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4月, 2017の投稿を表示しています
愛は目にみえる
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『愛は目に見える』 森優牧師が講演で一冊の本を紹介されました。その名も『若い父親のための 10 章』です。私にぴったりです。そのうち読もうと思っていますと、妻がさきに読んでいました。しかも声をだして。なんとその本の一章には、「もっと妻を愛すること」とあります。段々声が高くなって、「私は、妻を愛していることを子供に示したい。そのために、どんなささやかなことがあっても、もっと誠実に妻のために尽くそうと思う。本当の愛は目に見えるものである」と続きます。そして具体的な例がでてくるのです。 なるほどと思いながら、両親が愛しあっていることを知っているとき、子供はほかのものをもってしては得られない安心感、安定感、また人生の尊さを感じとるのかも知れません。愛は伝わるものなのです。愛についていろんなことを教えられますが、愛することを教えてくれるのは両親が愛しあっているその状態なのでしょう。 この本はそもそも、もう一度父親をやり直すことができたら、こんな父親でありたいとの設定で書かれました。蛇足ついでに。
祈り・願い・お願い
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「祈り・願い・お願い」 フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。 パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。 車で走っていますと、楽しいことがたくさんあります。とくに看板に目をひかれます。柳井市のある海岸線には、「このあたり美人おらず。わき見運転するべからず」と書いてあります。もっともその下には、「美男子は完全にいない」と落書がありました。思わず微笑んでしまいました。いっぽう、六日市に向かう道では、看板にはっとするようなことがいつも書かれています。たとえば先月は、「ありがとうが、いつのまにやらあたりまえ」と書いてありました。なるほど感謝する心の大切さをいまいちど発見する思いでした。それでは今月は何と書かれてあったか。こうです。「子は親の言うことはしないが、親のするようにする」です。 パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いではないかと思います。
あなたの喜びは何ですか
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『あなたの喜びは何ですか』 昨日は第二回目の「子育て講演会」でした。講師には聖文舎の森優牧師をお迎えいたしました。その森先生からお聞きした話ですが、祈りについて考えさせられました。 その話は、ある祈りについてのセミナ-でのことです。講師が次のようにいいました。「今日は具体的な隣人のために祈る訓練をします。隣の人とペアになって、まずその人の悩みを聞いてください」と言われたそうです。そこで悩みを聞かれたけれど出てこない。自分だけ悩みのない幸せな人間かなと思ってまわりをみれば、みんなも困っている様子です。具体的に悩みといわれても、「これと、あれ」といえるほど深刻ではないのかもしれません。 さて、それからどうなったかというのが大切です。今度は講師はこういいました。「それでは、最近の喜びを聞いてください。喜びを祈りましょう」と。すると嬉しかったことがでてくる。悩みを出せない私たちをみる思いです。 しかし、祈りは慰めだけではありません。私たちも一緒に喜びを共に感謝する祈りを持ちたいと思います。あなたの喜びは何ですか。
友と呼んでくださる
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「友と呼んでくださる」 ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。 ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。 日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。 イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。
牧師の紹介
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『牧師の紹介』 「広島平和セミナ-」で、岡山教会の牧師に会うことができました。先生はいまでもラジオに出演しておられるとのことです。最近、ある対談番組にゲストとして出演されたときの話をしてくださいました。 その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる市原さんです」。 この話をきいて笑い転げてしまいました。と同時に考えさせられました。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。 イエス様の名刺をつくるとしたら、名前だけで十分です。その存在だけで知らしめてくださるのですから。
痛みを負う
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「痛みを負う」 イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。 中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。 イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。 注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。 イザヤは「彼は軽蔑され、
共感
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『共感』 娘も大きくなり、いまでは何でも口に入れて楽しむ毎日です。 先日も見ていると、床に赤いものが落ちていましたので、さっそく這って行き口の中にポンと入れたのです。すると突然、火がついたように泣き出したのです。これはきっと何か変なものを食べたと慌てて、口の中をのぞいてみました。するとそこには、赤い唐辛子が一つ入っていました。多分辛くて泣いているのでしょうが、どれくらい辛いかわかりません。そこでとっさに同じものを口に入れてみました。するとどうでしょう。辛いというより痛いのです。しかも燃えるように。ああこれは娘にとっては試練だなと思いつつ、同じ痛さを感じているという共感が生れてきました。 パウロはロマ書の中で、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロ-マ 12:15 )教えてくれました。この共にということは、その人の痛みや喜びを感じることではないでしょうか。それをしてくださるのが、イエス様です。 あなたが泣いている時は隣で共に泣かれる。そこに気がついたとき、私たちは再び立ち上がるのです。
中を見たい
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「中を見たい」 ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・ ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。 イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。 あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。 さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。
子どもも、ひとりの人格
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『子供も一人の人格』 「親業」の講演の最後に講師の先生は、『人格の未熟な親ほど、よく子供を叱ります』という言葉で講演を締め括られました。親になるのも学びが必要だということでしょう。「親業」という本のなかに次のような詩があります。 あなたの子供は、あなたの子供ではない 待ちこがれた生そのものの息子であり、娘である あなたを経て来たが、あなたから来たのではない あなたと共にいるが、あなたに属してはいない あなたは愛情を与えても、考えを与えてはならない なぜなら、彼らには彼らの考えがあるから あなたが彼らのようになる努力はしたとしても 彼らをあなたのようにすることを求めてはならない なぜなら、生は後戻りしないし、 きのうままにとどまりもしないのだから K.ジブラン 神様も私たちを、一人の人格としてみてくださいます。
褒められること
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ほめられること」 ルカ 7:9 言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。 「キリストを人に見せばやわれはそのかげにかくれてありとしらさで」 キリストにあって謙虚な気持がするのは、明治の歌だからでしょうか。いつだったかある本で読みました。トスカニ-ニという偉大な指揮者が、ベ-ト-ヴェンの第九のリハ-サルをしていました。その指揮振りの素晴らしさに楽団員たちは感動し、終ったときには全員が起立して彼に拍手を贈りました。するとトスカニ-ニは激しくその拍手をやめさせようとしました。拍手が小さくなったとき、目に涙をためて大声で叫んだそうです。「ほめられるのはベ-ト-ヴェンです。私はほめられる筋合いはありません」と言ったそうです。褒められるとは何かなと思います。 聖書の中で、イエス様は百人隊長の言葉に感心しておられます。弟子たちなどは、マルコ福音書で怒られてばっかりですが、それも一つのイエス様の関わり方なのでしょう。イエス様は人のことを無視されるわけでなく、何らかの方法で認めておられるように思えます。 今朝のテレビ情報番組で「ほめられサロン」の話がありました。ウェブページの「ほめられサロン」のところにいって、自分の名前と職業をいれると「00さん、素敵です」「00さん、声がすがすがしいです」「00さん、仕事できますね」などほめ言葉が画面にたくさんでてくるのです。それはもうたくさんのほめ言葉があります。形式だけとわかっていても、やっぱり嬉しくなります。子どものときは、たくさんほめられることもありました。大人になったら忠告されたり怒られたりすることはありますが、ほめられることも、ほめることも少なくなります。やっぱり、人はいくつになってもほめられることで、誰かに認められたいのでしょう。自分のやっていることをわかってもらいたいのでしょうネ。 神様は私たちのことをいつも見守っていてくれます。それは私たちの存在そのものを認めてくださっているからです。「ほめられサロン」で自分を確かめることより、この職場環境のなかでお互いを認め合っていけたらそれで充分なのでしょうね。イエスさまは「わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と言われました。あな
一番おいしいもの
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『一番おいしいもの』 こんな話を聞きました。幼稚園の遠足でお弁当を持っていく我が子のために、お母さんは早起きをしてお弁当を作りました。栄養のバランスを考え、彩りよく、おいしくと最大の心配りと愛情を詰め込んで持たせたのです。遠足から元気よく帰ってきた子供に、「何が一番おいしかった?」と自信満々で聞いたところ、返ってきた答えは、「リンゴと柿」だった。神様が造られた自然に負けたと笑っておられました。 この話を、昨日の「親業」の講演を聞きながら思い出しました。親としては、愛情を伝えたい一心でつい、「こうしなさい。ああしなさい」「これはだめ。あれもだめ」と命令口調になってしまう。子供の方は、言われれば言われるほど親の言う反対をやりたくなるのです。 愛を伝えることは簡単なようで、実は一番難しいことかもしれません。愛を伝えるよい方法は何でしょうか。それはなにも飾らず、親の自然な気持を言葉にすることです。自然な気持を、命令や禁止の言葉にせず、そのままを伝えましょう。命令や禁止などなくても、神様の愛は伝わってきますから。
すみません
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「すみません」 ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 ある牧師先生の家に四匹の小犬が生れました。早速見に行きましたがとてもかわいい犬で、一匹ほしいなあと思うくらい。ところが母親犬は四匹を平等に愛し育ててはいないと、その牧師は言われるのです。ある一匹だけをよく面倒をみて、ある一匹には全く無関心なんだそうです。残りの二匹にはまあまあとのこと。どうも理由がありそうです。実は、愛されているのは父親似の犬。嫌われているのは自分に似ている犬なのだそうです。どうしてそうなるのかわかりませんが、愛の執念かもしれません。愛というのは難しいものです。 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。 ヨハネは「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と告げています。神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の本当の生き方だといえます。
桜のライン
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『桜のライン』 広島から六日市を通り、益田へ車を飛ばしてみました。約二00キロです。この道を通るのは、いまがとても良い季節だといえます。桜の花が満開で、そのほかにいろんな花が咲乱れ、春本番といった感じなのです。いままで気づかなかったところに桜がある。とくに錦川清流線のある駅などは、ホ-ムを真ん中にして、線路わきに桜がラインをつくっているという素晴らしさです。ここに神様の創造された「自然」ありです。この桜をみながら、「春こそはあなたたちの季節なんだね」と感じました。しかし逆に、「ここに自分たちはいたんだ。やっと気づいてくれたのか」と言われているみたいです。まもなく花ビラが散り、葉桜になりそして忘れられていく桜たち。しかしまた、春になると姿を見せてくれる。 信仰も同じかもしれません。苦しいとき、悲しいときになると、「だいじょうぶ。イエス様がいてくださる」と声をかけてくれる。しかしちょっと違うことは、いつでも神様だけは私たちがどこにいるかご存知です。なぜなら共にいてくださるのですから。
ゆとり・いい・加減で
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ゆとり・いい・加減で」 マルコ 6:31 イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」といわれた。 「一日に何時間あればいいと思いますか?」というアンケ-トをビジネスマンにしたそうです。その結果、回答の平均は何と「二九時間一二分」だったそうです。皆さんあと五時間欲しいと思っておられるのでしょう。その五時間が生活にゆとりができる時間と考えておられるのかもしれません。しかし、実際には残業が五時間増えるだけになりそうです。この結果にもとづき売り出されたのが、二五時間時計です。とても実用性には欠ける品物ですが、飛ぶように売れていると聞きました。これに気をよくして売り出されたのが、十時までしかない時計です。もっとゆったりとした一日を送りたいと願っている人もいる、という逆転の発想です。この時計が飛ぶように売れているそうです。 イエス様が弟子たちを派遣されたとき「杖一本の他に何ももっていくな」と言われています。これを聞いた弟子たちは一生懸命に宣教したことでしょう。宣教する以上は「きちんと」「熱心に」「他人に配慮しながら」「しっかりと」「しかも迅速に」が求められていたことでしょう。しかし、本当にそうかなと思います。イエス様が何も持っていくなというとき、それは神様にすべてを委ねなさいということだと思います。それが出来ないから燃え尽きてしまいます。 賀来周一先生が信徒の友に「信仰者とこころの健康」と題して紹介されていました。先生は「いい・加減」のすすめと題してこの問題を取り上げておられました。まじめな人間ほど小さいときかた駆り立てられるような命令のもとに生きているそうです。たいてい5つの事柄で「完全であれ」「努力せよ」「他人を喜ばせよ」「強くあれ」「急げ」だそうです。牧師などは大抵まじめな方が多いようで、これに従って(支配されて)全力疾走しているものだから「燃え尽き症候群」になるといいます。これが親の言いつけを忠実に守ろうとする「良い子」の姿勢なのです。それでは考えるべきか?ある意識をおきながら、この5つを対処すればいいといわれます。どのような意識なのか。「いい・加減」です。5つには「ここまでにする」「これをするだけでよい」「自分が喜んでよい」「自然にふるまってよい」「
風邪をひいたら
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たてのやすひろ・牧師
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『風邪をひいたら』 風邪が流行しています。皆さんは大丈夫でしょうか。 風邪の治し方は、昔からいろいろあります。野菜ジュ-スを飲むといいとか、ニンニクをすりりおろして水に溶きうがいをする、卵酒、熱湯に入れたレモンを飲む、足を熱いお湯につける、山芋シップ、梅干しの黒焼き・・・。それほど風邪は治しにくいというか、治し方が見つからない病気かもしれません。 風邪は万病のもと、なんとか早く治しておかなければなりません。それでは何が一番よい方法かといえば・・・。それぞれです。ある有名な風邪博士のお医者さんたちに、「あなたが風邪をひいたらどうしますか?」と質問しました。全員が同じ答えだったそうです。「安静にして寝る」。人間には自分で治す力が備えられています。そのように神様が守っていてくださるのです。風邪をひいたときは、神様が「安静にしてなさい」といメッセ-ジを送られているのです。ですから心の健康も自分で支えねばなりません。心の健康を支えるものは、イエス様の御言葉のみです。
もう少し
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たてのやすひろ・牧師
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「もう少し」 マルコ 12:34 あなたは、神の国から遠くない ある時、魚の骨を喉にひっかけてしまいました。痛くて、手を入れればすぐ取れそうな気がします。奥さんに見てもらったのですが、「どこよ、どこよ、ない」と平気な顔をして笑っている。それをみながら、「なんて薄情なのだろう。愛はないのか。この痛みが分からないのか」といいたくなりました。でも、これが反対の立場だったら私も笑うでしょう。しかし、その時は真剣。その場を救ってくれたのは娘でした。その頃1歳、「痛いね」という言葉を覚えた娘は、私が痛いというと「痛いね。痛いね」と繰り返していいました。本人はどのように痛いか分かってないのでしょうが、なんだか私の痛みを分かっているような気がして、ホッとしたのです。私たちは自分の痛みはとてもよくわかります。でも一番近い家族の痛みはといえば分からない。家族の一人にどんな苦しみがあり、痛んでいるかなどと考えてもみません。一番近いが一番遠いことにもなるなと思いました。 イエス様は、律法学者から「あらゆる掟のなかで、どれが第一でしょうか」と聞かれます。イエス様のみ言葉をまとめると「神を愛し、隣人を愛する」こととなります。こんなに単純なことですが、これが最高に難しいものです。律法学者も「そのとおりです」と適切な答えをするのですが、そのあとに「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。近いけれど入ってないということでしょうか。もう少しなのですが、このもう少しが永遠でもあります。 事務局にいる時、ビル清掃のおばちゃんとの会話を楽しんでいました。いつも朝5時から働いているおばちゃんからたくさん学ぶことが多かったのです。とにかく毎朝、人が通る前までにきれいにしておくため、いつも時間外にきてくださっているのです。そのおばちゃんが「神様のクレヨン3」を読んだ感想を毎日教えてくれます。ある日のおばちゃんの言葉「あの本の内容は10%のうち、8%しか書いてないね。残りの2%は自分で考えるように書かれてある。この2%が神様との関係では大切なんよね」と。 イエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と言われます。「遠くない」「もう少し」とは自分で考えることなのです。神様から示されているみ言葉・福音は目の前にある