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『旬のものは旬が』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『旬のものは旬が』  教会のささやかな庭には、いまブロッコリ-とタカナが植えてあります。偉そうにいっても、あわせて五本ですが。大部分の場所は春に備えて休ませているのです。土地を休ませるなどということは最近教えていただいたのですが。     さて野菜を作らせていただいて思うことは、買った方がはるかに安いということです。苗や種はそんなに高くないのに、それに必要となる手間、時間、虫との戦いを考えると溜息がでてきます。しかもよく取れる時にはス-パ-でも、とても安く買えるのですから。それでも作らずにはおれないのはどうしてなのか。いろいろ考えてみると、こころから感謝して食べることができるからだと思います。なんというか、神様が作られたものを食べるという実感。命あるものをいただいているという実感。その命に少しでも参与しているという思いが感謝につながるのです。食卓の野菜から感謝が広がっていくのです。     反面、いま収穫されない野菜が並んでいると、複雑な気持がいたします。旬のものは旬がおいしい。

「清楚感」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「清楚感」 マタイ  2:11  家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 秋になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。   かあさんいない落葉がとんでいくばかり  この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。もうひとつ。 秋の空やわらなそうな雲の城  青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。  秋はとても清楚な気持ちになります。これはどこからくるのでしょうか。きっと神様が造ってくださった自然が秋の「清楚」なものを持っており、夏の激しさからの安心を与えてくれているのかもしれません。私たちはこの清楚の中にある清潔感が好きなのかもしれません。  クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。  あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。  「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事の...

『ポロロ~ン』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『ポロロ~ン』  東京へ久し振りにいってまいりました。しかも、広島から十二時間の道のりをバスに揺られて。明け方の雨の中でみた東京は、初めて上京した時の新鮮な気持を持たせてくれました。しかし、バスの旅は一度で充分です。     今回もまた東京で新しいことにであいました。それは、新宿駅のホ-ムの発車ベル音が琴の音に変わっていたのです。確か去年までは、「ジリリリリ~ン」というやかましいものでした。今回は、「ポロン、ポロロ~ン」という音でなんとものどかな感じなのです。     新宿駅といえば毎日、何百万という人が乗り降りする駅として有名です。しかも緊張した、もっといえばイライラした気配の駅でもありました。そこでは、発車寸前に飛び乗る人もいれば、怪我をする人もあったことでしょう。ケンカなどはよくしてたものです。ところが今回新宿駅にいった時、まったく違った感じを受けました。     このポロロ~ンという音が、その駅を変えてしまったようです。ジリリリ~ンと警告の音をやめて、心に余裕がもてるポロロ~ンという音に変えたことにより、警告しなくてもよくなったのです。心に余裕をもって御言葉を聞きたい。

「光を迎える」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「光を迎える」  ヨハネ  1:4-5  言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。 中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。  ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。 クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第 22 番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が 270 度のときでだいたい 12 月 22 日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ 4 世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。 イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらしま...

礼拝にどうぞ

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きままな休日・油揚げコロッケ

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   不作だったというじゃがいもをたくさんいただきました。    ということで定番のコロッケとガレット!芋尽くしです。    コロッケってほんとうに家庭の味ですよね。 我が家は最近ころもに油揚げを使用しています。 中に詰めてあげるだけ。簡単なんです。    コロッケに味の素と醤油をぶっかけて食べるのが大好きです。 最高にに合わせな時間ですばい。

楽しかったザビエルツアー

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中高生キャンプで ザビエルツアーをしました!