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毎週土曜日に待ってます!

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今年も1年間お世話になりました。 新しい年もよろしくお願いします。 土曜日礼拝は2018年もけいぞくしてまいります。

気ままな休日・熊本駅の駅弁

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はじめて熊本駅で駅弁を買いました。 とろ玉にひかれました。半熟卵ですね。牛肉も甘くて美味しかったです。 ただ、冷たいのがね~~~。この弁当は温かくして食べたいです!

クリスマス礼拝が終了!

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クリスマスおめでとうございます。 それぞれの教会でクリスマス礼拝が行われました。

『脱線聖書研究』

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『脱線聖書研究』  花粉症とは無縁とばかり思い込んできました。ところが今月になって目はかゆいし、くしゃみはでるし、鼻水は止まらず困っています。どうして突然そうなったのかわかりません。どこからか「三十才になって体質が変わったからよ」と聞こえてきました。こんなところにも年令の壁があるなんて・・・。      さて「聖書を学ぶ会」では、ルカによる福音書を読んでいます。私の聖書研究ですから、脱線研究になってしまいます。しかし脱線の中でいろいろな発見があるから楽しいです。とくに発見したことは、五人いれば五人のイエス様がおられるということです。それぞれに出会いも違うし、関わりも違う。しかしそれが一人のイエス様であることにはかわりありません。      『信仰は一つ』という言葉があります。いろんな考え方があっていい。けれど信仰という恵みにおいては一つであると思います。だからこそ、脱線聖書研究があっていいのだといえます。私はこう思う。いや私はこう聞こえる。そんな意見が飛び交う聖書研究会がいまは楽しみの一つです。

「身でわかる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「身でわかる」 ルカ 6:44 木は、それぞれ結ぶ実によってわかる  ネット朝日に、次のような記事がありました。 名古屋市交通局は、市バスの男性運転士が、同市でバスを運行中に、乗客を置いたままバスを乗り捨てたと発表した。バスには乗客8人がいたが、25分後に代行バスに乗り換えるなどした。交通局によると、運転士は、地下鉄高畑駅のバス停を出発する予定だったが、発車直前に乗客から病院への行き方を尋ねられ、発車が1~2分遅れた。車内の別の客から「早く行け」などと遅れをとがめられ、運転士は憤慨、一つ目のバス停を約400メートル過ぎた所で突然停車し、バスを乗り捨てた。運転士は約1時間後に歩いて営業所に戻ったという。運転士は交通局の調べに、「注意され、怒ってしまった。バスを放置してしまい、大変無責任なことをした」と反省しているという。こんな記事でした。 これを読んでみて、何かおかしいなと感じました。何がおかしいのか。それは運転士さんだけが無責任なのではないと思います。彼は親切に病院の行き方を教えていたのでしょう。その状況がわかっていながら「早く行け」といった乗客の言葉にもおかしさを感じるのです。どちらにも心の余裕が必要と思いました。 ルカ福音書でも有名な「平地の説教」の中にある、み言葉です。「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」といわれているように、神様から与えられた賜物によって、どんな実をつけるかが大切です。しかし、実をつけるのは私たち自身です。人はその人の実しか結ぶことができないのです。良い人に良い実が。ただ、考えておかないといけないことは、なにを持って「良い」とするかです。 道元禅師の言葉に「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」というのがあります。霧の中を歩いていると知らない内に衣服が湿ってきて重くなるということです。濡れるともなく濡れるということでしょうか。人間の生き方も同じで、知らず知らずに、ということが多いと言われているみたいです。ところが、少し考えを変えてみました。人生は知らず知らずのうちに身に付くものがあるというのなら、美しいもの、楽しいもの、感動するものの中をたえず歩こう。知らず知らずのうちにそれらを持つことになる。生きるのが苦しいとか、仕事が大変だと思ってばかりだと背中が重くなってくる...

『リズム』

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 クレヨン牧師のミニエッセイ 『リズム』  教会にて「PTA母親コ-ラス」の打ち上げ会が行なわれました。私が生れて初めて指揮棒を振った、あの究極のコ-ラスのものです。ビデオをみながらカラヤンほどでないにしろ、なかなか上手にやっているのに感心しました。      打ち上げ会には、ずっとコ-ラスの指導をしてくださった音楽の先生もきてくださり、楽しい時を過ごしました。その会である方が、「先生、どうしても歌のなかで拍子が一拍ずれてしまうのですが、どうしてでしょう」と質問されました。すると先生は、「四十才を越えたらしかたありません」と答えられました。人間にはリズムがあり、二十代のリズム、三十代のリズム、四十才を越えるとどうしても一拍遅れるリズムになるそうです。やはり余裕の一拍でしょうか。      信仰にもリズムがあるように思います。あるときはアップテンポで、あるときはスロ-で、またあるときはリズミカルに。しかし忘れてならないのは、どんなときでも神様が、私たちのリズムにあわせてくださるということです。

「聞くだけではなく」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「聞くだけではなく」 ヤコブ   1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。 聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。 北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。   落葉焚けばおもしろ、   櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。   萱(かや)の葉はちょろちょろ、   松の葉はぱちぱち。  なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。 ヤコブは「 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。 たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。