2018年12月10日月曜日

「自分を愛するのは」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「自分を愛するのは」

 ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。

 イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳(1955年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。

 最近FMラジオを聞いています。先週はNHK/FMから永六輔さんの声がきこえてきました。何人かの方々との対談でした。その中で自分たちがやっていたテレビ番組と現在の番組の違いを話しておられ、心に残った言葉はつぎのようなものです。「バラエティ番組なのだけれど、昔の番組は『笑わせる番組』だった。いまのは『笑われる番組』になってしまった」と。この2つはとても違うなと思いました。「笑わせる番組」を作るのは大変なことでしょう。視聴者の感覚を捕らえ、構成し、よく考えて作らねばならないからです。一方「笑われる番組」を作るのはどうでしょうか。誰かタレントをつれてきて、笑われればいいのです。そう考えると、いまのバラエティ番組が何をやっているか少し理解できました。タレントに変なことをさせて笑いをとっている。親たちがみて下品なことでも笑われればいいのかな、と思ってしまいます。サーカスにいたピエロとも違うのです。ピエロは笑われているようで、じつは笑わせていたということに気がつきました。神は私たちを「愛する」お方であって、「愛される」ために何でもされる方ではないのです。愛されようとして、「人間の思いのまま」に動かれるお方ではないのです。ラジオからの一言でああでもない、こうでもないと考えてみました。「神様は愛するお方だ!」と知ったときさわやかな感じがしました。

 自分を愛することは自分のためではありません。隣人を愛するためです。自分を愛する愛し方を分かっている人は、隣人をどのように愛するべきかを知っているのです。「ご自愛ください」とは、あなたが病気になると、家族や共に生きる方々に迷惑がかかるからです。自己愛で自分勝手に生きて行きなさいという意味ではなのですね。

2018年12月9日日曜日

気ままな休日・広島むさし銀むすび




やっぱり広島にいったらこの「銀むすび」!むさしはやっぱり好きです。
画像に納めとこうとおもっていたら、忘れてパクリ。
そうなんです、温かいうちが美味しい。握りたてですから。
ということで一口食べた後の画像になりました。ま、いいか。

2018年12月8日土曜日

子ども礼拝もはじまりました。

教会の礼拝で子ども説教も始まりました。
子どもたちに分かりやすく牧師がお話します。

2018年12月6日木曜日

「自由の中の不自由」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自由の中の不自由」
 
 いつからかセキセイインコを飼っています。といっても本当の飼い主は隣りの教会の牧師でした。じつは今年の春の北海道転勤にともない我が家にやってきたのです。
 
 先日、このセキセイインコをただなんとなくながめていました。すると、餌を勢いよく食べるので、オリの外にこぼしていたのです。数分後こんどはスズメがきてそれを食べていました。なんだかその光景がとっても不思議だったのです。
 
 オリの中にいて、餌に不自由しないのが幸せなのか。食べ物だけを探して、一日中大空を飛び回るのが幸せか。どちらも幸せだと思いますが、それぞれの幸せの中にも不自由な部分があることに気がつきました。
 
 私たちは幸せだけを求めています。しかしそれは、不自由さを一緒にもつ幸せでしかないのです。その不自由さを認めるか、認めないか。受け取れるか、受け取れないかなのです。
 
 主イエスは正しさだけを招かれたのではなく、罪をも招かれたのです。自分の罪を認めつつ正しさの中に生きることができるでしょうか。主イエスと共にあるならばできると信じています。

2018年12月5日水曜日

「判断基準は神様のみ言葉」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「判断基準は神様のみ言葉」

箴言 9:10 主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。

「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。震災のおこるずっと前からです。神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。その心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。それが知恵だといえます。

箴言は知恵とは何かを考えさせます。しかし、その知恵がどこからでてきたものかは重要です。今回の知恵も、女性として人格化された知恵が、未熟な若い男を招く話になっています。本当の知恵とは何か、それを見極めることは大切なことです。

小学校4年生の道徳の授業参観をしたことがあります。授業内容は「麻薬の危険から身を守る」ということでした。興味本位で手を出したりしないようにということでした。内容はどんな麻薬があるか、麻薬に犯されると人間はどうなっていくかなど、分かりやすいものでした。そして最後に先生が麻薬を使うことに多数決をとられたのです。なぜ麻薬は恐ろしいか、使用してはいけないかを話してきて最後は多数決で決定という授業に疑問をもちました。判断の基準はどこにあるのだろうと思ったのです。

箴言は「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」と教えています。私たちに与えられている知恵は神様からくるものです。その知恵の根拠は聖なる神様を知ることから始まり、それが判断基準となっていくのです。分別の初めもすべては神様から、そして神様とはその御言葉にあります。

2018年12月4日火曜日

「痛みと共に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「痛みと共に」
 
 教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学んでいます。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。
 
 先週の日曜日の朝6時ごろのことでした。長女・華美が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまにりもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。ところが、先週は柳井教会の担当でしたから、車を運転しながらある声を聴いたのです。「華美ちゃんは、お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と。
 
 私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。