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7月, 2018の投稿を表示しています

「木の温もり」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「木の温もり」    益田教会を訪問しますと、必ず翌日は「美都温泉」に行くことにしています。ここの温泉はとても素晴らしく、露天風呂も大きいし、リラックスにはもってこいです。また、温泉にある食堂も誠実なお店で、ある老牧師の言葉を借りれば「嘘がない」店です。    その温泉には、桧をくり貫いた湯おけと椅子があります。それがとても気に入ってしまいました。受付の人に聞けば、美都町で作られているとのこと。さっそくそこへ出掛けてみることにしたのです。するとそのお店にはたくさんの木の道具がありました。そのすべてが木をくり貫いて作られていたのです。    桧、杉、樫の木、桑の木、樅の木、桜の木、柿の木、銀杏の木と。すべての木でお椀がつくられ、その種類に驚きました。しかもその工芸品はすべて廃材を使ってあるとのことでした。    木には温もりがあります。いま食卓にはいろいろな種類の木のお椀が並んでいます。家族はみな違う種類の木の腕を使っています。なんだか食卓に温もりがあります。    イエス様も大工として、木と付き合っておられたのかなと思いつつ、感謝して食事をしています。

「それはただの石かも」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「 それはただの石かも 」 ルカ   12:54 あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。  ある教会のバザーに、黒い丸いものが出品されました。しかし、それが何であるか誰もわかりませんでした。みんなで、こうじゃないか、ああじゃないかと意見をのべていました。ある人は置物だといい、ある人は何かの蓋でないかと。すると一人の子供がやってきて、その黒いものを取り上げ、「黒い石だ」といったのです。あるがままにみていると、まさしくそれは石でした。ただし何に使うかはいまでもわかりません。バザーって何が出てくるかわからいものです。  イエス様は群衆にむかって一つの問いかけをされました。群衆は、イエス様のみ言葉を聞き、奇跡の業を見てきました。それがあるということは、神様の国が到来しているということです。しかし、それを群衆は見分けることができませんでした。自然現象は見分けることができるのにと言われたのです。「実際そのとおりになる」という言葉から、「なぜ」という問いかけが浮かび上がってきます。わたしたちは見分ける目を持たねばならないのですが、それが一番難しいといえます。イエス様のみ言葉を基準にしなければできないことです。 道元が宗の国に留学して、如浄から禅を学んで帰ってきました。京都深草に興聖寺を建て修行に励んでいると、近所の人が集まってきます。その人たちは、「和尚さんは宗の国で大変よいことを学んで来られたそうですが、私たちにもその奥義を知らせてください」と頼みました。すると道元は「只眼横鼻直なるを知るのみ」と答えたそうです。分かり易くいえば、「いや別に新しいことはない。ただ眼は横に並んでおり、鼻は縦についているということだけだよ」と。ようするに「あるがまま」ということでしょうか。でもこの「あるがまま」ほど難しいものはありません。 よく「あるがままにみる」という言葉を聞きます。たしかに「あるがまま」にみることは大切なことですが、これがとても難しいものです。ある本には以下のように書いてあります。「人は誰しも、自分は客観的だと考え、自分こそ世界をあるがままに見ていると思っている。そして、ほとんどの場合、他人は枝葉末節に埋もれており、自分だけは大所高所から状況を把

夏期聖書学校・阿蘇

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九州教区の夏期聖書学校です。 涼しい阿蘇で聖書を学びませんか?

大きな木をどうするか?

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クリスマスツリーをうえたのが50年前 こんなに成長してしまいました。建物に悪影響があるというので どうするかな~という居間です。

アメリカの牧師がやってくる

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28日礼拝 説教者:Joseph Tallent牧師(アメリカ福音教会) アメリカからゲストを迎えます! 日本語翻訳付きです。

「お客さん信者が」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「お客さん信者が」    地区の牧師会で、「一つの礼拝が成立するには、約二十種類の奉仕がある。その全部を言えないようでは信者として失格だな」と引退された牧師が言われました。私自身は言えるかと冷や汗ものでした。しかも続けて「その二十種類のうち五つ以上に関わっていなければ、キリスト教をやめたほうがよい」とまで言われました。    礼拝での奉仕についてどのくらい知っているでしょうか。そしてどのくらい関わっているでしょうか。私たちの教会では、奉仕するもしないもその人の信仰の問題だと言ってきました。ですから「しましょう」と言ったことはありません。むしろ自分がやればそれでよいと言う考えだったのです。その方が楽なのです。ところがそれでは、皆さんを神様から遠ざけていることに気がつかされました。    「お客さん信者の多い教会は絶対成長しない」との言葉の重さを感じます。それではどうあるべきか、牧師として悔い改めを迫られています。  

「神のみ言葉は隠れない」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「神のみ言葉は隠れない」 マルコ  4 : 21  隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。 P.F. ドラッカーの本に、ギリシャ時代のことが書かれてありました。フェイディアスという彫刻家がいました。かれはパルテノン神殿の彫刻を任された長でした。無事にその仕事を完成させアテネの会計官に請求書をだしました。すると、アテネの会計官は支払いを拒んだのです。「誰にも見えない彫刻の背中の部分まで彫って、請求してくるとはなにごとだ」というのです。するとフェイディアスは次のように答えたのです。「そんなことはない。神々が見ている」と。 今日はイエス様の有名なたとえの一つです。神様の目には、隠されているもので表にでてこないものはないということでしょう。灯は神様の言葉と同じ意味を持っていますので、み言葉はかならず表にでてくるというたとえでもあります。私たちの信仰生活で、神様の目から隠れることもできないし、隠すことのできないのがあります。それはみ言葉です。このみ言葉に照らされながら私たちは生きています。そして、このみ言葉こそが我が足の灯です。だからこそ隠れることも、隠されることもありません。 「サンタクロ-スがすねちゃった」という傑作絵本があります。子供達にとって、サンタクロ-スはクリスマスの楽しみです。この絵本では二人の大人が、「もうごぞんじですか、サンタクロ-スなんていないんですよ」といったことから始まります。そしてなんと次の日の新聞のトップニュ-スが「サンタクロ-スはいない」と書いたから大変です。それを読んだ世界中のサンタクロ-スがすねちゃった。世界サンタ会議まで開いて、今年は何も配らないということになってしまいました。残りはどうぞ絵本で読んでください。私はこの本が大好きです。なぜならこの本の最後にサンタクロ-スがこう言うのです。「目をつぶって見てごらん。サンタクロ-スの姿が見えてきたでしょう。見えるものはちゃんといるんだよね」。あなたはどうですか。目をつぶってみてイエス様が見えますか。見えるお方はいまあなたと共におられるのです。 イエス様は「 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公になら

夏休みの宿題は?

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ぜひご参加ください!

「食尽きたり」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「食尽きたり」    ある禅宗のお坊さんの手記を読んでいて、心にガツンとくるものがありました。    お布施稼ぎが本当の生き方ではないと悟ったお坊さんがおりました。寺を飛び出したものの、物乞いをするわけにもいかず、さして普通の商売をするほどの俗物でもないお坊さんだったのです。そこでこのお坊さんは考えました。誰かにわらじの作り方を聞いて、毎日わらじを作っては人のよく通るところに置きました。そして「このわらじお代は心持ち次第」と書いて、竹筒をそこに置いたのです。こうして夕方になると竹筒のお金をとり生活していたのでした。    ところがあるとき、悪たれ小僧が竹筒の中のお金をとり、そのあとに馬糞をいっぱいにつめておいたのです。そうとはしらずこのお坊さんはいつものように夕方お金を取りに行きました。しかし、開けてみるとお金ではなく馬糞がいっぱいだったのです。さてそのお坊さんはどうしたのでしょうか。いたずらとは考えず、「我が食尽きたり」と観念し、何も食べないで座禅したまま死んでしまったそうです。    牧師として、信仰者としてガツンとやられました。信仰は食物を得る方法ではなく、自分の本質が生きる生き方だと思います。もし、食物が神様から与えられなかったら、食わずに死ぬという覚悟が大切なのです。神様の道のために生命を全うしなければなりませんが、神様の道のために食えなければ餓死するまでのことなのです。  

「確実な一歩を」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「確実な一歩を」 詩編 17:5 あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます。 禅の逸話に次のようなものがあります。ある高僧が弟子を連れて庭を歩いていました。風が吹いて落葉が一枚落ちてきました。その高僧は落葉を拾って袂(たもと)に入れました。弟子は「老僧、やめてください。落葉はのちほど、誰かに掃かせますから」とたしなめました。すると高僧は「馬鹿者!『のちほど』で庭が綺麗になるか。いま1枚拾えば、その分だけ庭が綺麗になったのだ」と弟子を叱りつけた。私たちは目の前に与えられている課題を「のちほど」「あとで」と考えることがあります。この考えを持つと、その仕事はできなくなってしまいます。目の前にあるものから、まず片付けていくことで仕事を完成することができます。この心がけが今の季節に大切なことです。 今日読みました詩篇は、裁判に臨む無実の人の祈りと理解されています。詩篇が書かれた時代は、夜の間に裁判が行われ、翌朝に判決が言い渡されていたようです。詩人は神様の正義が公平に行われるように祈っています。そして与えられた信仰によって、目の前の「一歩」を確実に進むことを望んでいます。神様にあって正しいとされる目の前の「一歩」を進むことを忘れてはいけないと訴えています。これも自分の心を神様の前で点検することでもあります。 「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。 教会の時は、まず悔い改める一歩を踏み出す時です。詩編の作者は「 あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます」と祈りました。 私たちに与えられたこの時期の働きも、後回しにせず目の前のことから確実におわらせていくことです。今年も終

ゴスペルワークショップ

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熊本でゴスペルのワークショップ もしご興味があればどうぞ!

明るくなりました

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教会正面の木を伐採してくださいました。 すっきりしてきました。夏ですもんね。

明日は礼拝ですよ!

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21日礼拝 説教者:立野泰博牧師(大江・鹿児島教会)

「暗闇の中で」

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クレヨン牧師のミニエッセイ   「暗闇の中で」    旅行すると、いろいろな発見ができて楽しいものです。今回もまた自動車で東京へいってまいりました。今年はワゴン車になったものですから、とても快適に走ることができました。足を伸ばして寝ていけるということはとても楽です。    さて、今年もまたちょっと足を伸ばして信州へいってきました。その宿泊先でのできごとです。夜中、真っ暗ににして親子四人が並んで寝ていました。寝る前はきちんと並んで寝るのですが、寝ている内に大移動が始まります。あちらこちらと動き回るのです。夜中におきて子供達はどこか探すこともあるくらいです。    今回もそんな夜中のことでした。あちこちに散らばって寝ているとき、次女・愛美が突然すくっと起きたのです。暗闇の中で不安を感じたのでしょうか、ひとこと叫びました。「お父さんはどこ?」。この言葉に嬉しさとある種の感動までありました。単なる親バカなのですが、暗闇の中で「お父さん」と呼ばれることがいかに嬉しいことかを実感したのです。    イエス様は神様を「お父さん」と呼ぶようにいわれます。人生の暗闇の中で「お父さん」と神様に呼びかける。神様が聞かれないはずはありません。「ここだよ」ときっと答えてくださいます。

「悔改めは本気で」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「悔改めは本気で」 マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」 ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。 聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。 坂村真民さんの詩に「本気」というものがあります。  本気になると  世界が変わってくる  自分が変わってくる  変わってこなかったら  まだ本気になってない証拠だ  本気な恋  本気な仕事  ああ  人間一度  こいつを  つかまんことには  悔い改めとは本気になって方向を変えることだと思います。  聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせ

「信仰ブレーキ」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「信仰ブレーキ」    この7月は神様に豊かに用いられました。とくに自動車には大変な思いをさせました。一ヶ月で三千キロあまりを走破したことになります。よく無事で帰って来れたと思うこともしばしばありました。これもみな神様の守りあってこそです。いま整備を終えた自動車をみると頭が下がる思いです。    さて、今月の経験で一番に思い出すのは、百キロで飛ばしている高速道路で、ブレーキがロックされて効かなくなったことです。電気系統のベルトが切れてそれがどこかにあたったのか、とにかく践んでも効かなかったのです。半分あせりながら、半分やけに落ちついていました。「このまま死んでは神様に申し訳ない」と祈りながら真剣に考えてみますと、やけに冷静に対処できました。こんなわたしでもまだまだ神様に用いられたいと願ったのです。    しかし、ブレーキが効かないことがこんなにも恐ろしいとは、初めての経験でした。私たちの人生においても、キリスト信仰というある種のブレーキが必要だと実感しています。突っ走るだけが神様の御心ではないのです。

「悔改めて待つ」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「悔改めて待つ」 マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」 教会の暦は、アドベント(待降節)真っ最中です。教会の典礼色も「紫」となり、悔い改めと主の苦しみを覚える季節になりました。この季節に求められていることは「キリストの来臨を待つ」ということです。この待つということには2つの意味があります。「誰を」待つか「どうやって」待つかです。 聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。 ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。 聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っています。自分の心の道を整え、真っ直ぐにイエス様のみ言葉にむかうことです。

きままな休日・またもチキン南蛮

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無性に食べたくって まあそれなりなんですが!!!

納骨堂を整備しました

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礼拝でお待ちしています

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14日礼拝 説教者:立野泰博牧師(大江・鹿児島教会)

「自分の語ることを自分で聞く」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「自分の語ることを自分で聞く」    牧師として説教壇に立つたびに、心の中にある子供の声が聞こえてきます。それはいつもこう語りかけてくるのです。「先生は自分の話を自分で聞いて面白いと思う?」。この言葉を忘れることはできません。まだ神学生だった時、教会学校の生徒に言われた言葉なのです。しかし、感謝して忘れることができない言葉なのです。    自分が語ることを会衆になって聞いてみるとき、福音として聞けるかどうか。自分の話は自分にとって福音かと問うてみるのです。これは私の説教の原点です。自分で聞いていやになる話は、人が聞いたらもっといやになるはずです。それは説教だけの問題ではありません。親子の間、友人との間でもおこることです。娘にぐちぐちと怒っている自分が、もし反対だったらと思うとゾッとします。たぶん「もうわかったからやめて」というかもしれません。    「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と主イエスは言われます。隣人を自分と見ることができるか。それは大きな問いでもあります。  

「座ってみて」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「座ってみて」 ルカ  14 : 28  あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。 本日の聖書をみてみましょう。テーマは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。 幼稚園生活は大変だなとおもいます。先生たちにとっては、とてもやりがいのある神様の仕事だと感じておられることでしょう。こどもたちのケンカの仲裁、生活の指導。いっしょに楽しんで、ある時はいっしょに悲しんで、またある時はいっしょに泥団子をつくる。先生たちの働きに、ただただ感謝してみています。私が幼稚園のチャプレンだったとき一番楽しんだことは、いっしょにお弁当をたべることです。これもまたどこへ座るかでいつも大騒ぎになります。お祈りの歌をうたって、お祈りして食べる。毎日のお弁当をいただくことによって、子供たちは愛をいただいているのです。座ったときにその愛は伝わっています。子供たちはいつも真剣に食べているのですから。青山俊董尼はある講演で次のようにいわれました。「ただ着せればよい、ただ食べさせればよいというものではありません。愛を着せ、愛を食べさせ

「午後六時の公園」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「午後六時の公園」    午後六時に、団地の公園に行くことが多くなりました。なぜ行くのかといえば、大げさにいえば「教会の宣教の確認」です。教会の鐘が鳴り響きはじめのころ、一日もはやく地域の人から愛される鐘になればいいなと思っていました。どのように人々の生活に溶け込んでいくのか、それも楽しみの一つでした。    最近午後六時の公園では、あちこちにお母さんの声がします。「鐘がなったから家へ帰りなさい」「お外の遊びは教会の鐘までといったでしょう」「いつまであそんでいるの、もう鐘がなったでしょう」等々。    神様は、私たちの知らないうちに時計として、また子供との関わりの中に鐘の音を響かせてくださっていたのです。朝、昼、夕の鐘の音。明日はどんな人たちの心に届くのか。考えるだけでも幸せになります。

「聞くという奉仕」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「聞くという奉仕」 ルカ  10 : 42  必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。 「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。 イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。 次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。 イエス様の前に立つ時の、思い悩

きままな休日・サラたまちゃん

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熊本芦北名物のサラたまちゃんです。 規格外だとこんなに安い。 辛みがなくそのまま食べれますよ!

変わりつつあります

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鹿児島教会が変わりつつあります。 礼拝が10名を超えるようになりました。 教会の復興へ向けて

礼拝へづぞ

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7日(土)の礼拝 説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)

「次はこれです」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「次はこれです」    一つ一つの祈りに神様が応えてくださり、教会が整備されてきました。教会塔からは今日も鐘の音が響き、拡げられた聖壇は祈りに満たされ、集会室は毎日のように近隣の方々が使用されています。神様の御心の深さには、いつもビックリしています。神様が用意してくださったものには、決して無駄なものはありません。必ず求められて活動が広がっていくとの確信もあたえられました。    さて、与えられるままに、またまた教会でやりたいことがでてきました。「えっ!今度は何」といわれそうですが、「記念室」を作ろうと思います。教籍簿、使用されなくなった聖餐道具、洗礼盤、召天者の写真、結婚式の指輪ケース、過去の週報、いままで使用してきて古くなった聖書・讃美歌・式文などなど。教会の記念となるものを保存する所を作りたいのです。    もうすでに場所はあります。教会聖壇裏の倉庫です。近い内にここを清掃し、きちんとした部屋にします。楽しみにしてください。    神様からいただいた恵を覚えたいと思います。

「上に立つ御言葉の権威」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「上に立つ御言葉の権威」 ローマ13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。   ニュースで「こんな上司はいやだ」というアンケートをしていました。それによると、1位・気分によって言うことが変わる。2位・責任をとらない。3位・自分の間違いを認めない。4位・接する相手によって態度が変わる。5位・飲み会ばかりする、とありました。上に立つ者の果たすべき役割の自覚を思います。 パウロは「上に立つ権威に従うべき」と言いました。この言葉はこれまでも間違って受け取られてきました。「上に立つ」ということの理解です。しかしここでパウロがいっていることは「上に立つ人」に従えとは言っていません。上に立つ人はその人の置かれた立場、役割、何によって立っているのか(これが権威です)を十分に自覚しなければなりません。教会でも役についている者は、神様の業を果たすために、神様によってこの役職をいただいています。   街の清掃キャンペーン集会で代表が言われました。「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」。とても納得して聞きました。この集会は、街からゴミをなくそうという運動集会でした。ゴミをなくすにはゴミを捨てる人が少なくなればいいのですから、「ゴミを捨てないようにしましょう」でいいのです。しかしあえて「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」と言われたことに感銘をうけました。いままで何回も「ゴミを捨てるな」という言葉を聞いてきました。そのように実践もしてきました。しかし、捨てるなではなく「拾おう」というところに発送を転換させたのです。ゴミを拾う人は捨てないのであれば、拾う人を増やせばいいのです。また拾うという行為に、みな善いことをしているという実感と喜びも生まれてきます。「捨てるな」という否定よりも、「より積極的に拾いましょう」のほうがいいのです。言葉も伝え方次第で違うものです。人を動かすには権威をもって命令した方が早いかもしれません。そこには共感は生まれないし、言われたときだけということになります。イエス様の言葉は、権威ある新しい教えではあっても、命令ではありません。  パウロは「 人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と教えています。上に立つ権威とは神様のみ言葉

「編集も楽しい」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「編集も楽しい」    地区聖書日課を読んでいますと、学ぶことがいっぱいあります。この牧師はこのように聖書を読んでおられるのか、この信徒の生き方はここに原点があるのだなとか。生活の場から聖書をみる視点というものを感じます。    さて、逆に編集とは難しいなという思いもあります。筆者の書かれた文章にどれだけ手を入れてよいのやら、失敗も多いものです。必ず筆者に確かめることにしています。もちろん、差別表現、不快語などは訂正させていただきますが、この文章をこうすればもっと分かり易いのにと思うことが度々あるのです。    最近の失敗は、執筆者へのお願いに、「簡単平易な文章を・・小学生から読んでいます」とお願いしておきながら忘れてしまったのです。それは、わざわざひらがなで書いてあるのに、漢字にしてしまったのです。その漢字は小学生では習わないものでした。    誰が読んでもわかる言葉で・・・それは神様の御言葉なのですね。

「今日を生きること」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「今日を生きること」 マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。 本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。 「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。 イエス様は「 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。 今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直

休日クレヨン・長崎でちゃんぽん

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長崎でちゃんぽん 長崎でちゃんぽん 長崎でちゃんぽん あ~それそれ!