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復活後第1主日説教 ルカ24:13~35 「共に歩かれるお方」 2013.04.07

《序 エマオでのイエス》  ルカ福音書 24 章『エマオでの復活されたイエス』は、ルカ福音書の中でも特に私の好きな聖書箇所です。まるでカウンセラーのように傾聴される主は、自ら復活のイエスとは決して明かされないで、相手の気付くのを辛抱強く待たれます。それに比べると、ヨハネ福音書 20 章『トマスに自らの釘跡を示す復活されたイエス』は、弟子トマスにご自分の十字架の痕跡に触れて、復活を信じなさいと言われます。二つの主イエスのお姿は、受動的(相手を受け止める)と能動的(相手に働きかける)に、対照的に描かれています。   《2 皮肉に満ちた会話》  今朝の福音は、主イエスが十字架につけられて死んでしまった、その哀しみのうちに意気消沈した二人の弟子が、エマオという村に帰る途上にあります。 イエスこそが、イスラエルを解放してくださる方と信じて、彼らは一心に期待してきました。それなのに主イエスは、三日前ユダヤの指導者たちに、死刑にするため引き渡され、十字架につけられて死んでしまいました。彼らの大きな希望は、膨らんできた風船が突然破裂してしまったように、一気に絶望の淵に落とされました。そして、二人は意気消沈して、エマオという村に向かって、とぼとぼ歩いています。彼らはこれまで主イエスに起きた出来事を、振り返って語っています。すると、復活されたイエスが、その二人に寄り添うように歩まれています。しかし、彼らはその見知らぬ方が、主イエスとはまったく気づきません。   その理由を聖書は語ります、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」二人が復活されたイエスに気がつかないのは、彼らの理解が足りないのではなく、主が二人の目を遮られていたからです。そして、今その閉じている目が開かれます。主イエスは尋ねます、「歩きながら互いに交わしていた話は、何のことですか。」クレオパという名の者が答えます、「エルサレムに滞在しながらあなただけが、この数日間に起きたことを御存じないのですか。」その重大事件を知らないのは、道連れのあなただけだと決めつけます。しかし、実は復活されたイエスこそが、すべてを知っている唯一の方です。彼らはその出来事について、道連れより詳しく知っていると思っています。それでも、主イエスは見知らぬ人として、ひたすら聞き役に徹し