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『なまえ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『なまえ』  久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、 ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想したり教えられました。     さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。     多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。     私たちは名前を持っています。同じ様に神様にも名前があります。どうかその名前だけは大切にしてください。その名前とは、イエス・キリストの父です。

「教える人は聞かない?」

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鹿児島ルターくんの朝のみ言葉 「教える人は聞かない?」  マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」 キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。  イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。  最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。  イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

礼拝で待ってます!

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きままな休日・どんじゅう

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熊本に「どんじゅう」という定食屋さんがあります。 このごはん!大盛りですですが、なnんとこれで700円 素晴らしい!食欲の秋ですね。

いよいよです!

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『~らしさ』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『~らしさ』  福富護氏の「らしさの心理学」という本は、次の文で始まっています。     「『智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい』。みなさん御存知の夏目漱石の『草枕』の一節です。世のなかは理屈どおりに機能しているわけでなく、感情のおもむくままでもない。無理して頑張っても窮屈でしかない。そう考えてみると、『自分らしく』ということがどんなに大変なことかわかる」。この本を読みながら、私たちがよく「~らしく」というけれども本質がみえてないことが多いと気づかされます。教会の前においてあるプランタ-は、この晴天続きで草花が根付きません。しかし水もやらないのに雑草だけはキチンとはえてくる。しかも水をやらないのに枯れない。不思議だなと思います。これも「雑草らしく」ということでしょうか。     神様の前で「私らしく」ありたいと思えば思うほど、違う自分を作り出しそうでいやになります。しかし、神様はちゃんと「あなたらしく」を知っておられるに違いないと確信していいです。

自分のいいとこ20

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 すみません!アップができてませんでした!   「自分のいいとこ20」   ヤコブ   2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。 「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。  聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。   有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。  「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと...