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8月, 2018の投稿を表示しています

土曜日は礼拝です

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明日の礼拝 説教:関 満能 牧師(水俣教会) どなたでも 待ちしています。

「神様のクレヨン」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「神様のクレヨン」    来年の一月に出版準備中の拙著は、「神様のクレヨン」と名付けられました。長女・華美がその名付け親です。初めはなんだか変だなと思いましたが、段々とすきになってきました。五年ごとに出版していくとして、引退までに七冊を出版できる予定です。そこで、第一冊目は表紙を赤にすることにしました。虹色のはじめです。すべてがそろったとき虹ができるようにと期待しています。    さて、神様の道具箱には、数えきれないくらいのクレヨンがあります。いろいろな色が並んでいます。その人その人を大切にして、その人だけに合う色で人生を飾って下さいます。いまは暗い色かもしれませんが、また時がくれば明るい暖かい色になる時がきます。人生の最後には皆虹色に輝くのです。    今年はどんな色だったでしょうか。今宵はクリスマス。クリスマスの色はたった一本のローソクの色です。暖かい色です。キリストがそばにいてくださるだけで暖かくなるのです。

「つながる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「つながる」 ヨハネ   15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。 ある時、他教派の牧師が訪ねてくださり、びっくりするようなニュースを教えてくれました。そのニュースとは「先生の書かれた『神様のクレヨン』を古本屋で見つけましたよ」というものです。本当にびっくりしました。  古本屋に出回るようになったのか、と感慨深いものがあります。見に行きたいという衝動もありますし、いったい値段はいくらかなと心配でもあります。たかが1冊の本ですが、私にとっては子どものようなものです。いまそれぞれの本はどのようになっているのでしょうか。家の中のどんなところに置かれているのでしょうか。そして、その本を通してどんな人生が送られているのでしょうか。そのように考えると祈らずにはおれません。なにかつながっているという感じがあるのです。  今日のみ言葉は、イエス様が十字架の出来事前に語られた決別説教のみ言葉です。ぶどうの木と枝のたとえ話から、十字架という緊迫した出来事の中で何が大切かを教えておられます。イエス様は、木に枝が結びつくように、イエス様と弟子たちの関係で重要なことは「つながる」ことだと言われました。木はイエス様で、枝は弟子たち・私たちを意味しています。そのつながりの中に神様の命も知ることができます。  東日本大震災救援活動報告を全国各地の集会に呼ばれておこなっています。九州では、多くの方が参加してくださいます。緊急救援からの1年間をとくにはなしております。私たちの緊急救援は各教会・女性会で、わかめプロジェクトにはじまりました。雑巾、おすそ分け、思い出写真洗いと活動が広がりました。被災地とつながった活動ができたという感想をいただきました。講演後の質問の多くは「これからは何をしたらいいでしょうか。どんな支援が必要でしょうか」というものです。全国の皆さんが被災地の方々とつながっていたいという気持ちを感じました。「まず、祈ってください」と答えました。ルーテル教会としての課題は、救援活動がどのようにつながっていくかだと思います。そのために秋刀魚やあぶり焼きいわしがやってきます。  イエス様は「 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言わ

「みんなが主役」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「みんなが主役」    幼稚園の演劇会で楽しい話をききました。    今年の出し物は「ぐりとぐら」でした。ある子供が家に帰ってきてお母さんの言いました。「お母さん、僕『ぐり』の役になったよ」と。お母さんは大喜びでした。なんたって主役ですから。それでおじいちゃんやおばあちゃんはもちろん、親戚の皆に声をかけ当日の晴れ姿を見て欲しいと招待されたそうです。    さて当日のこと。大勢の親戚の見守る中、劇が始まりました。幕があき自分の子供はどこに出てくるか緊張してまっていました。ところが舞台には幼稚園の全園児が立っていたのです。そしてよくみると、半分は「ぐり」半分は「ぐら」だったのです。つまりみんな主役だったのです。    この話を聞いて笑い転げました。しかし、クリスマスも同じだと思いました。クリスマスの主役は誰でしょうか。主イエスはもちろん、私たち一人一人もキリストによって救われる主役なのです。あなたが主役。私もp主役。全員主役です。

「清楚感」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「清楚感」 マタイ  2:11  家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 秋になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。   かあさんいない落葉がとんでいくばかり  この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。もうひとつ。 秋の空やわらなそうな雲の城  青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。  秋はとても清楚な気持ちになります。これはどこからくるのでしょうか。きっと神様が造ってくださった自然が秋の「清楚」なものを持っており、夏の激しさからの安心を与えてくれているのかもしれません。私たちはこの清楚の中にある清潔感が好きなのかもしれません。  クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。  あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。  「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事

気ままな休日・アメリカンなステーキ

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アメリカLAに行ってきました。 「あなたのためのステーキだ」と焼いてくださいました。 超アメリカンなステーキ!最高でした!

プロセッション用十字架

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鹿児島教会に新しい聖具が! プロセッション用の十字架です。 ぜひ見に来てください。

明日は礼拝

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明日の礼拝 説教:立野泰博牧師(大江教会) どなたでも 待ちしています。

「新しいイエス像」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「新しいイエス像」    とっさの出来事に出会うと、日頃言ってきたこととは反対のことをしてしまいます。普段は優しく「形ある物は壊れる」と言っていても、実際に大切なものが壊れた時には怒りがこみ上げてくるものです。    先週は娘たちがイエス像に石をなげて壊してしまいました。ちょうど留守をしていたのですが、それを聞いたときは怒りがこみ上げてきました。せっかく大切にしてきたのにという思いと、イエス像にむかって石を投げるとはもってのほかだとカッときたのです。外から帰るといつも礼拝堂で祈ることにしていますので、心を鎮めようと祈っていました。すると娘たちがやってきました。祈りを終えて振り返ったとき、長女・華美が泣きそうな顔をして立っていました。いつもならすぐに叱るのですが、祈りのあとだったので、神様がちょっとまてと言われたように感じました。なぜだか優しく「どうして石を投げたの」と聞けたのです。すると、「トカゲがいて、それがイエス様の方へ行こうとしてたので石を投げた。それが間違ってあたってしまった」のだそうです。それで泣きそうな顔をしていたのです。    故意にやったことではない。きっとイエス様への思いがあだになってしまったのでしょう。それを知って悔い改めたのだと思います。なんだかそれで充分だと思いました。新しいイエス像を買って設置すればすむことです。ということでいま新しいイエス像が微笑んでおられます。

「光を迎える」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「光を迎える」  ヨハネ  1:4-5  言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。 中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。  ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。 クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第 22 番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が 270 度のときでだいたい 12 月 22 日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ 4 世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。 イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらし

「てをつなぐ」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「てをつなぐ」    子供って平和だな~と思いました。というのも、先週の小児祝福式でのことでした。左から、華美、愛美、夢子、薫ちゃんの順で並んでいました。聖壇の上で子供と向き合いお祈りを始めたところ、愛美と夢子ちゃんが手をつないで立っていました。その姿がいまでも忘れられません。    最近誰かと手をつなぐことは、子供以外にはありません。しかし手をつなぐことは、安心感を与えてくれます。教会でもある教派では手をつないでお祈りをします。たまにどこかの集会などで手をつないでお祈りすることになると、なにか違和感があります。自然とした動作の中で手をつなぐことは、とても難しいことかもしれません。    愛美と夢子ちゃんの自然の動作を見たとき、何か清らかなものを感じました。それがどんな清らかさかといえば、表現するのに困ってしまいますが、ここに神様がおられるという清らかさでした。

「定められています」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「定められています」 ルカ  2:34  シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。  イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。  動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。  イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオン

きままな休日・夏のぜんざい

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夏にぜんざい!暑くない? いやいあや、クーラーがしっかり効いて さらにいいですよ。あんこ大好きです!

集会室の今後

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築50年となったナオミホームの 改築計画です。さてどうなりますか! 皆さんの祈りが必要です。よろしくお願いします。 宣教する教会へ変貌をいたしますよ!
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明日の礼拝説教は 崔 大凡牧師(ルーテル学院中高チャプレン)

「お祈り記念日」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「お祈り記念日」    十一月十日は、次女にとって「記念日」となりました。どんな記念日かといえば、初めて「自分の祈り」をした日なのです。    我が家では食前の祈りを、子どもたち一人一人がします。まだ小さかったこともありますが、長女はいつも「神様。今日も一日守って下さい。お食事をイエスの名によって感謝して、アーメン」と祈ってました。次女もいつのまにか祈るようになりましたが、言葉がわかりませんでした。    さて、十日のことでした。夜の食事になり愛美から祈りはじめました。するとはっきりわかるように「神様。今日も一日守ってください。おねえちゃんが元気で幼稚園にいけますように。お食事をアーメン」と、自分の言葉で祈ったのです。実はその日は、長女が風邪をひき幼稚園を休んでいたのです。幼子というのはこれだから神様の祝福をうけるのだなと悟りました。    自分の言葉で自分の心を祈ること。まさしく「お祈り記念日」にふさわしい日となりました。

「約束を信じる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「約束を信じる」 ルカ 1:45  主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。 この時期になると、サンタクロースはいるかということが話題になります。クリスマスの 1 日で世界中の子供たちにプレゼントを配るとしたら、 1 人の子供に要する時間は果てしなく瞬間にちかいという計算をした人もいます。つまり瞬間移動しているから人間の目には見えないというのです。私はサンタクロースがいるかいないかを議論してもしょうがないと思っています。目をつぶってサンタクロースを思い浮かべることができれば、それは存在するという教えの方がロマンチックでいいと思います。つまりその存在を信じる者だけに存在するものがあるのです。  イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。 教会から30年も離れておられた信徒の葬儀をさせていただいたことがあります。生前にお会いすることはできませんでした。昭和33年に教会で、目が不自由だった石松量蔵牧師より洗礼を受け、神戸ルーテル聖書学校で学び、実家の仕事をされていました。その後何かの事情で教会から離れ、30年後に「葬儀は教会で」という本人の願いで、再び教会へ帰って来られました。ルーテルアワーで教会を知り、石松牧師から「信じる者、愛する者は幸せである」と説かれ、兄は少し意地悪な質問をされました。「あなたは目が見えないのに幸せなのですか」と。すると石松牧師は「私は目が見えないおかげで外見に惑わされる事がありません。私はお互いの心と心で相手を見る事ができます」と答えられたそうです。その言葉に深い感銘を受け、聖書を学び洗礼を受けられたというのです。葬儀のとき、兄の聖書をみせていただきました。赤線がびっしり引いてあり、兄をとらえた聖書の言葉がわりました。聖書には三つの言葉が記されてありました。「謙遜」「わたしたちは、すべてにまさって、神を恐れ、神を愛し、

「出会いの存在」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「出会いの存在」    マカオに住んでいる信友(親友)が、水晶を送ってくれました。気功の本を読んでいて、水晶のことがよく書かれてあるので少し興味を持っていたところでした。そのうちに電話でもして送ってもらおうと考えていたら突然届いたのでした。なんでも聞いてみると、「たぶん水晶を送ってくれというだろうから、一年前に買ってあったんだよ」といわれました。    自分のことをよく知っている人の存在は、恐ろしくもあり、安心もします。何を考え、何をしようとしているのか、良くわかってくれている存在。その存在は適切なアドバイスをくれる存在です、また助けてくれる存在でもあります。    私と彼との出会いについて考えるとき、キリストがその間におられたことは実感できます。たった一年間の神学校での出会いでしたが、そのころよく信仰について語り合ったことを覚えています。真剣にキリストについて語り合った中だからこそ、その後も真剣に向き合う存在となれたのだと思います。

「つながってここにいる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「つながってここにいる」 ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。  ある会議の合間に、幼稚園の園長もしておられる牧師が教えてくださいました。「今日は幼稚園で一日を過ごしました。そこでお誕生日会があり、私はずっと一人の3歳児の手を握っていました。自閉症で多動なのだけど、手をつないでいるとおとなしくして会に参加できるのですよ」と。素敵な話だなと聞いていました。手をつないでいることで、子どもと牧師の間にどんなことがおこっているのでしょうか。「ここに一緒にいようね。ここにいてもいいよ。いることを確かめようね」という会話が聞こえてきました。 ここに共にいてつながっていようね。イエス様もここにおられるよというメッセージが手をつなぐことで伝わっているのだと思います。 ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。それはきっと素晴らしいものです。   世の中には相乗効果といわれるものがあります。その相乗効果という話題で、アメリカでのドイツ車大流行の話をききました。新聞・ニュースでは日本車の売上が伸びているのは事実ですが、ここにきてドイツ車に人気が集まっているというのです。その理由は、新しいタイプのフォルクスワーゲンが発売されたのです。むかし「かぶと虫」と言われていたあの車です。このデザインがかわいいので、みんなが競ってドイツ車の販売店におしかけたのです。しかし、売り切れ。しかたなく他の車でも見て帰ろうか・・が、ほうドイツ車って良いじゃんとなり、他のドイツ車がどんどん売れているのだそうです。宣教の方法もこの相乗効果を考えました。教会へつながるということは

気ままな休日・あずまそば

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1玉、2玉、3玉みな同じ値段。 それでは3玉でしょ!いやいやそんなに食べれませんです。

教会集会室は雨漏り

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いよいよ雨漏り被害がほっておけなくなりました。 さて、安全策を考えてさっそくやりますよ! お祈りください!

明日の礼拝

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明日の礼拝は 立野泰博牧師(大江教会) 夏の召天者記念礼拝です。

明日から

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「信仰の歴史」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「信仰の歴史」    いよいよ、「記念室」が完成しました。場所は聖壇の裏、教会の外の倉庫です。いままではガラクタが入っていましたが、今回は赤い絨毯を敷き詰めてあります。一度ぜひご覧ください。    さて、ここに何が入っているか。基本的には徳山教会の歴史・記念となるものを納めたいと考えています。たとえば、帰天者の写真、使用されなくなった聖書・讃美歌・式文、教籍簿、旧会堂の備品、いまは使われない聖餐道具と洗礼盤、お預かりしてある結婚指輪のケース、今までの週報、総会資料、建築設計書等々。    教会は信仰の歴史の上に成り立っています。ぼろぼろになった聖書を記念室に納める時、受け継がれてきた信仰の重さを感じました。これから皆でこの信仰の歩みの継承を覚えたいものです。    記念室の鍵は牧師が持っています。いつでもそこでお祈りください。  

「共にいることの介入」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「共にいることの介入」 マタイ 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。 ある時、総会資料の牧師報告を読まれた一人の姉妹がすぐに電話をくださいました。「先生のお考えがあったら失礼ですが、イエス様の御言葉に間違いがあると思います」と。さっそく読んでみて冷や汗がでました。たしかに間違っていました。「悔い改めて、福音を信じない」と印刷されているではありませんか。自分では「悔い改めて福音を信じなさい」と書いたつもりでした。「さ」が入るのと、入らないのとでは全く意味が違います。最近こういったキーの打ち間違えの多さに自分でも困っています。この前は「教会総会」を「教会疎開」としてしまいました。一字の違い、一言の違いと簡単にすめばいいのですが、そうはいかないこともあります。「何が食べたいですか?」と言われたとき、「ラーメンでいいです」という返事と、「ラーメンがいいです」という返事ではかなり違います。「何でもいいです」というのが一番困りますが。 イエス様は「聖書の一点、一画もくずされることはない」と言われています。神様の御言葉はたった点のひとつでも大切な言葉です。おろそかにできません。そのような御言葉を私たちも頂いています。 本日与えられている聖書のみ言葉、イエス様の系図です。はじめて聖書を読む人の前に立ちはだかるのがこのマタイによる福音書「系図」です。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまるので、多くの人はここに戸惑いをもちます。ただし、この系図もよく読むと、興味深いことに出会います。女性がマリアを入れて4名だけ出てくるとか、バテシバの名前はなく、「ウリヤの妻」となっているとか。神様のまえに罪を悔改めた人々の系図でもあります。どこを切っても神様が共におられるという系図になっています。 その中でも、本日の箇所はかなり面白いところです。クリスマスの出来事が書いてあるのですが、どうみても系図としてはなりたっていないのです。イエス様の系図となっていますが、もともとこれはマリアの夫ヨセフの系図です。イエス様はおとめマリアから生まれますので、つながりはあいません。ところが、いつのまにかそこに神様が介入され、イエス様がこの系図に入ったことになってい

「祈りは対話」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「祈りは対話」    とってもきのユダヤジョークをおひとつ。    お祈り    母親「ママたちは、今夜お客様で忙しいけど、ベットに入る前に、ちゃんとお祈りしなくちゃいけませんよ」    娘「はい、ママ」    翌朝のこと。    母親「昨日の夜は、ちゃんとお祈りした?」    娘「ええ、ママ。ひざまついて、いつものようにお祈りしようとしたんだけれど、その時ね、神様はいつもと同じお祈りに飽き飽きしちゃってるじゃないかしらってひらめいたの。それでベットに入ってから、神様に『三匹の子豚』のお話しをしてあげたの」      実はこの話、お祈りの本質を伝えているかもしれません。お祈りの本質はやっぱり対話だとおもうのですが。

「旅は神様がすべて用意されている」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「旅は神様がすべて用意されている」 マタイ   10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。 クリスマスの出来事の中に「旅」というテーマがいくつか散りばめられています。一つは受胎告知を受けたマリアは親類のエリサベトを訪問する旅があります。また人口調査のためにベツレヘムへの旅。そしてエジプトへ逃避の旅です。この3つの旅の中にも「神様が共におられる」ということが繰り返し語られます。私たちの人生は旅にたとえられます。自分から進んでいく旅もありますが、人生の旅は困難な旅の方が多いかもしれません。そのようなときにこそ「神様が共におられる」ことを実感することが旅の目的かもしれないと思います。 イエス様は12弟子を選ばれたあと、彼らを宣教へと派遣されました。彼らを派遣するにあたり具体的な行動と忠告を与えておられます。基本的には、「宣教の旅には何も持って行くな」ということです。神様がすべて用意してくださっているということもあります。弟子たちは行く先々で人々を教え、病気をいやし、神様の平安があるようにと祈れと言われたのです。しかも送り出す方向も指示しておられます。 インドの笑い話に次のようなものがあります。   旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。  「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」  「そうだな、三・四十分というところだな」  「そうですか。ところで、すみませんが、   わたしもこの牛車に乗せてもらえませんか」  「いいとも。乗りなされ」  それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。  「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」  「そうだな、一時間くらいかな」  旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。  すると 牛車のおじさんは言いました。    「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」  進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。 イエス様は「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。旅する時に持たなければならないものは多くはありません。目的と時間だけ

タイ若竹寮支援継続中です

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ぜひ!よろしくお願いします。

夏の召天者記念の祈り

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  8月12日の礼拝で 召天者記念の祈りをいたします。 どうぞお越しください。

夏の礼拝へどうぞ

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4日礼拝 説教者:関 満能牧師(水俣教会)

「何かをしないという愛情」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「何かをしないという愛情」    西教区の教職退修会が行われました。牧師たちが集まり、いままで与えられた課題について話し合いがなされました。    現在の牧師たちの課題とは何だと思いますか。宣教の具体的方法についてだと思われますか。いいえそうではありません。課題としてあげられているのは、「子供とともなる礼拝式」「信徒説教者の問題」「死と葬儀」「平和・人権・正義」です。その中でも、あれも課題、これも課題、それも課題と課題をたくさんだしあった会でした。    このような会にでて思うことは、自分は思考方の牧師ではないなということです。すぐ考えもせず行動する牧師だと思うのです。こんなに多くの課題を、これからあれもこれもしていくのでしょうか。もっと大切な「たった一つのこと」がないだろうかと思うのです。牧師として「これのみ」を探したいと願っています。    休憩時間に本を読んでいますと次のようなことが書いてありました。「これからの親は『何かをする』とかに対してではなく、むしろ『何かをしない』という愛情のために心のエルルギーを使うべきである」。なるほど、なるほどと思いながら、何もしないでいることができないのが牧師です。いや、なにも議論しないではいられないのが・・・。

「みえている案内人」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「みえている案内人」 マタイ   23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。 大型タンカーの船長だった人から聞いた話です。大型タンカーは航行中にすぐに止まれない。完全に停止するまでには3時間以上かかる。港に入っていくとき、これを計算しなければならない。また湾に入ったときには必ず水先案内人が必要となる。この案内人は3時間先にどうなるかを計算しながら状況を把握し、さらにすべての舟の位置をチェックしている。大きな流れは止められないこと、止めるためには前もっての準備と知識を必要とする。案内人には、すべての命がかかっているのだからと。 イエス様は、律法学者とファリサイ派の「偽善」に対して激しく非難しておられます。長い言葉からなる批判ですが、大きくは3つに分けられます。1、ユダヤ教指導者の偽善への批判。2、7項目の不幸の宣言。3、キリスト教迫害の実態。本日の言葉はその「不幸」とされた1つです。ぶよは小さくても律法では汚れた動物とされています。これがぶどう酒に入らないように注意深く濾過しているのに、大きくてラクダ(これも汚れた動物)を呑み込ませている。そんなことをする案内人は不幸だと言われるのです。案内しなければならない人がその道がみえていない。これでは案内はできません。イエス様は案内人の条件として「見えている」をあげられています。この「見えている」は人生において最も大切なことだと言えます。 山道を通る道で大変な時があります。それは、濃霧がでたときです。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうことがあります。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。足元を見る時に見えてくるものもあります。その足元の灯りとしてのみ言葉があります。 イエス様は「ものの見えない案内人」という言葉で、真実の救いへと導