2018年5月31日木曜日

「奇跡は身近に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「奇跡は身近に」
 
 神様の奇跡というのは、何か遠い出来事のように思います。しかし、案外身近なところで起こっているものだと実感することができました。
 
 徳山教会・礼拝堂の聖壇が狭いとは、常々感じていることでした。このことのために祈りっていたのです。なにせ、拡張費用は40万かかることがわかっていましたので、祈るしかなかったのです。すると驚くべきことに、5月、6月に結婚式が7組も与えられたのです。一つの結婚式につき、教会へは5万の献金があります。すると全部で35万となります。驚きました。
 
 しかも実を言いますと、「神様、ここには5万円あります」と祈ってきたのです。多く与えられるのでなく、少なくでもなくです。神様の御心が聖壇の拡張をよしとしてくださったのです。神様は祈りを聞いて下さったのです。ぜひこのことを感謝したいと思います。この徳山教会・皆さんを神様は本当に大切に思っておられるのがよくわかりました。それにどうやって応えていくのかが課題です。祈りましょう。そして神様の御心を聞き取ってまいりましょう。かならず神様の御心はしめされるはずです。

2018年5月30日水曜日

「受けるだけでなく」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「受けるだけでなく」

2コリ 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

広島のストリートにハギーというミュージシャンがいました。夢を追いかけていたに違いありませんが、33歳の若さで天に召されました。夢だけで生きていたら終わりということも知っている彼でした。夢を追いかけるためには、昼間は重労働し汗まみれに働いて、よるデパートの前で唄っていたのです。彼の歌で「自由詩人」というものがあります。繰り返しでてくる言葉は「奪うことは止めにして、与えて生きていこう」でした。イエスが言われた「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉と重なりました。彼の中にもイエスが御言葉をまかれていたのですね。彼は長崎の五島列島出身でした。

この手紙の8章9章は、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金を訴える趣意書のような内容です。パウロは「異邦人の使徒」であったが、エルサレムの聖なる者たちへの募金活動を、ガラテヤ、マケドニア、アカイアの各地方で行っていました。コリントの人々はパウロとの関係で、この募金を停止していたようです。そこで、もう一度再開するようにと呼びかけています。その中で、コリントの人々が豊かに受けている恵みをあげ、それゆえに奉仕することを促しています。

イスラエルに「死海」という湖があります。地球上で最も低い所にある湖で、海抜マイナス418メートルにあります。海水の塩分が3%に対して、死海は30%あります。当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにあります。この死海についてイスラエルの旅行ガイドは次のように説明しています。「死海はヨルダン・ガリラヤの何本かの川から命の水を受けているが、自分から外にだすことはない。受けるだけで与えることがなければすべては死んでしまう」と。神様からのたくさんの恵みを受けるだけで隣人に与えることがないならば、その人の信仰は死んでしまうということです。

パウロは「すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言います。神様から受けたものを与えることによって、自分も豊かな者になるということです。イエス様の言葉として使徒言行録には「受けるよりも与える方が幸いである」と記されています。

2018年5月29日火曜日

「神様はどこに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様はどこに」
 
 わが家の娘建ちは外に遊びにいって帰ってくると、まずお父さんを探します。ここまでは愛情溢れる家族にみえますが、その探し方がなんともいえないのです。なぜなら、娘たちはドアを開けるなり、「お父さん、お父さん」と叫びながら、一目さんに寝室に飛び込んでいくのです。それが何回見ていても同じなのです。これは何をかいわんやです。
 
 いつもどこにお父さんがいるかを知っている娘たちは幸せかもしれません。わが家の場合は恥ずかしい限りですが・・・。私たちも、神様はいったいどこにおられるのかと探すことがあります。見つからないといっては嘆いてみたり、怒ってみたりしています。
 
 神様がどこにおられるか知るには、一目さんに御言葉に行く必要があります。ルターは、「キリストについてまったく考えずに二日を過ごすとき、わたしの心はなえ、いきいきと働かなくなります」と言いました。神様は生きた御言葉の中におられます。

2018年5月28日月曜日

「種から育つ」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。

2018年5月27日日曜日

気ままな休日・肉

 
たまには「肉」を
食べるなら美味しい肉を!
きっとこれは肥後の赤牛だと思います。
おいしかったな~

2018年5月26日土曜日

礼拝へ来ませんか!

本日の説教者
松岡俊一郎牧師(元鹿児島教会牧師)
懐かしい先生が来て下しました。

2018年5月25日金曜日

聖なる空間プロジェクトチーム

大江教会の聖なる空間プロジェクトチームです。
自分たちの手で教会の整備をしています。
まだ、まだ続きますよ!みにきてください!

2018年5月24日木曜日

「なにもいらない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「なにもいらない」
 
 教会の裏の畑に、さつまいもとサクランボの木を植えました。1年ぶりに裏の畑が復活したことになります。あまりにもほったらかしにしていたので、畑に戻すのが大変でした。
 
 さて、今回さつまいもを植えるにあたって、どんな肥料がいいのか考えてみました。鶏糞がいいのか、それとも化学肥料がいいか。ついに結論がでずに、園芸店の方にお聞きすることにしました。するとズバリ「何もやらない方がよい」との答えでした。なぜだろうかと思われるでしょうが、下手に肥料をやると葉だけが成長し、肝心な実が太らないのだそうです。荒れ地の方がよく育つと聞きますが、まさにその通りなのです。
 
 人間も同じ様な気がします。神様から私たち一人一人に与えられている素質は、下手に肥料をやらなくても実をつけるのです。知識や名誉、お金や物質によらないでも、キリストの言葉だけで充分育つし、実をつけるのかもしれません。
 
 主の復活を信じるのに、人間的な肥料はいらない。信じるという神様からいただく信仰だけでよいのです。

2018年5月23日水曜日

「今日何を行う」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「今日何を行う」

1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。

パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。

ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。

パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

2018年5月22日火曜日

「どこで、どんなふうに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どこで、どんなふうに」
 
 神様のなさることは、「いつ」「どこで」「どうなる」のかまったくわかりません。しかもそれは決まって良い方向へと進んでいくのです。
 
 最近、ハッとさせられることがありました。それは、この教会の造りについてです。以前から教会にスロープと障害者用トイレがあることは知っていました。しかし、それを必要とする方がないので、ちょっと無駄なような気持ちがしていたのです。その心の現れでしょうか。スロープの所にはプランターを置いていたのでした。
 
 さて、先週の木曜日から教会の英語教室に一人の少年が来ることになりました。実はその少年は一人ではありません。お母さんと一緒です。少年は車椅子でしか動けない重度の障害者でした。その少年は英語を勉強したいのだが、どの英語教室にいくにも階段がありいけなかったそうです。お母さんの力ではその階段を昇ることができなかったのです。するとある方が、「ルーテル教会にはスロープがあるわよ。たしか英語教室もあり、アメリカ人の先生がていねいに教えてくれる」と教えてくれたそうです。初日、お母さんは感激しておられました。
 
 いつ、どこで、どんなふうに神様が生かしてくださるかわかりません。しかし、神様のなさることは不思議にみえることでも、人知では測り知ることのできない平安と恵があるのです。信頼こそキリスト者の命です。
 

2018年5月21日月曜日

「信仰というよりも」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

2018年5月20日日曜日

きままな休日・トビウオの塩焼き

熊本にある29チャンネルのランチです。
いまが旬のトビウオだとか。
あっさりしていて美味しかったです。

2018年5月17日木曜日

「素敵な貼り紙」

クレヨン牧師のミニエッセイ
「素敵な貼り紙」
 
 いろいろな店には、いろいろな貼り紙があります。注意、禁止、命令、お願いなどたくさん目につきます。
 
 ある店には、「袋は猫つまみでお願いいたします」とありました。思わず笑ってしまいました。そして、猫つまみとはよくいったものだと関心しました。私たちが猫をつまむときのあの手は、袋を傷つけないのです。
 
 さて、あるレストランには、次のように書いてありました。「お父さん、お母さん。子どもは散らかして食べるものです。後で掃除をすればすむことです。気にせず楽しく食べてください。昔は自分も子どもだったはずです。怒らない。怒らない」。
 
 子どもを連れた私たちは、大方失礼が多いものです。それゆえに、「子どもとの同伴のお客様はご遠慮願います」という貼り紙もみます。その紙をみるたびに、反省をします。しかし、その紙をみると嫌な気分になるのも事実です。
 
 あの素敵な貼り紙のお店では、知らず知らずに片づけてしまいます。どうしてでしょうか。お店の方の優しさが伝わってくるからだと言えます。

2018年5月16日水曜日

「無一物」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「無一物」

2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。

コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。

千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(17511818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。

パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。

2018年5月15日火曜日

「天国ってどこだ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「天国ってどこだ」
 
 最近、長女との会話が楽しくてしかたありません。
 
 長女流「どんぐりころころ」2番
 
 「どんぐりころころよろこんで、しばらくいっしょにあそんだら、やっぱりおやこがこいしいと、ないても、どじょうがこまらせた」
 
 この歌を聞きながら、どんぐりの親子のことをみて、どじょうが自分の親子のことを考え、泣きたくなった。そこでどじょうが泣いて、みんなを困らせたということでしょうか。
 
 次は会話編・・・道路に犬が死んでいるのをみて。
 
 長女「犬さんも、猫さんもみんな死ぬんよ」
 
 私 「そうだね、犬も猫も人間も、華美もお父さんも死ぬよ」
 
 長女「みんな死ぬんよね」
 
 私 「でもね、神様を信じていると、生き返るってよ」
 
 長女「よかった~神様を信じていて。でも神様は紙芝居なんよ。それでどこへいくん」
 
 私 「神様の国だよ。そうだね天国かな。○ちゃんは天国いく」
 
 長女「うん行く。天国って温泉のことでしょう。○ちゃんはレストランがいいなあ」
 
 わが家の宗教教育とはこんなものです。

2018年5月14日月曜日

「み言葉の命を」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2018年5月13日日曜日

気ままな休日・大地の恵みポーク新製品

  
大地の恵みポーク、スペアリブ骨なし肉を漬け込んだ製品です。
肉自体が美味しいので、これもまた美味しです。
皆さんもどうですか?
 

2018年5月10日木曜日

「春は黄色の花から」

「春は黄色の花から」
 
 春は黄色の花から咲くといわれています。六日市への山道には、菜の花が咲いています。先日も集会へ行く途中、釣り橋の上でおにぎりを食べました。少し肌寒い日でしたが、清流をながめながら自然の中でおにぎりを食べる幸せは感動ものでした。
 
 車で動いていると、見えているようで見えてないものがたくさんあります。しかも、見えてないものに季節の始まりが示されているように思えます。春はまだまだと思っていても、ふと車を止めてみると春に出会うこともあります。いつも通りすごしている橋の上に止まってみると、せせらぎから、かじかの鳴き声を聞いて心がなごみました。
 
 今年は聖書研究会で、エフェソ書を学びます。これはルーテル教会の牧師たちが書いた宣教百年に向けての手引き書でもあります。そのテーマは「教会とは何か」というものです。いま教会とは何かを問うことは、私たちの基礎を問うことでもあります。
 
 著者の一人、森勉牧師(広島教会)は、「この本を読むだけでなく、エフェソ書を書き写してください」と言われました。写経です。たぶん見えてないものが見えてくるかもしれません。いま1章を書いているところです。
 

2018年5月9日水曜日

先に

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。

2018年5月8日火曜日

「プラス思考」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「プラス思考」
 
 水曜日に六日市集会へいきましたところ、一人の姉妹の左手に包帯があるのにビックリしました。お聞きすると、寒い日に地面が凍っていて、そこを通るとき足を滑らせたそうです。とっさに手をついた時、左手の小指を骨折されたのだそうです。とても痛そうでした。
 
 ところが、骨折されているのにとても明るいのです。姉妹が言われるのは骨折したのは痛いけれど、「右手でなくてよかった」「手首でなくてよかった」「旅行のあとでよかった」といわれるのです。
 
 人生は考え方次第で明るくも暗くもなります。コップに半分の水が入っていても、ある人は「半分しか水がない」といい、ある人は「半分も水がある」といいます。同じものでも見方が違うのです。私たちはどうせみるなら積極的な見方、プラスになる見方をしたいと思います。試練や失敗があっても、この試練・失敗は神様が何かを教えてくださるためのものと思い感謝できたらと願います。
 
 さて、六日市の姉妹がニコッとして言われた言葉がとても印象深く残っています。その言葉とは、「主人がこんなに優しかったなんて・・・」。神様はいろいろなことを教えてくださいます

2018年5月7日月曜日

「ありがとうを返す」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ある本の中の言葉です。「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけずにすむものです。本当に愛のある言葉は人を癒すのです。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

2018年5月6日日曜日

十字架に

礼拝中に様々な色の灯りが差し込みます。
十字架に朝日と共に、差し込んでくる灯りは見事です!

2018年5月5日土曜日

2018年5月4日金曜日

きままな休日・みなみマグロ

串木野のみなみマグロ
いつ行っても食べられなかった2色丼
今回初めてゲットしました。人気ですもんね。
マグロ祭りやっていました!

2018年5月3日木曜日

「立ち止まりは後退」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「立ち止まりは後退」
 
 M・ルターの「キリスト者の自由」を読んでいます。といっても教会の姉妹のたっての願いで、しぶしぶ読みはじめたというのが本音です。ところが、読む進めていくうちに、ぐんぐん引き寄せられ、今では毎週1回の読書会が待ち遠しい位です。学生時代レポートのために、あんなにいやいや読んでいたのに、教会の生きた場で読むとこれはすごい本だということがわかりました。改めて感動しているところです。
 
 さて、読書会といっても、本を読んで好きなことを話し合うというやり方です。それが楽しいとううか、今のキリスト者は何を忘れているか。この教会に欠けているものは何か。私たちにできることは何か、と話題に事欠きません。
 
 そのルターの言葉で衝撃を受けたのは、「使徒はキリスト者に対し、目覚めよ、と言って、勧めている。なぜなら彼らは目覚めていないならキリスト者ではなく、神の道に立ち止まっていることは後退していることだからである。前進するとは、つまり絶えず新たに開始することである」という言葉です。キリスト者に大切なのは過去ではなく、今どうするかだと言えます。昔はああだったこうだったということは、キリストの前からだんだん後退していることかもしれません。自分に出来ることを何かひとつでも絶えず新たに開始していきたいと思います。
 
 教会の宣教のために祈ることもまた、新たに自分が開始することなのです。

2018年5月2日水曜日

「たった一言で」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「たった一言で」

マタイ  8:8 百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

お寺の前を通るとき、よく掲示板をみます。たいていは墨字で達筆にかかれてあります。あるとき旅行中に小さなお寺を見つけました。そこには大きな字で次のように書いてありました。「たった一言が、人の心を傷つける。たった一言が、人の心を温める」と。言葉というものには力があります。たった一言の力だと思います。その使い方によって、人を傷つけるし、癒すこともできるのです。この言葉の力をもっと考えていかないといけないのです。

イエス様のもとに「百人隊長」がやってきて懇願するという出来事です。たったこれだけでも凄いことです。百人隊長はユダヤ人を支配し、命令する立場にあります。またユダヤ人は百人隊長を異邦人として忌み嫌って近づこうとしないからです。そんな関係がある者が、出会うのです。そして、イエス様に百人隊長の方から部下の「いやし」を懇願したのです。その中に「ただ、ひと言」という言葉があります。

ある本でみつけた話です。「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。もうひとつ。「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。人生の中で見つけた一言はとても重い言葉です。

 百人隊長は、イエス様がどんな方で誰であるかを本当にしっていたかどうかわかりません。しかし、そのみ言葉の力は信じていました。言葉には力があります。

2018年5月1日火曜日

「カタクリコな私」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「カタクリコな私」
 
 全国の聖書日課につぎのような話をみつけました。
 
 ある女子高生が、教会の修養会で言いました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。
 
 「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。
 
 今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。
 
 しかし、反面、キリスト者としての親の生き方、家族への接し方の中に神様をみているのかもしれません。やはり、自分自身がキリスト者としてしっかり生きている親であれば、「カタクリコ」でも信仰の継承はなされるであろうし、そのうちに「リョウクリコ」になっていくのでしょう。