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バナナの種

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『バナナの種』  バナナには種があるのでしょうか。食べながらふと思いました。実は今のバナナには種がないのです。「うそつけ、真ん中に黒い点があるじゃないか」といわれそうですが、それなら植えて出てくるか試してください。あれは種ではなく種の名残なのです。人間が食べやすいように品種改良され、種なしになってしまったのだそうです。それでは新しいバナナはどうやってできるのか。実がなったあと、根本からばっさり切ってしまうと新しい株がでてくるというわけです。人間の発見も素晴らしいですが、自然の力には驚かされます。      ばっさり切られてもまた生えてくる。倒れても立ち上がる。その背後にある力を感じます。それが信仰の力だと思うのです。イエス様は「泣かないでいなさい」(ルカ 7:13 )と一人息子を亡くした母親にいわれました。イエス様に自分の全てをまかせれば、切られても倒れても泣く必要はありません。立ち上がる勇気を、恵みとしていただくのですから。

光を迎えて

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ヨハネ  1:4-5  言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。  クリスマスおめでとうございます。この世の光としてお生まれになったイエス様のことを覚えます。そして、光がこの世にこられたので、私たちの人生もこのように明るい朝を迎えることができるようになったのです。今朝の礼拝の参加された皆さんにはこの世の光としておられるイエス様が実感できるのではないでしょうか。ただとても寒いですが。  ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。 クリスマスはもともと冬至でした。冬至は、二十四節気の第 22 番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が 270 度のときで 12 月 22 日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ 4 世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。 イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。

問いに答える

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『問に答える』  ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要ではないでしょうか。伝道も同じだと思います。この地に住んでいる人にとって、キリストとは何かという問いをもたせるには、どうしたらよいかということです。     「私達が死んでもいいのですか」という弟子たちの問いに、イエス様は、「なぜこわがるのか、信仰がないのか」(マルコ 4:40 )といわれています。問いに答えるのは神様のみでいいのです。 

2016年感謝を持って

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 ルカ  2:29  主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。 クリスマス主日が終わると、教会も 1 年のまとめに入ります。今年 1 年はみなさんにとってどのような時でしたか?喜びも悲しみも、楽しみも試練も様々なことがおこったことでしょう。しかし、それは私たちの人生の一部です、毎日変わる人生の出来事に中で変わらないものをみつけています。それは神様です。そして神様から与えられる信仰です。この信仰をもって 1 年を振り返ります。 幼子イエスをメシアと告白するシメオン賛歌で、クリスマスの出来事はクライマックスを迎えます。シメオンは幼子イエスを見たとき、イザヤ書の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」という預言の成就を見ました。神様の言葉が実現したことを見たシメオンは「お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」と歌うことができました。神様による約束は必ず実現することを知ったからです。  京都の清水寺に、大西良慶という貫主がおられました。良慶貫主が書かれた本の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟ができた時」という言葉があります。100歳を超えての法話で語られたものです。良慶さんとして親しまれた老和尚の含蓄のある言葉に感銘を受けました。「ほっといたかて死によるんやから、死をおそれない」。すでに悟りを開かれていたのでしょう。なんだかシメオンと通じるものを感じました。  2016年も仕事納めがちかづきました。今年1年を振り返り、神様からの多くの恵みと導きがあったことに感謝したいと思います。私たちの働きは、神様の働きの中の一部分にしかすぎません。しかし、その一部分でも各自が誠実に関わって1年の終わりを迎えることができます。シメオンはいいます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」今日1日はそのことを覚えて感謝のうちに 1 年の納めをしたいと思います。

2016クリスマスおめでとう!

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 クリスマスおめでとうございます。今年も御子の誕生を迎えることができました。今年は4月に熊本地震があり、いつもとは違ったクリスマスを迎えました。しかし私たちには違ったクリスマスでも、神様にとっては同じクリスマス。神様は共におられることには変わりないクリスマスです。 2016年は「恐れ」を知らされた年でした。熊本地震で地の基が揺り動かされる「恐れ」を覚えました。私たちの生活は、なにげない生活です。そのなにげない生活など一瞬にして吹き飛ばされてしまうのです。わずかな幸せさえ、突然の出来事にそして一歩間違うと、わかなくも消え去るという経験をしたのです。今年私たちは「恐れ」を経験しました。しかし、「恐れ」の経験は、同時に「神様との出会い」の経験でもあるのです。 クリスマスの出来事は、すべて「恐れ」に対する、信頼と従順のうえに成り立っています。信頼の上に立った人間の、神様に対する従順が、神様のひとり子を人間に迎えるという奇跡を起こしたのです。この奇跡のゆえに私たちもインマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ぶことができます。私たちはつねに「恐れ」のなかにあって、神様と出会うのです。「恐れ」の中で、神様の救いはいつまでも私たちと共にいてくださいと祈るのです。《神は我々と共に》この喜ばしい知らせは、神様への「恐れ」を知った者のみが、信頼と従順のゆえに告白できる信仰の宣言なのです。 私たちはいろいろな状況に立ちつつ、神様を迎えています。仮設住宅で、半壊した自宅で、新しく住み始めたみなし仮設アパートで。しかし、それがどのような場所であっても神様が共にいてくださる場所はあります。神様のみ言葉を信頼して受け取るときに奇跡はおこります。その奇跡にこそ希望があるのです。クリスマスおめでとう。

クリスマス礼拝

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祝 クリスマス! クリスマス礼拝 本日24日(土)10:30~ フルートコンサート 14:00~

気ままな休日

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お休みの日はグルメ 熊本には「あげたて」という安くて美味しい天ぷら屋さんがあります。    目の前で天ぷらを揚げてくれます。     しかも7品で700円。ご飯、みそ汁お代わり自由。    イカの塩辛、高菜漬けも食べ放題!    いやいや、このボリュームですよね。豚の天ぷらと鳥てんぷら。しかも温泉卵。これって最高の組み合わせ。    どんな問題というかんじでしょう!