投稿

6月, 2019の投稿を表示しています

きままな休日・阿蘇馬玉おにぎり

イメージ
さすが阿蘇!我が故郷は雄大です。さらにお昼ごはんはこれ! この馬玉おにぎり好きなんです。このまま温泉へ!

鹿児島教会・youthCaféがテレビで

イメージ
やっぱりきました!鹿児島教会とyouth cafeがテレビで紹介されました。現地の責任者からの報告をいただきました!いいなぁーこれから楽しみです。 >こんにちは。 ルーテルが地元テレビ局の生放送で流れておりました。 SNS 等では評判良いみたいです。

明日は礼拝です。

イメージ
説教者:中村朝美牧師(宮崎教会) お待ちしています!

「自然の流れの中で」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「自然の流れの中で」    禅の本に次のようなことが書かれてありました。    あるとき仙涯和尚のもとに人がきて、「なにかめでたい言葉を書いてください」とたのみました。仙涯和尚はほいきたとばかりに筆をとり、スラスラと書き上げました。そこには「祖死父死子死孫死」と書かれてありました。さて、頼んだ人は「これはひどい言葉だ。こんな縁起の悪いものはない」と怒って帰ってしまいました。    みなさんはどう思いますか。同じように縁起悪いと考えるでしょうか。仙涯和尚はそれを聞いて次のように諭したのです。「何が縁起が悪いものか。まず爺さんが死ぬ。次ぎに親父が死ぬ。次ぎに子どもが死んで、最後に孫が死ぬ。順序ただしく死んでいけば、家中に若死にするものはない。こんなにめでたいことはない」と。    私たちはつくづく考えることの多い者です。そして言葉の多い者でもあります。神様からくださる恵みは、むしろ簡単なことなのだと教えられました。人が勝手に作ったものは、知識を刺激しても心は打ちません。「春に花が咲き、秋には葉が落ちていく」という自然のいとなみの方が心を打つのです。自然の流れの中にいるとき、神様の恵みをひしひしと感じます。新しい命を迎えるわが家も、自然の流れの中で感謝したいものです。

「もうちょっと」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「もうちょっと」 マルコ 12:34 あなたは、神の国から遠くない  福音漫画というものがあります。聖書のみ言葉を面白く漫画にしてあるものです。その中に「もうちょっと」という漫画があります。一人の男が「ここに宝がある」という神様の言葉を信じて土を掘り始めます。なかなか宝は出てきません。何回もやめようと思いましたが、それでも宝を見つけようとします。ところが自分の背丈まで掘ったとき、神様に文句を言いながら掘ることをやめてしまいます。漫画の次のコマは、あと5センチ下に宝があるという絵がかいてあります。とても真実をついている漫画だと思いました。神様の恵みまで「もうちょっと」でやめていることが多いかもしれません。 「もうちょっと」は自分で考えることなのです。神様から示されているみ言葉・福音は目の前にある。しかしそれを生きるためには「もうちょっと」を考えねばなりません。 イエス様は、律法学者から「あらゆる掟のなかで、どれが第一でしょうか」と聞かれます。イエス様のみ言葉をまとめると「神を愛し、隣人を愛する」こととなります。こんなに単純なことですが、これが最高に難しいものです。律法学者も「そのとおりです」と適切な答えをするのですが、そのあとに「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。近いけれど入ってないということでしょうか。救われるのに「もうちょい」なんです。イエス様はそれを律法学者に問いかけられました。   はじめての漁船の運転、ジェットボートの運転でした。漁船の舵をとりながら、海の風の心地よさにすっかり満足してしまいました。しまし、船をまっすぐに走らせることは大変むずかしいことです。すぐによろよろとしてしまいます。その日の風にもよるし、潮の流れ、波の状態を見極めなければならないからです。また、島を回りながら走るときには、島との距離をつねにみながら走らせなければなりません。また、どこに海面下に岩があるかわからないのです。つねに自分の位置、まわりの状態、自然環境を知って置かねばならないのでしょう。私たちの人生の歩みも、自分がどこにいるのかを探しながらの旅かもしれません。それがはっきりしている人生は楽なのですが、そう簡単にはいきません。はっきりしているというよりは、つねに迷ってばかりいるのです。

「同じ言葉でも」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ牧師の 「同じ言葉でも」    若手牧師研修会が、長野県の松本教会で行われました。この会は現職の牧師たちの自主グループで、神学校を八四年から八八年に卒業した十二名の牧師で構成されています。ということはもう若手ではないかもしれません。    この研修会はとても楽しい会でもあります。また勉強するのが好きな会でもあります。今年のテーマは「原罪論の復興」でした。しかし、なにより夜の情報交換が楽しくてしかたありませんでした。その夜の語らいのなかで、ある牧師が恋愛時代の話しをしてくれました。    「神学生だった自分は純粋で手も握ったことがなかった。あるとき公園のベンチに座っていたときに、何か言わなければいけないような気がしていたけど言うことがなかった。それでも思い切って『今一つだね(いま心が一つになっているね)』と言った。するとしばらくして彼女は、悲しい顔をしながら『私っていまひとつなの?』と言ったんだよね」と話しておられました。みんなで大笑いしました。    同じ言葉でも、伝わり方が違うと大変なことになってしまうものです。自分はそう思っていなくても、間違って伝わっていくことがあります。さて、私たちは主イエスのみ言葉を正確に聞いているでしょうか。正確に聞き取るには何度も聞き返すことしかなさそうです。

「わかってもらう言葉」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「わかってもらう言葉」  1コリント 14:9 あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。  教会に相談にかられる方が少しずつ多くなってきました。人生相談や家庭問題。恋愛問題や金銭問題もあります。教会も牧師も解決を持っているわけではありません。ただ話をよく聞いていると「一体何が言いたいのか」と考え込むことがあります。人は明確な言葉を使って相談するのが苦手のようです。自分の中でぐるぐる回るばかりで、何を伝えたいのかがはっきりしないのです。そこがはっきりすれば、教会が持っているイエス様のみ言葉で答えることができるのですが。  使徒パウロは「異言」というものについての注意を与えています。異言とは聖霊降臨のときの「ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)というところに起源があります。しかし、「霊が語らせるままに」とありますから、ただの外国語というわけではないようです。パウロも異言を霊的な言葉としてうけとっており、語ることを禁じるより、それを解釈する人が必要と忠告しています。つまり、何を語っているかわかることが大切です。パウロは「空に向かって語る」という面白い表現をしています。人には届かず、空に消えていく言葉のむなしさを忠告しています  聖書日課を作成したことがあります。信徒の方々の書かれたものを編集していると、大変勉強になります。与えられた聖書箇所を黙想し、まとめあげ、しかもそれを読む人へ伝わるように編集していく。さて、3月分位を編集していると、たくさんのことに気がつきます。読んでみてスッ~と心に入ってくる文章。何度読んでも引っかかりのある文章。書き手と読み手に決定的な溝がある文章(これは、書き手の中ではつながっているのだが、読み手には唐突なもの)。聖書の解説のみに終始している文章。日課には関係なく証しになっている文章。私はこれらの文章と付き合いながら、自分の語ってきたこと、書いてきたものはどうだったかと考えています。しかし、その中でこれはという文章に出会うこともあります。その文章はどんなものかと言えば、読んでわかる文章ではなく、聞いてわかる文章です。   パウロは「どうして分かって

きままな休日・肉

イメージ
たまには元気をいただかなきゃ! ということでアメリカンビーフ 焼き方が難しい?いやシンプルに塩と胡椒のみ。

鹿児島大学生によるYouthCaféやってます!

イメージ
交流の場に来てみませんか? 教会集会所が素敵なカフェに! さらに楽しい居場所になるでしょね。

明日は礼拝です

イメージ
説教者:松岡俊一郎牧師(東京・大岡山教会) 歴代牧師による礼拝です。

「偉大な書家の色紙?」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「偉大な書家の色紙?」    結婚式に来られた方が、礼拝堂の扉の前で話している声が聞こえてきました。その声をきいて吹き出してしまったのです。その方たちはこのように話していたのです。    「この色紙は誰の作品だろうね。はなみという書家がいたっけ」と。    みなさんはお分かりでしょう。献金箱が盗まれてから、その場所がさみしくなったので、娘・華美に「イエスさまおまもりください」と書いてもらった色紙なのです。(拙著「神様の色鉛筆」の裏表紙)    さて改めて見直してみると、下手な字なのだけれどそれなりの味があることに気がつきました。そして見ているうちに、なんとなくそれらしく見えてきて感心してしまいました。素朴さというか、飾り気がないないというか。    なぜ純粋さが伝わってくるのでしょうか。きっとそれは、人に認められたいとか、上手に書きたいとか、そのような気持ちがないからだといえます。華美は好きで書いているのです。たったそれだけのことなのです。    私たちはなぜ主イエスに従うのでしょうか。「イエス様が好きだから」。それだけでよいと思います。まずそこからです。私たちの主イエスを思う純粋さが人を主イエスへと導いていくのです。

「名前はその人自身」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「名前はその人自身」 ヨハネ  10:3  羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 パレスチナ旅行のとき、羊飼いの人たちに会うチャンスがありました。彼らは 2 千年前と同じ方法で羊飼いをしているというのです。移動式のテントにすみ、羊と一緒に暮らしています。イエス様が言われたように羊に名前をつけているのです。だいたい100匹位を一人で世話します。その名前を全部覚えているのです。また羊の名前の付け方も、その羊の弱さを名前にしているといいます。右目が不自由ちゃんとか、左足が動かないちゃんとかです。その羊の弱さを全部知っているのです。 イエス様は「羊飼いと羊」のたとえで、神様と私たちの関係を話されました。イエス様は「よい羊飼い」であると言われました。その羊飼いは、門からやってきて、 1 匹 1 匹の名前を呼んでつれだし、先頭にたって野原につれだすのです。この名前を呼んでというところに、神様と私たちの深い関係があります。神様は私たちの名前をよく知っておられます。その名前で招いてくださるのです。その名前は神様しかわからないものです。しかし、一人一人を大切にするがために、名前で呼んでくださいます。 広島教会の最長老の姉妹が満百歳を迎えられたときのことです。一口に百歳といっても、私にとっては遙かかなたの数字に思えます。この百年の年月には、たくさんの出来事が詰まっていることでしょう。いくつもの戦争があり、広島の原爆、その後の復興があり、現代社会の荒波の中で生きておられる。その一つ一つの場面がすべて、百年のひとこまです。楽しかったこと、苦しかったこと、喜び、悲しみ。どれをとってもすべてが姉妹の百年だと思います。それらすべてを物語っているのは、静かに歩むそのお姿そのものだと言えます。ある時訪問したときの言葉です。「いまでも、毎朝、子ども、孫、曾孫、玄孫の一人一人の名前を呼んでお祈りするんですよ。それが楽しみです」と教えてくださいました。百年の歳月を神様と共に生きてこられた姉妹の一生は、やはり祈りにあるのだと実感した時でした。 イエス様は「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われました。名前をすべてその人の弱さもすべて覚えているのが羊飼いだと言われたのです。もし名前を呼び間違えたとしたら、羊は

「らしくしろ」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「らしくしろ」    一休禅師の逸話に次のようなものがあります。    「あるとき一休さんが、めずらしく説法をするといいだした。人々は大喜び、いったいどんな話が聞けるのか楽しみに集まってきた。みなが集まり固唾をのんでまっていた。すると一休さんがでてきて、たった一言『らしくしろ』といわれた」。    さすが一休さんだと感心してしまいました。つまり「らしくしろ」には主語がないのです。自分で考えて「それらしく生きろ」といわれたのではないでしょうか。    しかし、この「それらしく生きろ」ということは、簡単なことではありません。私たちは「それらしく生きる」ことができないから迷うのです。立野は立野らしく生きようとしても、人のことが気になったり、そのために自分を造りかえようとしたりするのです。それならば主語を変えればいいのです。つまり「キリスト者らしく」生きようとしたらどうでしょう。もっとつっこんで「キリストのように」生きるとしたらどうでしょうか。    私たちはキリストの足跡を一歩一歩たどっていくしかないのです。それが、「キリストにあって君は君自身でいたまえ」ということでしょうか。  

「ゆるしたくない」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ゆるしたくない」 マタイ   6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 私たちの生活は、自分たちだけで生きているわけではありません。私という一人の人間が生きていくうえで、かなりのものが自分の知らないところで使われていくのだと思います。食べ物ひとつとってみても、私の存在のために毎日毎日その命を犠牲にしているものがあるのです。そのことを神様は赦しておられ、私たちのために配慮してくださっているのです。生きるということは、やっぱり感謝だと思います。 イエス様は祈りについて教えられました。イエス様にとって祈りは、神様とのごく自然な交わりでした。ですから祈りを宗教的儀式としては扱っておられません。「主の祈り」といわれるイエス様が教えられた祈りも、神様を「父よ」と呼びかけています。そのなかで赦しのことが祈られ、神様との関係において赦しが語られていることがわかります。 子どもたちが喧嘩をするとき最後の言葉は「絶対ゆるさない」というものです。この「絶対」という言葉に「ゆるさない」ではなく、「ゆるしたくない」という強い思いみます。人間は「ゆるさない」ではなく「ゆるしたくない」という存在なのでしょう。自分がゆるされていることは棚に上げて、人をゆるしたくないと言っている姿を神様はどう見ていらっしゃるでしょうか。微笑みながら、しかし真摯にみておられるように思います。 イエス様は「もし人の過ちを赦すなら」と言われました。まず自分から赦すことをしなさいと教えられたのです。赦しがたい事柄でも、その中に働かれている十字架の愛を知り自分はどうなのかを考えることです。私の方から赦すことがないならば、神様も私をお赦しにはならないと思います。

きままな休日・鹿児島教会Caféのオープンサンド

イメージ
オープンを記念してオープンサンド すてきなカウンターができました。 これからが楽しみです。

鹿児島教会・youthカフェやってます!

イメージ

明日は礼拝

イメージ
説教者:立野泰博牧師(主任) Caféへもどうぞ!

「伝統の継承」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「伝統の継承」    どんな小さな教会でも、伝統の継承というものがあります。伝統といえばおおげさですが、なにかしら伝わっているものがあるのです。    八月に特別伝道で招かれた箱崎教会(ここは大きな教会ですが)では、バザーのうどんの作り方に伝統がありました。それは、特定された湯飲みで三杯の醤油をそそぎ、だしは鰹節と鯵ぶし、それに昆布はある一定の地域ものを使用し割合がこまかく指定してあるのだそうです。そして最後には真っ赤に焼いた火箸をだしにつっこみ一周させる。ただし、半周でジューといわなくなったら焼き方がたりない。かならず一周させることといった伝統が残っていました。    なんとも微笑ましい限りです。その教会が守ってきた伝統は、受け継がれて新しい人々へと伝えられていくのです。そしてただ伝えられるだけでなく、信仰とともに伝えられていくのです。    私たちの徳山教会は何を伝えていくのでしょうか。この教会はまだ若い教会です。これから伝統を築き上げていくことでしょう。なにが伝統として残っていくか楽しみですし、伝統を築き上げていく喜びがあります。    信仰の継承。そんな堅苦しいことではありません。日々の信仰生活そのものが継承され、伝統となっていくのです。

「ゆるしたくない」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ゆるしたくない」 マタイ   6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。 私たちの生活は、自分たちだけで生きているわけではありません。私という一人の人間が生きていくうえで、かなりのものが自分の知らないところで使われていくのだと思います。食べ物ひとつとってみても、私の存在のために毎日毎日その命を犠牲にしているものがあるのです。そのことを神様は赦しておられ、私たちのために配慮してくださっているのです。生きるということは、やっぱり感謝だと思います。 イエス様は祈りについて教えられました。イエス様にとって祈りは、神様とのごく自然な交わりでした。ですから祈りを宗教的儀式としては扱っておられません。「主の祈り」といわれるイエス様が教えられた祈りも、神様を「父よ」と呼びかけています。そのなかで赦しのことが祈られ、神様との関係において赦しが語られていることがわかります。 子どもたちが喧嘩をするとき最後の言葉は「絶対ゆるさない」というものです。この「絶対」という言葉に「ゆるさない」ではなく、「ゆるしたくない」という強い思いみます。人間は「ゆるさない」ではなく「ゆるしたくない」という存在なのでしょう。自分がゆるされていることは棚に上げて、人をゆるしたくないと言っている姿を神様はどう見ていらっしゃるでしょうか。微笑みながら、しかし真摯にみておられるように思います。 イエス様は「もし人の過ちを赦すなら」と言われました。まず自分から赦すことをしなさいと教えられたのです。赦しがたい事柄でも、その中に働かれている十字架の愛を知り自分はどうなのかを考えることです。私の方から赦すことがないならば、神様も私をお赦しにはならないと思います。

「教会の鍵」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「教会の鍵」    「二十四時間教会の扉に鍵をかけない」ということは、私たちのこの地域への挑戦です。また神様への信頼でもあります。この信仰がいま問われています。    献金が盗まれてしまいました。さらに続けて献金箱が盗まれてしまいました。二十四時間鍵をかけないことを始めたのは、五年前のことでした。それからいままで何も起こりませんでした。しかし、このことは覚悟の上でそうしてきたはずでした。    いざ起こってみると、いろいろな意見が出てきます。「鍵をかけない教会に責任がある」「お金をこまめにあつめない牧師・役員に問題がある」「せめて牧師室だけは鍵をかけるべき」「盗んで下さいと置いてあることが問題だ」「教会を開放するのが間違い」「鍵はかけるべき」と。    どれもこれももっともです。しかし、どれもこれも間違いです。私たちが鍵をかけないときめたのは、神様の働きのためでした。人のためではなかったはずです。人を誘惑に陥れるためでもありません。神様の栄光があらわれるためでした。    「ほら、やっぱりそうなった」と思われるかもしれません。そう思われたら、教会のために祈ってください。まだしばらく鍵をかけずにいたいと思っています。

「賢い僕となる」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「賢い僕となる」 ルカ   12:42 主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。 「呼吸を合わせる」というカウンセリング療法があると聞きました。呼吸を合わせるとどうなるのだろうと思います。どうやったら呼吸を合わせることができるでしょうか。高校の授業で柔道で黙想の時に高級を合わせることを習った以外経験したことがありません。しかし、その数少ない経験の中に「呼吸を合わせる」と言うことの大切さを教わったように思います。ただとても難しかったという記憶がある程度です。禅の修行の中にも呼吸を合わせ、整えると言うことを教えてもらったこともあります。 イエス様は、おわりの時に備えて「常に目を覚まして待つ」ことを、「目を覚ましている僕」のたとえで教えられました。主人がいつ宴会から帰ってきてもいいように準備し、目を覚ましている僕は幸いであると言うのです。ユダヤの夜の時間は3分割されており、夜、真夜中、夜明けとなります。そのとき、時間通りに仕事をすることの幸い、そして主人がそれを知る幸いを語っています。 ある主婦のバスでの体験です。その主婦は毎日同じ時間に同じ場所からバスに乗ります。当然毎日同じ人と出合うことになります。彼女にとって一番印象の強い人は、4番目のバス停で乗って来る、盲導犬を連れた女の子でした。彼女と盲導犬は乗車すると、決まって扉のすぐそばの席に座ることが習慣でした。ですからいつも乗る人々は決してそこの席には座りませんでした。ある時、中年の男性が乗ってきました。その男性はその席に腰掛けました。主婦の心のなかは複雑でした。その席にはあと二つ目のバス停で盲人の女の子が乗って来る。その男性に言うべきか言わないでおくべきか迷いました。一つのバス停がすぎ、次ぎのバス停が近づいてきました。次ぎのバス停の少し前にきたときその男性はすっと立って違う席へ移動したのでした。バス停ではいつもどおり、盲導犬をつれた女の子が乗って来ました。そして手で座席に触れ、誰も座ってないことを確認してゆっくり腰掛けたのでした。誰もなにも言わないけれど、みんなの善意がこの席を暖めていたという話です。 イエス様は「 時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実

気ままな休日・ワコニア湖畔のリッチなピザ

イメージ
リゾート地のイタリアンレストラン とにかくリッチなピザでした。 美味しかったのは間違いないが。。。

鹿児島教会にインターネットカフェが誕生

イメージ

明日は礼拝です

イメージ
説教者:立野泰博牧師(主任) ネットカフェ祝福式 聖霊降臨日礼拝です

「復活を知る三歳」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「復活を知る三歳」    旅行に行っている間に、金魚が全部死んでしまいました。ポンプが故障し水が腐ってしまったのでしょう。新しく飼った金魚でしたので、過保護にして餌をやりすぎたようです。    さて、金魚が死んで一番悲しがったのは愛美でした。死んだ金魚を大切にテッシュに包み、記念室の横に埋めにいきました。そして愛美は一人で祈ったのです。    「神様。前に小鳥も死にました。金魚を死にました。どうか新しい命を与えて、また生きるようにしてください。祝福してください。イエス様によって。アーメン」。    復活のことをいったい誰が教えたのでしょうか。死は終わりでなく、イエス様によって新しい命の始まりだと誰が教えたのでしょうか。きっと神様ご自身が愛美に語りかけてくださったのだと思います。    私たちは神様のことを学ぶのに、難しい神学を学ばなければ理解できないわけではありません。神様は三歳の幼児には三歳の幼児にわかるように教えてくださるのです。ですから、私には私にわかるように教えてくださいます。今日はとくに愛美の祈りを通して教えてくださったのです。そのことに気がついて本当に感謝です。きっとあなたにはあなたにわかる方法で教えて下さっっているのです。

「せわしく・・・」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「せわしく・・・」 ルカ   10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」  「私は○○だから・・・」という言葉を聞くことがあります。この「・・・」には何がはいるのかなと思います。きっと「私は○○だから、でも・・・」と言いたいのでしょう。わかってもらいたいのは「…」の部分です。しかしその大切な部分が聞いてもらえないもどかしさを感じます。「でも…」の部分を聞くためには、じっくり向かい合わなければならないからです。 ルカ福音書の中でも「マルタとマリア」姉妹の話は有名です。イエス様の接待に忙しい姉マルタとその足元で話を聞いているだけの妹マリア。ついに姉マルタはイエス様に訴えるのです。「 わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。妹マリヤのことを訴えているようですが、責任はイエス様にもあると言いたいのでしょうか。なぜ彼女からイエス様に対して、このような心にもない言葉がでてきたか。それは「せわしく」(聖書には忙しいという言葉はありません)立ち働いて、何かを見失っていたからでした。自分がしていることが神様から喜ばれると自分勝手に考えていたのでしょう。すべては「せわしく」心を乱していたのです。  たま~に子どもたちと私だけの時がありました。その時は主夫になりました。主夫初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。しかし、家の仕事はなんでもあるのだと思います。いそいそと働きながら、実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエス様に仕えることなのです。どんな仕事や役割も、すべてはイエス様に仕えるということがなければむなしいものになっていきます。しかし、この仕事はイエス様に仕えているのだ

「いくつかの十字架」

イメージ
クレヨン牧師のミニエッセイ 「いくつかの十字架」    ドイツ・ブラウンシュバイク州のある教会で、不思議な十字架を見つけました。ちょうど礼拝堂の正面に掲げてあり、私たちの教会のものと同じ大きさでした。なぜ不思議な十字架かといえば、主イエスを十字架から降ろしている場面の十字架なのです。十字架の下には、母マリア、マグダラのマリア、アリマタヤのヨセフ、兵士たちがいて、いままさに主イエスを降ろそうとしている十字架でした。すでに主イエスの足を抱きかかえているマリアがそこにいるのでした。    その十字架をみたのは初めてで、とても新鮮な感覚を覚えました。その十字架が訴えているものは何かと黙想する時間も与えられたのです。    さて、もうひとつの不思議な十字架が手元にあります。それはマカオの友達が送ってくれたものです。この十字架には主イエスと、その横でぶどう酒を差し出している女性がいます。私は勝手に解釈し「マグダラのマリアの十字架」と命名しました。なんでもこの十字架は不謹慎とされ、製造中止になったのだそうです。私はこの十字架が好きです。    十字架につけられた主イエスに、最後まですがりついて奉仕するマリア。その与えられた信仰が胸を打つのです。その信仰ゆえに、復活の主イエスに一番先に出会った女性となったのです。

「イエス様を身近に」

イメージ
鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「イエス様を身近に」 マタイ  28:20  わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。 これまで「ここにいてくれてありがとう」という言葉を何度か聞きました。私にとってこの言葉は、被災地だけでなく、パレスチナ、タイの津波、インドネシアのときも聞きました。苦しい状況の中にあって、何をしてよいかわからないことがあります。また、苦難や悲劇の中にある人達に何をすればいいのかわからないときもあります。そんなとき「ここにいてくれてありがとう」という言葉は、救援活動をする者にとって慰めです。なにもできないかもしれないが、共にいることはできる。まず共にいることが一番の救援活動なのだと思います。しかし、共にいるということほど難しいものはありません。自分も他者も理解し、受け入れていかねばならないからです。 マタイによる福音書では、イエス様と弟子たちとの別れの場所はガリラヤの山になっています。この山は「山上の説教」が語られた山を思い出させます。そこは、み言葉の福音が語られ、人々が救われ、癒された場所です。この最後の場面で、イエス様が遺された言葉は「弟子の派遣」でした。み言葉の宣教こそが派遣の中心なのです。そして、最後の最後の言葉は「共にいる」というみ言葉でした。これは、弟子たちのすべての働きの中に、イエス様は共にいてくださるということです。 徳山教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学びました。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。ある日曜日の朝6時ごろのことでした。長女が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまりにもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。しかし同時に「お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して

気ままな休日・ミネアポリスのカフェで

イメージ
さすがアメリカですね~ ミネアポリスのカフェでオシャレなランチでした。 サラダが独特で、、、

カフェ祝福式

イメージ