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11月, 2019の投稿を表示しています

麦の芽ホーム訪問のあと

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麦の芽ホームへ訪問のあとは ソフトクリーム!美味しかったです。

明日は礼拝です

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「どこに焦点を」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「どこに焦点を」    説教集「神様の色鉛筆」がやっと出版にこぎつけました。ひとつの本を出版すると、さまざまな反応が返ってきます。その反応が、ときには大変な気づきとなることがあります。    さて、今回の説教集への反応は二通りあります。その一つは、「若い感覚の説教集ですね」「わかりやすい説教です」「簡単な言葉で神様の福音が語られているような気がします」といったもの。これはルーテル教会内の方々からの反応です。    一方、もう一つの反応は、「前回のクレヨンからはちょっと難しくなりましたね」「私たちにはついていくのがやっとです」「考えさせられる内容でした」「少しミッションの学校でのことを思い出しました」といったものです。この反応は教会外の方々、結婚式で教会に来てくださった方々の反応です。    この二つの反応から、牧師が語る内容は、とても難しく受け止められているのだと思いました。教会内の方々は聞き慣れた内容だけに、それが変わった視点で語られることに好意的だといえます。しかし、教会外の方々にとっては、もっと分かりやすい内容、言葉にしなければ福音は届いていかないのだと気がつかされました。言葉(キリスト)を伝えることは、大変な作業です。どこに焦点を合わせるのか、そのことがこれからの課題です。

「大切であるとわかる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「大切であるとわかる」 ルカ  15:6  人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。 東日本大震災救援活動の時、関西にある保育所の園長さん2名をつれて、石巻市北上にある相川保育園を訪問してきました。阪神・淡路大震災を経験された園と、東日本大震災で被災された相川保育園をつなぐ役割を果たしました。子どもたちの命、防災、心のケアについて熱心に語られていました。相川保育園の玄関には7段ひな人形が飾られていました。趣のあるしっかりとしたものです。相川保育園の被災のことを新聞で知った関西の老夫婦が、長年大切にしてこられたひな人形を寄贈してくださったのです。ひな人形から感じられる雰囲気でしょうか、これまで大切にされてきた様子を感じました。子どもたちもしっかり眺めて大切にしているそうです。きっと人形から、大切にされてきたことを感じ取っているのでしょうと、園長先生が語られていました。 イエス様はルカによる福音書で「見失った」たとえを3つ語られました。「見失った羊」「見失った銀貨」「見失った息子(放蕩息子)」の話です。これらの話に共通することは、失われたものが発見されたときの喜びの大きさです。その喜びの大きさによって、それがいかに大切なものであるかを知るというのです。失くしたものの大切さは、再び得たときにわかるものです。 熊本地震支援活動も、新しい段階にはいりつつあります。益城などはまだ緊急支援です。しかし、宮地、一の宮の阿蘇は落ち着いて今後は自立支援に変わっていきます。この自立支援へ移行するのが一番大変です。ここでうまくいかなければ、これまでも、今後もかなり生活支援が難しくなると東北で学びました。その中で被災地の子どもたちのために、阿蘇 YMCA 尾ヶ石保育園では森のブックカフェができています。自然災害でうけた心の傷は、自然が癒す。思いっきり自然とあそんで、森のブックカフェでひとやすみ。一人の魂を大切にするブックカフェです。 イエス様は、見失った羊を見つけた羊飼いは人々を集めて「 見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うと教えられました。羊飼いにとって1匹の羊は、大切なかけがえのない存在です。それがわかるように羊飼いは人々に示すと言われ

「それぞれの信仰」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「それぞれの信仰」    娘が3人与えられていますが、それぞれの性格の違いに驚いています。その中で(まあ、3番目はまだわかりませんが)、かなり積極的なのは、次女です。誰に似たのでしょうか。    実は次女には「ゆうすけ」くんという、好きな男の子がいるのです。その子へのアタックは親も驚くほどなのです。まず、ゆうすけくんに「誰が好きか」と聞いたそうです。彼は「まなちゃんといっちゃん」と答えました。すると次女は、遊んでいたいっちゃんを連れてきて、「どっちが好きか」と聞いたらしいのです。彼は優しいので、「両方」と答えました。納得しないのは愛美です。「それじゃどっちと結婚するか」と詰め寄りました。彼も「両方」とは言えなかったのでしょう。「○○ちゃんとする」と答えてくれたのです。次女は得意になって報告してくれました。「わたしゆうすけくんと結婚することに決めた」。    この押しの強さを少しわけてもらいたいほどです。たぶん次女の信仰もこのようなものではないでしょうか。「ストレート信仰」だと思います。一方長女は違います。これは「てれやの信仰」でしょう。良く言えば「おしとやかな信仰」でしょうか。彼女の信仰は「イエスさまおまもりください」によく現れているといえます。    どんな信仰でも、受け継いでくれたらそれだけでアーメンです。

「はじまりの視点」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「はじまりの視点」 1ヨハネ   4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。 海外で出版されたビジネス書の翻訳本を読んでいます。面白い内容ですが、どこかできいたようなフレーズがたくさんでてきます。「人にしてもらいたいことをする」「大勢よりも一人を大切に」「種が全体を膨らませる」「内から出るものに気をつけよ」。そこには聖書の言葉がたくさんでてきます。表現自体は変わっているのですが、翻訳の問題なのでしょう。しかし、あえてビジネス本の中でよむと新鮮に感じました。結局基本は神様のみ言葉にあるということです。み言葉を生活の中で聞いているか、それをどう生きているかを問われています。どの視点から聖書を読むかで全く違うのだとおもいます。ただ、始まりの視点がどこか、神様か人か金かでまったく違うものです。私たちはすべてのことを「神様」から始めねばなりません。  ヨハネは「霊」に関して、それが神様からでた霊かどうか確かめなさいといいます。ヨハネにとって「霊」の問題は、イエス・キリストとの関わりの中で考えられるべきであるというのです。その見分けかたは、イエス・キリストが肉をとってこられたと告白する霊か、そうでないかによるといいます。根本にあるのは信仰告白であり、中心はイエス・キリストであるということです。そのことはイエス様のみ言葉によって公にされていることを確かめることです。  教会では臨床宗教師と行政の話し合いが持たれました。現在被災地にカルトが入ってきているとのことでした。キリスト教や仏教の顔をしながら、支援品やお金をばらまいているようです。人の痛み苦しみにつけ込んで、最終的には人を惑わす道に引きずり込もうとしているのかもしれません。私たち臨床宗教師は公共性をもちながら活動しています。公共性と言う中には「惑わす」と言うこといっさいありません。宣教を目的としない宗教者とは考えられませんが、それこそが公共性であり惑わさない寄り添いだと言えます。  ヨハネは「 真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」といいます。それは神様を知ることによると言

きままま休日・初めてのシュラスコ!

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初めてシュラスコを食べに行きました。 どんどん出てきます。さすがにおなか一杯。 ブラジル料理・串焼き肉などをそいで食べさせてくれました。

礼拝の案内

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これは大江教会版ですが 同じように礼拝をしています。 ご参考まで!

明日は礼拝です

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説教者:中村朝美牧師(宮崎教会) どうぞお越しください。 礼拝後はyouthカフェでゆっくりとした時間を!

「あのね」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「あのね」    長女はいま「せんせい、あのね」という作文を書くのが楽しみのようです。先日はこんなことを書いていました。    「せんせい、あのね。わたしのおとうさんのなまえは、やすひろといいます。おかあさんはてるみです。わたしははなみといいます。いもうとはまなみです。あかちゃんはみなみといいます。みんなみがつきます。でもおとうさんだけみがつきません」と。すると、先生の返事は「みんなすてきななまえですね。おとうさんもみはつかないけれど、やすひろというなまえはすてきななまえですね」と。微笑ましくて、なんだかうれしくなってきました。長女と先生のやりとりのなかで、何か暖かいものが行き交っているような感じがします。そのやりとりを見ていると、神様と私たちも同じやりとりをしていることに気が付きました。    「祈り」とはそのようなものではないでしょうか。「かみさま、あのね」と感じたこと、感謝したいこと、訴えたいことなどを、書き連ねているような日記かもしれません。その日記へは、御言葉というすばらしいもので返事をくださるのです。    いつもは親としての権威をみせている私ですが、やっぱり祈りの中では神様の子供です。思いっきり甘えてみたり、怒られてみたり、感謝したり、訴えたり。どんなときも返事を返してくださる神様に心から感謝です。

「主が懲らしめて」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「主が懲らしめて」   ユダ  1:9  大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。 ある宗教団体が「この熊本地震は神様の裁きである」と言いふらしていると聞きました。またか~と残念で仕方ありません。またキリスト教の中でも「いまこそ伝道のチャンス」と叫んでいる教会もあります。その声を聞く度に、今はそんなことを言っている時ではなく、私の前におられる被災者の方々にどのように寄り添うかだと言えます。そのような働きをとおして、自分を生かしてくださっているイエス様を知っていただくことです。み言葉に立って仕えることしかないのです。何かイエス様のみ言葉を間違って受け取っておられると思います。 ユダの手紙は、イエス様の弟であるユダが書いたという体裁をとっている手紙です。しかし本来はそうではなく、手紙の権威づけのために名前が用いられています。内容は異なる信仰理解を教える「論敵」を退けること。読者がその教えに影響されないことを目的としています。間違った教えに対して、強く警告しているのです。 「被災地支援活動におけるキリスト教の傲慢」という声を聞きました。結局私たちがキリスト教メディアを通して聞くのは「今回もクリスチャンの支援活動は素晴らしかった」と言うことです。「祈りとみ言葉に立った活動ができた」という報告があいます。本当にそうなんでしょうか。人の痛み苦しみに寄り添った時に「素晴らしい活動だった」で終わらせていいのかなと思うのです。それは自己満億ではないのか。本当にやらねばならないことができたか。素晴らしい活動なんていらない。寄り添うことが大切じゃないのかと。確かにクリスチャンの方々のご奉仕には心から感動します。だからこそ「活動は素晴らしかった」で終わるのでなく、何もできませんでしたという謙虚さがほしいのです。神様の前に私たちは何もできない存在だからです。 神様はすべてをご存知です。いま起こっていることも、何が必要かも。だから神様に信頼して、今やるべきことを淡々としていくことです。大天使ミカエルは「あえてののしって相手も裁こうとせず」と書かれています。そのことは神様にお任せされたのでしょう。やるべきことを何

「なつかしい匂い」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「なつかしい匂い」    今年初めて、「白い吐息」を見ました。というのも、先週六日市での帰り道に外に出てみると、ハーッと出た吐息が真っ白になったのです。もう季節は冬なのです。最近まで暑いと思っていたのに不思議です。    この季節は私の好きな香りがします。あの籾殻を焼いている匂いです。あの匂いを嗅ぐと季節を感じますし、生まれた田舎を思い出してしまいます。あの籾山の中に芋を入れてよく食べました。しかし、走り回っていたので、どの山に入れたか忘れてしまったことなどもありました。そんなことを思い出させてくれるの匂いなのです。    人には、なつかしい匂いというものがあります。この匂いは忘れられないものとか、この匂いを嗅ぐと安心するとか。他人には臭くてしかたないものでも、自分にとっては思いでの一部になっていることもあるのです。とくに漬物などはそうかもしれませんし、香水にいたっては言うにおよばずです。    「キリストの香り」という言葉があります。どんな香りでしょうか。これは人それぞれだと思います。しかし、どんな香りであってもよいのです。その人がその「キリストの香り」によって平安を得ることができたらそれでよいのです。一番悲しいのは、その香りを忘れてしまっているときだと言えます。でも安心してください。ふとどこからともなく漂ってきますよ。きっと。

「聖なる香油」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「聖なる香油」 マタイ  26:7  一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。 イエス様がベタニア(エルサレムから3キロぐらいの所にあるオリーブ山斜面にある村)で重い皮膚病のシモンの家におられた時のことでした。一人の女性が極めて高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。ある人はこの行為を「聖なる浪費」といいました。イエス様一人に高価な香油を惜しげもなく使用した行いは、ある意味もったいないこと無駄なことそこから「浪費」という考えがでてくるのでしょう。無駄にするよりお金に変えてもっと有効にもちいるべきだと。しかし、イエス様にとってはどうだったでしょうか。 ヨハネ福音書ではこの女性はマリアとよばれ、マグダラのマリアという説もあります。イエス様に高価な香油を注いだことを覚える日です。 イエス様の弟子たちは、高価な香油を無駄にするなどばかげたことだと憤慨しています。しかし イエス様は「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」といわれました。 イエス様の言われたとおり、この女性の行為は後の世にも語り継がれています。 熊本地震の中での支援物資を配布する行為とは一体何かなと思います。緊急支援ではその意味がよくわかります。しかし、すでに緊急ということがなくなったあとはどんな意味があるのかと思うのです。物資配布は物資配布するだけでなく、実はその後のつながりをつくるという大きな意味があります。何のためにそれを行うかをよく考えておかないと、物資を配って終わりとなります。だからこそ宣教を目的とした物資配布ではなく、イエス様が本当に喜んでくださるつながりのためにそれをおこなっていきたいと思います。 十字架を目前にひかえ、死ぬ準備をされている。そこに死んだ後使用する香油を注がれる。神様の御心によってなされる十字架のことをマリアだけが知っており、その準備をしたのです。神様の御心にかなう浪費というものがあります。それを「聖なる浪費」と呼びます。イエス様に捧げる祈りの時間、浪費と呼ばれるくらい時間を十字架と向き合う時間にしたいものです。

気ままな休日・やっぱジャーマンポテト

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北海道ジャガイモの極めつけは ジャーマンポテトですよね! ビールにあうあう!

阿久根でコンサート

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礼拝へどうぞ

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説教者:立野泰博牧師(主任) お待ちしています。

「いじりすぎ」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「いじりすぎ」    生まれて始めて《点滴》というものを経験しました。病院にお見舞いなどにいくとよく見かけていましたが、自分がするとは夢にも思っていなかったのです。 診察してくださったお医者さんが「これでは物が食べれないでしょう。時間があれば点滴しませんか。そのほうが治りもはやいですよ」との言葉に、返事もできない私はただうなずいてお願いしました。しかし、なにぶん初めてのことなので、「痛いかなあ」「気分悪くならないかなあ」「途中でおしっこに行きたくなったらどうしよう」「寒くないかな」などと心配していましたら、それはみんさんプロの集団なので、暖かくしてくださるし、親切にしてくださいました。    ところが、始めのうちはよかったのですが、時間がかかるのでヒマになってきたのです。何をすることもなく、聞いちゃいけないと思いつつ、人の診察に聞き耳を立ててしまいました。すると案外耳をいじって炎症を起こしている人が多いことに気が付きました。「先生、耳が痛いのですが」というほとんどの患者さんに対して「耳をいじりすぎていますよ」と答えておられました。ある方など、「でも毎日さわらないと気持ちわるくて」と。へんにいじくり回すといけないこともあるものだと、点滴を受けつつ思いました。    信仰も同じですよね、へんにいじくりまわすと心に炎症を起こしてしまいます。与えられた信仰は与えられたままに受け取るのが恵みというものです。  

「はじめ・おわり」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「はじめ・おわり」  ヨハネ黙示録  1:8  わたしはアルファであり、オメガである。 東日本大震災で被災者の方が津波の全貌を知ったのはかなり時間がたってからだそうです。携帯電話のワンセグでテレビが見えたもののすぐに通信不能になったそうです。目の前の風景で大変なことになったと思ったが、石巻市街だけのことだと思ったそうです。しかしラジオからの情報で、津波が到達した地点を聞き、これはただごとではないと感じた。あそこまで来たということは、家族はだめかもしれないと。目の前の状況とラジオの情報、そしてなにもわからない3日間。その後わかったことに言葉を失くしたと話してくださいました。個を知ること、全体を知ること。それがつながるとき大震災被害をどのように受け取っていいのか、いまもまだわからないといわれました。 ヨハネの黙示録では、神様が自分は何者であるかを神様自身が自己宣伝をする形をとっています。神様がこの歴史の支配者であり、すべてを知っておられる方であると宣言しています。「アルファ」であり「オメガ」であるとは、ギリシャ語のアルファベットの初めと最後の文字のことです。つまり永遠という意味です。すべてを知っておられる方が神様だというのです。 熊本地震を振り返っています。ところが、その時のことを思い出そうとしても思い出せないという言葉を聞きます。なぜか思い出せないと。そういえば自分もそうかもしれません。なぜ思い出せないのか。2回もあった地震なのに。きっと思い出したくないという心の現れのようにも思います。しかし思い出せなくても、いま何があったかを知るのが支援活動の一歩かもしれません。被災者が支援活動する時の難しさはそこにあるかもしれないのです。それでも、あったことは確かなのです。 人間にはわからないことはたくさんあります。私に起こっていることの全貌も見えていないものです。しかし、神様はすべてを知っておられる。全体をみて個をみておられる。そのような存在である神様が共に寄り添っておられる奇跡を思います。

「見極め失敗」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「見極め失敗」    恒例になったともいえる、一年一度の大風邪ひきが、今年はこんなにも早くやってくるとは思いませんでした。先週の月曜日の朝から「ちょっと体調が変だな」と思っていました。しかし、大阪へ出掛けたのがそもそもの間違いだったのです。 火曜日から発熱。ついでに牧師の大切な喉をやられました。それでも、金曜、土曜と結婚式があるので、それまでになんとか立ち直ればと考えていたのは甘い考えでした。日を過ぎれば過ぎるほどひどくなる。喉のために、ネギを巻いたり、アラジオを巻いたり。カリンをなめたり、ネギを煎じてうがいしたり。民間療法のありとあらゆる手と、薬局の薬を飲みまくりました。ところがそれでもだめでした。木曜日の深夜、「ああ火曜日に医者に言ってればよかった」と改めて思いました。    私たちには自分で何とかできるものと、自分ではどうにもできないものがあります。その見極めを失敗するとこうなるのだと教えられました。やっぱりおかしいなと思ったら医者にいくべきですよね。    そしてもうひとつ。牧師にとって声がいかに大切かを知らされました。声が出ないということは、ほとんどのことができないことがわかりました。結婚式も、電話相談も、はたまた子育ても。これからはノドをいたわりつつ、この声を与えられていることに感謝したいと思います。

「まず相手を認める」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「まず相手を認める」 マタイ   7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 精神分析医の言葉に「我々は他者の間違った行動を責め、良い行動は認めようとしないものである」があります。これを分析してみると、他者を否定的に見れば、優越感をもてるからだと言えます。しかし、精神分析医は「人が自分自身を健全で現実的な眼差しで見つめるようになれば、否定的な記憶は薄れる」と言います。まず自分を見ることから始めなければ、他者を認めることはできません。これができないから話し合いによって問題解決できないのです。よりよい解決案を見つけるには、まず相手を認めることからです。そこではじめて人と人との関係ができます。 イエス様は「人を裁くな」というテーマで3つの話をされました。イエス様が教えられた「人を裁くな」ということは、律法に対する新しい解釈でもあります。律法の働きは、つねに人が人を正しく裁くことです。イエス様は、人が裁いてはならないと言われます。なぜなら、人を裁くことができるは神様の権限でだからです。人が人を裁くときには、すでに人間関係が壊れていることを意味しています。 「またか」という言葉が聞こえてきました。熊本震災支援活動は牧師のスタンドプレーだということのようです。これが同じように被災地で支援活動している人からもその声が聞こえてくるのは残念です。スタンドプレーでも、奉仕活動でも、何と言われても結構です。ただ同じく支援活動をしているのですから、批判をして足を引っ張らないことだと思います。そうしないと、本当に人々に寄り添っているキリスト者を傷つけることになります。組織ではなく、一人で支援活動しているキリスト者に出会うたびに、その方々が身内から傷つけられていることが残念です。 イエス様は「 なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われました。自分を知ることの難しさを教えておられます。相手を自分の目で見る前に、自分自身を神様の目で見ることが求められます。それができれば、はじめて相手の目にあるおが屑の意味もわかります。お互いにそれができれば、何か問題が起こったときに解決する道を与えられるはずです。

阿久根でチェンバロコンサート

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きままな休日・ジャガイモのペペロンチーノ

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ジャガイモでペペロンチーノ シンプルでかなりおいしいです。 中華料理屋さんの前菜ででてきました!

礼拝風景です

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明日は礼拝です

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説教者:立野泰博牧師(主任) どなたでもおこしください。

「無条件に笑う」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「無条件に笑う」    我が家の三女も5ケ月を迎えることができました。多少、人見知りはするものの、元気で過ごしています。    さて、三女の笑顔の研究をしてみました。どんな時に笑うか。どんな人に笑いかけるか。どんな風に笑うか。などと楽しんで観察してみたのです。すると結果は、「どんなときでも笑うのだけれど相手による」でした。とにかくニコニコしている人に抱かれたり、あやされたりすると笑うのです。赤ちゃんは無理やり笑わせようとしてもだめです。自分からほほ笑みかけていったときに初めてほほ笑むということがわかりました。    ところが、無条件に笑う相手もいます。それはお母さんです。これはいつでも無条件に笑いますし、その笑顔の質が全然違うことも明らかです。同じ屋根の下に住んでいても、お母さんに対してだけは格別の笑顔をみせるのです。それくらい信頼、安心してすべてをまかせているということでしょうか。    私たちは神様に対して祈るとき、どんな顔をしているのでしょうか。つらく苦しい顔でしょうか。それとも輝く笑顔でしょうか。私たちはなかなか笑顔では神様の前に立てません。それは自分を隠そうとしているからでしょうか。すべてを捧げて安心できる関係ならば、やはりどんなときでも笑顔で祈れるような気がします。

「深い悲しみがある」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「深い悲しみがある」 ローマ   9:2 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。 宮城県にあった大きな避難所には、最高で700名の被災者がおられました。避難所になった施設の館長さんは不眠不休で人々のお世話をされていました。最後の1家族が仮設に移ったのは10月でしたので、その間ずっと支援活動をされてきたのです。正月になり派遣牧師が挨拶にいかれました。「おめでとう」の言葉に、館長さんは「何もおめでたくはない正月だ」といって、自分の23歳の一人息子が津波に流されてまだみつかってないことを話されたそうです。じつは誰もがはじめて聞くことでした。館長さんは自分の使命は最後の1家族が無事に仮設に移るまで見とどけることと言われていました。自分の苦しみ、悲しみはそっと置いておかれたのです。 パウロは信仰による義を明らかにしています。それによって神様の民としての栄光が約束されることが明らかになったと教えています。しかし、パウロの中にはイスラエルの同朋たちのことで、深い悲しみ、絶え間ない痛みがあるというのです。それは個人的なもののように聞こえますが、そうではありません。神様との関係における事柄についてのことです。 被災地支援活動をしている被災者は、誰もが深い悲しみを持っています。その悲しみの表現はいろいろあります。しかし、被災支援を語るときにはその深い悲しみ身を置いたところからしか語れません。見ないようにしたり、無かったことにしたり、誤魔化したり。悲しみを避けて支援活動を続けようとします。しかしそれでは途中で挫折してしまいます。自分の中の本当の痛み苦しみに身を置いたときにでてくる勇気と希望が被災者支援を支えていく力となるのです。 パウロは「 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」といいます。その中で神様の使命に生きることによって、神様の義を明らかにしているのです。深い悲しみ、痛みの中にあっても神様が約束してくださった義によって使命をはたしていくしかないのです。

「共感能力不足」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「共感能力不足」   「妻が離婚を決意するとき」というコラムを読みました。そこには次ぎのようなことが書かれてありました。   「妻が高熱を出して寝込んだ。出勤前、夫がやさしく言った。『いいよ、いいよ、寝ていなさい。夕食は外で食べてくるから・・・』。これを聞いて、妻は密かに決意した。『治ったら、すぐリコンする』と。」    さて、どうして妻は離婚を決意したかわかりますか。私は妻がどうして離婚を決意したのか、理解するまでにたくさんの時間を必要としました。私にとっては、外食をしてくるという夫の方が、なんて優しいのかと思ったからです。しかし、女性の方ならばすぐ妻の気持ちがわかるのだそうです。あなたはどうですか。つまり、なぜ離婚を決意したかといえば、「寝ている妻の食事はどうなるのでしょうか」ということです。自分のことしか考えられない夫など離婚した方がましだということなのです。この話を聞いてある人は、「共感能力不足」と表現しています。相手の気持ちをくみ取れない、相手の状況を考えられないということでしょうか。    主イエスは「共感能力不足」になられることはありません。いつだって、私たちのかたわらにおられるからです。私たちもまた、家族や同僚、友人のかたわらにいかにして立つかが問われます。そっと立つだけでいいのですが。

「子孫はわかれて」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「子孫はわかれて」 創世  10:31  これらが、氏族、言語、地域、民族ごとにまとめたセムの子孫である。 熊本震災救援活動のはじめから「心のケア」「傾聴ボランティア」が必要であると言う声を多くきいています。また、すでに多くの団体、個人が現場に入り活動をされています。とくに5月終わりごろから、各宗教団体、NPO、諸団体が「心のケア」ボランティア登録し、その数は急増しています。とても大切な活動だと思います。ただ傾聴を考えると、熊本の田舎は方言が難しいということです。ある時は外国語に聞こえることさえあります。そのような中で傾聴して寄り添っていくことの大変さを思います。そこに生きておられる方の地域、言語、コミュニティをよく理解して活動を進めなければなりません。それには共に汗を流すことから信頼を得て、心を通わせることの重要性を感じるのです。 洪水によってノアとその家族以外、全ての民は滅ぼされてしまいました。洪水のあとノアの息子たち3名の名前が記されています。セム、ハム、ヤフェトです。ここからまた新しい系図がはじまりました。子孫が与えられ、各地方に散っていき、民族を作り上げていったと聖書は記しています。もとをただせばノアからでてきた子孫であり、さかのぼれば神様が創造された人からの流れが続いているのです。ところがすでに「氏族」「言語」「地域」「民族」というグループに分けられており、ひとつであったものが分けられていく様子も示されています。 いま「自立支援」が叫ばれています。そろそろ自立の道を模索しなければ、依存が強くなっていくからです。すぐに自立しなさいではなく、徐々に自分たちで自立の道を見出していけるように援助することです。しかし自立ということは、バラバラになることも意味します。苦難を共にしてきた集団が、分かれてまた新しい集団をつくることでもあります。結局自立していくには何が必要なのか。やっぱりコミュニティだと思います。同じ一つのコミュニィであることの認識が人を支えていくのではと思います。 ノアの子孫も「氏族」「言語」「民族」といったように分かれて系図にまとめられています。そのことの意味は、それぞれの個性があり、みな同じではないということでしょう。ただひとつ同じことは、全てノアからでてい

きままな休日・揚げコロッケ

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コロッケって案外つくるのは面倒ですよね。 衣がね~そんな時にはあげの中に具を入れてっとあげる。 これおいしいですよ!

宗教改革記念礼拝

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たくさんの人たちと 宗教改革記念礼拝を守りました。

明日は礼拝です

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