2020年1月31日金曜日

2020年1月30日木曜日

「その人に応じるサービス」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「その人に応じるサービス」

 礼拝のことを「サービス」といいます。いわゆるあの「サービス」と同じです。しかし誰が「サービス」を受けるのかといえば、それは私たちです。ということは、「サービス」してくださるのは神様ということになります。

 先週、今年西教区に来られた牧師の歓迎会があり、有馬温泉に行ってきました。日本三大温泉のひとつとあって、なかなかのものでした。しかし、もっと満足したのは、その旅館の「サービス」でした。いろいろとあるのですが、一番感動したのは、タオルです。実は私たちは4人部屋だったのです。当然タオルも4本ありました。そこまでなら普通のことです。しかしそこのサービスは、タオルの柄は一緒でも、色が4色用意されてあったのです。つまり、間違わないように色を変えてあったというわけです。本当のサービスとは、このようなものかなと思いました。お風呂のタオルひとつとっても、この旅館のサービスがわかるように、それはもういたれりつくせりだったのです。

 神様の「サービス」とはこのようなものだと言えます。なにからなにまで、用意してくださっている。しかし、その人に応じてすべて変えてあるのです。その人の状態によって、試練を用意してくださる。これもサービスです。同じように計り知れない恵みも用意してくださっている。このような神様が、羊飼いである主イエスなのです。今日の礼拝ではどんなサービスをいただきましたか。

2020年1月29日水曜日

「内面で何を考えるか」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「内面で何を考えるか」

2コリ 5:15 生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

牧師候補生の面接では、まず召命観について聞かれます。簡単にいえば「あなたはなぜ牧師になるのか」ということです。しかし、それだけではありません。本当は「神様から牧師になるためのどんな招きをうけましたか」ということです。この微妙な違いは卒業が近くなると変わってくるように思います。初めの頃は「自分が、自分が」と語られるのですが、「主が、主が」となってくるからです。私が中心でなく、キリストが中心になったときに牧師として宣教に立つ準備完了となるわけです。

パウロは自己推薦と誇りの問題について再び語ります。パウロが語る福音は、自己推薦ではなく神様と人々の和解ということです。その務めを果たしてきたといいます。また誇りというのは、外面的なものでなく内面的なものであり、その人の内面になにがあるかを問われるとのべています。自分自身のために生きる人が多い中で、自分の救いのために死んでくださった方がおられる。そのことを思い、その方のために新しい生き方をしていこうと励ましています。その方こそキリストであると言うのです。

カトリックの黙想集「実る人生」に次のような文を見つけました。「外面の静けさと内面のあらしといった対照的な状態がよくあるものです。重要なのは、どこにいるか、ではなく、なにを考えているか、ということです」復活の朝、その知らせを婦人たちから聞いたペトロは走って墓を見に出かけています。ペトロにとってこの出来事は内面のあらしではなかったかと思います。十字架の上で死んだイエスがそこにおられないのです。外面上は静かな時間が過ぎています。人々はイエスの十字架の出来事に打ちのめされていたのですから。ペトロは空っぽの墓をのぞいたとあります。そこには亜麻布しかありませんでした。このとき何をペトロは考えていたのでしょうか。大切なことは、この出来事を前にして何を考えることができるかということです。

 パウロは「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」といいます。パウロの内面にはキリストが生きています。そのキリストがパウロの内面にあって福音を証することへと駆り立てています。自分の内面に何が生きているか、問われているようです。

2020年1月28日火曜日

「水仙の小径」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「水仙の小径」

 まさかこんなに、時間の余裕がなくなるほど仕事が多くなるとは思ってもみませんでした。毎週あちこちと出張旅行していると、春を感じる余裕さえないことに悲しさを覚えます。

 そんな生活の中で、ふと足を止めてみたくなる小道を発見しました。その小道は柳井から田布施へむかう道の途中にあります。昔はたんぼの畦道だったのでしょうが、いまは小さな舗装道路になっています。その小道はたんぼの間を一直線に山へむかっているのです。それだけなら足を止めたくはないのですが、なんとその小道は道の両側に花が咲いているのです。たぶん水仙の花だと思うのですが、片方には白い水仙が一直線に咲いています。もう片方には黄色の水仙がこれまた一直線に咲いているのです。山に向かう約500㍍ほどでしょうか、それはもう水仙の滑走路のようにただひたすら真っすぐに咲いているのです。なんとすてきな小道なのかと、つい車からおりて歩いてみました。とてもすてきな気分になり春を満喫したのです。

 先週からクロスウェイズ聖書研究会がはじまりました。この会を通して私たちは一直線に聖書のメッセージを聞くことができました。とにかく分かりやすいのです。この道を歩いていけばきっと聖書がわかるような気がします。あの水仙の小道を歩くようなすがすがしさを感じるのです。

2020年1月27日月曜日

「本当に所有しているの」


鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「本当に所有しているの」

マタイ  13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 「あなたは何を持っていますか」と聞かれた時、どのようにこたえるでしょうか。特別に何をと言う答え方ができるかなと思います。物はたくさん持っていますが、人や、思い、考えなども持っているものになるならば、いったい何を持っているのかと考えてしまいます。もしかすると持っていると思っているだけで、本当は持っていないかもしれません。私はこれを持っていますと言える人は幸せな人生を送っているのです。

「種まきのたとえ」を聞いた弟子たちは、「なぜたとえで語られるのですか」とイエス様に質問をしています。たとえ話は、み言葉の真理を分かりやすく説明するものです。弟子たちにとって、なおわかりにくい話だったのかもしれません。弟子たちは、与えられている神様のみ言葉を自覚し何を持っているかがわかっていなかったのでしょう。そうなるとイエス様のたとえ話も理解できない難しい話となります。

何回かの引越で「ため込む」「捨てる」という問題にぶちあたりました。引越の荷物より、捨てる荷物が多かったのです。どうしてこんなに物をため込んだのか?結局2tトラック2台分ありました。3人の子どもの小さいときからの洋服や物。思い出があり捨てられない物。2,3回つかって放置された運動品。趣味でためこんだ陶器。布団。結局どうしようもなくて、すべて処分してしまいました。「捨てる」ことの難しさを感じます。「もったいない」と思うと、捨てられないのです。かといって使用するわけでもなく。けれど捨てられずに悩んでしました。どうすれば捨てられるか?引越屋さんが来て荷造りが間に合わない瞬間に捨てる決心がつきました。イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を背負って従ってきなさい」と教えてくださいました。捨てることの難しさを知って、あえて言われたのです。物が捨てられない私が、自分を捨てることができないのは当然のことです。ため込むことがいかに無駄を生み出すかを知らされました。内にため込んでしまうと、新しいものは何もはいってきません。自分という大きな荷物を空っぽにしてはじめて、神様を迎えるスペースが空くのです。捨てられないのは、たくさん持っているからです。

 イエス様は「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われました。何を持っているかを認識できないと、取り上げられたことも理解できません。私たちは神様のみ言葉を持っています。それを持っていることの認識がなければ、人に分け与えることもできないのです。「何を持っているかに注意しなさい」というイエス様のみ言葉もあります。自分は何を持っているのかを点検してみることも大切です。

2020年1月26日日曜日

気ままな休日・阿久根教会のおにぎらず

礼拝後にすぐに鹿児島教会に移動!
すると阿久根教会の皆さんが「おにぎらず」を
作って持たせてくださいました。感謝!

2020年1月25日土曜日

世の光として輝く

鹿児島教会の電灯をきれいにしてくださいました。
輝きが違います。感謝!

2020年1月24日金曜日

明日は礼拝です


説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)
どうぞいらしてください。お待ちしています。

2020年1月23日木曜日

「すきです・ぎりです」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「すきです・ぎりです」

 いま、一番苦手としている歯医者に通っています。どうしてもあの音が好きになれないのです。でもしかたありません。こうなるまでほっといた自分に責任があるのですから。最近では、歯医者さんの待合所で、気分をリラックスさせるために「バロック」が流れています。それでも私などは、自分の順番が回ってくるのが近づいてくると、肩がこってくるのがわかります。痛くはないとわかっていてもです。これってきっと条件反射かもしれません。

 昨日もまた同じように緊張をほぐそうと雑誌を読んでいました。その雑誌には緊張をほぐしてくれるような笑い話がかいてありました。ある幼稚園での出来事です。その幼稚園のクラスには男の子は4人しかいませんでした。そのクラスに通う娘がバレンタインにチョコをあげることになりました。しかし、娘さんはその中の2人の男の子にしかあげないといいます。お母さんはクラスの平和を守るために、4人にあげるように説得しました。娘さんは絶対反対しましたが、クラスの平和のためにお母さんに説得されたのです。当日、4人の男の子は大喜びでした。しかし、チョコの中には娘さんが手紙を入れておいたというのです。2人には「すきです」と。そしてあと2人には「ぎりです」と。

 なんだか大人びているようで、その純粋さに打たれるようで複雑な笑いがありました。神様からのものはすべて「愛していますよ」との手紙つきですけどね。

2020年1月22日水曜日

「子どもだから、いや」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「子どもだから、いや」

ルカ 18: 17 子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。

ある人が語学を勉強するのに、良い方法をみつけたと教えてくれました。その人はドイツ語を勉強する目標を建てました。その頃自分に子どもが誕生しました。彼は、子どもが言葉を覚えていくのにあわせて自分もドイツ語を覚えることにしたのです。ところが、1年も経たないうちに諦めたそうです。なぜなら子どもが言葉を覚えていくペースは、驚くほど速かったというのです。子供の成長の速さと、学ぶスピードはどこからくるのか。子どもはなにもできないと考えていると大きな間違いをしてしまうものです。

イエス様のもとには、祝福をうけるために多くの乳飲み子が連れられてきます。福音書では、弟子たちはそれをみて叱ったと書かれてあります。乳飲み子たちがうるさかったというわけではありません。ユダヤ社会では子どもは成人するまで女性に属しており、律法順守の義務を持っていませんでした。ということは救いにも与り得ない存在だったのです。その子どもたちをイエス様は受け入れられたのです。イエス様は、たとえ子どもでも、いや子どもだからこそ神様の祝福を受けるべきと招かれたのです。ただ子どもとしてだけではなく、一人の救われるべき人間として招かれたと思います。

「乳離れ」というのがあります。これは子どもの自立と関係があるのでしょうか。私は育児の専門家ではないので、動物に乳離れがあるのかと調べてみました。動物たちの乳離れは、次ぎの子どもが生まれるとか、親がナワバリから子どもを追い出すとかといった必要から起きるとありました。ですから、子どもが哀願してもかなり邪険に突っぱねてしまうそうです。なにせ親も生きていかねばなりませんので。しかし、子どもたちはもしお乳がまだ飲めるチャンスがあれば、その機会を見逃すようなことはありません。そこに年齢はないそうです。キリンなどはすでに自分でも授乳しているものまで母親の乳を飲んでるそうです・・・。動物園の最長記録はというと、ナマケグマとマレーグマの混血のオスだったそうです。彼はなんと10年間の全生涯に渡って母親のオッパイを飲みつづけたそうです。信仰には乳離れがあるでしょうか。自立した信仰という言葉をききますが、自立したからといって絆がなくなることはありません。神様と私たちは、神様から自立する存在ではなく、むしろ乳離れかなと思いました。

今日の福音書で問題とされている「子ども」は、乳飲み子です。乳飲み子は信頼の固まりです。親に対して絶対的な信頼を持っています。しかも、乳飲み子が言葉を受け入れていくスピ-ドは驚くものがあります。信頼している人の言葉を、たっぷり吸収していくのです。神の国はこのような者たちのものです。律法が守れるかどうかの問題でなく、み言葉を聞き受け入れることができるかどうか。それが問題です。

2020年1月21日火曜日

「神様には休みがない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様には休みがない」

 先週2泊3日で旅行にいってきました。最近では留守番電話のためか、少し安心して休暇を楽しむことができるようになりました。いままでは、なにか気になっていつも心配だったのです。

 ところが、最近では留守番電話の恐怖におののいています。というのも、いったい何件の留守番電話が録音されているか聞くのが怖いのです。先週でいけば、月曜日21件、火曜日17件、水曜日午後2時までですでに14件が入っていました。これに携帯電話への数を入れれば、60件あまりになります。ほとんどは、メッセージなしですが、中には重要な用件もありこれが心配の種なのです。

 携帯電話を持つようになって、留守番電話のメッセージを「用件を録音くださるか、携帯でんわ◎◎◎◎◎におかけなおしください」としました。こうなると、こんどは携帯電話をいつも持ってないと不安になります。牧師稼業において電話恐怖症から解放されるには、海外旅行しかないようですね。

 この点から考えても、神様はすごいと思います。人々の祈りには終わりがなく、休みがないのですから。そしてその一つ一つに真剣にかかわってくださると思えば、やっぱり神様でないとできないことです。
 

2020年1月20日月曜日

「配慮と優しさ」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「配慮と優しさ」

 ヨハネ  4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。

 私たちのもとから一人の兄弟が天に召されました。今日が誕生日で56歳になられるはずでした。心筋梗塞という急な病気で、あっという間に私たちのもとから神様のもとへいかれました。本当に優しい方でした。とくに弱い方々、子どもたち、お年寄りには優しく、みんな彼の笑顔が大好きでした。「どぎゃんでしょうかね~」が口癖でした。絶えず他者のことを考えておられました。「どぎゃんでしょうかね~」の言葉の中に、暖かい優しさをいつも感じていました。その優しさの横にはいつもイエス様がおられたのでした。

 イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。

「禅の道・茶の道」という本の中に、興味深い言葉に出会いました。その言葉とは、「風邪と客は大事にすると早く帰る」というものです。きっと、あまり大事にされると客は窮屈なのでしょう。だから早く帰ってしまうというのです。客をもてなすということは大変難しいことだと言えます。私たちの教会へも、だいたい平均で6名位の新しい方が来て下さいます。その方々によって応対には気を使います。そっとしておいたほうがいい方もおられます。兄弟姉妹のように応対されたほうがよい方もおられるのです。どちらにせよ、まずは言葉をかけることが大切なのです。職務質問になってはこまりますが・・・キリストは時に応じて、きめ細かい配慮をしてくださいます。私たちがキリストの御心を伝えるときに、どのような配慮ができるかを考えたいものです。教会の礼拝もサービスといいます。教会も牧師も配慮というセンスをどこまで気づいているのかと考えさせられました。

 イエス様は「まことの礼拝をする者たちが」と言われました。この「まこと」とは何かと思います。礼拝とは神様と信じる私たちとの交わりの場です。神様はきめ細かな配慮をもって私たちを迎えてくださいます。それにきがつくセンスとは何でしょうか。教会の敷居が高い、牧師の説教がわからない、交わりが苦痛という言葉が聞こえてくるたびに悔い改めをせまられています。

2020年1月19日日曜日

きままな休日・上天丼弁当

会議の昼食は
ほっかほっか亭の上天丼弁当。
久しぶりに食べました。
うん!いけますよ!

2020年1月18日土曜日

阿久根教会もリフォーム

姉妹教会である「阿久根教会」も整備が進んでいます。
礼拝堂の聖卓周りが広げられました。
また百合の花のステンドシールが設置されました。
良い雰囲気です。

2020年1月17日金曜日

明日は礼拝です。


説教者:立野泰博牧師(主任)
19日14:00~一致祈祷会がルーテル教会で行われます。
(カトリック・プロテスタントの合同礼拝です)

2020年1月16日木曜日

「うそでうそは隠せない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「うそでうそは隠せない」

 天声人語に、高校生が創作した格言が紹介してありました。その中で、「うそ」をめぐる傑作が書かれてありました。

 「うそでうそは隠せない」「うそをついている時ほど言葉が多い」「うそをつきすぎると自分もだませる」。これらの格言をひとつひとつ吟味してみると、今の世の中への痛烈な批判のように感じました。偉そうなことは言えませんが、某テレビ局の謝罪会見のニュースを見ながら、「うそ」で「うそ」を隠そうとする態度に、真実を伝えるメディアの根本が崩れ去ったような思いをいだきました。 私たちは「うそ」をつかないで生きていくことはできない。しかし、なるべくなら「うそ」をつかないように努力しながら生きているのではと思います。なにか苦しいことにぶつかると、つい自分に対して「うそ」をついてしまうものです。そして、真実からいかに遠ざかるかを考えるのです。本当はどうにもならないのに、逃げることによって自分が助かると思い込んでしまいます。その生き方そのものが「うそ」であるといえます。

 主イエスの十字架を見上げるとき、「うそ」がないことに気かつきます。神様の独り子としての十字架の苦しみの中に、「真実」をみるのです。主イエスを十字架につけた人々は「神の子ならおりてみよ」と自分たちのやったことを正当化しています。「うそ」とは罪人である自分の正当化なのです。

2020年1月15日水曜日

反応とかたくな」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「反応とかたくな」

 マルコ 8:17 まだ、わからないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。

 私たちは自分たちの言葉や行いを「批判」されると、反撃するか、落ち込むか、受け流すか。それぞれに何らかの反応をします。その時に、批判されている内容にもう一度目をとめて考えることをあまりしません。まずそれができれば、反応の仕方も変わってくると思います。批判されている内容を、自分のことではなく批判している側に問題ありとすり替えて考えることもあります。それでもまずは冷静になって事実を見ることが一番最初にすることです。

イエス様の言葉に対して、弟子たちが方向違いの考えをしていたときに言われたことばです。イエス様が何を言おうとされているかに集中できず、イエス様の言葉を、まったく関係のないことがら(自分たちの勝手な思い・受け取りやすい考え方)にすりかえてしまうことへの忠告だと言えます。弟子たちは、自分がわかりやすいことにすり替えて聞いています。このすり替えがおこると、イエス様の本来のみ言葉の意味も分からなくなるのです。

 大阪でお世話になった先生が天に召されました。かたくなな先生でした。脳梗塞という病のため、言語障がいが残りました。牧師として話す言葉を奪われたのです。人の名前や日常会話の大部分が奪われました。それでも、なんとか言葉にしたい、伝えたいという気持ちが全身にあふれ、最後まで言葉を発することの闘いの日々でした。闘病生活での出来事を奥様が教えてくださいました。「主人は言葉を奪われてしまいました。しかし、いくつか残された言葉もあります。祈りです。みんなが主の祈りをいのるとき、初めから終わりまで『主よ、信じます』を繰り返していました。何度も何度も繰り返していました」と。先生には、この祈りを通して最後まで教えられました。「主よ、信じます」という信仰の言葉が残されたこと。それを通して牧師とは最後までどうあるべきかを教えられたのです。牧師は病に倒れてもやっぱり牧師です。それが召命ということです。主の祈りにあわせて「私は信じます」という応答は、牧師が伝えるべき福音の全てを語っています。これはかたくなではなく、真実なのでしょう。

 教会に対する様々な厳しい意見をいただくことがあります。無茶なご意見もありますが、それでもその人が何かを思っている。教会ならと期待があるということかもしれません。自分のほうに都合がいいようにして、逆に非難するまえにちょっと立ち止まって考えることも大切です。「心がかたくなになっているのか」というイエス様の声が聞こえてきます。教会はかたくなになってはいけないと思います。

2020年1月14日火曜日

「マナー欠如」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「マナー欠如」

 ある信徒の方から、教育部長あてに一冊の本が送られてきました。その本とは「ビジネスマナー・ポイント集」です。手紙には、「この本、役に立つよ。牧師はマナーと常識が大切です」と書かれていました。

 実は、牧師の常識のなさ、マナー欠如が深刻な問題なのです。はじめのころは、宗教家たるもの《非常識のなかの常識》こそ大切だと思っていました。神様のみことばを伝えることはそれ自体で非常識の中にあると思っていたのです。ところが、信徒の皆さんがおっしゃる《常識》とはレベルが違うことに気がついたのです。皆さんが問題にされる《常識》とは、人が生きる上でのマナーの欠如ということなのです。

 牧師補研修会で「あいさつ」「電話のかけかた」「言葉のかけかた」「みだしなみ」「お茶のだしかた」「言葉使い」「手紙の書き方」「依頼の仕方」など習わなければならないほどマナー欠如というわけです。どうしてなんでしょうか。 主イエスの言葉に「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」というものがあります。若くして教区常議員、伝道セミナー委員長など与えられて思うことは、そのような立場になったら仕えざるをえないということです。牧師とはどんな立場なのか、それを一人一人の牧師が考えはじめたときマナー集などいらなくなるのでは・・・。

2020年1月13日月曜日

「みんな」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「みんな」

マルコ  14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。

日本人に何かをさせるには一言いえばいいそうです。それは「みんなやってますよ」と言う言葉だといいます。私たち日本人は「みんな」という言葉をよく使います。「みんなやってる」「みんなもってる」「みんな嫌いです」。しかし大抵この「みんな」は2,3人のことです。それでも全体のことにしてしまいます。一人では自信がないのか、また一人ではいたくないさみしがり屋なのか。「みんな」という中に何か問題がありそうな気がします。

イエス様は逮捕される前に、「あなたがたはみなわたしにつまずく」と弟子たちの離反を予告されています。弟子たちもみんなと同じで、自分のもとから散っていくと言われました。ペトロは「わたしはつまずきません」と言います。イエス様はそのペトロに「今夜、鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないという」と告げられました。ペトロは、わたしはみんなと違うと言いたかったのでしょう。しかし、結局みんなと同じになってしまいました。「みんな」の力に押し流されない「わたし」とは何かと思います。

集団になると・・最近このことを考えさせられます。小さな子どもまでも「みんなが、みんなが」といいます。一人一人とは話しができるのに、集団になるとまったく関係が作れない学生もいます。みんなに注目されたいのか、一人ではできないけれど、集団になってしまうと派手なことをしてしまう。個と集団の違いは、いったい何でしょうか。集団になるとホントの自分ではなくなってしまうことの危険性を感じながらの集団活動をしていました。聖書研究会は「出エジプト記」を学びました。エジプトの苦役から解放するために、神様はその苦しみを見、そして聞き、知ったとあります。そして、モーセをリーダーとして「集団」で約束の地への大移動を慣行するのです。あくまでも「集団」行動でした。しかし、この集団がモーセを悩ませるのです。神様はこの集団をひとまとめにして見ておられるのか?どうもそれだけではないのです。集団の中の個の存在を大切にしておられる。結局「集団の中の個であるあなたは、私を信じるか」と問われているみたいです。

ペトロも「みんながつまずいても、わたしは・・・」と言いました。しかし「みんな」とおなじようにつまずき、イエス様をみ捨ててしまったのです。たとえ「みんなとは違う」といっていても、人間は流されていくのです。イエス様はすべてを知って、ペテロをみつめておられました。人は神様の前にたった一人で立たねばならないときがきます。そのとき「みんな」は通用しないのです。

2020年1月12日日曜日

きままな休日・カップ麺もいいさ!

授業が朝から4コマありました。
この日は昼食の時間があまりとれず。
で、終わってからのおやつ時間にカップ麺。
これが美味しいですよ。

2020年1月11日土曜日

納骨室ができました。


手作りの納骨室が完成しました。
快く引き受けてくださった岸川兄に感謝します。
どうぞ祝福式にお越しください。本日礼拝後です。

2020年1月10日金曜日

明日は礼拝です

説教者:立野泰博牧師(主任)
礼拝後納骨室祝福式
どうぞいらしてください。

2020年1月9日木曜日

「まん丸まるく」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「まん丸まるく」

 木食行道(もくじきぎょうどう)というお坊さんの句に、次のようなものがあります。

     まるまると まるめまるめよ わが心

               まん丸丸く 丸くまん丸



 この句を読んだとき、これは三女そのものだと思いました。まだ9ケ月を迎えたばっかりの赤ちゃんは、なんと「まん丸」という表現がぴったりなのです。この赤ちゃんをみていると、こちらまで心が丸くなってくるがわかります。赤ちゃんを抱いた人は、それだけで丸い心になれるのかもしれません。

 ところが、赤ちゃんを離したとたん心のまん丸が少しずつ壊れて、ガクガクとなってくるのがわかります。きっとこれは自分中心という心がでてくるからではないかと思うのです。

 「優しい人間になりたかったら、赤ちゃんを抱けばいいよ」と教えてくださった牧師がおられました。やってみると、優しい人間でいられる自分を発見することができます。そうすると、いつでも心に幼子イエスを持ち続けることが、人に優しい人間であることのコツといえそうです。

 まるくまるく生きて行けたら幸せのような感じがします。

2020年1月8日水曜日

「自分が変わらねば」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「自分が変わらねば」

ヤコブ 1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

「自分が変わる」ということは難しいことです。最近の説教ではそのことをよく話していると教えていただきました。確かに新しい教会に赴任して、いままでと違うことに戸惑いを感じることもあります。そんなとき、それを受け止めるには自分が変わることを求められます。また同時に教会も変わることを求められます。ただし、教会には変わらないもの、変えてはいけないものもあります。それは「み言葉」「信仰」「神様の恵み」です。それをはっきりさせるために変えていく努力をしなければなりません。イエス様が大江教会に求めておられることは何かを常に考えています。

ヤコブは、神様の言葉を聞いて実践するというテーマを持っています。その時、自分中心をどのように乗り越えるべきかを語ります。最初に3つのことの実践するように勧めます。「聞くのに早く」「話すのに遅く」「怒るのに遅く」です。これを読んでみると、すべては相手に合わせなさいということでしょうか。自分が変わるということを求められているようです。ヤコブの時代にも教会内で様々なトラブルがあったようです。そこには生身の人間の集まりがありますから、言い争いや分裂などもあったことでしょう。しかし、神様が与えてくださった交わりはそれを乗り越えるために相手を思い、愛し合い、赦しあうという恵みを与えてくださっています。そのためには「わきまえる」ことが大切なのです。

教会からの手紙を書いてくださる姉妹が、素敵な話しをしてくれました。「牧師先生、毎回教会からの手紙を書かせて頂いていて気がついたことがあります。実は『受』けるとい字を書いていると、いつの間にか『愛』という字を書いてしまうのです。上の方は同じなのですが、いつも愛になってしまう。受けることは愛に変わるのですね」と。意味のある言葉だなと思いました。神様からの恵みを受けとめたときに、そこに愛が生まれる。その愛を必要としている人たちと共有するときに愛は働くのだと。変わることも大切なことです。

ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と教えています。私たちは、自分のことを話したい。聞いてもらいたい。訴えたいと自分を中心に考えています。しかしヤコブは、「わきまえなさい」と教えます。自分を変えていくことが「わきまえる」ということです。私たちは職場でも関係の中で生かされています。何かうまくいかないことがあったとき、主にあって「自分が変わる」ことを考えてみる必要があります。変わることでうまくいくことがある。私たちの人生も、主によって変えられて今があるのです。

2020年1月7日火曜日

「何を願っているのか」

クレヨン牧師のミニエッセイ牧師

「何を願っているのか」

 何を思ったのか、次女が「そろばん」に通い始めました。いまのところはとても楽しそうに通っています。たぶん幼稚園のお友達が「そろばん」を楽しそうにしているので、自分も行きたくなったのでしょう。

 ところが、姉にとっては、妹が「そろばん」に行くのは面白くない。そこで、姉に納得させるまでが大変な騒ぎとなったのです。理由は簡単なことなのです。「自分より妹が計算できるようになるのがゆるせない」というものです。妹だけには、どれもこれも負けたくないらしいのです。姉としてのプライドでしょうか。

 そこで次女は説得にかかりました。「お姉ちゃんは、ピアノ、英語、スイミング、習字をやっている。私は英語だけだからずるい」と。いろいろ話し合ったあげくの結論が愉快でした。まず長女にそろばんに行く気持ちがあるかを聞きました。もちろん負けたくありませんから、行くといいました。ところが、自分のスケジュールを考えて、これ以上に別の教室にいくと遊ぶ時間がないことにはたと気が付いたのです。そこで、「遊ぶ時間がいるから、行かない」ということで決着したのです。

 主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かってない」と言われました。自分の首を締めていくのは、自分の勝手な願いかもしれません。

2020年1月6日月曜日

「目的は何か」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「目的は何か」

ルカ  10:1 主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

「会議とは人の仕事をやめて行う仕事である」という定義があります。大江教会の役員会はどうかを振り返っています。私たちが行っている会議は「会議をおこなうための会議」ではないかと反省しています。「会議とは人の仕事をやめて行う仕事である」という定義をまず考えるべきです。この会議は、人の仕事をやめておこなう必要がある会議か。それにふさわしい人を集めているのか。目的に添った人を集めて、効率よく会議ができているか。これから役員会をしていく中で問うべきことです。理想の会議は「目的が明確である」「必要な人が集まる」「役割が明確化されている」「それぞれが貢献している」ものです。このような会議はみな満足し、収穫があります。会議はこうでなくてはいけません。つまり目的がきちんと共有できているかどうかです。

イエス様は七十二人を選び、宣教へと派遣されました。その時、「何ももっていくな」「途中でだれにも挨拶するな」と言われています。まず福音を宣べ伝えることが急務であるといわれるのです。一番の目的は「神の国が近づいた」ことを伝えることです。この目的をはっきりさせ、共有し、派遣されたのです。

昨年は被爆70年、戦後70年の節目の年を迎えました。私は70年前の戦争を何一つ経験していません。学校の教科書や、その後に自分で学んだにすぎません。本の中での戦争、海外にでかけていっても、日本で守られた所からながめた戦争しかしりません。サミットがそこで行われており、いま何を大切にしなければならないかを考えています。その中で一番心にのこったのは、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世の言葉でした。彼は広島へこられたときにつぎのようなメッセージを世界へ送られたのです。

  過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。

  広島を考えることは、核戦争を拒否することです。

  広島を考えることは、平和に対しての責任を取ることです。

 今年行われた70年目の節目にあたる原爆祈念式での子ども宣言・平和への誓いでもよまれました。過去の過ちを見据えることだけが目的ではありません。そのことを悔い改めることだけが目的ではありません。しっかりとそれをふまえ、将来に対してどのように平和を創り出していくかが目的です。

イエス様は七十二人を任命されました。そして「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。そのときに、目的、人、手段、貢献をはっきり伝えておられます。そして一番大切な「神の国は近づいた」という福音を伝えることを命じられました。これらのことが共有できていた弟子たちはおおきな収穫をもって帰ってきたのです。

2020年1月5日日曜日

きままな休日・せちではなく

おせちもいいけど、バーガーが一番!
なんてことはありませんが、
新年からスペシャルなランチでした!
阿蘇赤牛をつかったローカルバーガーです。

2020年1月4日土曜日

新年のご挨拶


 あけましておめでとうございます。

 いつものように暮れが来て、いつものように元日がやってきました。それでも、12月31日と1月1日とでは、気持ちの持ち方が違うように思えます。31日までは気ぜわしかったのに、元日の日はのんびりとしています。暮れは大掃除であるとか、買い出し、整理であるとか、何かと自分でしなければと思うものです。たぶん心の余裕をなくしているのでしょう。しかし、元日になったとたん「ひらきなおる」というか、「おおらか」になるのです。プラスに考えれば、なるようにしかならないので、神様にお任せするしかない日になるのでしょう。それで「おおらか」なのです。

 カール・バルトの言葉に、「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」というのがあります。この言葉は今年の私の目標です。最後までいってしまうと、神様になってしまいます。しょせん私たちは人間なのですから、神様にはなれません。しかし、だからといっていいかげんには生きていけません。最後から一歩手前というところが大切なのです。

 97年もすでに始まりました。今年は「最後から一歩手前の真剣さ」で歩みたいと思います。あくせくしながら、しかし、神様にお委ねしながら。そうすることによって、神様の平安が満ちあふれる人生となれば幸いです。

2020年1月3日金曜日

明日は礼拝です!

明日は今年初めての礼拝です。
説教者:関 満能 牧師(水俣教会)
お待ちしています!

2020年1月2日木曜日

新年の礼拝

鹿児島教会は毎週土曜日です。
すべての予定は土曜日になります。

2020年1月1日水曜日

あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。
新しい年もよろしくお願いします。
今年初めての礼拝は
1月4日(土)10:30~です。