2019年3月26日火曜日

「神様っておるん?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様っておるん?」
 
 長女が車の中で突然聞きました。「お父さん。神様って本当におるん」。突然の質問に驚きと喜びを感じました。とっさにどんな答え方をしようかと考えましたが、たった一言「神様はおるよ」と答えました。「神様は生きておられる」それだけで充分でした。
 
 数週間して、長女がまた聞きました。「お父さん。人間の神様は二人おるんよね。一人はマリア様で、一人はイエス様だよね」。そのときは「よく分かるね。でもちょっと違うよ。神様はイエス様だけだよ。マリア様は信じることを教えてくれる人なんだよ」と答えました。長女は不思議そうな顔をしていました。
 
 そしてまた週週間たちました。「お父さん。お友達が神様はおらんというけど、わたしはおるってしっとるんよ。だってお父さんがおるって教えてくれたもんね」。
 
 私たちは信仰において、はっきりした態度を要求されるときがあります。要求する相手が子供であっても同じ事なのです。その時は聖霊が語ってくれる時でもあります。「神様は生きておられる」。この一点だけは私の家庭では他に譲れない一点です。

2019年3月25日月曜日

「心強い存在がある」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2019年3月22日金曜日

2019年3月21日木曜日

「信頼して一歩」

クレヨン牧師のミニエッセイ

信頼して一歩」
 
 坂村真民さんの詩集につぎのようなものがあります。
 
 すべてとどまると
  くさる
  このおそろしさを
  知ろう
  つねに前進
  つねに一歩
  空也は左足を出し
  一遍は右足を出している
  あの姿を
  拝してゆこう
 
 復活の主イエスに出会うためには、墓へ一歩近づかねばなりませんでした。女たちは不安で仕方なかったのに、一歩踏み出したのです。
 
 とどまってはいけない。どんなことがあっても、主イエスを信頼して一歩前進したい。キリスト者には、それしかないのです。

2019年3月20日水曜日

「わかっているから」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

2019年3月19日火曜日

「存在を確かめて」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「存在を確かめて」
 
 最近、我が家では次女がお父さんといっしょに寝ることになっています。ちいさい子供と寝るのは、いろいろと世話もありますが、とっても幸せな気分になります。その暖かさがホッとさせてくれるのです。
 
 このごろよく、次女の足が夜中にぶつかってくるのに気がつきました。それも明け方によくあります。その足は脇腹をくすぐるように触ってくるのです。一体何をしているのでしょうか。実は、どうもお父さんが「いるか」「いないか」を確かめているみたいなのです。もし触らなかったら起きて泣き出してしまいます。
 
 私たちも安心して生活をしていても、ふと神様の存在を確かめてみたくなることがあります。ちょうど寝ていても、「いるか」「いないか」と足で触って確かめてみるようなものです。しかし、神様はいつでもそこに居て下さる。仕事のためにいないとか、ほかの部屋に寝ているとかありません。
 
 私たちにとって神様はいつでも共にある存在です。しかし、忘れてしまう存在でもあります。つねに、忘れず生きていくことができるでしょうか。もちろんできます。私たちは聖書のなかで、御言葉を通していつも出会っているのです。そして祈りを通して会話もしています。