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「主は罪人を招かれる。」   マルコ福音書 2:13 ~ 17  小山 茂   《レビを招くイエス》  今朝の福音は、主イエスが徴税人レビを弟子にする物語です。マルコ 1 章で漁師 4 人が弟子にされました。その召命の様子は今朝の福音に似ていますので、振り返ってみましょう。ガリラヤ湖畔を歩いておられた主イエスが、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ二組の兄弟に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれ、彼らは網を捨て、父や雇人を残して従いました。そして今朝の場面でも、主イエスはガリラヤ湖畔に来られて、収税所に座っているレビを通りすがりに見かけられます。そして言われます、「わたしに従いなさい。」彼は言葉で応答せず、行動で立ち上がって主に従います。どちらの召命の場面でも、招かれた者が仕事中にもかかわらず、直ちに呼びかけに応じます。    主イエスが意図して導かれ、召された者が弟子として従います。私たちにとって不思議な出来事に思えます。聖書は事実だけを語り、弟子とされた者たちの心の動きを伝えません。牧師とされた私にとっても、弟子の召命は他人事ではありません。ですから漁師 4 人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、今朝の福音から知りたいのです。   《徴税人・罪人と囲む食卓》  ところで、徴税人の仕事はどのようなものでしょうか。当時国境を通過する物品に通行税が課され、その税を集めるのが徴税人の仕事です。その業務はローマの税金徴収を請け負った者が、税額を立て替えて先に納め、人々から税金を集めて穴埋めをします。多く集まれば利益を上げられます、少なければ損失を被ります。ルカ福音書にも徴税人ザアカイが登場します。ザアカイとレビとでは、同じ徴税人でも立場がまるで違います。ザアカイは徴税人の頭で金持ちですが、レビは徴税をするために雇われた者です。言ってみれば、社長と従業員の違いがあります。一方は利益を得られる経営者であり、他方は日雇い労働者にすぎません。当時は税率が決まっていなかったので、高く税金を取り立てて私腹を肥やす者も現れました。また異教徒と交わるため、ユダヤ人から汚れた者とみなされました。そんな訳で、徴税人はユダヤ人から軽蔑され、嫌われる仕事でしたから、罪...
    「選ばれた者よ、愛し合いなさい。」 ヨハネ福音書 15:11 ~ 17 小山 茂   《告別の説教》  先週の日課は、ヨハネ福音書 15 章「イエスは真のぶどうの木」でした。それを前編とするなら、今朝はその後編になります。キイ・ワード〔鍵となる言葉〕は、前編と同じく「実を結ぶ」、「愛し合いなさい」、「わたしの掟」です。さらに後編では「わたしの友」、「わたしが選んだ」、「わたしが任命した」と、主イエスの意志が明確に加えられます。引き続いて弟子たちに、告別の説教が語られます。主イエスは十字架にかけられるとご存じの上で、弟子たちがご自分の言葉や行いを引き継いで、宣教を担って欲しいと伝えます。そして、彼らを僕ではなく、私の友であると言われます。また、互いに愛し合うように、愛の戒めを語られます。   《僕と主人の関係》  主イエスは弟子たちに命じられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」その互いに愛し合う根拠を、ご自分が彼らを愛したことに置かれます。主イエスが弟子たちの足を洗われたように、彼らも互いに足を洗い合うよう求められます。主イエスがひとりひとりの足を洗われた、その愛を知るなら私にはできませんとは言えません。さらに、愛について、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。その命を十字架で捨てられたのは、他ならぬ主イエス御自身であったと、弟子たちは後になって分かります。    主イエスはご自分と弟子たちの関係を、次のように言われます。「わたしはあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。」僕と訳された元のギリシア語は、奴隷という意味があります。ですから、主人と奴隷の関係から考えるなら、より分かり易くなります。奴隷は主人から命じられたら、その通りにしなければなりません。ですから、命じられた理由を知る必要はなく、命じられた通りに行うだけです。しかし、主イエスは弟子たちに命じた理由を、父から聞いたことすべてを知らせます。だから、ご自分の命じることを行う者、すなわち弟子たちは友であると言われます。主イエスの選びに...
『友人の信仰が赦す罪』  マルコによる福音書2:1~12 小山 茂  福音書記者マルコは、サンドイッチ 構造〔パンの中に具を挟む形〕に語る ことが好き で、今朝の福音書にも使っ ています。外側のパンは「中風の男性 の癒し物語」で、内側の 具に「律法学 者と主イエスの論争物語」が挟み込ま れています。ですから、今朝の福音書 は二つのテーマがあります。  ①主イエ スが友人たちの信仰を見て、彼らの連 てきた病人を癒すこと。  ②主イエス が罪を赦す権威は、律法学者が言う神 の冒涜にあたるの    か。 主イエスのされ る業の評価が、人々と律法学者とではま るで違っています。それでは、 今朝 の福音書に入って参りましょう。    最初のテーマである、「主イエスが 友人たちの信仰を見て、中風の人を癒 す物語」から 語りましょう。主イエス はガリラヤ中に行かれ、それぞれの場 で宣教され、悪霊を追い出 されます。 数日後にカファルナウムに再び戻っ て来られ、主イエスがシモンの家にお られ ることが知れ渡ります。大勢の 人々がその家に集まり、入口からびっし り人で埋まってい ます。その中心で 主イエスは御言葉を語っておられま す。そこに、友人四人が中風の男性 を 運んで来ます。中風というのは今でい えば、脳梗塞などによって手足の麻痺 が残り、自 分の身体を思い通りに動か せない病です。癒しの業の評判を聞い た友人たちが、中風の男 性を主イエス の所に連れて行けば、きっと癒してく ださるに違いない。友人たちの一途な 願いから、寝たままの男性を運んで来 ます。入り口から主イエスの所まで 人々でいっぱいで、男性をそこまでと ても連れていけません。  それなら外で待って、人々が帰って からお傍に連れて行くより他ありま せん。でも友人 たちは待ち切れずに、 とんでもない方法を思いつきます。主 イエスのおられる辺りの屋根 に上が り、その屋根を剥がし、男性を寝床ご と吊り降りします。四人の手が床の四 隅に結 んだロープを降ろします。当時 この地方の家には外階段があり、梁を 渡す角材の上に屋根 を葺いていたよ うです。病人は主イエスの目の前に、 吊り降ろされました。主イエスは友 人 たちのご自分への信頼をご覧になっ て、病の男性に宣言されます。...
顕現主日  2014 年 1 月 5 日 「星が導く希望を掴め」            マタイ福音書 2:1~12                            小山 茂 《新年おめでとう》  新年明けまして、おめでとうございます。穏やかな天気に恵まれた正月を、皆さま過ごされたことと思います。久しぶりに家族が集まったり、親戚の方々の訪問を受けたり、正月に心が新たにされることはいいものです。ルーテル教会ではもう一つ、正月の礼拝で教会讃美歌 49 番を欠かせません。ルーテル教会のオリジナルの讃美歌で、教団の讃美歌 21 にも載せられ、正月にふさわしい讃美歌として広く用いられています。作詞:江口武憲先生、作曲:山田実先生によるものです。先ほども歌っていて、新しい年を迎えた喜びを実感できました。殊に一節にある歌詞「無き者をあるがごとくに」とは、神の前に無いに等しいようなこの私を、ある者として認めてくださる神、その神を讃えて新しい歌を歌いました。   正月には、友人や知人と年賀状を交換して、近況報告を伝えあうのも嬉しいことです。多くの方々とは年一回の便りであり、お互いに頑張って生きていると確認できます。ただ、毎年暮れになると、年賀状を出しませんと断わりをいただく方もいらっしゃいます。その方々に、主の慰めが豊かにありますように祈らずにはおられません。そして、年賀状を出せる幸いを、改めて感謝しております。   《顕現主日》   1 月 6 日の顕現日に最も近い日曜日を、顕現主日と呼びます。顕現主日の福音の日課は、マタイ 2 章冒頭の「占星術の学者たちの訪れ」と毎年決まっています。顕現は、神あるいは神々の現れから、王の誕生や訪れをも意味します。それが、キリストの誕生・洗礼・東方の博士の訪問にまで及んでいます。それゆえに、今朝の聖壇・説教壇・朗読壇の典礼色は、主の顕現を表す「白」です。それは神が現われてくださる色です。24日のイブ礼拝、29日の降誕後主日、今日1月5日の顕現主日、そして来週の主の洗礼日、何れも典礼色は白です。神が私たちの前...

復活後第1主日説教 ルカ24:13~35 「共に歩かれるお方」 2013.04.07

《序 エマオでのイエス》  ルカ福音書 24 章『エマオでの復活されたイエス』は、ルカ福音書の中でも特に私の好きな聖書箇所です。まるでカウンセラーのように傾聴される主は、自ら復活のイエスとは決して明かされないで、相手の気付くのを辛抱強く待たれます。それに比べると、ヨハネ福音書 20 章『トマスに自らの釘跡を示す復活されたイエス』は、弟子トマスにご自分の十字架の痕跡に触れて、復活を信じなさいと言われます。二つの主イエスのお姿は、受動的(相手を受け止める)と能動的(相手に働きかける)に、対照的に描かれています。   《2 皮肉に満ちた会話》  今朝の福音は、主イエスが十字架につけられて死んでしまった、その哀しみのうちに意気消沈した二人の弟子が、エマオという村に帰る途上にあります。 イエスこそが、イスラエルを解放してくださる方と信じて、彼らは一心に期待してきました。それなのに主イエスは、三日前ユダヤの指導者たちに、死刑にするため引き渡され、十字架につけられて死んでしまいました。彼らの大きな希望は、膨らんできた風船が突然破裂してしまったように、一気に絶望の淵に落とされました。そして、二人は意気消沈して、エマオという村に向かって、とぼとぼ歩いています。彼らはこれまで主イエスに起きた出来事を、振り返って語っています。すると、復活されたイエスが、その二人に寄り添うように歩まれています。しかし、彼らはその見知らぬ方が、主イエスとはまったく気づきません。   その理由を聖書は語ります、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」二人が復活されたイエスに気がつかないのは、彼らの理解が足りないのではなく、主が二人の目を遮られていたからです。そして、今その閉じている目が開かれます。主イエスは尋ねます、「歩きながら互いに交わしていた話は、何のことですか。」クレオパという名の者が答えます、「エルサレムに滞在しながらあなただけが、この数日間に起きたことを御存じないのですか。」その重大事件を知らないのは、道連れのあなただけだと決めつけます。しかし、実は復活されたイエスこそが、すべてを知っている唯一の方です。彼らはその出来事について、道連れより詳しく知っていると思っています。それでも、主イエスは見知らぬ人として、ひ...