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どのフレームで

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「どのフレームで見るか」 箴言 14:4  牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。 うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ      良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。うらも、おもても、神様にとってみれば一人の愛すべき子供です。だからこそありのままで救われるのです。 箴言 14 章 4 節には農耕に関した格言がでてきます。旧約聖書では王国時代の初期の頃に、牛による農作業がその生産力をあげています。今日の格言は、そのような時代の中で作られています。自分たちの生活の中で、どこに自分の視点をおくかということです。どちらに視点をおいても根本の出来事はかわらないが、視点をかえることで受け取り方は正反対になってしまいます。 心理療法の中に「リフレーミング」というものがあります。枠組みをかえてみるということです。その中に海外に住む一人の婦人の話がありました。彼女は神経質で綺麗好きのため、部屋が汚れるのを極端に嫌っていました。とくに部屋のカーペットが汚れるのが、彼女にとって大変な苦痛でした。またそのことで彼女は精神を病む結果にもつながりました。ある時、医者から「リフレーミング」の話をききます。それはカーペットが汚れるのではなく、人がそれだけ多く歩いているから汚れると見方を変えることでした。人がそこに住んで交わりがあるということへと見方を変えさせられたのです。それは彼女にとって素晴らしい発見となり、その後元気を回復していったというのです。 箴言は「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」と教えて...

初せみや

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『初せみや』   初せみや絣幾歳水くぐる 」  六日市集会所の河野姉の句です。もう梅雨もあけ、夏がやってきたような天気がつづいています。今年は梅干しを漬けていますが、なんとか干すというところまできました。しかし、味の方はさっぱり自信がありません。青い空と赤い梅干しが、土用の丑の日が近いことを思わせてくれました。     さて、今年はもうセミの鳴き声をお聞きになりましたか。私は今頃気づきました。このセミもよく聞いてみると、初セミは鳴き方が下手なのだそうです。そして段々うまくなっていき夏本番となる。それはセミだけでなく、うぐいすも、ホトトギスも最初は下手だけれど、段々それらしくなってきて、そのあとは素晴らしい鳴き声になるのだそうです。     だとすれば、私たちも初めは下手な生き方しかできなくても、イエス様に導かれてだんだんうまく生きることができる。うまい生き方とは、いつもニコニコしながら神様に守られて生きることなのです。笑顔を忘れないで。

誰と共に歩くの

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「誰と共に歩くの」 箴言  13:20  知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。 エクササイズ本の中でメトカーフという人が、「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と書いています。彼は、「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切なのでしょう。 箴言の 13 章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。 女子パウロ会の本に『動物の祈り』というものがあります。そのなかに「カメの祈り」もあります。「神様。どうかちょっとお待ちを。今まいります。私のお荷物は背負っていかねばなりません。別に好きこのんで背負ってるわけではないのですが・。いいえ、背中にのったこの家に不満なわけではありません。けっこう役に立つのですから。けれども主よ。おわかりくださるでしょうが年中運んで歩くとなるとなかなか重いものなのです。私に与えてくださったこの二重の束縛、甲羅と心の二重のかせゆえにあなたに対して心をとざすことがないようにいつも祈りつづけさせてください。ア-メン」私たちはこれが自分の祈りだというものを持っています。それは自分の弱さかもしれません。しかしそれを聞いてくださる神様も同時に持っているのです。 箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。イエス様が共に歩んで下さるということを考えてみ...

礼拝へ

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きままな休日・ベルリンのカレー

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ベルリンで食べた料理。    う~ん、チキンカレーでしょう。    でもカレーでない味がした。クリーム煮なのか。    それでも美味しいのは間違いない。 ドイツ料理って素朴?いや何と表現していいやら~

聖霊降臨日

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『慢』  落語家の志ん生が、次のようなことを書いていました。「うめえとかうまくねえとか、ひとのやっているのを聞いて、そういうことをいうについちゃ、べつにものさしがあるわけじゃありませんが、ひとのはなしイ聞いてみて、『こいつはおれよりまずいな』と思ったらまず自分と同じくらいの芸ですよ。『オレと同じくらいかな』と思うときは向こうの方がちょいと上で、『こいつはおれよりたしかにうまい』と感心したひにゃ、そりゃあもう格段のひらきがあるんですよ」。なるほど。     「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚してる煩悩なのだそうです。自分中心に考えることは、どの宗教にとってもよろしくないことなのでしょう。     自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないでしょうか。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。私たち一人一人の中心がなんであれ、その人を生かしも殺しもするのです。