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2月, 2020の投稿を表示しています

納骨室完成!

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プレートの設置をいたします。 これで完成!

明日は礼拝です。

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説教者:関満能牧師(水俣教会) 新しくなった聖堂へどうぞ!

「説教の中にある対話」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「説教の中にある対話」  ビジネス能力研究会という所から「1分間能力開発」という本がでています。この手の本は、数をあげればキリがないほど出版されています。ということで、1冊くらい読んでみようと買ってみました。いくつか興味深いところもあり(といっても変なところにですが)、その中でも私にとって恵みだったのは、次ぎの文に出会ったことです。  「一方的にしゃべる人の話を正確に理解するのは難しい」。おもわず「ん~」とうなってしまいました。なぜなら、説教というのは一方的に話すことだからです。それでは、説教は正確には伝わらないのでしょうか。もちろん、牧師によって様々ですが、分かりやすい説教と分かりにくい説教があります。後者の方は、15分~20分の話を一方的に聞くものにはいるのでしょう。  しかし、分かりやすい説教といわれるものがあります。単に話が面白いとか、たとえが興味あるとかではなく、主の御言葉が素直に伝わってくる説教があるのです。それはどうしてかを考えてみました。結論として分かったことは、説教の中に対話があるかどうかです。たとえ一方的に聞く説教であったとしても、その中で御言葉と自分との対話がなされたとき、感謝して受け取る御言葉となるのです。ある神学者は「説教とは牧師と信徒の共同の黙想(メデテーション)である」といいました。対話があること。これは理解することの第一歩です。

「チームとして」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「チームとして」 ルカ3:5 山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎみる。 あるスポーツのコーチから聞いた話です。「個人技が優れている選手が多いチームが勝つとは限らない。一時は勝利するかもしれないが、勝ち続けることはできない。チームには調和が大切。個人技が優れている選手も、そうでない選手も自分の役割を知り、全体が一つの目標に向かう時に強いのですよ」と。 洗礼者ヨハネが用いたイザヤ書の預言です。イエス様がこられると、平均化される?という意味のように聞こえてきます。でこぼこは平に。曲がったものはまっすぐに。神様は私たちと世界を平等にみてくださるという意味でしょうか。しかし私たちには能力の違いや個性があるのですが。 島根県六日市は7月が蛍の季節です。若い頃、六日市礼拝のお手伝いをさせていただきました。牧師になって10年を過ごした礼拝に、そこの人々の変わらない信仰に癒されるひとときでした。そして蛍。毎年楽しみにしていたこと。家族全員で見に行ったこと。幻想的な雰囲気の中で神様の恵みを感じたことを思い出します。蛍というのは不思議なものを感じさせてくれます。蛍はばらばらに光ることはありません。かならず同じリズムで光るのです。目が暗闇になれるまでその全体はわかりません。静かにじっと待っているとその数が増してきて、いつのまにか山中が蛍になっていくのです。 先ほどの洗礼者ヨハネの言葉を読んでみました。私たちは神様から賜物を頂いています。それを用いて生きていく役割を与えられています。その役割を知って、この教会のチームで働くときにすばらしい働きができるともいます。個人技にすぐれている人も、そうでない人も、役割をきちんと踏まえ調和をたもちつつ今日も神様から与えられた働きに励みましょう。

「自然の恵みを受ける」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「自然の恵みを受ける」  「自然の恵み」というと、食べ物だけのように聞こえます。しかし、本当の恵みとは、その自然そのものではないでしょうか。  先週関西から、2人の牧師たちが遊びにきてくれました。徳山といえば食べるものもおいしいし、ちょっと行けば海と山のどちらにもいけます。いろいろと案内しながら、あらためて、自然に囲まれていることに気がつきました。あらためてというのもおかしいのですが、その中に暮らしていると、いつのまにかその恵みを忘れてしまいます。教会から見える森が、駐車場になってはじめて、森の存在を意識するというおかしなことがおこるのです。  いま、六日市は「ホタル」の季節です。今年もまたホタルの乱舞を見ることができました。2人の牧師たちにホタルを案内したとき、「こんなに心が豊かになれたのは久しぶりだ」と言われました。自然の恵みとは食べ物だけでなく、心にもっとも深く与えられるものだと思います。  私たちはなにげなく、この自然の中で生活をしています。しかし、その恵みに気がつくということは、神様に出会うということだと言えます。与えられている自然を破壊していくのが人間だとしたら、ますます神様から遠くなっていく罪人になるのでしょう。まだ、自然の恵みを受けることができる今だからこそ、その恵みに感謝し、神様の存在へと目を向けたいものです。

「絶望から希望をみる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「絶望から希望をみる」  ルカ 23:43 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる 大学生の時フィリピンにいきました。スモーキーマウンテンというゴミの山のスラムにホームステイしました。しかし、そこのクリスチャンたちは決して希望を見失っていませんでした。『絶望までいってしまうと、もうそれ以下はないから、あとは希望しかみえないものだよ。絶望のなかでも希望を見ることができる。十字架の上でもキリストは罪人を救われたのだから』この言葉をフィリピンのクリスチャンから聞いてもう30年。そのとおりだと告白することができるようになりました。  本日は、イエス様の十字架上での言葉です。ある意味では、絶体絶命のピンチの時でもあります。ゴルゴタの丘には3本の十字架が立てられました。一人は最後までイエス様を罵っています。イエス様をはじめ二人の強盗にとっては、死を直前にひかえた最後の時でもあります。ジタバタしてもはじまらないのです。  ところがこの箇所はそのような暗い感じはありません。どこかに希望の光りがみえてくるのです。なぜなら、最後の最後で一人の強盗は信仰を告白して救われているからです。しかも、イエス様といっしょに楽園にいるとまでいわれています。確かに死ぬ。しかし、死んでも終りではなく、イエス様を信じているならば、今日、しかもイエス様とともに楽園にいると言われているのです。 カール・バルトの言葉に、「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」というのがあります。この言葉は今年の私の目標です。最後までいってしまうと、神様になってしまいます。しょせん私たちは人間なのですから、神様にはなれません。しかし、だからといっていいかげんには生きていけません。最後から一歩手前というところが大切なのです。

気ままな休日・コーエイの300円カレー

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水前寺にコーエイという喫茶店があります。 もう30年も前から木曜日はカレーの日です。 いまは300円!この日はカレーしかありません。

大江教会ですが

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いよいよ教会の季節は受難節です。 大江教会ですが、聖灰水曜日の礼拝です。 悔い改めをもって、、、

明日は礼拝です

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説教者:立野泰博牧師(主任) 22日~28日は礼拝堂工事のため立ち入ることができません。 29日の礼拝から聖なる空間がリニューアルです。 お楽しみに!

「大切なことは何か」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「大切なことは何か」  教会への相談の内容が、「フリン」から「リコン」へと変わってきました。これは最近の傾向ですが、「もう一度やりなおしたい」から「はやく別れたい」へと変化したことによります。いったい社会はどうなっているのでしょうか。  ある本でつぎのような話を目にしました。  「ある日、若い女性が仕事を終え、家に帰ろうと車を運転していました。ことろが、ちょっとした不注意で、前の車に追突してしまったのでした。この車はまだ購入して3日目の新車だったのです。彼女は泣いてしまいました。この事故をどのように夫へ報告すればよいのか・・。 ぶつけられた人は彼女に同情しましたが、お互いの運転免許の番号と登録番号を書かなければなりません。そこで彼女は車検証をだそうと大きな封筒を開けました。すると中から一枚の紙が出て来ました。そこには大きな、男らしい字で次のように書いてありました。『もし、事故にあっても・・・僕が愛しているのは車ではなく、君だということを忘れないで』と書かれてありました」。  大切なことは何かを見失ったとき、人は間違いを犯します。それが始めのうちはまだ修正可能ですが、最後には決定的な別れとなることもあります。始めの一歩である大切なことは、「相手を思いやる」ことです。主イエスの御言葉「隣人を愛しなさい」もまた同じではないでしょうか。

「神様に求めて」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「神様に求めて」 ルカ  12:22  イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。 「思い悩んだって、何もかわらない」とは、被災地のおばあちゃんの言葉です。家も財産も全てなくしたおばあちゃんですが、そのことを思い悩んでもしかたがない。悩むくらいなら新しいことを始めなきゃと言っておられました。そのとき私たちの支援方法も変えなきゃいけないと思ったのです。それまでは共に思い悩むことが支援だと考えていました。しかし本当の支援は、寄り添いながら新しい一歩を踏み出せるために背中をそっと押してあげることではないかと。思い悩むことに入り込むと、この一歩が出ないのです。思い悩みから抜け出す一歩を寄り添いつつ支えるのが支援なのです。イエス様の生き方も同じです。 イエス様は「愚かな金持ちのたとえ」で、貪欲に対する注意を教えられました。その後、このみ言葉を弟子たちに話されました。烏は何も働かず倉などもたないが、神様は養ってくださる。「思い悩むことはない」。これは、神様が私たちを養っておられる。これに気づき、神様に感謝し、「神様を求めなさい」ということです。まず神様を求めることで、思い悩むことはなくなると言われるのです。 イスラエルへいったおり、ガイドの方から「一度、本当の荒野へいきませんか」と誘われました。イスラエルには3種類の荒野があるそうです。1、人間も動物も生きていける荒野。2、動物ならかろうじて生きていける荒野。3、生きていくことを拒絶している、どんな生命でも生きていけない荒野。この3番目の荒野を本当の荒野というそうです。その本当の荒野へ行こうというわけです。さて、その本当の荒野には何があるか、静寂と闇しかないそうです。一晩そこにいると、恐怖と畏れしかなく、人間は涙を流すといいます。音もない光もない、生きているものは自分だけという世界。そこでは神様を求めざるをえないと教えてくれました。聖書は荒野の中の宗教だといいます。神様を求めるほかには何もない世界の中で書かれたといいます。静寂と闇こそが人間を神様へと向かわせるのかもしれません。 イエス様は「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と教えられました。思い悩

「ウソが真実を」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「ウソが真実を」  「ウソの研究」という本に、《ウソをつかなければ見えない真実もある》と題して、次のようなことが書いてありました。  「グレース・ハルセンというアメリカの白人女性が、おもしろい実験をした。彼女は生粋の白人だが、薬品によって肌を黒く染め、黒人になりすましたのである。目的は人種差別についての社会的分析。彼女は持ち前の行動力と女性特有の細かい観察力とで、人種差別を身をもって体験しようとした」  このような実験をしたのだそうです。この結果は、「ハンセンが黒人に身をついやしてからまず体験したのは、性的な恐怖であったという。つまり、白人男性が黒人女性に対して、いかに性的に横暴であるかということだった」。この実験の結果わかったことは、「人間は普段いかに平板な現実しか見つめていないことをあらためて思い起こさせてくれました。  相手の立場に立つことの難しさを思います。私たちは、自分が属している社会的な集団のメガネを通してしか物事を見ることはできません。立場を変えてみれば。まったく違った世界がそこに開けているにもかかわらずです。  主イエスが「隣人を愛せよ」と言われたとき、その人のおかれている状況までも理解せよと言われたのでしょう。しかし、その人の立場に立ってみると、自分の知らなかった恵みをも得ることがあるのです。

「準備はできているか」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「準備はできているか」  ルカ 10:36 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか あるとき、神学校の礼拝で学生が説教をすることになりました。はじめての説教だったこともあり、徹夜して準備し礼拝に参加しました。ところが説教壇に立ったとたん緊張し、何も話せなくなったのです。沈黙は5分位つづいたとき、ある神学校の教授が説教壇に立ち、代わって説教したそうです。その話をきいて「さすが神学校の先生ですね、よくできましたね」と思いました。ところが先生は「神学校の教授だから当然のことです。いつでも準備はできていますよ」と。  有名な「よきサマリア人のたとえ」です。イエス様が律法の専門家に「何をしたら永遠の生命をいただけるか」という問いかけからはじまる会話の中で言われた言葉です。隣人を愛すること、では「わたしの隣人とは誰ですか」という質問をしたのです。隣人がわかったら愛することもできますと言いたかったのでしょうが、イエス様は「だれが隣人になったか」と違う角度から問われたのです。その中で、サマリア人はいかなる状況においても、傷つき倒れている人の隣人になることができる準備がしてあったことがわかります。 「パウロ使徒言行の旅、トルコ・ギリシャ」を企画してキャンセルになったことがあります。 6月の旅行が決まったときはすでに5月になっていました。時間がなく準備ができないでいたのです。それから資料をあつめ、使徒言行録を読み始めました。トルコ・ギリシャの地図をみながら読んでいます。その距離は計り知れない大きさであることがわかりました。この宣教の大地にますます立ってみたいと準備する時間を与えられたのだと思ったのです。使徒言行録を読んでいると、「聖霊が行くことをゆるさなかった」「イエスの霊がそれをゆるさなかった」「そこで・・・へいった」という表現がでてきます。私たちは勝手に準備し計画を立てて行動してしまいます。しかしそれは神様の御心ではないということで聖霊に止められることもあります。そこではなくこっち、それではなくこれという導きもあるのでしょう。私たちはいま何を神様は求めておられるのか、祈りつつ見極めていかなければなりません。神様の御心は全てによいように働かれるのです。その働きを信じて歩んでいきたいと思います。  いつ

きままな休日・サラダステーキオムレツ

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なんと健康的で、スタミナがあって、 さらにみんな大好きオムレツが一つの皿に。 なんという祝福なんだろう

阿久根の夕陽

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鹿児島教会整備作業を終えて阿久根周りで帰ります。 道の駅で夕陽。神様からのプレゼントでした。

オルガン奉献の祈り礼拝

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説教者:立野泰博牧師(主任) 礼拝堂に設置されたオルガンの祝福をいたします。

「終末からみる視点」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「終末からみる視点」  もうこれ以上は待てない。そんな状態になりましたので、草取りをしました。いつもながらのことですが、草取りをすると黙想の時間が与えられて感謝です。しかも、終わったあとの爽快な気分がたまらなく、ああ仕事をしたなという気分になります。ところが、次の日に筋肉痛になると、もっと体を動かさなくてはと反省してしまいます。  さて、この草取りですが、始まるまえはちょっとイヤな気分です。なぜなら、「どうして自分が」とか、「暑いのに」とか、「雑草も生きているのだから殺生してはいけない」とか、いろいろ理由をつけてやめたくなります。しかし、いざやりだすとこれくらい静かな時間はないことに気がつき、たった一人の黙想の時間を感謝できます。ところでいつもなら、「今年あと何回、草取りをしなければならないのか」と考えますが、なぜかふと「あと何回、ここの草取りができるだろうか」と思いました。もしかすると、これが最後かもしれない。神様が今日にも天国に導かれたとしたらそうなります。そう考えたとき、この草取りがいとおしくなったのです。  今から終末を待つ視点と、終末から今をみる視点は違います。終末からみる視点によって、今はいやだと思えることも、いとおしくなることがあります。あと何回礼拝に出席できるか。今の礼拝を大切にしたいものです。

「失敗して恵みを」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「失敗して恵みを」   ローマ  11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。  「失敗は成功のもと」という言葉があります。誰もが失敗を恐れています。できるなら成功だけの人生が一番です。しかし、失敗を失敗と受け取らない生き方もあります。それは失敗があったあら成功したという考え方です。実は「成功」というのはたくさんの「失敗」の上に成り立っています。それがわかれば、失敗は成功のもとにつながっていくのです。また失敗しても落ち込まないで済むのです。 パウロはユダヤ人の「つまずき」のことを「失敗」と表現しています。しかしそれでユダヤ人に救いがなくなったわけではありません。むしろその「失敗」が、異邦人に救いをもたらしたというのです。神様の御心によって異邦人に救いがもたらせたのは、「失敗」が益とされたからだと言っています。ユダヤ人たちがイエス様につまずいたことによって、救いは全世界にそしてユダヤ人以外に広がって行ったのです。一つのことが別の所では全く違う意味をもつものです。ユダヤ人の失敗も異邦人の救いとなったとパウロは言うのです。  ある本で次のような話を読みました。「電車などで老人に席を譲ろうと思うが、一瞬のタイミングをはずして言い出せなくなった経験がある。その時、眠ったふりをしたり、あるいは『隣の席の若いやつはなぜ立たないのだ』と自分を正当化させた経験がある。席を譲るという、この一瞬のタイミングをはずしたばっかりに起こること。この一瞬のタイミングのことを、仏教では頓知という」と。この一瞬のタイミングがとても難しいと思います。このタイミングが頓知とは一体どういうことでしょうか。頓知といえば一休さんですが、そういえばタイミングとポイントがしっかり押さえられています。頓知とは日頃から訓練してはじめて身につくものだと言えます。 私たちの人生、このタイミングを捕まえるのが大変です。今と思ったときにはもうすでにタイミングがずれていることが多くあります。あせってしまってタイミングの前に失敗します。それを逃さないための方法は一つしかありません。いつも準備しておくことです。信仰とはいつ呼ばれても「はい」と、いえることだ

「十字架の影」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「十字架の影」  東京郊外にある、カトリック教会を訪問する機会があたえられました。カトリック教会の聖堂にはいつも感心させられます。というのも、聖なる雰囲気を感じるように、いろいろなものが設定されていることに気づくからです。  さて、そのカトリック教会も「木」を主体に統一された聖堂でした。なるほどだなと感心していますと、聖卓のスポットのスイッチがあるのに気づきました。そのスポットはシンボルである十字架に向けられていました。ちょっとつけてみようかなと、スイッチをいれてみました。すると、そこに映し出されたものに、思わず声が出るくらい感動したのでした。なんと、スポットに映し出されたのは、十字架の影だったのです。つまり、両方からスポットがあたるので、正面には3本の十字架(2本は影)が映し出されていたのです。まるであのゴルゴタの丘の再現がそこにあると思いました。  主イエスが十字架におかかりになったとき、両方にも同じように十字架が立っていました。しかし、一人の者は死ぬまで主イエスを罵り続けていたのです。その姿が影となって私の前に現れてたのです。もしかした自分の姿ではないのかと。 主イエスを信じること。信じ抜くこと。従うこと。はたしてそれはどんなことなのでしょうか。もしかすると、たえず神様を罵っている自分がいるのではないか。そんな私にも、両手を広げた主イエスが輝いておられました。アーメン。

「弱さは強さ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「弱さは強さ」 マタイ 5:39 わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 ブッダの教えに「先に傷つくのは自分」というものがあります。たとえ相手が悪人であっても、怒ったり攻撃したりすれば、自分もよけいな罪を犯して不幸になると。悪をなすのは相手であって、それに対して怒ると、自分もその怒りに汚染されるというのです。たとえば、怒りによって相手に汚物や炭火を投げようとすれば、先に汚れ、火傷をするのは相手ではなく自分である。相手が身をかわせば自分の手だけが汚れるというのです。 イエス様の教えで、最も知られたものの一つです。これは律法の中にある「目には目を、歯には歯を」という「同害報復」をとおして、加害者も被害者も同じ痛みを受けることを定めたものです。これに対しイエス様は、一切の復讐を放棄しなさいといわれました。それは悪への屈服でも単なる無抵抗でもありません。それができるためには、よほどの勇気が必要であり、弱い態度ではありません。イエス様の十字架も敗北(死)をもって勝利(復活)へと導かれたものでした。 私たちの人生「私は幸せ者」と最後に言えるということは、本当に感動的なことです。ある姉妹の人生最後の言葉は、天に召される2日前は「いろいろと感謝です」、1日前には「いろいろとありがとう」。そして臨終の床では家族の一人一人の名前をあげて感謝され、とくに障碍を持つお孫さんの優しさ、思いやりに深く感謝されたそうです。いよいよ苦しくなったときは、娘さんにしか聞き取れないくらいの言葉で「ありがとう」と言われたそうです。この言葉は娘さんだけにしか聞き取れないものでした。前夜式のときパウロが聞いた主のことばを引用させていただきました。「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この御言葉に感謝という応答をされたのがこの姉妹でした。 イエス様は「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。律法を再解釈されたように思えますが、実は律法の本来の意味を教えてくださいます。神様の御心がどのようなものであるか。「目には目を、歯には歯を」という律法も、否定という形において

きままな休日・洋食亭のハンバーグオムライス

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熊本松橋にある洋食亭。 いつも目にしていましたが ついにお店にはいることができました。 う~ん!このオムライスは絶品ですよ。

オルガン設置!

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鹿児島教会にオルガンが設置されました。 礼拝が豊かになっていきます。 ぜひ鹿児島市荒田のルーテル教会へ

明日は礼拝です。

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説教者:関 満能牧師(水俣教会) どうぞお越しください。

「頑張らないほうがよい」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「頑張らないほうがよい」  六日市からの帰り道は、黙想の時でもあります。といっても「あーでもない、こーでもな」と考えているだけですが。それでも、その一時が私にとっては、貴重な時なのです。  先週のことでした。車に乗り込むと、一匹の虫がフロントガラスにくっついていました。そこで、車を走らせればすぐに逃げるだろうと思い、動かしはじめたのです。ところが、一生懸命にへばりついて逃げません。スピードをあげるといいかなと、そうしても逃げません。それでは遅くしたらと、そうしても逃げないのです。その忍耐力に感心してしまいました。  それからが黙想です。はたしてその忍耐とは何か。むかってくる強風に飛ばされないように必死に耐えている姿に感動をしながら見ていました。はたして、自分にはそれだけの忍耐力があるだろうか。はたして、神様の御言葉に耐える力があるだろうかと、いろいろと黙想していたのです。  すると、ふと「そんなに頑張らなくても、力を抜けば楽になるのに。そしてまた自由に空を飛べるのに」と思ったのです。そうだなと思います。頑張ることは、いい時をあれば、頑張らないほうがいい時もあるのです。うなずいてフロントガラスをみれば、もう虫は飛んでいませんでした。  神様の前だからこそ、力を抜いておまかせできるのです。感謝。

「祝福されたものを」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「祝福されたものを」 マルコ  6:43  パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。 コンビニで大量のお弁当が捨てられるのを目撃しました。まだ食べられるものだと思いますが、会社のルールなのでしょう。娘のバイト先でも大量に残った食べ物を、バイトが持ち帰るのではなく廃棄処分となるとききました。いつもどうにかならないかと思います。食べ物を粗末にすると罰が当たると教えられてきました。捨てられる弁当を見るたびに、食物は神様が与えて下さる恵みなのにと思うのです。 イエス様の奇跡に、有名な五千人の給食があります。イエス様は大勢の群衆をみて憐れみ、み言葉を語っておられました。時間もたち食事の時間になりましたが、その用意がありませんでした。そこでイエス様は、「五つのパンと二匹の魚で大勢の群衆に食べ物を与えなさい」と弟子たちに命令されたのです。その結果、五千人以上の人が食べて満腹し、残りは十二の籠にいっぱい残ったというのです。 桜の花が咲くと、岸千年先生を思い出します。先生には大変お世話になりました。私が神学校に入学した時はすでに90歳に近かったと思いますが、まだ教壇に立っておられました。孫のような学生に「キリスト教概論」を優しく教えてくださったのです。先生は本当に、かわいがってくださいました。「あせってはいけないよ。かならずいい牧師なになるから」と励ましてくださいました。「いまはくよくよしてもいいけど、牧師になったらくよくよしないことだよ」とか、「いまのままで悩みなさい。それがあとからの糧になるから」と。先生とは約束がありまして、ある授業の単位レポート20枚の課題がだされました。しかし、10枚しか書けませんでした。大胆にも「これは20枚の価値があるレポートです」と隅っこに書いて出しました。当然不可のところですが、岸先生は単位をくださったのです。結婚式のスピーチで「あのレポートは10枚分の価値もなかったけれど、残りの枚数はこれから牧師となって素晴らしいレポートを書いてくださると信じております。天国にて残りを受け付けます」と。桜の季節に必ずこのスピーチを思い出します。残りものの価値を考えます。 イエス様が、五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹されたとき残ったものがありました。しかしそれを人々は

「いちばん近くにいてね」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「いちばん近くにいてね」  いまでも音楽番組をみるのは好きです。曲を聞いて楽しむのも好きですが、それ以上に歌詞に興味があるのです。音楽も「ことば」として聞いてきたので、その歌手が何を伝えたいのかを知ることが好きなのです。  それでも最近は、ドキッとする歌詞がおおくなりました。いまトップ1のミスターチルドレンの「花」にはサブタイトルがついていて、「メメント・モリ」とあります。これは「死を想起せよ」といもので、中世の修道院の合言葉でもあります。それだけならまだしも、今回献堂された、広島教会正面のみかげ石に刻印されている言葉でもあるのです。  そのような曲の中で、いま興味があるのは「大黒摩季」という人のものです。私をドキッとさせることの多い歌詞が多いのです。たとえば、「ずっと いつまでも このままでいれたらいいな 前の人 一緒にいすぎて 愛が生活に負けたから」というのがあります。これはどんな意味があるのかと考えこんでしまうのです。また、こんなのもあります。「無駄だと言われることも 寄り道したりすることも 別に自分が納得すれば それでいいんじゃないの」。つまり、その人のメッセージが含まれているのです。私が彼女の歌詞で一番好きなのは、「いちばん近くにいてね 束縛したくないの お互いの人生 今は大切にしたいから」です。一緒ではなく、いちばん近くにいるのがイエス様かもしれません。

「奇跡はいつも」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「奇跡はいつも」 マタイ  9 : 2  イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされる』と言われた。 ある時、30代の男性が礼拝にこられました。その方は、「わたしが教会にくるようになったのは、神様が最初から計画されていたのだと思います」と言われました。初めて教会にこられた方の言葉でしたのでビックリしました。しかしよく聞いてみると、彼のまわりにはクリスチャンがたくさんおられたそうです。しかも「わたしは祈られていたのだと思います」と言われました。その言葉どおり、神様が彼を導かれたのだと信じることができました。小さな奇跡というものは、常に普通に起こっているものです。私たちがそれに気がついてないだけで、今日お命を与えられてこの朝礼拝に集う事が出来るのも奇跡です。 イエス様は一人の中風の人の癒しをされました。しかし、この癒しは特別な形でした。いつもならその人との対話があり、信仰をみられます。今回は、この人ではなくこの人を連れてきた人々の信仰を見られたのです。ここに奇跡があります。病気が治ったということだけでなく、人々がイエス様のもとに苦しみ悩む人を連れてきたのです。このことによってイエス様の奇跡がおこるのです。そのきっかけが何だったか。中風の人がどんな人だったかは聖書には記されていません。しかし、きっとこの人と、周りにいた人々のつながりがきっかけだったと思います。 先週はある方が悩みの相談にこられました。生きていくのがつらいという相談だったのです。そのなかで、「新幹線の中で、どうしてこんな悲しいのかと思って空を見上げたら虹がでてました。ちょうど福山あたりでした。その虹をみたとき神様が何かを語って下さると思い教会へきました」と言われました。実は丁度同じ時間に私たちも、その虹を見たのです。婦人会の途中でしたが、皆でながめたあの虹だったのです。神様はその虹を架け橋にして、痛み苦しんでおられる方を教会へ導いてくださったのです。やはりつながりですね。  聖書では、イエス様が中風の人の信仰をみられたのではなく、その人を連れて来た人達の信仰をみられたとあります。私たちの信仰で、あなたの愛している人が救われるのです。イエス様に私たちの信仰を見ていただき、イエス様が導いてくださ

気ままな休日・愛妻弁当

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最近毎日愛妻弁当です。 ちょっとした保温ジャーを買いました。

youthcafeでおいしいコーヒー売ってます!

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ハワイのマウイ珈琲をyouthcafeで販売しています。 あっさり目ですが、美味しいですよ。