2018年10月31日水曜日

「無一物」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「無一物」

2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。

コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。

千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(17511818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。

パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。

2018年10月30日火曜日

「流れている水」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「流れている水」
 
 六日市から、たくさんのハナミズキをいただきました。今日の礼拝堂の花がそうです。ところがこの花は一度枯れかかったのでした。牧師館と教会にわけて活けておきましたが、教会のものは前週のカラーと一緒にしておいたのです。そのカラーの水を変えるのを忘れていあたため、水が腐っていたのかもしれません。一日で元気がなくなってしまったのです。ところが、牧師館のハナミズキは元気そのものでした。
 
 水の大切さを思います。しかも生きた水の大切さです。主イエスはサマリアの女に「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。
 
 主イエスが私たちに与えてくださる水は、いつも流れている水です。流れている水は腐らないのです。もし主イエスが与えてくださる水が腐れているのなら、私たちが「そのままに」していたり、「ため込んで」いたり、「忘れたり」しているためだと言えます。それでは主イエスが与えてくださる水とな何か。それは命のみ言葉(聖書)でしょう。

2018年10月29日月曜日

「み言葉の命を」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2018年10月28日日曜日

2018年10月26日金曜日

明日は教区長礼拝です!

礼拝説教者:角本 浩牧師(神水教会・教区長)
お待ちしています。

2018年10月25日木曜日

「教会に必要なグッズ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「教会に必要なグッズ」
 
 「伝道推進センター」会議で東京にいってきました。この会議は、教会の会議の中では珍しく「楽しい会議」です。それは伝道をどうやって推進していくかを話し合う会議だからです。
 
 本来「伝道」とは楽しいものです。どうやって主イエスのみ言葉を伝えるか。仲間を増やしていくか。それを考えることがキリスト者を生き生きさせるからです。
 
 さて、全国の教会にアンケートをだしました。「あなたの教会にとって必要で、センターに作成して欲しいものは何か」。あなたなら何と答えますか。いろいろありましたが、一番多かったのは「フォローアップのためのグッズ、マニュアル」でした。教会に来ていただくためのプログラムはいろいろなものがあり、すでに行われています。ところがせっかく来てくださってもそのあとのフォローアップが何もないという現状だったのです。私たちの教会も同じです。
 
 次回の会議では「フォローアップマニュアル」の作成と、グッズ作成を行います。それを作るのは牧師たちだけではありません。大手広告代理店の方や、主婦も入るチームです。
 
 出来上がったものを、使うか使わないかは私たちの「熱情」次第です。
 

2018年10月24日水曜日

「先に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。

2018年10月23日火曜日

「復活は日常のなかで」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「復活は日常のなかで」
 
 不思議な体験をしました。どんな体験かといえば、「死んで復活したのかもしれない」というものでした。
 
 先週の事でした。高速道路を走っていますと睡魔がおそってきました。そしてついにガクンときたのです。これは危ないと思い、佐波川のサービスエリアで休憩することにしました。ちょっと一眠りしようと寝たのが午後三時でした。十五分も寝たかなと思って時計をみると午後五時。なんと二時間も寝ていたのです。これは大変と思ってすぐに車を走らせました。しかし体が寝ているようでおかしいのです。夢でもみているのかとバックミラーを見て仰天です。私の車のミラーに写っていたのは、私の車だったのです。車体も色も同じ。置いてあるぬいぐるみも同じ様。運転してるのは家内にそっくり、二人の女の子が乗っていたのです。
 
 私はそのとき「これはもしかしたら、居眠り運転して死んだのかもしれない」と思いました。そして、「いまいる私はいったい誰で何をしているのか。きっと復活して家族の守護霊にでもなったのかも」と真剣に考えてしまいました。
 
 やっと追い越していった車をみて、寝ぼけたことがわかりホッとしました。復活はなにげない日常のなかで起こると確信したのでした。
 

2018年10月22日月曜日

「宗教改革記念日を前に」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「宗教改革記念日を前に」

 ガラテヤ 5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。

ルーテル学院大学の特徴の一つは、いろいろな教会の信者が一緒に学んでいるということです。私の頃も、ローマ・カトリックをはじめ、基督教団、バプテスト、セブンスデー、聖公会、インマヌエル、アッセンブリー、アライアンスと、私のクラスだけでもこれらの方々がおられました。ですから、いろいろな教会の考え方の違いにとても参考となりました。さて、これらの教会の人たちが、昼の礼拝には一同に集まります。ともに讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るのです。その中で私が印象深く学んだことは、礼拝堂への入り方でした。ルーテルの学生はそのままスーッと入っていきます。私もそうでした。しかし、ある学生は一礼をして、ある学生は一言祈って、ある学生は十字架をきって入っていくのです。その姿に「偶像礼拝だ」と批判する者もいました。私などは新鮮な驚きを感じたものです。

 1031日は「宗教改革記念日」です。私達の教会はルーテル教会で、ルターの信仰を受け継ぐ教会です。宗教改革は当時の16世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものです。神様がイエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神様の恵みに基づいて生かされていくことを強調しました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれたのです。

 ルターは次のように言っています。「キリストはわたしたちを人間の義務から解放されたのではなく、永遠の怒りから解放してくださったのです。それはどこですか。それは良心においてです。それがわたしたちの自由の限界であって、それ以上に進むことはできません」。私たちにとって自由とはなんでしょうか。何にもとらわれない心といえるでしょうか。ルター-のことばのように、自由とは義務からの解放ではなく、良心における永遠の怒りからの解放といったほうが、わかりやすいかもしれません。罪からの解放。そのためにイエス様の十字架があるのです。

 私たちは「ねばならない」にとらわれてしまいます。しかし、問題なのは「ねばならない」という義務にとらわれて、神様からの自由を見失ってしまっているということです。私たちはキリストを信じる信仰によって、とらわれから解放されています。「ねばならない」から行いがあるのではなく、神様の愛と自由をいただいているから「そうせずにはおれない」が愛と奉仕の原点です。そこに神様からいただく自由があります。

2018年10月21日日曜日

きままな休日・串木野「カフェさくら」のカレー

串木野にあるカフェさくらの野菜だけで作ったカレー!
健康的!小麦粉も使ってない!塩もほとんど使ってない!
糖尿病の方などを考えて作っあります。さくらもそのお店です。

2018年10月19日金曜日

明日は礼拝です。

礼拝説教者 関 満能牧師(水俣教会)
お待ちしています。

2018年10月18日木曜日

「信仰が伝わって」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰が伝わって」
 
 突然の出来事にビックリしました。礼拝からの帰り道で、教会の婦人が高校生の乗った自転車とぶつかり大腿部を骨折されました。なにか朝からいやな予感がありましたが、気が重くて仕方ありません。
 
 しかし、初めて救急車に乗る経験もできました。感想はといえば、「わりと乱暴な作りなんだな」ということです。病院につくまでの間、救急車の固いベッドで、しかもよく揺れるので姉の痛さはどれほどのものかと、私まで痛みが伝わってきました。そのような痛さにもかかわらず、「あの方はまだ若いのだから、あまり責めないでくださいね」と、事故をおこした高校生を気遣う姉の言葉に感動しました。
 
 救急車の中で「朝から早くいって、礼拝堂の椅子の掃除をしていてよかったわ。来週でもいいかと思ってましたけど、イースターの前にできてよかった」と。また、診察室のベットの上では、「来週イースターの献金を出そうと思っていましたけれど、こんな状態ですのでカバンに封筒がありますから取ってくださいね」と。
 
 姉の信仰が伝わってきて涙がでそうになりました。イースターの献金は姉の礼拝復活のときに、神様が頂かれることでしょう。

2018年10月17日水曜日

「ありがとうを返す」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ある本の中の言葉です。「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけずにすむものです。本当に愛のある言葉は人を癒すのです。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

2018年10月16日火曜日

「捨てきれない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「捨てきれない」
 
 教会の姉妹が大学進学のために、東京へ旅だって行かれました。この季節が来るたびに自分の原点を思い出します。親から離れて一人立ちしたのが、大学進学の時だったのです。
 
 神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから十五年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。
 
 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」だったのですから。
 
 捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火
 

2018年10月15日月曜日

「たった一言で」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「たった一言で」

マタイ  8:8 百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

お寺の前を通るとき、よく掲示板をみます。たいていは墨字で達筆にかかれてあります。あるとき旅行中に小さなお寺を見つけました。そこには大きな字で次のように書いてありました。「たった一言が、人の心を傷つける。たった一言が、人の心を温める」と。言葉というものには力があります。たった一言の力だと思います。その使い方によって、人を傷つけるし、癒すこともできるのです。この言葉の力をもっと考えていかないといけないのです。

イエス様のもとに「百人隊長」がやってきて懇願するという出来事です。たったこれだけでも凄いことです。百人隊長はユダヤ人を支配し、命令する立場にあります。またユダヤ人は百人隊長を異邦人として忌み嫌って近づこうとしないからです。そんな関係がある者が、出会うのです。そして、イエス様に百人隊長の方から部下の「いやし」を懇願したのです。その中に「ただ、ひと言」という言葉があります。

ある本でみつけた話です。「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。もうひとつ。「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。人生の中で見つけた一言はとても重い言葉です。

 百人隊長は、イエス様がどんな方で誰であるかを本当にしっていたかどうかわかりません。しかし、そのみ言葉の力は信じていました。言葉には力があります。

2018年10月14日日曜日

気ままな休日・鹿児島のバラエティかつ

 
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鹿児島教会の礼拝がおわり、真っ先に開花亭に行ってきました。
久しぶりのカツ。今日はバラエティかつを食べました。
う~んいいすね~


2018年10月12日金曜日

明日は礼拝

説教者:立野泰博牧師(大江教会)
お待ちしています。

2018年10月11日木曜日

「教える人は聞かない」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「教える人は聞かない?」

 マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」

キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。

 イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。

 最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。
 イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

2018年10月10日水曜日

「自分のいいとこ20」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「自分のいいとこ20」

 ヤコブ  2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。

「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。

 聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。

 有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。

 「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていきましょう。

2018年10月9日火曜日

「信仰を感じる」

 クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰を感じる」
 
 阿蘇垂玉温泉「山口旅館」にいってきました。大浴場もさることながら、露天風呂「かじかの湯」が最高でした。二人の娘たちと露天風呂に入っていますと、なんとバスが前を走っているという素晴らしさでした。のどかというか、なんというか。とにかくゆったりとした時間でした。
 
 大浴場につかりながら窓を開け放ち、阿蘇の山々をみていると、神様が創られた自然がせまってきます。そして神様の声が「あなたのことを包んでいるから、安心していいよ」と聴こえてきました。
 
 「ゾウの時間・ネズミの時間」の中にある、「人はたえず自然に触れていなければ、自分の頭の中だけを見つめるようになります。そして頭でっかちになってしまうものです」という言葉を思い出します。信仰は頭だけで受け取るものではありません。信仰もまた感じるものではないでしょうか。
 
 考えこんでばかりでいないで、たまには外へでて土に触れてみましょう。草花のつぼみは膨らみ、チューリップの第一号がさき、確実に春がきているのがわかります。イースターまですぐそこです。


2018年10月8日月曜日

「骨髄まで響く」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2018年10月7日日曜日

きままな休日・LAのシカゴピザ

  

今年の8月にLAハンティングトンビーチに行ってきました。
   ホームスティ先のお父さんお母さんがシカゴピザの店に連れていいてくださいました。
   LAでたべるシカゴピザも最高にアメリカンでした。
鉄なべ餃子のような鉄なべピザ。ぜひまた次回も食べたいです。

2018年10月6日土曜日

礼拝がいつも二桁突破

神様に感謝です。
このところ常に礼拝出席が二桁になります。
新しい方も増えてきました。教会に帰ってこられた方も。
ますます成長していく教会です。

2018年10月5日金曜日

明日は礼拝です

 明日の礼拝
説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)
こころよりお待ちしています。



2018年10月4日木曜日

「なぜ急ぐの」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「なぜ急ぐの」
 
 京都教会に出張のおり、ニュー新幹線「のぞみ」に乗りました。新しいものには興味があるので、いろいろと見て回ったりして楽しみました。たしかに快適にできています。また赤ちゃんへの配慮や、お年寄りへの配慮もみられました。しかし、なんといっても「速さ」は格別でした。窓際にのってみると飛行機にのっているような音がするのでした。
 
 さて、どれくらい速いか。私はいつも大阪へいくときは文庫本を買って乗ることにしています。いつもなら一冊ちょうど読み切るのですが、これが読み切れないほどの速さです。往復二冊でしたが「のぞみ」でいけば、一冊半となりました。私は半分残った文庫本をながめて、やっぱり「のぞみ」は速いと実感しました。
 
 しかし、この新幹線に誰が「のぞみ」と名前をつけたのでしょうか。そしてなぜ「のぞみ」としたのかと思います。速く走ることによって何をのぞむのだろうと思ったのです。
 
 朝五時の京都駅でみた光景は寒気さえしました。それは、貨物車にのせられた何十台ものトラックが目の前を通り過ぎていったのです。なんで急ぐのだろう。なにを望みながら急ぐのだろう。教会に来たときくらい、「ゆっくりしいや」と神様は言われていますよ。

2018年10月3日水曜日

「深めていく愛」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

2018年10月2日火曜日

「白い煙になりたい」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「白い煙になりたい」
 
 「神様のクレヨン」の出版により、いろいろな反応がボツボツ帰ってきています。内容はともかく表紙の絵がとても評判がよく、なんだか娘に助けられているようです。
 
 娘・華美といえば最近よくドキッとすることを言うようになりました。先日もキョウザを蒸している湯気をみて、「華ちゃんは白い煙になりたいな」と一言。煙になってどうするのかと思いつつ「なんで」と聞いてみました。すると、「だってあたたかいもん」だそうです。大きくなったら「暖かい人になる」のだそうです。
 
 特別な意味はないかもしれません。ただ体温が高い人間にないたいのかもしれません。しかし、親としては感動した一言でした。「あたたかい人間となる」。人が華美といるだけで「あたたかく」感じるような人間として成長してくれたらと願います。
 
 主イエスのことを考えるだけで、心にあたたかさを感じるのですから。

2018年10月1日月曜日

「手伝わせてほしい」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「手伝わせてほしい」

 マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために

子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。

イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。

「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。

 「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。