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復活後第五主日礼拝

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 本日は、復活後第五主日礼拝でした。 教会は休業協力要請の「対象外」となっていますが、5月31日までは、みなさまの命を守ることを優先として、中継礼拝・ネットによる配信を行います。 今週は復活説の第五主日礼拝でした。 鹿児島市では自粛解除もあり、礼拝参加者も少しずつですが戻ってきています。 これから、皆様にお会いできる日を楽しみにしています。  [ 5月9日復活後第五主日礼拝週報 ]  [ 5月9日説教文 ]

復活後第四主日礼拝

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 本日は、復活後第4主日礼拝でした。 新型コロナウィルスの影響により、先週同様中継礼拝をして、その様子を動画で後悔することとしました。 新型コロナウィルスの影響で礼拝に参加できない方々の元にも、ご家庭での礼拝ができるようにお祈りしております。  [ 5月2日復活後第4主日礼拝週報 ]  [ 5月2日説教文 ]

復活後第三主日礼拝

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 ルーテル鹿児島教会では、復活祭の礼拝からオンライン中継による礼拝を行なっております。また、関主任牧師による説教や週報も随時皆様に届くようにブログにて発信いたします。  [ 4月25日復活後第三主日礼拝週報 ]  [ 4月25日説教文 ]

今後の礼拝について

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  鹿児島教会の礼拝は、水俣教会の関牧師による中継礼拝でした。 全国で緊急事態が宣言され、全国の教会は休止せざる得ない状況が続いています。 今後、鹿児島教会では、ブログ上で礼拝堂が配信と、礼拝堂では中継礼拝を続けていきます。 情報を今後もブログで発信していきます!

お世話になりました!感謝!

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2016年から4年間にわたり、 鹿児島教会の主任牧師として働いてきました。 神様のたくさんの祝福と恵みをいただきました。 この度、日本福音ルーテル広島教会に転勤となります。 皆様のご協力感謝します。 4月1日からは関満能牧師が主任牧師になります。 みなさんよろしくお願いします。 お世話になりました!神様と皆様に感謝します!

「舌を制御する」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「舌を制御する」 ヤコブ  3:5  どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。 読売ネットニュースで、山陽新幹線博多駅でおきた「男女のけんか」を読みました。新大阪行き「こだま 750 号」での出来事です。車内で男女がケンカをはじめたために出発が 15 分おくれ、計 1300 人に影響がでたというものでした。原因は 60 歳代と 40 歳代で内縁関係にあった 2 人が、駅弁を買うかどうかで口論となり、ケンカが相手を蹴るなどに発展したそうです。鉄道警察員3名が駆け付けて仲裁にはいったのですが、おさまらず 15 分遅れで出発。 2 人は新下関駅で下車したということでした。最初は些細な口ケンカが原因で、次第におおげさになったのでしょう。ただ、この 2 人の心の深い所にある何かを見る思いです。 ヤコブの手紙3章は「教会内の争いについて」がテーマです。初めの部分では、言い争いを生む「舌」が問題とされています。舌を制御できる人は、全身をも制御することができ、神様に完全に従うことが出来るとヤコブは教えています。ところが、舌を制御できないと大変なことになります。舌を制御できない問題は、その人の中心に何があるかだと思います。 三女の4歳の誕生日のときのことです。誕生パーティを盛大に行い?いざ誕生プレゼントになりました。お姉ちゃんたちはこの日のためにいろいろと考えたのでしょう。手作りのプレゼントを持ってきました。タオルでつくった「だんご3兄弟」、古くなったトレーナーをエプロンに作り替えたり、ぬいぐるみをリニューアルしたりと。いつもは喧嘩ばっかりしているのに、やっぱり仲良しなんだなと実感できました。たくさんの物が机に並びました。どれもこれも楽しいものばかりでしたが、三女が本当に喜んだのは、実は1枚の紙切れでした。その紙切れとはお姉ちゃんたち直筆による「表彰状」だったのです。「表彰状。あなたはぶじに4さいになりました。げんきでおたんじょうびをむかえたので、みんなでひょうしょうします。たての家のみんなより」 元気に誕生日を迎えたことを表彰されたとしたら、やっぱり嬉しいものです。いまではそんなに誕生日を特別な日だとは思わなくなりましたが、それでも無事に今年も誕生日を元気に迎える事ができたことは心から感謝すべきことだと言

気ままな休日・送別会はウナギ

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宇土教会の前に、老舗うな専が移転してきました。 食べたいな~と礼拝後にいつもつぶやきました。 すると送別会はうな専で!と。 美味しかった~~~~~~~感謝!

納骨室完成!

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素晴らしい納骨室が完成しました!

明日は黄大衛牧師の最終礼拝!

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説教者:黄 大衛牧師(九州ルーテル学院チャプレン) 引退前の最終礼拝です!!

「朝が待ち遠しい」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「朝が待ち遠しい」  お盆を過ぎると、朝晩が多少涼しくなってきました。とくに朝は気持ちの良い涼しさがあります。こうなってくると、なかなか起きれなくなって困っています。 起きれないといえば、大学生のころの私の最高睡眠時間は、21時間というものがあります。よくもあれだけ寝ることができたなと感心してしまいます。しかし、人間は多く寝ることがいいことではありません。寝過ぎると反対に疲れるものだということも、そのときわかりました。  さて、わが家での一番の早起きは、3女の聖美です。朝がくるのが待ち遠しいのか、とにかく早く起きて遊んでいます。どうしてあんなに早く起きるのは楽しいのだろうかと疑問に思います。私にとっては1分でも寝ているほうが喜びなのですが。しかし、その姿をみていると、神様が今日も新しい命を与えておられることがよくわかります。その新しい命の躍動が伝わってくるような気がします。  大きくなればなるほど、神様からいただく毎日の命をおろそかにするのでしょうか。あたりまえのようにいただけるものですから、感謝もなく過ごしているのかもしれません。今日、私に命があたえられている。この命を大切にし、感謝して過ごさせていただく。そのためには、朝がくるのが待ち遠しいものでしょう。 ああ、もう少し寝ていたい。あと1分でいい。ずるずると寝ているまに、神様の恵みは先へ進んでいってしまいそうです。

「結論から」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「結論から」 マタイ  5:3  心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである 「会議での発言」というエッセイをよみました。会議で発言するときは「思いつき発言をやめる」ということが鉄則のようです。思いつき発言には、思いつき反論がでて、会議が子どもの言い合いになってしまうからです。会議での発言は、論理的に意見を述べることで議論が成立します。論理的発言とは何でしょうか。人は、「背景や経緯から話したい」という意識を持っています。これが議論をややこしくするそうです。結構言い訳がおおいからです。ということで一番大切なことは「結論からのべる」です。会話でも、英語を聞いていると先に結論がきこえてきます。日本語は最後まできかないと結論がわからない仕組みになっています。 イエス様が語られた山上の説教の始めの部分です。マタイによる福音書では、8つの祝福が語られます。その8つとも最初に「幸いである」が繰り返されます。イエス様の語りかけは、最初に「幸いである」「祝福がある」と言われるのです。この最初に「幸いである」と言われていることに注目したいと思います。 祈りについて次のような話しがあります。  「ある幼子が夜寝る前に祈りました。『神様、明日は楽しい遠足です。どうか雨を降らさないでください』。同じ時間、となりの家である農夫が祈りました。『神様、明日こそ雨を降らせてください。このままでは作物が枯れてしまいます』。さて次の日、神様はどちらの祈りを聞かれたのでしょうか」この話しは「祈りとは何か」を学ぶためのたとえ話です。結論は祈りとはそのようなものではないということです。神様は祈りを聞いてくださいますが、それは神様の御心によってであって、祈ったからの結果ではないのです。晴れでも雨でもそれは神様の御心なのであって、そこには神様だけが知っておられる恵みがあるのです。雨のときは雨なりに、神様の恵みとは何かを知る時となるでしょう。 イエス様は、直訳すれば「幸いだ、心の貧しき者たち」と言われています。初めに結論「幸いだ」を言われているのです。神様が「幸いだ」と言って下さる。だから私たちはどんな状況にあっても「幸い」なのです。こうだから、ああだからではなく、まず結論をしっかり持つことが大切です。神様が「幸い」と言

「ひとりよがりは」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「ひとりよがりは」  教会では、毎週30~40通の封筒が送られていきます。礼拝を休まれた方、遠くに住んでおられる方に、週報と「神様の色鉛筆」等を送るためです。遠くはホンコンや東京まで送られています。なんとか、同じ恵みを分かち合っていただきたいとの思いからです。  さて、週報や説教集を読んでくださった方から、よく手紙をいただきます。そのような手紙は、この働きを支えてくださる私たちにとって本当の恵みです。今回、ある方が週報に載せられた私の夏の行事をみて、引退された牧師の手紙を送ってくださいました。その手紙には次ぎのように書かれてありました。  「神様の働きだからといって無理を重ねるひとりよがりは、神様のみこころでないこととおもいませんか」。  まったくそのとおりだと思います。無理を重ねるのはいけません。自分では無理だと思ってない傲慢もいけません。神様の御心を思い知ることができました。 やっと、夏の行事をすべて終えることができました。がむしゃらに走りながら、それでもたくさんの恵みと出会いを感謝いたします。18日から休暇をいただきますが、しっかり休ませていただきます。一人よがりの働きは、家族だけでなく、教会をも疲れさせていくことに気が付かせていただきました。それでも、いまできるうちに・・・。いやいや・・・。休んで考えてみます。

「涙の手紙」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「涙の手紙」 2コリ  2:4  わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした 昨夜ラジオで「ラブレターの書き方」について話していました。今日がバレンタインデーということもあっての企画かもしれません。手紙というものをあまり書かなくなり、ほとんどがメールになってしまいました。手紙もメールも同じような物と思っていましたが、どうも違うようです。文書による連絡か、行間の思いを伝えるかということのようです。しかし、この行間の思いを伝えることは大変難しいものです。だから手紙を書くということが少なくなってきたのかもしれません。ラジオでは、率直に書かないようにして、しかし思いがわかるような文章を目指すとありました。手紙のなかに秘められた力は、人の思いの深さからくるのでしょう。 パウロは、コリントの信徒にむけて5通の手紙を送ったと思われます。その中に「涙の手紙」というものがあります。パウロはコリントに長期滞在の計画を再度たてていました。ところが、なにかの不祥事があってそれを中断し、エフェソに戻っていきました。不祥事が何であったかはわかりません。パウロは再度訪問をするかわりに「涙の手紙」を送ったのだと思われます。 「ポケットピカチュウ」と「てくてくエンジェル」という「万歩計(歩行計)」がありました。この万歩計がいままでのものと違うところは、全体がゲームになっていることです。キャラクターを育てたり、また歩けば歩くほど画面上のキャラクターと仲良しになれるというものです。反対に歩くことを少しでも減らしてしまうと、キャラクターは「努力しないあなたとは、おつきあいできません」なんていう置き手紙を置いて去っていってしまうのです。というわけで、てくてく歩いていました。毎日だいたい3千歩でしょうか。この万歩計をつけだしてやっと5千歩になりました。人間の健康には歩くということが一番いいと聞きます。そいうえば、主イエスも歩いておられます。その距離といえば想像を超えるくらい歩き回っておられるのです。しかし、ただ歩いておられたわけではありませんでした。御言葉をのべつつ歩いておられたのです。それが福音の置手紙となっていま

立野牧師鹿児島最終礼拝!感謝!

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立野牧師最終礼拝が行われました。4月から関満能牧師が着任します。

きままな休日・大分のネギ

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大分の友達からヘルプメール! 形等で出荷できないネギをもらってくださ~い! もちろんです。甘くておいしいネギでした! でもなんでこんなおいしいネギが出荷できないのだろう!!!

新しくなりました!

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礼拝堂が整備されました。 聖なる空間へと! 新しい鹿児島教会のスタートです。

立野牧師最終礼拝!ぜひどうぞ!

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説教者:立野泰博牧師(主任) 立野牧師の最終礼拝になります!

「状況がみえない」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「状況がみえない」  「これは非常識だな」という出来事に出会いました。というのも、家族であるレストランにでかけたときのことでした。あいにく混み合う時間にいきましたので、かなり待っておられる方がおりました。私たちも待つことにしたので、順番の紙に並んで記入しようとしたときです。まだ何人も前の方が書いておられるのに、突然4人の中年女性がずかずかと割り込んできたのです。そして、人の順番を押しのけ係の人に名前を書かせたのでした。  それだけならまだしも、待ち合い所のイスがあくとすぐ割り込んで席を確保し、他の友達を「まだまだだから、ここで座って待ちましょう」と呼んだのです。しかし、そこには私たちだけでなく、子供連れの客が何人もいました。ある子供たちは床に座り込んで、ある人は赤ちゃんをだっこしていたのです。この状況が彼女らに見えないわけはないと思うのですが。おまけに、苦しそうに立っている子供に「このお店は何がおいしいの」と聞いている始末。救いようがないと思いました。  回りの状況が見えなくなる。それは確かにあります。自分ではいっさい気がついてない。いや気がつかなくなっているのです。その内に回りはどんどん疲れていってしまう。この状況がいまや家族の中にも入り込んできています。主イエスは「自分の目にある梁を取りのけなさい」といわれました。

「信じて行く」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「信じて行く」  創世記  12:4  アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。 ナスティン・ホジャの話というのがあります。「ある日、ナスティン・ホジャが友達に大きな鍋をかりに行きました。数週間後、ホジャは鍋を友達に返しにいきました。しかし、その大きな鍋の中には小さな鍋が入ってました。友達は「私が貸したのは大きな鍋一つだけです。小さなものは私のではありません」と言いました。しかしホジャは「いいえこの小さな鍋もあなたのものです。大きな鍋を借りている間に鍋が子供を生んだのです」と答えました。友達は大喜びで2つの鍋を受け取りました。数日後またナジャは同じように大きな鍋を借りにいきました。友達は大喜びで鍋を貸してくれました。また子供が生まれるかもと期待していたのです。ところがナジャは何週間たっても鍋を返してくれません。とうとう数ヶ月が過ぎました。しびれをきらした友達はナジャのところへ怒鳴り込んでいきました。するとナジャは「あの大きな鍋は寿命がつきて死んでしまいました。だからもうこの世にはありません」と答えました。友達は「鍋が死ぬわけがないだろう」と怒鳴りました。しかしナジャは静かに言いました。「あなたは鍋に子供が生まれたことを信じているのに、どうして鍋が死ぬことを信じないのか。生のことのみをしんじて死のことを信じないのはおかしい」と答えました。信じるって何でしょうか。 パウロはローマの信徒への手紙の中で、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と書いています。「アブラハムの信仰が義と認められた」と繰り返されるように、大切なのは「信仰」であり、それを神様が「義」と認めてくださるということです。 大学の先輩に、「信行」という名前の方がおられました。お父様が牧師だったとのことで、「信じて行く」というところが名前の由来だろうと思っていました。ところが名前の由来はそれだけでなく、12月4日に生まれたからなのだそうです。つまり初めての子どもだったので、生まれた月日を創世記にあわせて名付けると決めておられたのだそうです。それでも、神様の導きはすごいと思いました。創世記の中心にピタリとあうよ

鹿児島教会新しくなりました。

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タペストリーが設置され礼拝堂が新しく。21日が祝福式です。

「つらい係」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「つらい係」  長女が、2年生になってはじめての通知表を持って帰ってきました。それを見ながら、人間を評価するのは難しいなあといつも思います。これがすべてではないことを知っているのですが、これがすべての基準となることが恐ろしいと思うのです。  さて、つらつらと眺めていますと、先生からの評価が書いてありました。そこには、「宿題係として、みんなの宿題の調査をよくできました」とありました。それを読んで、私はなるほどと思ったのです。なぜなら、長女が1回も忘れずに宿題をしていたのはこのためかとわかったのです。あれほど毎日宿題にこだわったのもそうかと思いました。調査する係が宿題を忘れるわけにはいかなかったのでしょう。  しかし、つらい係だなあとも同情しました。そして、このような係がいるのかなあとも思いました。同じ友達のことを調査する。しかも、忘れた人を報告しなければならないなんて、つらかっただろうなと思ったのです。  たとえつらい係であっても、正直にこなさなければならないことは、たくさんあります。それは信仰の世界にあっても同じことです。しかし、それはキリストの十字架の上に立つからこそできるものです。いろいろな経験をして大きくなっていくのでしょうが、十字架のゆるしの視点は大切にしておきたいものです。

「バイブル・手本」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「バイブル・手本」 1 テモテ  1:16 わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。 電車の広告などで「~のバイブル」という表現をみます。「ダイエットのバイブル」「綺麗になるバイブル」「安心して生きるバイブル」などです。この「~バイブル」と言う表現をみるたびに、人々はこれをどのように受け取っているのか。理解しているのかと思います。ネット辞書では、バイブルとはまず「聖書」とかいてあります。そのあと「転じて、ある特定の分野において権威ある書物のこと」「常に傍らに置く事から転じて、座右の書や愛読書のこと」皮肉として「ある特定の分野において優れすぎて誰も実行できない最良の実践を記述した書物のこと」とありました。その他「各種マニュアル本やコンピュータゲームの攻略本の書題にバイブルが冠されることがある」そうです。聖書「バイブル」は、神様の言葉です。その基本からもう一度、言葉の意味を考えてみたいと思います。  パウロは、若い弟子テモテに自分がうけた憐れみについて教えています。このパウロは、イエス様とその弟子たちを迫害していた者でした。パウロは「イエス様の限りない忍耐」を知ったといいます。ダマスコ途上で復活のイエス様と出会い、み言葉を受け、自分の生き方を根本から見直しました。そして自分がキリスト者の「手本となる」ことを決断したのです。その中心には福音(神様のみ言葉)がありました。 毎朝の日課として、まず起きるとすぐ教会の扉を開けにいきます。その後、礼拝堂にて記念日ノートを眺めます。今日の日はどんな日なのか、誰の記念日なのかを知り祈るためです。毎朝のことですが、この教会が果たしてきた役割の大きさを実感するときでもあります。教会の扉を開けておくと、いろいろなことに出会います。また、ある時は迷い込んでくるものもあります。先週の日曜日にはスズメが舞い込んでいたそうです。一度教会の玄関に入ってしまうと、出ることが難しいのでしょう。教会の扉を開けておくというのは、神様との出会いを体験することでもあります。毎日私の知らないうちに教会にきて祈る方がいます。神様はいつでもオープンだから、教会もいつでもオープン

気ままな休日・葦北コロッケ

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もう何度もコロッケのことはお知らせしました! しかし、もう一回! 笑顔と共にコロッケを!美味しんです! 美味しい顔ってこんな顔!

鹿児島教会かわります!

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どんどん聖なる空間へ創り上げられていきます。 すでに変わっています。ぜひお越しください!

礼拝は明日!

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説教者:立野泰博牧師(主任) 新しくなった聖堂へどうぞ!

「メイクベターとメイクニュー」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「メイクベターとメイクニュー」  先週広島で、ある企業のパーティに出席する機会があたえられました。初めての経験でしたので、ワクワクいたしました。しかし、始まってみると、入り口にて会長さんと社長さんが立って挨拶されただけで、あとはプログラムなしという不思議なものでした。想像していたのは、挨拶があって乾杯があってスピーチがあってというものでしたから、何にもなくただ食べて自由に解散するというパーティが新しく感じたのです。  さて、本当にただ食べて話しているだけなのかを観察してみると、ほとんどが名刺交換であるとわかりました。つまりは「新しい出会いの場を設定」してあることに気が付きました。このようなパーティでお客さんが喜ぶのは何かということから考えだされたものだったのでしょう。  お客さんが帰られたあとの、社員だけの打ち上げパーティにも出てみました。するとそこでは、挨拶、訓示、乾杯、など予定通りの進行でした。訓示の中で会長さんが次のようにいわれました。  「初めてパーティにかかわった人は《メイクベター》、すでに経験している人は《メイクニュー》をお願いしたい」と言われました。お客さんに次ぎにはもっと喜んでいただけるものと、新しい感覚で喜ばれるものを作り出せということでした。教会の宣教にかけているものを見た思いです。

「自分を愛するのは」

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 鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分を愛するのは」   ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。   イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳( 1955 年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。   最近 FM ラジオを聞いています。先週は NHK/FM から永六輔さんの声がきこえてきました。何人かの方々との対談でした。その中で自分たちがやっていたテレビ番組と現在の番組の違いを話しておられ、心に残った言葉はつぎのようなものです。「バラエティ番組なのだけれど、昔の番組は『笑わせる番組』だった。いまのは『笑われる番組』になってしまった」と。この2つはとても違うなと思いました。「笑わせる番組」を作るのは大変なことでしょう。視聴者の感覚を捕らえ、構成し、よく考えて作らねばならないからです。一方「笑われる番組」を作るのはどうでしょうか。誰かタレントをつれてきて、笑われればいいのです。そう考えると、いまのバラエティ番組が何をやっているか少し理解できました。タレントに変なことをさせて笑いをとっている。親たちがみて下品なことでも笑われればいいのかな、と思ってしまいます。サーカスにいたピエロとも違うのです。ピエロは笑われているようで、じつは笑わせていたということに気がつきました。神は私たちを「愛する」お方であって、「愛される」ために何でもされる方ではないのです。愛されようとして、「人間の思いのまま」に動かれるお

「言葉はいろいろあるけれど」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「言葉はいろいろあるけれど」  香港・澳門の旅から無事に帰ってきました。とても体力を使う旅で、体重がなんと2キロも減ってしまいました。それだけ動いた?のでなく、いま澳門の気候は、なんと気温30℃湿度90%でした。一日中がスチームサウナのような気候なのです。  さて、今回の恵はなんといっても「女子パウロ会」のシスターたちと出会ったことでしょう。4人のシスターがアパートの1室を修道院にして生活しておられました。それぞれ、ブラジル、ポルトガル、アメリカ、日本の方々です。その明るいこと、共通語はスペイン語だそうです。中華料理のテーブルを囲みまながら宣教について、生活について、政治について(中国へ返還後のこと)、などなどそれはもう言葉が入り乱れておりました。英語で質問したら、スペイン語で答え、それに広東語がつづき、ポルトガル語が意見を述べる。それに日本語で質問をすると、北京語が帰ってくる。ところが、それが自然にわかるのです。通訳してくださったこともあるのですが、それ以上に、「キリストにある一致」がそれを理解させてくださることがよくわかりました。  ブラジルのシスターが、「パスターのところには難民はいますか」と聞かれました。「いません」と答えながら、ほんとにそうだろうかと考え込んでしまいました。いないのではなく、いないようにしているのかも・・・と。

「自分を愛するのは」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分を愛するのは」   ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。   イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳( 1955 年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。   最近 FM ラジオを聞いています。先週は NHK/FM から永六輔さんの声がきこえてきました。何人かの方々との対談でした。その中で自分たちがやっていたテレビ番組と現在の番組の違いを話しておられ、心に残った言葉はつぎのようなものです。「バラエティ番組なのだけれど、昔の番組は『笑わせる番組』だった。いまのは『笑われる番組』になってしまった」と。この2つはとても違うなと思いました。「笑わせる番組」を作るのは大変なことでしょう。視聴者の感覚を捕らえ、構成し、よく考えて作らねばならないからです。一方「笑われる番組」を作るのはどうでしょうか。誰かタレントをつれてきて、笑われればいいのです。そう考えると、いまのバラエティ番組が何をやっているか少し理解できました。タレントに変なことをさせて笑いをとっている。親たちがみて下品なことでも笑われればいいのかな、と思ってしまいます。サーカスにいたピエロとも違うのです。ピエロは笑われているようで、じつは笑わせていたということに気がつきました。神は私たちを「愛する」お方であって、「愛される」ために何でもされる方ではないのです。愛されようとして、「人間の思いのまま」に動かれるお方ではな

きままな休日・カルビステーキとオムライスで、、、

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洋食亭人気メニュー カルビステーキとオムライスで1200円 安くないですか~これにサラダとスープが! 超満足です!

礼拝堂が新たに

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十字架の背後にタペストリーを掛けました! これは試験中の様子。実際は身に来てください!

明日は礼拝

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説教者:中村朝美牧師(宮崎教会) 新しくなった聖堂へどうぞ!

「説教の中にある対話」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「説教の中にある対話」  ビジネス能力研究会という所から「1分間能力開発」という本がでています。この手の本は、数をあげればキリがないほど出版されています。ということで、1冊くらい読んでみようと買ってみました。いくつか興味深いところもあり(といっても変なところにですが)、その中でも私にとって恵みだったのは、次ぎの文に出会ったことです。  「一方的にしゃべる人の話を正確に理解するのは難しい」。おもわず「ん~」とうなってしまいました。なぜなら、説教というのは一方的に話すことだからです。それでは、説教は正確には伝わらないのでしょうか。もちろん、牧師によって様々ですが、分かりやすい説教と分かりにくい説教があります。後者の方は、15分~20分の話を一方的に聞くものにはいるのでしょう。  しかし、分かりやすい説教といわれるものがあります。単に話が面白いとか、たとえが興味あるとかではなく、主の御言葉が素直に伝わってくる説教があるのです。それはどうしてかを考えてみました。結論として分かったことは、説教の中に対話があるかどうかです。たとえ一方的に聞く説教であったとしても、その中で御言葉と自分との対話がなされたとき、感謝して受け取る御言葉となるのです。ある神学者は「説教とは牧師と信徒の共同の黙想(メデテーション)である」といいました。対話があること。これは理解することの第一歩です。

「チームとして」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「チームとして」 ルカ3:5 山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎみる。 あるスポーツのコーチから聞いた話です。「個人技が優れている選手が多いチームが勝つとは限らない。一時は勝利するかもしれないが、勝ち続けることはできない。チームには調和が大切。個人技が優れている選手も、そうでない選手も自分の役割を知り、全体が一つの目標に向かう時に強いのですよ」と。 洗礼者ヨハネが用いたイザヤ書の預言です。イエス様がこられると、平均化される?という意味のように聞こえてきます。でこぼこは平に。曲がったものはまっすぐに。神様は私たちと世界を平等にみてくださるという意味でしょうか。しかし私たちには能力の違いや個性があるのですが。 島根県六日市は7月が蛍の季節です。若い頃、六日市礼拝のお手伝いをさせていただきました。牧師になって10年を過ごした礼拝に、そこの人々の変わらない信仰に癒されるひとときでした。そして蛍。毎年楽しみにしていたこと。家族全員で見に行ったこと。幻想的な雰囲気の中で神様の恵みを感じたことを思い出します。蛍というのは不思議なものを感じさせてくれます。蛍はばらばらに光ることはありません。かならず同じリズムで光るのです。目が暗闇になれるまでその全体はわかりません。静かにじっと待っているとその数が増してきて、いつのまにか山中が蛍になっていくのです。 先ほどの洗礼者ヨハネの言葉を読んでみました。私たちは神様から賜物を頂いています。それを用いて生きていく役割を与えられています。その役割を知って、この教会のチームで働くときにすばらしい働きができるともいます。個人技にすぐれている人も、そうでない人も、役割をきちんと踏まえ調和をたもちつつ今日も神様から与えられた働きに励みましょう。

「自然の恵みを受ける」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「自然の恵みを受ける」  「自然の恵み」というと、食べ物だけのように聞こえます。しかし、本当の恵みとは、その自然そのものではないでしょうか。  先週関西から、2人の牧師たちが遊びにきてくれました。徳山といえば食べるものもおいしいし、ちょっと行けば海と山のどちらにもいけます。いろいろと案内しながら、あらためて、自然に囲まれていることに気がつきました。あらためてというのもおかしいのですが、その中に暮らしていると、いつのまにかその恵みを忘れてしまいます。教会から見える森が、駐車場になってはじめて、森の存在を意識するというおかしなことがおこるのです。  いま、六日市は「ホタル」の季節です。今年もまたホタルの乱舞を見ることができました。2人の牧師たちにホタルを案内したとき、「こんなに心が豊かになれたのは久しぶりだ」と言われました。自然の恵みとは食べ物だけでなく、心にもっとも深く与えられるものだと思います。  私たちはなにげなく、この自然の中で生活をしています。しかし、その恵みに気がつくということは、神様に出会うということだと言えます。与えられている自然を破壊していくのが人間だとしたら、ますます神様から遠くなっていく罪人になるのでしょう。まだ、自然の恵みを受けることができる今だからこそ、その恵みに感謝し、神様の存在へと目を向けたいものです。

「絶望から希望をみる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「絶望から希望をみる」  ルカ 23:43 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる 大学生の時フィリピンにいきました。スモーキーマウンテンというゴミの山のスラムにホームステイしました。しかし、そこのクリスチャンたちは決して希望を見失っていませんでした。『絶望までいってしまうと、もうそれ以下はないから、あとは希望しかみえないものだよ。絶望のなかでも希望を見ることができる。十字架の上でもキリストは罪人を救われたのだから』この言葉をフィリピンのクリスチャンから聞いてもう30年。そのとおりだと告白することができるようになりました。  本日は、イエス様の十字架上での言葉です。ある意味では、絶体絶命のピンチの時でもあります。ゴルゴタの丘には3本の十字架が立てられました。一人は最後までイエス様を罵っています。イエス様をはじめ二人の強盗にとっては、死を直前にひかえた最後の時でもあります。ジタバタしてもはじまらないのです。  ところがこの箇所はそのような暗い感じはありません。どこかに希望の光りがみえてくるのです。なぜなら、最後の最後で一人の強盗は信仰を告白して救われているからです。しかも、イエス様といっしょに楽園にいるとまでいわれています。確かに死ぬ。しかし、死んでも終りではなく、イエス様を信じているならば、今日、しかもイエス様とともに楽園にいると言われているのです。 カール・バルトの言葉に、「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」というのがあります。この言葉は今年の私の目標です。最後までいってしまうと、神様になってしまいます。しょせん私たちは人間なのですから、神様にはなれません。しかし、だからといっていいかげんには生きていけません。最後から一歩手前というところが大切なのです。

きままな休日・ハンバーグカレー

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なんとシンプルな! 洋食亭のハンバーグカレー このカレーが玉ねぎ60%でおいしい。 ハンバーグからは肉汁が。。。。

納骨室完成!

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プレートの設置をいたします。 これで完成!

明日は礼拝です。

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説教者:関満能牧師(水俣教会) 新しくなった聖堂へどうぞ!