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礼拝案内

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きままな休日・大阪王将の餃子定食

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これは定番!餃子。でも餃子の王将も「大阪王将」の餃子はまた格別に美味しいと思います。 たれが種類があるし、中身も自分に合うかなと。 書いているうちにまた食べたくなりました。

阿久根の海

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阿久根の道の駅によりました。 何という青さ! 海が輝いて綺麗です。

愛は目にみえる

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『愛は目に見える』  森優牧師が講演で一冊の本を紹介されました。その名も『若い父親のための 10 章』です。私にぴったりです。そのうち読もうと思っていますと、妻がさきに読んでいました。しかも声をだして。なんとその本の一章には、「もっと妻を愛すること」とあります。段々声が高くなって、「私は、妻を愛していることを子供に示したい。そのために、どんなささやかなことがあっても、もっと誠実に妻のために尽くそうと思う。本当の愛は目に見えるものである」と続きます。そして具体的な例がでてくるのです。     なるほどと思いながら、両親が愛しあっていることを知っているとき、子供はほかのものをもってしては得られない安心感、安定感、また人生の尊さを感じとるのかも知れません。愛は伝わるものなのです。愛についていろんなことを教えられますが、愛することを教えてくれるのは両親が愛しあっているその状態なのでしょう。     この本はそもそも、もう一度父親をやり直すことができたら、こんな父親でありたいとの設定で書かれました。蛇足ついでに。

祈り・願い・お願い

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉   「祈り・願い・お願い」  フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。  パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。  車で走っていますと、楽しいことがたくさんあります。とくに看板に目をひかれます。柳井市のある海岸線には、「このあたり美人おらず。わき見運転するべからず」と書いてあります。もっともその下には、「美男子は完全にいない」と落書がありました。思わず微笑んでしまいました。いっぽう、六日市に向かう道では、看板にはっとするようなことがいつも書かれています。たとえば先月は、「ありがとうが、いつのまにやらあたりまえ」と書いてありました。なるほど感謝する心の大切さをいまいちど発見する思いでした。それでは今月は何と書かれてあったか。こうです。「子は親の言うことはしないが、親のするようにする」です。  パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いではないかと思います。

あなたの喜びは何ですか

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『あなたの喜びは何ですか』  昨日は第二回目の「子育て講演会」でした。講師には聖文舎の森優牧師をお迎えいたしました。その森先生からお聞きした話ですが、祈りについて考えさせられました。     その話は、ある祈りについてのセミナ-でのことです。講師が次のようにいいました。「今日は具体的な隣人のために祈る訓練をします。隣の人とペアになって、まずその人の悩みを聞いてください」と言われたそうです。そこで悩みを聞かれたけれど出てこない。自分だけ悩みのない幸せな人間かなと思ってまわりをみれば、みんなも困っている様子です。具体的に悩みといわれても、「これと、あれ」といえるほど深刻ではないのかもしれません。     さて、それからどうなったかというのが大切です。今度は講師はこういいました。「それでは、最近の喜びを聞いてください。喜びを祈りましょう」と。すると嬉しかったことがでてくる。悩みを出せない私たちをみる思いです。     しかし、祈りは慰めだけではありません。私たちも一緒に喜びを共に感謝する祈りを持ちたいと思います。あなたの喜びは何ですか。

友と呼んでくださる

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「友と呼んでくださる」  ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。  ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。  日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。  イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。