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6月, 2018の投稿を表示しています

十字架の見える教会

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枝を落としました。 これで十字架が見えます。

礼拝です

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30日の礼拝 説教:安達均宣教師(アメリカ福音ルーテル教会)

「少しのばして・恵」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「少しのばして・恵」    依頼を受けて、下関教会の結婚式奉仕に行ってまいりました。場所が変わればハプニングがあるもので、式が始まって結婚指輪が聖卓にないことに気がつきました。すぐに信徒のかたに合図を送り、探していただきました。そうこうしているうちに、説教壇にメモが届けられました。そこには「指輪はまだ披露宴会場にあります。すぐに来ます。少し説教をのばしてください」と書かれてありました。    突然のことなので、いつもは十分で終わる説教を二十分かけてゆっくり話しました。もう冷や汗がでました。しかし、自分が話したものをその場で確認しながら、自分でも聞くという作業に恵まれました。    そこで、聞いた自分が語る御言葉は「人生にはいろいろなことがあります。苦しいこと、悲しいことにぶつかります。突然起こってくる災難もあります。しかし、神様はきっと導いてくださり、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それを信じてください」でした。そう語り終えたとき指輪が届きました。神様に感謝。

「単ではなく」

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 鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「単ではなく」 エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。 パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。 パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよってキリストの体となり一つになりましょう。

「祈りの礼拝堂を持っている」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「祈りの礼拝堂を持っている」    祈りの礼拝堂を持っている教会は、どんなに恵まれているのか。これがある教会に訪問しての感想でした。ある教会では建築構造の事情によって、会員の葬儀ができない教会もあると聞きます。    私たちには、この素晴らしい礼拝堂が与えられています。これは大変な恵です。そのことに気づかされるのは、他教会を訪問すればよくわかります。今年「聖壇」を広げたことにより、心から祈りたくなる礼拝堂になりました。このような礼拝堂を持っている教会は多くはありません。私たちの教会は本当に教会らしい教会なのです。    どうか、この礼拝堂を大切にしてください。祈りで満たしてください。そして、この礼拝堂から一週間を初めて下さい。教会の礼拝堂は信仰を与えられる場であり、福音を受け取る場でもあります。そこから出て、そこへ帰ってくる場でもあります。元気がでないとき、礼拝堂で祈ってください。そこでは聖霊の力によって回復される何かと出会うはずです。

「身でわかる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「身でわかる」 ルカ 6:44 木は、それぞれ結ぶ実によってわかる  ネット朝日に、次のような記事がありました。 名古屋市交通局は、市バスの男性運転士が、同市でバスを運行中に、乗客を置いたままバスを乗り捨てたと発表した。バスには乗客8人がいたが、25分後に代行バスに乗り換えるなどした。交通局によると、運転士は、地下鉄高畑駅のバス停を出発する予定だったが、発車直前に乗客から病院への行き方を尋ねられ、発車が1~2分遅れた。車内の別の客から「早く行け」などと遅れをとがめられ、運転士は憤慨、一つ目のバス停を約400メートル過ぎた所で突然停車し、バスを乗り捨てた。運転士は約1時間後に歩いて営業所に戻ったという。運転士は交通局の調べに、「注意され、怒ってしまった。バスを放置してしまい、大変無責任なことをした」と反省しているという。こんな記事でした。 これを読んでみて、何かおかしいなと感じました。何がおかしいのか。それは運転士さんだけが無責任なのではないと思います。彼は親切に病院の行き方を教えていたのでしょう。その状況がわかっていながら「早く行け」といった乗客の言葉にもおかしさを感じるのです。どちらにも心の余裕が必要と思いました。 ルカ福音書でも有名な「平地の説教」の中にある、み言葉です。「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」といわれているように、神様から与えられた賜物によって、どんな実をつけるかが大切です。しかし、実をつけるのは私たち自身です。人はその人の実しか結ぶことができないのです。良い人に良い実が。ただ、考えておかないといけないことは、なにを持って「良い」とするかです。 道元禅師の言葉に「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」というのがあります。霧の中を歩いていると知らない内に衣服が湿ってきて重くなるということです。濡れるともなく濡れるということでしょうか。人間の生き方も同じで、知らず知らずに、ということが多いと言われているみたいです。ところが、少し考えを変えてみました。人生は知らず知らずのうちに身に付くものがあるというのなら、美しいもの、楽しいもの、感動するものの中をたえず歩こう。知らず知らずのうちにそれらを持つことになる。生きるのが苦しいとか、仕事が大変だと思ってばかりだと背中が重くなってくる

休日クレヨン・天草崎津の「海月」握りずし

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天草崎津「海月」の握りずし 今年世界遺産になる予定の教会のそばになります。 これから観光客で一杯だろうな~ その前に食べておこう!

礼拝へどうぞ

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本日は主日礼拝です。 説教者:関 満能牧師(水俣教会)

アースキャラバン2018

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「静かに・・・」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「静かに・・・」    若手牧師の家族が来て下さり、楽しいときをすごしました。今年は六日市に蛍を見に行くことが目的で集まったのです。一度でいいから蛍のクリスマスツリーを見て欲しかったのです。    私はこの季節の六日市が大好きです。なぜなら、帰りに「寄り道」ができるからです。今の季節ですと、橋の上が絶好の場所です。清流のせせらぎ、かじかの鳴き声に、蛍の舞という贅沢なひとときを送ることができます。    この贅沢を娘たちや牧師仲間の家族にもということで、みんなで六日市にでかけたのです。ところが、子供たちは「かじかってどれ~」「かじかの鳴き声ってどこ」「お~いかじか出てこい」と騒ぐしまつです。肝心のかじかも鳴くのをやめてしまいました。    「神様はいったいどこだ。声なんか聞こえない。神様でてこい」と心の中で思っているうちは、きっと神様の声は聞こえないのでしょう。落ちついて静かに心をこめて聞くことが祈りのポイントかもしれません。

「聞くだけではなく」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「聞くだけではなく」 ヤコブ   1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。 聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。 北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。   落葉焚けばおもしろ、   櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。   萱(かや)の葉はちょろちょろ、   松の葉はぱちぱち。  なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。 ヤコブは「 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。 たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。

「気を気にしてない」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「気を気にしてない」    なんでも気功がブームだそうです。牧師たちの中にも気功を研究しておられる方もいます。私もちょっと本を買ってきて読んでみました。すると、これは奥が深いということだけはわかりました。なにせ中国三千年の歴史から生まれてきたものですから。    さて、その本によれば、私たちは様々な「気」に囲まれていることがわかります。「眠気」「気分」「元気」「殺気」「景気」「勇気」「気丈」「天気」「病気」「雰囲気」「活気」「気力」「英気」「鋭気」「精気」「生気」「邪気」「気体」「気合い」などなど。こんなに「気」に囲まれているのに、一向に気にしていないのです。    いろいろな牧師が、「聖霊」と「気」は同じであるといっています。私はそう簡単に言えないような「気」がします。どちらにせよ、それらを私たちが感じなくなっていることが問題だと思います。聖霊を受ける。それは聖霊を感じることでもあるのです。なんだか「呑気」なものですね。

「捨てて信仰を拾う」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「捨てて信仰を拾う」 ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。 九州学院の高校 3 年も大学進学を目指して追い込みと言ったところでしょうか。自分も大学進学のために、東京へ旅立った日のことをおもいだします。神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから 30 年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。  私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」でした。捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火 徴税人レビ(使徒マタイ)の召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。イエス様のこの一言を待っていたのです。彼も悩み苦しみの中で、イエス様との出会いを待っていました。 良寛さんというお坊さんがいます。大好きなお坊さんです。その良寛さんの逸話話に「拾うことの楽しさ」というのがあります。良寛さんは人々がお金を拾ったら大喜びするのが不思議でたまりませんでした。良寛さんにとってお金は何をおいても大切なものではなかったのでしょう、それで、良寛さんは自分もやってみることにしました。自分のお金を捨てて拾ってみます。全然楽しくない。ところが、投げ方が悪く草むらに入ってしまった。必死に探して見つかったときの喜びがわかったという話です。良寛らしい話だと思います。 本日の聖書では「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」

休日クレヨン・お好み焼き食べ放題

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たま~~~に食べたくなる関西風お好み焼き。 熊本にある「道頓堀」で食べ放題してきました。 お店の「いらっしゃいませ~ぽんぽっぽん」は好きです。

礼拝は今日です!

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本日は主日礼拝です。 説教者:立野泰博牧師(大江教会)

熊本でルターの勉強会

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「信仰けちんぼう」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「信仰けちんぼう」    イソップの物語に「けちんぼう」というのがあります。    「けちんぼうの人が持ち物をすっかり金と取り替えて、その塊を手に入れました。そして、壁の下に埋めておいて、始終やってきてはながめていました。近所に住んでいる一人の職人が、けちんぼうが行ったり来たりしているのに目をつけて、本当のことを見抜き、けちんぼうが行ってしまってから、金の塊をとっていきました。けちんぼうがやってきてみると、そこがからっぽになっているので、髪をかきむしって泣いていました。こうしてけちんぼうがひどく悲しんでいるのをみて、そのわけを聞いた人がいいました。    『悲しみなさるな。石をひろってきて同じところへお埋めなさい。金が埋まっていると思えばいいでしょう。金があったときでも、あなたは使わずにいたのだから』使わなければ、どんないいものを持っていても、なんにもなりません」。    「金」と「信仰」とを取り替えて読んでもドキッとします。

「自分の視点だけでなく」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「自分の視点だけでなく」 フィリピ  2 : 4  めいめい自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 「イソップ物語」の中に次ぎのような話を見つけました。  「農夫の畑に、木が一本ありましたが、くだものがならず、やかましいスズメやセミの休み場になっていました。農夫はくだもののならない木だから切ってしまおうと思いました。そこでおのを持ってきて一度切りつけました。セミとスズメは、自分たちの休み場を切ってしまわないで、いままでどおりそこで歌をうたわせて下さいとたのみました。ところが農夫はそれにはかまわず、二度三度と切りつけました。ところが、その木はうつろになっていて、ミツバチのむれとハチミツが見つかりました。農夫はハチミツをなめて、おのを放りだして、その木を神木におまつりしてだいじにしました。人間というものは、生まれつき正しいことを大事にして敬うよりも、利益を求めるものです」。私たちは「身勝手な存在」かもしれません。自分を考え、利益に従って変わる弱い存在かもしれません。しかし、それでも神様は導いてくださるのです。 パウロはまず2章のはじめに「へりくだる心」を持つことを薦めています。また、キリストによる励まし、交わり、あわれみの心が与えられていると告げています。そのことはキリストの十字架の出来事として確認できるというのです。キリストの十字架を思いながら、自分たちの生き方を点検するように勧めています。すべてはキリストがどうされたかを考えることです。  ある本で次の言葉をよみました。「人間の見方ほどあてにならないものはない。多くの人間は自分を中心にしてそこからすべての物事をみるものだ」と。つまり、その視点が正しいかどうかは問題にしていないというのです。本質は違っていても、自分の視点こそが正しいものとしていると。具体的なたとえも書いてありました。かわいいぬいぐるみを持った一人の女の子がいます。彼女はそれを誰にも触らせてくれませんし、まして貸してもくれません。多くの人は「なんてわがままな女の子だろうか」と思います。しかし、その子の母が昨晩天に召されて、そのぬいぐるみはお母さんが大切にしていたものだということがわかったとき、人はその女の子を「わがまま」とは思わない。すべては、自

「またきてね」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「またきてね」    出掛けることが多くなってきました。これは嬉しいことです。神様が御用のために使ってくださることだからです。    さて、愛美(1歳半)が言葉を少しずつ覚えてきました。その中で、これは誰にでもわかるという言葉があります。それは「またきてね」です。私が出掛けようとすると、どこからともなくやってきて「またきてね」と言われてしまいます。なんだかおかしいのですが、「またきてね」と言われると嬉しくもあります。    礼拝堂の聖壇が広がり、ああこれが教会の中心なんだとわかるようになりました。この中心では聖餐式が行われ、聖徒の交わりがおこり、祝福を受けます。神様と私たちの間に出会いがあります。ここにくれば神様に全てを委ねることができます。その聖卓にはキリストがおられるのです。    「わたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」という主の御言葉を聞きます。そして同時に「またきてね」という御言葉も聞こえてくるのです。

「もう一人いる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「もう一人いる」 ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。ある時、結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言っていますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。 マリアの受胎告知の場面で、天使ガブリエルはもう一人の存在を告げます。聖霊によって身ごもることのお告げにマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言いました。それに対して親類のエリサベトも同じように聖霊によって身ごもっていると言うのです。同じ境遇のものがもう一人いる。これは神様がマリアにされた大きな配慮かもしれません。バプテスマのヨハネの誕生と存在は、この出来事を支える影の力だと言えます。 PTA会長をしていた時、耳の不自由な子がいました。挨拶運動で毎朝挨拶しても返事もなく、通り過ぎていくだけでした。あとで彼女の事情を知りました。転校生だったので征服も違うし、かばんも違いました。いつも一人ぼっちだなと思っていたのです。しかし、その子には一人だけ友達がいました。その子がいたので毎日学校へ来ることができたし、元気に卒業していきました。そのたったひとりの友達が、次女でした。 共に歩んでくれる人がいる。これは大きな恵みです。クリスマスのメッセージで「インマヌエ

休日クレヨン・教会ロコモコ

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長崎教会の中高生キャンプでの一品 なんとロコモコ!みんな喜びました。 なんだか全部のせって感じでしたか。美味しかったです。

礼拝です。

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本日は主日礼拝です。 説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)

鹿児島へ大江教会がやってくる

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「神様が近づいてくる」

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クレヨン牧師のミニエッセイ   「神様が近づいてくる」    私たちの念願だった「聖壇拡張」が、祈りに支えられていよいよ今週工事に入ります。こんなにはやく実現するとは思いませんでした。徳山に遣わされて5年目、ひとつひとつ願いが聞き届けられました。そしてついに礼拝のたびごとに思っていた、「この聖壇があと1 m 広ければ」の思いが神様に聞き届けられました。    毎週お配りしている「げつようび」にも書きましたが、なぜ聖壇を広げたいのかといえば、この教会の中心をそこにおきたいからです。ルターは教会を考えるとき、教会の核心となるところは「聖徒の交わり」であるといいました。そこでは「福音の説教が行われ、聖礼典がおこなわれる」と。教会はいつもここから出発しないとならないし、ここへ帰ってくるのです。そして、私たちは聖餐においてその力を得るのです。    私たちの教会の中心はどこか。それは聖卓を囲みキリストを中心とする、聖徒の交わり

「捨てる・拾う」

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 鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「捨てる・拾う」 ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。 「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。 「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。 徴税人レビの召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。 山頭火という俳人の句に「秋風の石を拾う」というのがあります。山頭火は、財産を捨て、家をすて、故郷を捨て、家族を捨てて放浪の旅をしながら悟りの境地に近づいていく俳人でした。しかし、捨てても、捨てても煩悩はすてきれずに苦しんでいたようです。そんな中でふと「石を拾う」ということに何かを見出したのです。この石というのはただの石ころのことです。人間は捨ててばかりでは生きていけない、拾うということでバランスをとっているのではないかなと思います。大切なことは「すべてを捨てて何を拾うか」です。 徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし同時に信仰を拾った(与えられた)のです。一番確かなものを与えられたことになります。ということは、イエス様を拾ったということです。今週もまた、一番大切なものは何かをかんがえながら過ごしていきたいと思います。

「神様が近づいてくる」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「神様が近づいてくる」    私たちの念願だった「聖壇拡張」が、祈りに支えられていよいよ今週工事に入ります。こんなにはやく実現するとは思いませんでした。徳山に遣わされて5年目、ひとつひとつ願いが聞き届けられました。そしてついに礼拝のたびごとに思っていた、「この聖壇があと1 m 広ければ」の思いが神様に聞き届けられました。    毎週お配りしている「げつようび」にも書きましたが、なぜ聖壇を広げたいのかといえば、この教会の中心をそこにおきたいからです。ルターは教会を考えるとき、教会の核心となるところは「聖徒の交わり」であるといいました。そこでは「福音の説教が行われ、聖礼典がおこなわれる」と。教会はいつもここから出発しないとならないし、ここへ帰ってくるのです。そして、私たちは聖餐においてその力を得るのです。    私たちの教会の中心はどこか。それは聖卓を囲みキリストを中心とする、聖徒の交わりでありたいと思います。聖壇の拡張は、神様の方から近づいてきてくださることなのです。

「非難されないように」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「非難されないように」 2コリ  8:20  わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。 出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。 「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、自分の本が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。批判、非難はできるだけ避けたいと思います。 8章16節以下には、募金を呼び掛け、集金し、保管するという務めをしていたテトスのことが称賛されています。またテトスと同じように諸教会で選ばれた兄弟たちも同じです。パウロは、これらの人々は信用できる人柄であると述べています。しかし、パウロ自身に対しては彼の金銭的活動に身に覚えのない疑惑がもたれていたようです。そこで、テトスをはじめコリントでも良く知られた人物を立てて身の潔白をしめしたのでしょう。 ボランティア活動で募金をする場合、大切なことがいくつかあります。それは「何のために必要か」「いくら集まったか」「それをどのように使ったか」を誰にでもわかるように公表することです。この中の一つでも欠けると疑惑をもたれます。集まったお金を、自分たちのためにつかっているといった非難中傷を良く聞きます。せっかく素晴らしい活動なのにと思いますが、3つのうちのどれかが欠けているのです。簡単なことですが、公表することは信頼を生むことです。また第三者にみてもらうことはもっと確か信頼を生みます。監査というのはそういうものです。募金活動は信頼されることが一番大切です。 パウロは「だれからも非難されないようにしています」と言っています。パウロは、自給自足の立場をしっかり守ってきましたが、金銭的な問題で誤解されたようです。そこで募金活動においては非難されないことを心がけているのです。すべては公にされていること。それは神様が公にして下さっていることに感謝するということばで分かります。

きままな休日・阿久根教会のロールキャベツ

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阿久根教会では毎週礼拝後に共に食事をします。 ある日曜日の食事はロールキャベツ。 かなり美味しかったです。 なんたって手作りですから。

礼拝は今日です

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本日の説教者は 杉本洋一牧師(熊本教会牧師) 元気な先生の元気なみ言葉を聴きに来てください!

聖霊の光が差し込む

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聖壇は毎朝赤い色に包まれます。 ステンドからの明かりです。 いつも聖霊に包まれている礼拝堂です。