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「上野由恵フルート・コンサート」                               小山 茂   6 月 13 日午後鹿児島教会で、フルートのコンサートが開かれました。日本福音ルーテル社団主催の企画で、初めて我教会に来ていただきました。伴奏用のピアノが必要と聞いていたので、昨年春にピアノの寄贈を受け備えていました。今年はギターとのデュエットになり、この組み合わせの方が私は好きです。当日南九州は梅雨の真っただ中、生憎の天気でしたが 87 名の方が聴きに来てくれました。私は 30 年前に西新宿でフルートを習っていましたが、そこで上野由恵さんが講師をされていると聞き、不思議なつながりを感じました。   演奏曲目はバラエティに富んでおり、讃美歌・フルート向きの曲・心躍るラテンの曲など演奏されました。新井伴典さんのギターは、時に打楽器のように共鳴板を叩いてリズムを刻み、二人の息がぴたりと合って楽しい演奏でした。 90 分の演奏を一気にされる、プロのエネルギーを見せてもらいました。合間に、購入した CD にサインをもらいました。   さらに Q&A 方式のワークショップが開かれ、吹奏楽部でフルートを吹いている中高生から上野さんに質問し、アドバイスをもらいました。若い方 25 名ほどが前の方に座って、目の前で音を出して具体的に教えてもらいました。概して女子学生の方が積極的で、男子学生は恥ずかしがり屋みたいでした。興味を引いたのはフルート「循環呼吸法」で、フルートを吹きながら息を吸う奏法です。これができると息継ぎで中断せず、長い間演奏をし続けられます。実際にやってもらって、本当に驚きました。結局午後 2 時から 5 時過ぎまで、上野さんは前に立ち続け、スマートなのに体力のある方でした。生のフルートの音を堪能して、幸せな時をいただきました。ありがとうございました。また、毎月会堂で練習をされているフルート愛好会「素笛」、指導されている池田博幸先生のご協力に心から感謝を致します。 フルート愛好会「素笛」とのアンサンブル    
「主は罪人を招かれる。」   マルコ福音書 2:13 ~ 17  小山 茂   《レビを招くイエス》  今朝の福音は、主イエスが徴税人レビを弟子にする物語です。マルコ 1 章で漁師 4 人が弟子にされました。その召命の様子は今朝の福音に似ていますので、振り返ってみましょう。ガリラヤ湖畔を歩いておられた主イエスが、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ二組の兄弟に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれ、彼らは網を捨て、父や雇人を残して従いました。そして今朝の場面でも、主イエスはガリラヤ湖畔に来られて、収税所に座っているレビを通りすがりに見かけられます。そして言われます、「わたしに従いなさい。」彼は言葉で応答せず、行動で立ち上がって主に従います。どちらの召命の場面でも、招かれた者が仕事中にもかかわらず、直ちに呼びかけに応じます。    主イエスが意図して導かれ、召された者が弟子として従います。私たちにとって不思議な出来事に思えます。聖書は事実だけを語り、弟子とされた者たちの心の動きを伝えません。牧師とされた私にとっても、弟子の召命は他人事ではありません。ですから漁師 4 人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、今朝の福音から知りたいのです。   《徴税人・罪人と囲む食卓》  ところで、徴税人の仕事はどのようなものでしょうか。当時国境を通過する物品に通行税が課され、その税を集めるのが徴税人の仕事です。その業務はローマの税金徴収を請け負った者が、税額を立て替えて先に納め、人々から税金を集めて穴埋めをします。多く集まれば利益を上げられます、少なければ損失を被ります。ルカ福音書にも徴税人ザアカイが登場します。ザアカイとレビとでは、同じ徴税人でも立場がまるで違います。ザアカイは徴税人の頭で金持ちですが、レビは徴税をするために雇われた者です。言ってみれば、社長と従業員の違いがあります。一方は利益を得られる経営者であり、他方は日雇い労働者にすぎません。当時は税率が決まっていなかったので、高く税金を取り立てて私腹を肥やす者も現れました。また異教徒と交わるため、ユダヤ人から汚れた者とみなされました。そんな訳で、徴税人はユダヤ人から軽蔑され、嫌われる仕事でしたから、罪人と同様に扱われました。    主イエ
    「選ばれた者よ、愛し合いなさい。」 ヨハネ福音書 15:11 ~ 17 小山 茂   《告別の説教》  先週の日課は、ヨハネ福音書 15 章「イエスは真のぶどうの木」でした。それを前編とするなら、今朝はその後編になります。キイ・ワード〔鍵となる言葉〕は、前編と同じく「実を結ぶ」、「愛し合いなさい」、「わたしの掟」です。さらに後編では「わたしの友」、「わたしが選んだ」、「わたしが任命した」と、主イエスの意志が明確に加えられます。引き続いて弟子たちに、告別の説教が語られます。主イエスは十字架にかけられるとご存じの上で、弟子たちがご自分の言葉や行いを引き継いで、宣教を担って欲しいと伝えます。そして、彼らを僕ではなく、私の友であると言われます。また、互いに愛し合うように、愛の戒めを語られます。   《僕と主人の関係》  主イエスは弟子たちに命じられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」その互いに愛し合う根拠を、ご自分が彼らを愛したことに置かれます。主イエスが弟子たちの足を洗われたように、彼らも互いに足を洗い合うよう求められます。主イエスがひとりひとりの足を洗われた、その愛を知るなら私にはできませんとは言えません。さらに、愛について、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。その命を十字架で捨てられたのは、他ならぬ主イエス御自身であったと、弟子たちは後になって分かります。    主イエスはご自分と弟子たちの関係を、次のように言われます。「わたしはあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」僕と訳された元のギリシア語は、奴隷という意味があります。ですから、主人と奴隷の関係から考えるなら、より分かり易くなります。奴隷は主人から命じられたら、その通りにしなければなりません。ですから、命じられた理由を知る必要はなく、命じられた通りに行うだけです。しかし、主イエスは弟子たちに命じた理由を、父から聞いたことすべてを知らせます。だから、ご自分の命じることを行う者、すなわち弟子たちは友であると言われます。主イエスの選びによって、弟子たちは僕から友にされたのです。弟子た
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「鹿児島中央駅屋上の観覧車」                                                     小山 茂    鹿児島市内から鹿児島中央駅を捜すなら、6階建ビルの上にある大きな観覧車「アミュラン」が目印になります。それは地上から高さ 91m 直径 60m で、周りは高いビルに囲まれていますが、夜になると 7 色のイルミネーションに輝きます。快晴の日に鹿児島中央駅に来られたら、展望を楽しめるお勧めスポットです。料金は大人 \500 子ども \300 、ひとつのゴンドラに 4 人まで乗って \1200 です。ゴンドラは 36 個あり、シースルー用(透けて真下も見えるゴンドラ)が 2 個、車いす用(乗り口が広いゴンドラ)が 2 個あります。    高所恐怖の方は、足元が見えるシースルーは避ける方が無難でしょう。私も少し高所恐怖症気味で、山歩きで切り立った危険な尾根筋など苦手です。でも、自ら危険であると認識すると、注意深くなって却って事故を防ぎます。最近高所平気症という言葉を耳にしました。高層マンションに住む子どもに、高所平気症が見られるそうです。子どもは高さに対する感覚が未発達で、高い所にいる意識をあまり感じない。高層マンションの子どもは、高所に慣れる傾向があるため、高さの恐怖心が薄くなりやすい。そして下を覗き込んだりしているうち、誤って転落してしまうケースもあるそうです。    この観覧車は一分間に 13m 動くそうで、一回転するのに 14 分 30 秒かかり、思ったより早く感じます。一番高い所でパノラマ写真を狙って撮影しようと、待ちかまえていましたが、あっという間に過ぎてしまいました。今回で 2 回目ですが実際に乗ってみると、高くなるにつれて周りの視野が広がって、桜島、霧島連山、運が良ければ開聞岳が見えるかもしれません。山歩きが趣味なのでかつて登った山を、真っ先に捜してしまいます。台風6号の過ぎ去ったタイミングを狙って、昼頃行ったのですが期待するパノラマは望めませんでした。一人で乗って写真撮影のため場所を移動すると、ゴンドラも一緒に揺れます。観覧車の骨組みのパイプや、ゴンドラから物を落とさないよう格子状の鉄線があり、意外と写真撮影の邪魔になりました。ただ周りに邪魔する建物より高くなるので、観覧