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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 マタイ   12:33 木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。 教会のベランダには3本のオリーブの木がありました。ある時その1本に実がつきました。神様が造られた命の力強さと神秘を思います。3年目にしてやっと実を結んだのです。ほとんど気づかれずにそこにありました。それがいつのまにか実をつける。神様が命に対してされることは、確実なことなのです。 イエス様は、人の行為や言動を問題とされました。その善し悪しは「結ぶ実」でわかると言われたのです。すべてのことは、その人の外に現れてくる。その人が結ぶ実でわかるというのです。どんなに後からとりつくろっても、人間の内面にあることは、必ず外に現れてくる。そのことをみれば、善し悪しは分かるのだと教えられました。  「『頭がいい人』と言われる文章の書き方」と言う本を読んでいます。その中に、文章を書く鉄則としていくつかあげられています。その一つに「自分のわからないことは書かない」というものがあります。教会の月報や週報で、いくら読んでも意味や内容がつかめない文章があります。また、礼拝説教などもよくわかないことがあります。それは読む側、聞く側の理解力が足りないということもあります。しかし、多くはそうでないと思います。つまり、書いている、語っている本人が、理解しないままに書いたり話したりしていることが原因の多くを占めるのです。そのような文章の特徴は、抽象的な文章が多い、内容がぼけているというものです。「わからないことをわかったように書く」のは所詮無理なことです。ですから、大切なことは、「わかっていることを丁寧に書く」ことしかありません。内面のことは必ず外に現れているのです。  イエス様は「その結ぶ実で分かる」といわれました。どんな実を結ぶかは、その内面の信仰によるのです。結んだ信仰の実によって、その人自身もわかることになります。木と実の関係は、心と言葉の関係に置き換えられています。どのような実を結んでいるかで、その人の内面が見えてきます。

ワークキャンプ!

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『目をつぶって見えるもの』 「サンタクロ-スがすねちゃった」という傑作絵本があります。子供達にとって、サンタクロ-スはクリスマスの楽しみです。  この絵本では二人の大人が、「もうごぞんじですか、サンタクロ-スなんていないんで すよ」といったことから始まります。そしてなんと次の日の新聞のトップニュ-スが「サンタクロ-スはいない」と書いたから大変です。それを読んだ世界中のサンタクロ-スがすねちゃった。世界サンタ会議まで開いて、今年は何も配らないということになってしまいました。残りはどうぞ絵本で読んでください。  私はこの本が大好きです。なぜならこの本の最後にサンタクロ-スがこう言うのです。「目をつぶって見てごらん。サンタクロ-スの姿が見えてきたでしょう。見えるものはちゃんといるんだよね」。あなたはどうですか。目をつぶってみてイエス様が見えますか。見えるお方はいまあなたと共におられるのです。
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 使徒言行   12:9 ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。 ある青年が海外での楽しい経験を話してくれました。彼女は海外のワークキャンプに出かけるときは必ず女性誌・週刊誌を持っていくそうです。だいたい日本人は何に興味があるかはそれをみればわかるし、海外の青年たちも日本での様子に会話が弾むのだそうです。そのような会話でいつも海外の青年たちがいう言葉は一緒だそうです。それは、「日本という国は before (ビフォー)と after (アフター)ばっかりだね」ということです。つまり、「はじめ」と「あと」の広告がたくさんあるということです。そういえば、ダイエット、美容整形、金運、開運などの広告がおおく、それをする前と後のことばかりが中心です。しかもどれをみても、後のほうが素晴らしいというものばっかりです。前よりも後の方がいいというのは幻想だとおもいます。。 ペトロに起こった奇跡の話です。ヘロデ王によって捉えられ、厳重な兵士の監視がつけられました。ところが、逃げることが不可能な状態のなかで天使によって脱出させられたのです。ペトロは、始めそれが現実のことではなく、夢か幻でも見ているのだろうと思っていました。しかし「我に返った」とき、神様がなされたことに気がつきます。現実と幻の間で、ペトロは「我に返る」という、自分を客観的にみたときに真実がわかったことになります。 多摩美術大の文化祭でのイベントのことを聞きました。多摩川で、夜、多摩川の水面に、映写機で多摩川の水面を映すというイベントでした。真実の多摩川の流れがそこにあるのに、いつも見ている水面を投影する。それは幻の姿がそこにあります。しかし、客観的に見るという視点からすると、とても大切な何かを教えています。私たちは真実をみているようでも、じつは幻を投影させて自分の見方でしか物事をみることができないのかも知れません。 ペトロは自分の目や、自分の判断からみてしまい、現実のこととは思えなかったのです。神様が行っておられることを、神様の目で見ない限りそれは幻にみえてしまいます。自分におこる様々なことがらも、神様の視点が必要です。そうやって自分を客観的に見るということが信仰のは...
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『待つこと』 「待つ」ということは、いつでも相手がいることです。誰かを待つにせよ。何かを待つにせよ。     竹内敏晴氏が書かれた、「からだがかたることば」という本があります。そのなかに、次のようなことが書かれてありました。「待つということは相手がくるだろうとおもう方へ、全身体、全神経をむけていることで、身体は当然その方へ向いているものである」そういえばデ-トの待ち合わせなどは、来るであろう方ばっかり見ているものですよね。アドヴェントは「待つ」ときです。救いイエス様を心にお迎えする準備をするときです。そうであるならば、全身体、全神経をそこに集中させたいものですが、そうもいきません。全身体、全神経を集中させていたら疲れてきます。ほどほどに忘れずに集中してください。なぜなら、待って待って初めてイエス様にお目にかかったのは素朴な羊飼いでしたから。大切なのは忘れないこと。
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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ルカ   4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。 牧師の仕事のひとつに「間に合う」というのがあります。今月ほどそれを考えたことはありません。しかし、どうしても間に合うことができないこともあります。そんなときは、間に合う牧師にその働きを委ねるという道があると思います。谷口恭教先生の臨終に間に合わなかったのですが、そこには後輩の牧師がいてくださいました。牧師も一人で働いているわけではありません。やっぱり神様のチームで働いているのだと実感しました。そして、そこにおられた兄弟姉妹も全員が神様のチームだと教えてくださいました。わたしたちのチームは、神様の働きのなかで「間に合う」ということを大切にしたいと改めて思っています。 イエス様の公生涯は、「み言葉を告げ」「悪霊を追い出し」「病気を癒す」ことから始まりました。カファルナウムと言う町では、シモンのしゅうとめを癒しておられます。このシモンは弟子のペトロで、イエス様から召される前の出来事でした。今朝は「すぐに」ということ考えました。癒されて「すぐに」人々に仕えた彼女の生き方、あり方が、いまの私たちに問われていると思ったからです。イエス様に愛をうけ、癒されたものは「すぐに」仕えるものになるのです。 ニュースで、「両親による幼児虐待で1歳児が死亡」というのがありました。このようなニュースを聞くたび、心が痛いものです。子どもたちは虐待する親を信頼しているはず。どんな思いでその親からの虐待を受けてきたのだろう。しかし、そのニュースにはもう一つ思うことがありました。虐待の事実があるという医者の報告に、児童相談所は会議をして「明日抜き打ちで訪問しよう」と決めたというのです。じつはその夜に子どもは虐待をうけて亡くなっています。なぜ「今日でなく、明日だったのか」。なぜ「すぐに」ができなかったのだろうと思いました。 イエス様に癒されたシモンのしゅうとめは、その後「すぐに」「もてなした」とあります。「すぐに」人々に仕えることができたのです。「愛は間に合うこと」といった方がおられます。愛や奉仕の行いも「間に合わなければ」なりません。神様からの愛は「すぐに」私たちに届けられます。いつでも「間に合う...
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クレヨン牧師のミニエッセイ 『キリストが歴史を知っている』  11月6日は全聖徒の日です。教会の歴史が長くなりますと、存知あげない方も多くなります。教会の歴史はキリストとの交わりの歴史であり、信仰の継承の歴史でもあります。ですから、私たちがその方々を知る知らないというのではなく、イエス様がこの歴史を知っていてくださることが大切なことです。またそこにこそ、永遠の救いと憩いがあるのです。  11月は教会の暦のなかでは、一年の終わりの月です。12月からはクリスマスにむけて、新しい年(アドヴェント)に入ります。終末に生きる私たちはこの月に、召天者の信仰を受け継いで、神様の御国のきたらんことをと、「主の祈り」を祈りたいと思います。そして、一瞬一瞬を神様の時として、誠実に生きてゆきたいと思います。     これからだんだんと夜が長くなっていきます。しかし朝は必ずやってくるのです。新しい朝をキリストと共に待ちたいものです。