彼らはイエス様がわかりませんでした。ただ共に歩かれる方の存在を知っただけでした。

東日本震災のテーマであった「となりびと」は、その後「寄り添いびと」へと変化していきました。「となり」ではなく「寄り添う」という、一歩踏み出した支援活動へと歩みださねばなりませんでした。しかし、隣り人の本来の務めは「寄り添う」ことによって成り立つことを教えられました。さて熊本震災のテーマ「できたしこ」はどうでしょうか。まだその途中にあって、先が見えていません。一体どこにいきつくのか。共に歩むイエス様からの答えを待っているところです。

イエス様はエマオへの途上で、まず弟子たちに近づいてこられました。となりびとではなく、2人に寄り添われたのです。そして一緒に歩き始められました。この復活後の出来事のなかに、痛み苦しむ弟子たちのためにされたことが凝縮しています。今回の支援もテーマもイエス様の中に見つけることができるようにと祈っています。

2019年10月11日金曜日

明日は礼拝です

説教者:立野泰博牧師(主任)
台風が近づいていますが、礼拝は行います。
お待ちしています。

2019年10月10日木曜日

「なぜ騙されるの」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「なぜ騙されるの」
 
 ある本に「大鼻の蔵人得業」という話が紹介されてありました。『宇治拾遺物語』からのものです。
 
 奈良に一人の僧がおりました。彼は鼻が大きかったので「大鼻の蔵人得業」と呼ばれていました。この僧は若いころ、ちょっとしたいたずらをしたのです。それは猿沢の池に、「某月某日、この池より竜登らんずるなり」と書いた立て札を立てました。もちろんウソです。案の定、人々はそれに引っ掛かりました。
 
 「おい竜が登るそうだね」「そうらしい。ぜひともみたいものだ」という噂を聞くたびに、自分がやったいたずらに人々がだまされたと、僧はよろこんでいました。ところが、噂は噂を呼び、ますます騒ぎはひどくなってきたのです。そして立て札に記された日になると大和、河内、和泉、摂津の国の人達までやってきて、猿沢の池は道も通れぬほど人で一杯になりました。
 
 はじめは僧も平気な顔をしていましたが、だんだんそわそわしてきました。愚かな群衆が引っ掛かったと思っていたのですが、(ひょっとしたら、何かあるかもしれない)と思い始めたのです。そしてそのうちに(これは、何かあるに違いない)となり、慌てて猿沢の池に向かったのです。池の回りは群衆でごったがえしています。そこで僧は寺の大門の上に登って、池をじっと見つめていました。もちろん、竜がいつ登るかを期待して。しかし、竜は時間になっても登りません。そのうちに日が暮れてしまいました。という話です。
 
 自分が神様だという人々は、これにひっかかるのですね。自分を神様といわないまでも、人間は自分を誤解していることが多いものですが。

2019年10月9日水曜日

「目標・ゴール・期間」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「目標・ゴール・期間」

マタイ 10:7 行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。

少し落ち着いてきたので、時間をみつけて読書をするようになりました。めまぐるしく時間が過ぎていくなかで、何かひとつでも違ったことをしておかねばとおもったからです。しかし救援活動に入り込んでしまうとそのような時間はなくなってしまいます。今日読んだ本の中にあった言葉です。「オーケストラは、これから演奏しようとする楽曲、つまり目標を知らないメンバーはいない」。救援活動も一致した目標は何かを常に示す必要があります。目標とゴールと期間。これが明確にしめされてこそ活動がよりよい報告に進んでいくのです。この3つを本部が示しているかをたえず考えておかねばなりません。

イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、イエス様は同じ権能を弟子たちに与えられました。その働きはほとんどイエス様の働きと同じです。また、行って人々に宣べ伝えることも「天の国は近づいた」ということであり、これもまたイエス様の教えに基づいています。また派遣するにあたり注意されたことは、的確な指示でした。

台湾の教会でのセミナーで一番印象に残った言葉は、「貧乏の夫婦にも、金持ちの夫婦にも子供は与えられる」という言葉でした。これは教会の宣教方策、宣教目的の話のときに出てきた言葉です。台湾のルーテル教会は、その宣教目標に新しい教会を生み出すことをあげていました。どんなに小さな教会で予算がなくても、どんなに大きくて安定している教会でも教会は生み出すことができるのだと教えられました。

イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われました。大きな目標はみ言葉を宣べ伝えることでした。このはっきりとした目標のもとに派遣されたのです。私たちの活動におけるイエス様のみ言葉はなにかを考えつつ今日も被災地に立っています。

2019年10月8日火曜日

「神様の目は先をみる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の目は先をみる」
 
 帰省ラッシュというのに初めて出会いました。ところが、ちょうど方向が反対だったので、ラクラクとそのラッシュを眺めることができました。しかし、久留米あたりから、関門橋を過ぎてなお車の渋滞には驚きました。動いているように見えてノロノロの渋滞なのです。
 
 初めのうちは「これは大変だろうな」という思い。だんだん「かわいそうだな」になって、「トイレはどうするのだろう」と心配になりました。しかしなお車の列は続いている。「子供を乗せている車は大丈夫なのか」と祈りました。
 
 こんなとき、車にすべて無線がついていて、すれ違う車が、前の状況を伝えるようにすればいいのではと思いました。古賀サービスエリアに入るのに、15キロの列と分かれば近くのインターで降りてドライブインを探すでしょうに。また、子供連れならば、途中で降りて休んだほうがどれだけ楽しい旅行になるかしれません。
 
 そう考えながら、神様の目というのはこんなものかもしれないと思いました。その人の人生の先がすべて分かっている。この道を自分の考えだけで進めば、たまにはラッキーなこともあるかもしれないが、たいていは泥沼の渋滞に入り込んでしまうものです。その時、その時に祈りという無線で神様に聞くのが一番いい方法なのです。車の渋滞をながめながらそんな風に思いました。

2019年10月7日月曜日

「イエス様の値段」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「イエス様の値段」

マタイ 26:14-15 十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。

物質としての人間の値段はいくらかということを調べた人がいます。結果は約5000円です。この値段を安いとみるかどうか。なぜ人間の値段が約5000円かというと、脂肪から石鹸7個分がとれます。炭素から鉛筆の芯が9000本分。鉄分から2寸釘1本分。リンからマッチ2200個分となるからです。以上の合計が5000円ということです。これを聞いただけでも、人間は値段にはかえられないことがわかります。人間の価値は金額ではありません。命の値段は金額ではないことは皆がはっきり知っていることです。

イエス様の逮捕を、大祭司たちは祭りの間は止めておこうとします。過越しの祭りは、ユダヤ人にとって大切なものであり混乱を避けようとしたのです。そこへ、イスカリオテのユダがやってきました。大祭司たちにとって、ユダの裏切りは好都合で混乱の責任も押し付けられると考えました。ユダは「幾らくれますか」とお金を請求しています。マタイ福音書にとってこれは旧約聖書の預言の成就(ゼカリヤ11:12)を意味しました。

ある神父さんが書かれた本の中に次ぎのような話をみつけました。ある一人のおばあちゃんが神父さんに質問しました。「神父さん、私はなぜここにいるのですか」と。みなさんはどんな答えをされますか。いろいろと話をきいて、その神父さんは次のように答えました。「おばあちゃん。あなたは長い人生でさまざまな苦労や試練を乗り越えて、ここまで頑張ってこられたでしょう。それは、ご家族や私などには大きな励みになりますよ」と。この話をよんで、さわやかな気分になりました。人はなぜと考える。自分では自分の価値を見いだせないときもある。そのなぜの答えは自分の中にあるのでなく、人を通して、神様を通して答えは与えられるものだと思うのです。

イスカリオテのユダは「幾らくれますか」と言います。イエス様の十字架の死の値段は銀貨30枚でした。この値段の意味をどう考えればいいのでしょうか。私たちの命でさえ金額では計れません。私たちは神様から大切にされている存在です。たとえ銀貨30枚で売られたイエス様の命でも、その命は十字架という使命のために捧げられたものです。この十字架があるからからこそ新しい命が与えられました。復活の命は永遠の命として、神様から与えられる最大最高の命です。

2019年10月6日日曜日

2019年10月5日土曜日

伝道セミナーで報告会

伝道セミナーで鹿児島教会の宣教が報告されます。
楽しみです!

2019年10月4日金曜日

2019年10月3日木曜日

「夢をもつ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「夢をもつ」
 
 たまには、まったく違う世界に足を踏み入れてみるのもいいものです。といっても、それほど踏み入れたわけではありません。むしろしかたなくといった方がいいかもしれません。
 
 8月4日に、広島までミュージカルを観にいってきました。その名もズバリ「サマースペシャル・ミュージカル セーラームーンSs」です。普段ならば母親と行くのですが、あいにく三番目が生まれたばかりなので、私が引率となりました。ところが、一番楽しんだのは私だったかもしれません。なんとCDまで買ってしまいましたから。そのミュージカルを観ながら、どれだけの子供達がこのストーリーを理解しているのかなと疑問に思いました。小さい子供にはちょっと複雑だったかもしれません。一番大切なシーンで、ザワザワしていましたから。もちろん、お決まりの変身と戦いのシーンでは盛り上がってましたけれど。
 
 さて、主人公のセーラームーンが、「夢をなくしてはだめ。夢をなくしたら人は生きていけない」と叫ぶシーンがありました。ポヤ~と観ていた私でも一瞬ハッとしました。「いま自分は夢があるだろうか。夢をなくしていないだろうか。現実の重さに夢を捨ててはいないだろうか」と乗り出してしまいました。子供たちにはセーラームーンが、私には神様が「夢を持つ」ことの大切さを教えてくれました。私の夢は「キリストの福音をあまねく宣べ伝えることです」。

2019年10月2日水曜日

「瓦礫ではない」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「瓦礫ではない」

創世記 13:14  主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。

災地の状況を現わす表現に「瓦礫の山」と言う言葉を聞きます。しかし、そこで生きて暮らしてきた方々にとってそれは、大切な思い出の品、かけがえのない財産です。「瓦礫の山」と言う表現を使うのは、外から見ている人たちの表現なのかもしれません。

アブラムもロトもたくさんの財産を持っていました。しかし、財産を多く持っているということで争いが生じることになりました。そこで別々に暮らすことになりました。どの土地を選ぶかの選択権は、伯父であるアブラムにありました。ところがアブラムは、まずロトに選ばせたのです。アブラムはそれによって人間の目から見るとあきらかに劣る土地で生きるようになりました。ところが神様はアブラムを祝福し、見える限りの土地を与え、子孫を与えると約束されたのです。その土地がどんな土地であろうとも、神様の祝福があり恵みが満ちあふれていたのです。

家財清掃をしていると、アルバムやノート、位牌、仏壇、これまで大切にしてこられた品物を見つけることができます。そのかけがえのない大切な土地をみて、被災者のみなさんはどのように感じておられるのでしょうか。その土地にたち東西南北を見渡して、何が見えているのでしょうか。今は、まだ災害救援の時期です。そしてこれからは救援から、復旧がはじまる¥り、仮設移転となって復興へと向かいます。その間に、自立支援があり、生活支援があります。しかしそこに留まらずに、新しく次につながるコミュニティづくりを目指していかなければなりません。いまが一番難しい時に被災地はあります。そのなかで「瓦礫」ではない「これからも生きていく土地」に目を向けていきたいと願います。東西南北は生きる土地なのです。

神様はロトと分かれたアブラムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われました。アブラムがみることのできるすべての土地をあたえ、子孫を与えると約束しておられます。アブラムは神様の約束を信じ、そこに希望を見いだして新しい人生の一歩を踏み出したのです。

2019年10月1日火曜日

「讃美歌の力」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「讃美歌の力」
 
 教会学校のキャンプも無事終わりました。レンタカーのバスのクーラーが故障していて、一時はどうなることかと思いましたが、なんとかそれも乗り越えられました。その後子供達に聞いてみると、クーラーのことはあまり思いでがなく、それ以上にキャンプが楽しかったようです。
 
 わが家の娘たちにとっても、初めての教会らしいキャンプでした。というのも、いままでのキャンプは遊び中心で、聖書や讃美歌を教わるチャンスがあまりなかったのです。それもそのはず、計画を立てていたのが、私や地区の牧師だったからです。おろそかにしていたわけではありませんが、スタッフが足りなかったのが原因かとおもわれます。
 
 さて、今回のキャンプから帰ってくるなり、子供達は教えていただいた歌を何度も歌っています。その歌も、スタッフが作詞作曲したペトロの歌、トトロの替え歌でペトロ(これには笑ってしまいましたが)、十字架に向かう歌。それぞれに、なにか印象深かったのでしょう。
 
 私たちはいつも何げなく讃美歌を歌っていますが、だんだん歳をとるごとに口ずさみはじめるようです。教会立の老人ホームでは讃美歌がたえないといいます。歌に秘められた不思議な神様の力を感じます。そういえば、詩編も讃美歌でしたよね。