2018年12月31日月曜日

「主の山に備えあり」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「主の山に備えあり」

創世記 22:12 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

2018年の最後の日を迎えました。今年も神様の導きと祝福のもとに守られて生きてきました。心から感謝いたします。いま1年を振り返ると、私にとっても移動の年でした。本教会の事務局長を辞して現場に戻りました。現場に戻るということで不安もありました。しかし、すべてのことに「主の山に備えあり」を確信した年でした。こころから感謝します。

毎年この日は恵みを数えることにしています。ある青年から教えていただいたことです。その青年は毎年大晦日に「大きな恵み3つ、小さな恵みを3つ数えている」というのです。それを教えてもらってから続けています。神様からの大きな恵みと小さな恵みを同時に数えることの不思議さを感じます。すべての恵みを確信することもできます。恵みを数えてみると、すべてに神様の備えがすでにあったと教えられました。やはり主の山に備えありです。

アブラハムは「その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた」とあります。確かに主は備えてくださるのです。この神様に新しい年も従ってまいりましょう。必ず主の山には備えがあります。それを信じて新しい歩みを始めましょう。今年1年の全てに感謝します。新しい年も神様の祝福がありますように。

2018年12月30日日曜日

休日クレヨン・限定バーガーを!

今年最後の日曜日!
なんとサブウエィの限定バーガーをいただきました。
なんでも中のハンバーグがすごい和牛だとか????
う~ん味はねえ~美味しかったとしか言えないです。ははは

2018年12月29日土曜日

鹿児島教会クリスマス礼拝

今年も無事にクリスマス礼拝を迎えました。
キャンドルサービスを昼に行いました。
新しい年もよろしくお願いします。

2018年12月28日金曜日

2018年12月27日木曜日

「罰金ですよ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「罰金ですよ」
 
 シンガポールという国はとても小さい島です。しかし、ありとあらゆる民族が集まった国でもあります。マレーシア系、インドネシア系、アラブ系、タイ系、中国系、ヨーロッパ系、などなど。歴史のある貿易港だったことがわかります。ですから、ありとあらゆる食べ物があります。シンガポールに行くだけで世界グルメになれるほどです。
 
 また、シンガポールはとても奇麗な国です。なんと塵ひとつ落ちていないのです。道路は整備され、地下鉄は駅まで全冷房。しかも駅はピカピカ。日本が奇麗だと思っていた私は驚いてしまいました。日本よりも美しいのです。それもそのはず、モラルに対する罰金が高いのです。バス・地下鉄の中でタバコを吸ったら、S$1000の罰金です。日本円にすれば七万円の罰金です。麻薬などを国の中に持ち込んだ場合、その場で死刑です。ですから、「ここで・・すれば罰金S$1000」という看板の多いこと多いこと。
 
 しかし、シンガポールを歩きながら、寒々しくもありました。奇麗すぎるものですから。一緒にいた牧師がポツンと言われました。「ここまで奇麗だということは、隠れたところで抑圧されている人々がいるってことだね」と。汚くてよいとは思いませんが、なにが汚いというかは大きな問題です。

2018年12月26日水曜日

「思慮深く語る」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「思慮深く語る」

箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。

箴言1216節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。

クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。

箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。

2018年12月25日火曜日

「一時間のプレゼント」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「一時間のプレゼント」
 
 今年の誕生日は、シンガポールへの飛行機のなかでお祝いしていただきました。しかもそれに引き続いて、インドネシアへの旅というプレゼントを頂き、感謝しています。インドネシアのことは折にふれて書いていきたいと思います。
 
 さて、今年の誕生日は一番素晴らしいプレゼントをいただきました。それは「一時間」です。西にむかって飛んでいくわけですから、時間が戻っていきます。シンガポールと日本の時差は、ちょうど「一時間」なのです。つまり私の誕生日31日は、私にとって25時間あったことになります。考えてみれば、日本に帰るとき一時間進ませるわけですから、同じ事ですが、誕生日の一時間がなにより嬉しかったのです。
 
 私たちには時間が与えられています。それをどう使おうと神様は自由にさせてくださいます。しかし、今回の私の誕生日に与えられた「一時間」は、これからのための祈りの時間となりました。きっと神様が最高の誕生日としてくださったのでしょう。アーメン・ハレルヤ。

2018年12月24日月曜日

「つながってここにいる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「つながってここにいる」

ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

 ある会議の合間に、幼稚園の園長もしておられる牧師が教えてくださいました。「今日は幼稚園で一日を過ごしました。そこでお誕生日会があり、私はずっと一人の3歳児の手を握っていました。自閉症で多動なのだけど、手をつないでいるとおとなしくして会に参加できるのですよ」と。素敵な話だなと聞いていました。手をつないでいることで、子どもと牧師の間にどんなことがおこっているのでしょうか。「ここに一緒にいようね。ここにいてもいいよ。いることを確かめようね」という会話が聞こえてきました。 ここに共にいてつながっていようね。イエス様もここにおられるよというメッセージが手をつなぐことで伝わっているのだと思います。

ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。それはきっと素晴らしいものです。

 世の中には相乗効果といわれるものがあります。その相乗効果という話題で、アメリカでのドイツ車大流行の話をききました。新聞・ニュースでは日本車の売上が伸びているのは事実ですが、ここにきてドイツ車に人気が集まっているというのです。その理由は、新しいタイプのフォルクスワーゲンが発売されたのです。むかし「かぶと虫」と言われていたあの車です。このデザインがかわいいので、みんなが競ってドイツ車の販売店におしかけたのです。しかし、売り切れ。しかたなく他の車でも見て帰ろうか・・が、ほうドイツ車って良いじゃんとなり、他のドイツ車がどんどん売れているのだそうです。宣教の方法もこの相乗効果を考えました。教会へつながるということは、キリストにつながるということです。そのために教会の中にはいっていただけることを考えています。

 私たちはここに「いる」存在です。それは一人ではなく、ここで信仰の交わりをもつ方々と共に「いる」存在です。そしてイエス様とつながってここにいる存在です。そんな私たちですから、誰もかけてはなりません。イエス様につながっていることで一つに「いる」ことを思い、神様の業の実を結んでいきましょう。

2018年12月23日日曜日

きままな休日・横浜中華街のワンタン麺

横浜中華街でワンタンメンをご馳走になりました。
本場の香港で食べた味と同じでした。
海老のプリプリ感が最高でした!

2018年12月22日土曜日

子どもっ説教あります。

鹿児島教会では先月より
礼拝の中で子ども説教が行われています。
お子様を連れてぜひお越しください。

2018年12月21日金曜日

明日はクリスマス礼拝

明日はクリスマス主日の礼拝です。
キャンドルサービスになります。
説教者:立野泰博牧師(大江教会)
ぜひどうぞ!

2018年12月20日木曜日

「できると信じる心」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「できると信じる心」
 
 今年の夏は、雨ばっかりで困ってしまいます。野菜の値段の高いことといったらありません。こんなに野菜の値段が高いのでは、きっとお好み焼き(広島風)屋さんなどは大変ではないでしょうか。あのキャベツの量はどうなっているのでしょうか。減らされているかもしれません。
 
 ということで、家族で「ほうれんそうの野菜炒め」を食べにいきました。家で買って食べるより、安くて、量が多いと思ったのです。ところが、出された料理をみてびっくりです。ほうれん草はパラパラ。なんとそこにあったのは、タマネギの炒めものだったのです。わたしは「なるほど」と感心してしまいました。
 
 「これしかありません」と弟子達は主イエスに、五つのパンと二匹の魚をみせました。もうどうしようもありませんというのです。しかし、主イエスは、はじめからダメだと思っている弟子達にむかって、「だいじょうぶ。あなた達の手で配りなさい」と言われます。神様のこの言葉を信じることを要求されるのです。
 
 方法はいくらでもあります。初めからダメだと思わないことです。「できる」と信じる心に奇跡はおこるのですから。

2018年12月19日水曜日

「共にいることの介入」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「共にいることの介入」

マタイ 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

ある時、総会資料の牧師報告を読まれた一人の姉妹がすぐに電話をくださいました。「先生のお考えがあったら失礼ですが、イエス様の御言葉に間違いがあると思います」と。さっそく読んでみて冷や汗がでました。たしかに間違っていました。「悔い改めて、福音を信じない」と印刷されているではありませんか。自分では「悔い改めて福音を信じなさい」と書いたつもりでした。「さ」が入るのと、入らないのとでは全く意味が違います。最近こういったキーの打ち間違えの多さに自分でも困っています。この前は「教会総会」を「教会疎開」としてしまいました。一字の違い、一言の違いと簡単にすめばいいのですが、そうはいかないこともあります。「何が食べたいですか?」と言われたとき、「ラーメンでいいです」という返事と、「ラーメンがいいです」という返事ではかなり違います。「何でもいいです」というのが一番困りますが。 イエス様は「聖書の一点、一画もくずされることはない」と言われています。神様の御言葉はたった点のひとつでも大切な言葉です。おろそかにできません。そのような御言葉を私たちも頂いています。

本日与えられている聖書のみ言葉、イエス様の系図です。はじめて聖書を読む人の前に立ちはだかるのがこのマタイによる福音書「系図」です。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまるので、多くの人はここに戸惑いをもちます。ただし、この系図もよく読むと、興味深いことに出会います。女性がマリアを入れて4名だけ出てくるとか、バテシバの名前はなく、「ウリヤの妻」となっているとか。神様のまえに罪を悔改めた人々の系図でもあります。どこを切っても神様が共におられるという系図になっています。

その中でも、本日の箇所はかなり面白いところです。クリスマスの出来事が書いてあるのですが、どうみても系図としてはなりたっていないのです。イエス様の系図となっていますが、もともとこれはマリアの夫ヨセフの系図です。イエス様はおとめマリアから生まれますので、つながりはあいません。ところが、いつのまにかそこに神様が介入され、イエス様がこの系図に入ったことになっています。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアから」を読むと、本当は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このヨセフから」と書かねばならないところです。しかし、ここにクリスマスの出来事の意味が記されています。

クリスマスは、神様が人間の系図に「介入」された出来事です。私たちの救いのために、介入された出来事なのです。「ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の深い愛のゆえに、私たちの人生に介入される。共にいてくださるという介入なのです。今週もクリスマスの意味を考えながら、過ごしてまいりましょう。

2018年12月18日火曜日

「この時代のココに」

クレヨン牧師のミニエッセイ牧師

「この時代のココに」
 
 とても楽しい「宣教百年大会」でした。大会そのものもそうですが、田舎のわが家に泊まっていただき、合宿みたいな大会がとても楽しかったのです。
 
 時間をかけて準備された大会でした。いろいろな手違いもありましたが、なんとか無事に終えることができました。一番印象に深いのは、記念大会での讃美歌の大合唱でした。はじめて二千人以上の礼拝に参加しました。その響きに心の底から感動しました。ルーテル教会の一致をみた思いでした。
 
 これから私たちは宣教二世紀むかいます。これからの時代はどうなっていくのでしょうか。円が一ドル百円の時代になりました。異常気象と叫ばれています。キャベツがソフトボールの大きさで五百八十円もします。しかし、そのような状況の中でも、神様の恵みは豊かにあります。この時代に、ここにキリストの教会があることだけが救いです。ここにくれば、神様の平安が与えられるのです。宣教二世紀の私たちの教会は、礼拝とみ言葉から始まりました

2018年12月17日月曜日

「思慮深く語る」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「思慮深く語る」

箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。

箴言1216節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。

クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。

箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。

2018年12月16日日曜日

気ままな休日・中国東北地方の鍋

  
熊本にある中国東北地方から来ておられる方のお店の鍋料理。
   普通は味も優しいのですが、皆さんが食べている辛さで食べたいとお願いしました。
   すると鍋の中は真っ赤に。水餃子を入れてみました。辛い辛い!でも体はポッカポカ。
   とても美味しくいただきました。

2018年12月15日土曜日

鹿児島教会カフェ計画

2019年鹿児島教会は変わります。
現在集会室のCafé化計画をしています。
お楽しみに。

2018年12月13日木曜日

「二千部の神様のクレヨン」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「二千部の神様のクレヨン」
 
 土曜日の朝、岩国の方から電話がありました。初めて電話をくださった方で、とてもうれしい電話でした。
 
 その方の話しによれば、「友人から『神様のクレヨン』をプレゼントされ、読ませていただきました。本の中に生まれ故郷の六日市のことが書かれてありました。六日市でのキリスト教の教会や集会のことは初めて知りました。今度休みに帰った時が水曜だったらぜひ出席させてください」ということでした。
 
 なんだかうれしくなってきました。「神様のクレヨン」の第一刷が残り四十冊になった時にとても迷いました。これで止めておこうか、それとも増刷しようかと。思いもかけず収益をいただいたので決心しました。お金が必要だったのではなく、一人でも多くの方に「キリスト」を伝えることが目標だったのだと。しかし、ギョッとしたのも事実です。増刷したのはいいが、山とつまれた「神様のクレヨン」がここにあるからです。
 
 それでも神様は電話で祝福してくださいました。この電話がどんなに励ましとなったことでしょうか。祈りつつ決心したことは、神様が支えてくださるのです。二千部の「神様のクレヨン」が、今度はどんな恵みを伝えてくれるのでしょうか。楽しみです。

2018年12月12日水曜日

「正しい行動をとる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「正しい行動をとる」

箴言 11:5 無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。

ここ数年のタイガーマスク現象(「第1号」はクリスマスの朝、群馬県中央児童相談所(前橋市)に届いた。玄関前に、包装紙にくるまれたランドセル10個(計30万円相当)が積まれていた。「伊達直人」という差出人名を聞き、「タイガーマスクでは」と気づいた。それが全国にひろがった)をうけて、精神科医はネットニュースの中で次のようにコメントをしていました。「児童虐待などで子どもに同情している人や、誰かを喜ばせたいと思う人が多いのだろう。素直に行動に移せなかった人がヒーローの名を借り、行動に移せたのかもしれない。ただ、物を置いていくのは一方的。『できることはありますか』と声に出し、自ら動くことで感謝されればより大きな喜びは得られる」と。この現象、人と人が双方向にかかわる動きに発展するかとニュースは問いかけていました。

箴言11章の3節から6節までは「慈善」をテーマに語られます。その「慈善」といっしょに何度も出てくる言葉は「まっすぐ」というものです。聖書では「正しい人」と訳されていますが、これも「まっすぐにする」という言葉です。正しい人は共同体の期待に応えて正しい行動をとる者であり、誠実にそれを実行するのです。共同体の期待に応えることに慈善の意味があります。

ある仮設住宅で「おすそわけプロジェクト」を行いました。「ルーテルおすそわけ」が口コミで広がっていました。第1回目のときは20名位の被災者の方がこられたのですが、ある時7は開始1時間以上前にすでに200名の方が待っておられました。この時「大変なことになった」と思いました。品数が少ないと思ったからです。これではみんなにいきわたりません。それでも計画通り実行しました。やっぱり一つもとることができない人もおられました。申し訳ない気持ちになっている女性会の方々の所に一人のおばあさんがこられました。被災者の方で99歳だそうです。彼女も1時間待ってなにも受け取ることができませんでした。おばあさんは女性会の方々に優しく言われました。「あんたたちは悪くないよ。遠くから物資をもってきてくれたのだから。もらう方も悪い。みんなでわけあってもらえばいきわたる。ひとりがたくさんとったからだよ」と。
 東日本大震災から7年が過ぎました。ルーテル教会も支援活動をしました。被災地での支援部しい配布、心のケアなど。これもまた「できることはありますか」との問いかけからはじまったことでした。神様の導きのもとで「まっすぐ」に行動することは何かを教えられたできごとでした。祈りとみ言葉によって正しい行動は導かれるのです。

2018年12月11日火曜日

イエス様の御臨在」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「イエス様の御臨在」
 
 北海道留萌のキリスト教団が出している、「電話による聖書メッセージ」という小冊子をいただきました。電話に三分間のメッセージを入れておくと、誰でも自由に聞くことができるという伝道方法です。私の雑文よりも大変な伝道で、毎週つくるれることに感動したしました。
 
 その小冊子の中に、ドイツ人の神父さんが、十九年の留萌での仕事を終え転勤される時の話しがでていました。ある人が「留萌での伝道で一番恵まれたのは何ですか」と聞きました。しばらく考えて神父さんは答えました。「そうですね。吹雪の時に三時間も車で走って、やっと集会の場所につき、雪を除いて、部屋のストーブに火を付けて待っていましたが一人もこなかった時です。私は何のために日本に来たのか。そしてこの留萌に・・・。とても淋しくなり、空しく感じました。その後、ハッとしました。ここに来たのは自分からでなく、キリストによって遣わされたのだ。リアルにイエス様の御臨在を感じました」と。
 
 この言葉に涙がでてきました。まったくその通りだからです。アーメン。
 

2018年12月10日月曜日

「自分を愛するのは」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「自分を愛するのは」

 ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。

 イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳(1955年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。

 最近FMラジオを聞いています。先週はNHK/FMから永六輔さんの声がきこえてきました。何人かの方々との対談でした。その中で自分たちがやっていたテレビ番組と現在の番組の違いを話しておられ、心に残った言葉はつぎのようなものです。「バラエティ番組なのだけれど、昔の番組は『笑わせる番組』だった。いまのは『笑われる番組』になってしまった」と。この2つはとても違うなと思いました。「笑わせる番組」を作るのは大変なことでしょう。視聴者の感覚を捕らえ、構成し、よく考えて作らねばならないからです。一方「笑われる番組」を作るのはどうでしょうか。誰かタレントをつれてきて、笑われればいいのです。そう考えると、いまのバラエティ番組が何をやっているか少し理解できました。タレントに変なことをさせて笑いをとっている。親たちがみて下品なことでも笑われればいいのかな、と思ってしまいます。サーカスにいたピエロとも違うのです。ピエロは笑われているようで、じつは笑わせていたということに気がつきました。神は私たちを「愛する」お方であって、「愛される」ために何でもされる方ではないのです。愛されようとして、「人間の思いのまま」に動かれるお方ではないのです。ラジオからの一言でああでもない、こうでもないと考えてみました。「神様は愛するお方だ!」と知ったときさわやかな感じがしました。

 自分を愛することは自分のためではありません。隣人を愛するためです。自分を愛する愛し方を分かっている人は、隣人をどのように愛するべきかを知っているのです。「ご自愛ください」とは、あなたが病気になると、家族や共に生きる方々に迷惑がかかるからです。自己愛で自分勝手に生きて行きなさいという意味ではなのですね。

2018年12月9日日曜日

気ままな休日・広島むさし銀むすび




やっぱり広島にいったらこの「銀むすび」!むさしはやっぱり好きです。
画像に納めとこうとおもっていたら、忘れてパクリ。
そうなんです、温かいうちが美味しい。握りたてですから。
ということで一口食べた後の画像になりました。ま、いいか。

2018年12月8日土曜日

子ども礼拝もはじまりました。

教会の礼拝で子ども説教も始まりました。
子どもたちに分かりやすく牧師がお話します。

2018年12月6日木曜日

「自由の中の不自由」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自由の中の不自由」
 
 いつからかセキセイインコを飼っています。といっても本当の飼い主は隣りの教会の牧師でした。じつは今年の春の北海道転勤にともない我が家にやってきたのです。
 
 先日、このセキセイインコをただなんとなくながめていました。すると、餌を勢いよく食べるので、オリの外にこぼしていたのです。数分後こんどはスズメがきてそれを食べていました。なんだかその光景がとっても不思議だったのです。
 
 オリの中にいて、餌に不自由しないのが幸せなのか。食べ物だけを探して、一日中大空を飛び回るのが幸せか。どちらも幸せだと思いますが、それぞれの幸せの中にも不自由な部分があることに気がつきました。
 
 私たちは幸せだけを求めています。しかしそれは、不自由さを一緒にもつ幸せでしかないのです。その不自由さを認めるか、認めないか。受け取れるか、受け取れないかなのです。
 
 主イエスは正しさだけを招かれたのではなく、罪をも招かれたのです。自分の罪を認めつつ正しさの中に生きることができるでしょうか。主イエスと共にあるならばできると信じています。

2018年12月5日水曜日

「判断基準は神様のみ言葉」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「判断基準は神様のみ言葉」

箴言 9:10 主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。

「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。震災のおこるずっと前からです。神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。その心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。それが知恵だといえます。

箴言は知恵とは何かを考えさせます。しかし、その知恵がどこからでてきたものかは重要です。今回の知恵も、女性として人格化された知恵が、未熟な若い男を招く話になっています。本当の知恵とは何か、それを見極めることは大切なことです。

小学校4年生の道徳の授業参観をしたことがあります。授業内容は「麻薬の危険から身を守る」ということでした。興味本位で手を出したりしないようにということでした。内容はどんな麻薬があるか、麻薬に犯されると人間はどうなっていくかなど、分かりやすいものでした。そして最後に先生が麻薬を使うことに多数決をとられたのです。なぜ麻薬は恐ろしいか、使用してはいけないかを話してきて最後は多数決で決定という授業に疑問をもちました。判断の基準はどこにあるのだろうと思ったのです。

箴言は「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」と教えています。私たちに与えられている知恵は神様からくるものです。その知恵の根拠は聖なる神様を知ることから始まり、それが判断基準となっていくのです。分別の初めもすべては神様から、そして神様とはその御言葉にあります。

2018年12月4日火曜日

「痛みと共に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「痛みと共に」
 
 教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学んでいます。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。
 
 先週の日曜日の朝6時ごろのことでした。長女・華美が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまにりもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。ところが、先週は柳井教会の担当でしたから、車を運転しながらある声を聴いたのです。「華美ちゃんは、お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と。
 
 私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。

2018年12月3日月曜日

「反省はサルでもできる?」

 鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「反省はサルでもできる?」

箴言 8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。

ある信徒の方から、教育部長あてに一冊の本が送られてきました。その本とは「ビジネスマナー・ポイント集」です。手紙には、「この本、役に立つよ。牧師はマナーと常識が大切です」と書かれていました。実は、牧師の常識のなさ、マナー欠如が深刻な問題なのです。はじめのころは、宗教家たるもの《非常識のなかの常識》こそ大切だと思っていました。神様のみことばを伝えることはそれ自体で非常識の中にあると思っていたのです。ところが、信徒の皆さんがおっしゃる《常識》とはレベルが違うことに気がついたのです。皆さんが問題にされる《常識》とは、人が生きる上でのマナーの欠如ということなのです。そしてもっと言うなら「知恵」を働かせないということのようです。マナーも知恵の一部だと言われました。

箴言8章の教えは「知恵」についてです。知恵が人格をもって語りかける形をとり、知恵自体が自己紹介や自己推薦をしています。面白いことに知恵自身が、その働きと成果について紹介していのです。その中でも知恵は、神様が天地創造をされたときに、すでに神様のもとにあったと告げています。

ある遊園地で「反省ザル(猿)」という芸をやっていました。むかし日光猿軍団の中で披露され、テレビで人気がでた芸だったなと思い出しました。あのときのキャッチコピーは「反省はサルでもできる」というものでした。その当時は笑ってみていましたが、よく考える意味が深い言葉でした。形だけの反省なら猿まねにすぎないという意味がこめられていたかもと改めて思ったのです。あの芸をみていた人たちもその事に気がついて笑ってみていたのでしょう。それを自分にあてはめてみることもありました。

箴言は「愚か者は反省することを覚えよ」といいます。また他の箇所では「心の中の板に書き記せ」と命じています。大切なことは反省すること以上に、それを覚え、心の板に書き記すことです。何回も同じ間違いをするのは覚えていないからです。「反省はサルでもできる」が、心の板に書き記し、常に覚えることが反省することの本当の意味なのです。

2018年12月2日日曜日

気ままな休日・ちょっと遅い収穫感謝祭

教会カフェでは英会話クラスによる収穫感謝祭が行われました。
地域の方々がたくさん来てくださいました。
ターキー!すごく楽しいです。朝からじっくり焼いて!ランディがさばいています!
カフェでは毎日パーティ!!地域に開かれた教会になりました。

2018年12月1日土曜日

クリスマスです。

大江教会のクリスマス。
鹿児島教会は22日(土)がクリスマス礼拝です。