2018年6月24日日曜日

休日クレヨン・天草崎津の「海月」握りずし

天草崎津「海月」の握りずし
今年世界遺産になる予定の教会のそばになります。
これから観光客で一杯だろうな~
その前に食べておこう!

2018年6月23日土曜日

礼拝へどうぞ

本日は主日礼拝です。
説教者:関 満能牧師(水俣教会)

2018年6月21日木曜日

「静かに・・・」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「静かに・・・」
 
 若手牧師の家族が来て下さり、楽しいときをすごしました。今年は六日市に蛍を見に行くことが目的で集まったのです。一度でいいから蛍のクリスマスツリーを見て欲しかったのです。
 
 私はこの季節の六日市が大好きです。なぜなら、帰りに「寄り道」ができるからです。今の季節ですと、橋の上が絶好の場所です。清流のせせらぎ、かじかの鳴き声に、蛍の舞という贅沢なひとときを送ることができます。
 
 この贅沢を娘たちや牧師仲間の家族にもということで、みんなで六日市にでかけたのです。ところが、子供たちは「かじかってどれ~」「かじかの鳴き声ってどこ」「お~いかじか出てこい」と騒ぐしまつです。肝心のかじかも鳴くのをやめてしまいました。
 
 「神様はいったいどこだ。声なんか聞こえない。神様でてこい」と心の中で思っているうちは、きっと神様の声は聞こえないのでしょう。落ちついて静かに心をこめて聞くことが祈りのポイントかもしれません。

2018年6月20日水曜日

「聞くだけではなく」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「聞くだけではなく」

ヤコブ  1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。

聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。

北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。

  落葉焚けばおもしろ、

  櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。

  萱(かや)の葉はちょろちょろ、

  松の葉はぱちぱち。

 なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。

ヤコブは「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。

2018年6月19日火曜日

「気を気にしてない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「気を気にしてない」
 
 なんでも気功がブームだそうです。牧師たちの中にも気功を研究しておられる方もいます。私もちょっと本を買ってきて読んでみました。すると、これは奥が深いということだけはわかりました。なにせ中国三千年の歴史から生まれてきたものですから。
 
 さて、その本によれば、私たちは様々な「気」に囲まれていることがわかります。「眠気」「気分」「元気」「殺気」「景気」「勇気」「気丈」「天気」「病気」「雰囲気」「活気」「気力」「英気」「鋭気」「精気」「生気」「邪気」「気体」「気合い」などなど。こんなに「気」に囲まれているのに、一向に気にしていないのです。
 
 いろいろな牧師が、「聖霊」と「気」は同じであるといっています。私はそう簡単に言えないような「気」がします。どちらにせよ、それらを私たちが感じなくなっていることが問題だと思います。聖霊を受ける。それは聖霊を感じることでもあるのです。なんだか「呑気」なものですね。

2018年6月18日月曜日

「捨てて信仰を拾う」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「捨てて信仰を拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

九州学院の高校3年も大学進学を目指して追い込みと言ったところでしょうか。自分も大学進学のために、東京へ旅立った日のことをおもいだします。神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから30年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。

 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」でした。捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火

徴税人レビ(使徒マタイ)の召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。イエス様のこの一言を待っていたのです。彼も悩み苦しみの中で、イエス様との出会いを待っていました。

良寛さんというお坊さんがいます。大好きなお坊さんです。その良寛さんの逸話話に「拾うことの楽しさ」というのがあります。良寛さんは人々がお金を拾ったら大喜びするのが不思議でたまりませんでした。良寛さんにとってお金は何をおいても大切なものではなかったのでしょう、それで、良寛さんは自分もやってみることにしました。自分のお金を捨てて拾ってみます。全然楽しくない。ところが、投げ方が悪く草むらに入ってしまった。必死に探して見つかったときの喜びがわかったという話です。良寛らしい話だと思います。

本日の聖書では「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。すべては捨てたけれども「イエスに従う」という信仰を拾ったのです。信仰を拾ったというのは与えられたのです。神様から一番確かなものを与えられたことになります。私たちが必死にしがみついているものは何でしょうか。信仰はしがみつくものではありません。与えられるものです。