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4月, 2018の投稿を表示しています

「教える人は聞かない?」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「教える人は聞かない?」  マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」 キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。  イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。  最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。  イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

礼拝堂のステンド

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礼拝堂のステンド?じつはフィルムです。いつかは本物を! これだけでも雰囲気が違うものですよ!

礼拝へどうぞ!

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本日のメッセージは、関満能牧師(水俣教会)のメッセージです!

きままな休日・人吉の餃子

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知る人ぞ知る!熊本人吉「茶びん」の餃子。 ニラの風味がたっぷり。芸能人も沢山来ている店ですよね。 中華料理の店ですから、本格中華がいいすよ!

「肝心なこと」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「肝心なこと」    子どもがどうやって信仰を継承していくのか、それは神様だけが知っておられます。伝わっていないようで、じつは確実に伝わっているものがあります。聞いていないようで、ちゃんと聞いているものなのです。    先日のことでした。次女の愛美が朝早く一人で目を覚ましました。初めはやることが無かったらしく、鼻水の固まったものを取っては、一つ一つ自分の枕に並べていました。横目でみながら、朝から他にすることはないのかと、わが娘ながら情けなく思っていました。    ところが、八時の鐘が聞こえると枕の上に建ち、両手を上げていきなり「アーメン、アーメン、アーーーメン」とアーメン三唱を歌うではありませんか。私たち家族は朝一番に、寝ている間に祝福を受けたのでした。    誰が教えたのでもありません。毎週礼拝に出て、礼拝堂を走り回っていてなにも聞いていないようでも、ちゃんと肝心なことは覚えているものだと驚いてしまいました。なんだかとっても嬉しい朝でした。    今、1歳の愛美が歌えるものは、「アーメン三唱」「マラナタ」「アイアイ」「メリーさんの羊」そして「愛は勝」です。親ばかですね。

「自分のいいとこ20」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分のいいとこ20」   ヤコブ   2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。  聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。   有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。  「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていきましょう。

「聞いてわかる文章」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「聞いてわかる文章」    西中国地区の聖書日課を、ワープロで作成しています。地区の方々の書かれたものを編集していると、大変勉強になります。与えられた聖書箇所を黙想し、まとめあげ、しかもそれを読む人へ伝わるように編集していく。これだけでも大変な作業をみなさんがしておられるのです。    さて、3月分位を編集していると、たくさんのことに気がつきます。読んでみてスッ~と心に入ってくる文章。何度読んでも引っかかりのある文章。書き手と読み手に決定的な溝がある文章(これは、書き手の中ではつながっているのだが、読み手には唐突なもの)。聖書の解説のみに終始している文章。日課には関係なく証しになっている文章。    私はこれらの文章と付き合いながら、自分の語ってきたこと、書いてきたものはどうだったかと考えています。しかし、その中でこれはという文章に出会うこともあります。その文章はどんなものかと言えば、読んでわかる文章ではなく、聞いてわかる文章です。    「聞け、イスラエル」と神様は言われます。神様の語られることは文章にしても聞いてわかるものだったのです。

「骨髄まで響く」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「骨髄まで響く」  マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者 進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。  イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。 「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」 イエス様は自分が神様の子であるこ

鹿児島教会花盛り

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つつじ、椿、桜がいっぺんに咲く鹿児島です。

礼拝は今日です!

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本日の礼拝は、中村朝美牧師(宮崎教会)のメッセージです。    

きままな休日・五家荘のごはん

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平家の里・五家荘へ行ってきました。 山奥の落人の里。さすがに山にしかない料理でした。 猪汁、ヤマメ刺身、塩焼き、甘露煮。 どれも最高!

「一度わきに出てみる」

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クレヨン牧師のミニエッセイ   「一度わきに出てみる」    島根県・六日市集会からの帰り道、久しぶりに野ウサギに出会いました。薄茶色のわりと小さな野ウサギでした。山の蔭から出てきたと思うと、車の前を一緒に走っています。右か左に寄ってくれれがいいのですが、車のライトに照らされた道をひたすら真っ直ぐに走っているのです。    追い抜きにかかるとその方に寄ってくるし、スピードを落とせば走るのがゆっくりとなる。どうすればいいかなと思っていましたら、やっと左の薮へ消えて行きました。もうそろそろ限界にきて疲れているなとわかる走りでした。ただひたすら真っ直ぐに走ることだけがいいのか。それとも一度わきにでて、また走る道を見定めてみるのがいいのか。いろいろと考えさせられました。    「婦人会の活動を停止する」という波紋が広がっています。決して婦人会を止めるのでありません。今の教会の機構を考えてみようと思っています。建築の返済のためだけにこの教会があるのではないことは、神様が教えてくださっていることです。それでは何のためにここに建っているのか。やはり宣教のためです。その宣教のために今の教会の機構があっているかどうか考えてみたいのです。もし婦人会の活動が重荷になっているのなら、一度わきにそれて見直してみる必要もあるのです。

深めていく愛

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「深めていく愛」 ユダ   1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。 フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。  ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。 ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」  私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

「やっつけ仕事でも」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「やっつけ仕事でも」    感謝すべきことに、小泉潤牧師(京都)・江藤直純牧師(ルーテル学院大)と一緒に編集した「全国聖書日課」が大変好評です。すでに売り切れになったという知らせがきました。執筆者に一週間で書いて下さいと、やや無謀なことを言って作成したのですが、内容的にはいいものができたとの感想をいただいています。    「今回もまたやっつけ仕事だったね」と、執筆者のある牧師が感想を述べられましたが、私などは反対に、時間がなかったという緊迫感が聖霊の力を生んだのだと思う位です。若い牧師たちの日課を読めば、その先生のとっておきの話が書かれてありました。切羽つまっている時の苦肉の策のような笑みがこぼれます。    与えられた仕事wp「やっつけ」でしなければならないことも多いものです。むしろ私たちの日々の生活も「やっつけ」でしかないのかもしれません。しかし、与えられた仕事を時間がなくても、これ以上はできないという緊迫感のなかで出来たとすれば、それは「やっつけ仕事」ではなく、その人の存在がそこにある仕事となるのだと思います。ようするに、気持ちの持ち方だといえます。祈りましょう。せめて祈りだけはやっつけにならないように。

「手伝わせてほしい」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「手伝わせてほしい」  マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために 子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。 イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。 「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。  「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。

ちょっと足を延ばして、、、

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礼拝でお待ちしています。

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気ままな休日・タイの朝ごはん

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タイの朝ごはん こどもたちが作ってくれました。 チキンライスと肉かな? ナンプラー味でした。

「信仰の背骨」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「信仰の背骨」    生まれて初めてカイロプラクティックへいってまいりました。というのも腰が痛くて車に乗るのが辛くなってきたのです。毎週600キロが私の牧会範囲なのです。    さて、カイロプラクティックとは、指圧などで曲がった脊髄や首の骨を正常な状態にする治療の一つ(広辞苑による)です。私の腰の痛みの原因は、座骨の歪みで右と左の足の長さが7センチずれていたのです。そのために背骨が曲がり、首が曲がり、それが負担となって腰にきていたのでした。自分ではいままでまったくそんなことは知らずに生活していました。カイロプラクティックの効果は抜群で、小学校の時から手が床に着かなかったのに出来るようになり、歩きが軽やかになりました。いままでの猫背の原因もわかって、背筋がまっすぐになりました。ついでに、このカイロプラクティック の藤本先生が素晴らしい人格の方なので、心も整えていただきました。いまでは家族全員でお世話になっています。    私たちは普段、背骨など気にせずに生きています。それは曲がっていてもいろいろな修正をして、背骨は曲がったままでも真っ直ぐ歩けるように身体ができているのです。しかし、曲がっているものをだまして真っ直ぐにしても無理がでてきます。真っ直ぐに神様から造られたものは真っ直ぐが本当です。神様が創造してくださった形でなければならないのです。つまり、人は病気をするように造られていません。心の問題も同じです。人は愛し合うように造られているのです。しかし、それができません。だからこそ主イエスが必要なのです。その主イエスは「私に従いなさい」といわれました。主イエスこそが私たちの特効薬なのです。

「自分以外をみる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分以外をみる」   フィリピ 2:4   めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 いろんな人と食事をしていると「自分流」ということを感じます。その人にとってはあたりまえのことでしょうが、とても不思議に見えることがあります。なんでも酢をかけて食べる人。カレーに醤油・ソースをドボドボかける人。とんかつに醤油をかける人。牛丼の肉よりも多く紅ショウガを入れる人・・・。自分にとってはあたりまえでも、人からみれば特殊というのがたくさんあります。このことが人に不快感をあたえなければいいのですが。共に生きていく、働くという場面においては「自分流」も少し見直していくことが大切かもしれません。  パウロは「キリストを模範とせよ」というテーマで、自分のことだけでなく互いに思いを一つにと教えます。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つ」にと強調しています。そのために必要なことは「へりくだる」ことです。互いに相手を自分より優れた者と考えなさいと教えるのです。共に生きていくには、自分勝手に生きるのではなく「互いにへりくだる」ことが必要であり、それはキリストが模範として示してくださったことだと言うのです。   「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。自分のことばかりでなく、自分以外を考えて生きていきたいと思います。   パウロはキリストを模範にといいます。そのキリストは「へりくだった」のだと。この「へりくだり」の心を互いに持つことが、自分以外をみることにつながります。

『クヨクヨスルナ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『クヨクヨスルナ』  「クヨクヨスルナ・ナントカナル」という言葉が、いつも聞こえてきます。なげやりな言葉ではなく、神様がなんとかして下さるという信仰に立って、この言葉を自分に言い聞かせています。     毎年バザ-の時期がくると、準備の段階でいつも心配でたまりません。本当に開催できるのだろうかと。しかし、いつも盛会のうちに終ることも知っています。けれども心配になるのです。 徳山に赴任して四回目のバザ-になりました。今年は準備をしながら、何のためにこのフェスティバルを開催するのか真剣に問うてみました。それぞれがいろいろな思いをもっておられるでしょう。返済のため。災害救援のため。教会の開放のため。伝道のため。どんなためでも良いと思います。ただ一つ忘れてならないのは、神様の恵みがそこにあるということです。     私はなぜこのフェスティバルを開催するのかと問われたら、「クヨクヨスルナ・ナントカナル」という神様の言葉を聞くためと答えます。

「命の言葉」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「命の言葉」 フィリピ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう  「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが 書かれてありました。「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。  パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。言葉には命があるのです。心の振動・命を伝えるのが言葉です。「ありがとう」の一言が人を生かすのは、その「ありがとう」に心が込められているときです。私たちはイエス様から「命の言葉」をいただいています。その「命の言葉」がどんなときでも励まし、慰めを与えてくれるのです。その「命の言葉」を大切にすることがキリスト者の努めだと言えます。使命も生命も、その中止には神様のみ言葉があります。 何世紀もの昔、イギリスである王様が驚くような実験をしたそうです。それは生まれたばかりの赤ちゃん10人に対して、一言も言葉をかけなかったら成長して何語を話すかという実験です。大変残酷な実験だと思います。言葉による触れ合いをさせなかったというのです。さて、皆さんにはこの実験結果がどうなったかわかりますか。実は、赤ちゃんは2歳にならないうちにみんな死んでしまったのです。  パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。私たちの人生は神様のみ言葉をしっかりと持つことによって生かされた人生となります。命の言葉を保つことによって使命が与えられます。今日は自分の言葉のひとつひとつに「命」を意識して過ごしてみたいと思います。

熊本の案内ですが

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礼拝は土曜日です。

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納骨堂整備ができました

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『二人集まったら』

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クレヨン牧師のミニエッセイ   『二人集まったら』    牧師として嬉しいことを聞きました。久し振りに開かれた婦人会での出来事です。私は仕事のため留守で、牧師のいない婦人会になりました。しかし、自分たちで聖書研究をされたのだそうです(なんでも議論沸騰したとか)。意外と牧師がいない方が、自由に議論ができていいのかもしれません。嬉しいことはそのなかで、「これから婦人会は二人集まった時点で祈ってから仕事を始める」と決められたそうです。      「祈る」ということは、私たちにとって大切なことです。しかし、ル-テル教会では忘れられていることの一つでもあります。毎日祈る。教会に連なる一人一人のために祈る。牧師のために祈る。教会の働きのために祈る。これがみんなで出来たらどんなに教会がよみがえることでしょうか。     ぜひ、徳山教会のために祈ってください。牧師の働きのために祈ってください。そして一人一人の教友のために祈ってください。顔を思い浮かべて祈ってください。教会のエネルギ-源はそこにあるのです。      祈って始めること。それは神様を覚えて始めることです。  

「主が必要とされる」

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  鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「主が必要とされる」 マルコ 11:3 『なぜ、そんなことをするのか』『主がお入り用なのです』 心理学者のユングがある書物のなかで、「人間の幸福の条件」として五つのことをあげています。第一に「健康」、第二に「自分でほどよいと思う程度のお金」、第三に「美しいことを知る能力」、第四に「人間関係」。そして最後の一つは「朝起きたときにやらねばならぬ仕事があること」です。はじめの三つはいつも言われることですが、あとの二つは軽視されていることです。ほんのわずかの働きでも、何か必要とされている。それが私たちを本当の幸福に結びつけるのです。 奉仕が私たちを幸福にしてくれるのは、こんな私でも必要とされているからです。 イエス様がいよいよエルサレムへ入場される場面です。神の子として、王としての入場ですからさぞかし華やかだったかといえば、そうではありません。この入場に必要とされたのは「子ロバ」でした。旧約聖書の預言の成就ということもありますが、「主が必要とされる」ということに注目したいと思います。 さて「いかに伝道するか」という講演会のお手伝いをしていると、帰りぎわに信徒の方から声をかけられることがあります。その中で多いのが「どうしてそんなに伝道しなければいけないのですか」という言葉です。はじめは、本気でおっしゃっているのだろうかと思いました。しかし、このように思っている人達が多いことに気がつきました。きっと、生活や仕事に忙しいのです。それに加えて伝道なんてとても出来ないと思っておられるのです。伝道はきついものだ、辛いものだ、時間がかかるものだ、お金がかかるものだ、という考えが多いのです。牧師からも同じことを聞きますから「どうしてそんなに伝道しなければ」となるのでしょう。そんなに数を増やさなくてもよいと。しかし、伝道は喜びの出来事を伝えることなのですが。 なぜ伝道するか。答えは「主が望んでおられるから」です。これが本当の答えになっているかどうか疑問です。主が望んでおられても、「わたしにはできません」と答えているかもしれません。それでも「主は望んでおられる」のです。この教会での働きも主が望んでおられる働きです。そこに思いを集中してまいります。

『話せる場所』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『話せる場所』  沼津教会での特別伝道集会も終り、久し振りに松本義宣牧師と「居酒屋」へいきました。めったに外で楽しむ機会がない私ですから、なんとも言えない明るい雰囲気に若くなったような気がしました。そのお店は開店してから一ケ月位で、気配りは最高でした。一番感激したのはトイレでの気配りです。     便器に向かいふと前をみると、「こんなところまで失礼します。しかしここが御客様とゆっくりお話しできる場所なので、あえて失礼を覚悟でお声を掛けさせていただきます。・・・」とあるではないですか。そこには、このお店で失礼はなかったか。料理は満足したか。雰囲気はどうか。もしお気づきの点があればなんでもお申し付けくださいと書かれてありました。店長の心配りに関心してしまいました。     こんなところまでと思われるかもしれません。しかしゆっくり話ができる場所をつくる。忙しくても、相手になんとか伝えたいものを持っている。そんな努力に心を打たれるものがあります。      ゆっくり話せる場所に、神様はおられるのです。

「宣教は刈り入れ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「宣教は刈り入れ」 ヨハネ 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。 教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて25年がたちます。まだ新卒だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて26年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。この配慮ができるか、宣教する教会とはそこに集う一人一人がそれをいつも考えていることです。 イエス様は『宣教は刈り入れである』。この視点は私を驚かせました。また、新しい宣教への夢を抱かせてくれました。 ある本のなかで、社会学者の方がこのことを指摘され、ピンと心にくるものがあったのです。 私たちは今まで教会の宣教を考える時、それは『種まき』だと考えてきました。ある意味ではそうやって自分達を慰めてきたのかもしれません。いつか芽がでるから、神様の計画のなかにあるからといっては御言葉の種を撒き続けることに主眼を置いてきたのです。 ところが、イエス様は宣教について『種まき』といわれたことはありません。ヨハネ福音書でも「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」といわれているとおりです。種は十分まかれている。刈り入れもせずに、まだ種まきだといって何もしていないのではないかと思うことがあります。 教会の宣教は、種まきではなく刈り入れである。いったい刈り入れとは何でしょうか。神様の業がここにもあそこにも刈り入れを待っている。ミッション系の幼稚園、学校に通った方々の数はどれくらいでしょうか。キリスト教に一度でも触れたひとはどれくらいいるでしょうか。刈り入れをまっているのに、そこに届くみ言葉を語っているか。教会の敷居は高くないか。

タイ若竹寮支援はじめます。

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