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明日は礼拝です

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説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)

「スタートでありゴール」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「スタートでありゴール」    「古賀政男メロディー」といえば、日本人の心に響く音楽だと言われています。私の時代ではないですが、古賀メロディーを聞けばなんとなくホッとするのも事実です。父などは大正琴でよく聞いておりました。    さて、古賀さんが残した四千曲のなかで、一つだけを選んでくださいといわれたら、あなたは何を選びますか。ほとんど人たちが「影を慕いて」を選ぶのだそうです。ということは、古賀作品の最初の曲です。古賀さんがまだ大学生だった頃の作品で、全く無名時代のものです。    「初めがスタートでありゴール」という言葉があります。最近このことの重みを感じます。それは、毎日聖書を読んでいても、初めて読んだあの高校生の時のような感激がもどってこないのです。そのような経験はありませんか。ルターは「毎日、あたかも初めて開くかのごとくに聖書を読む」と言ってます。そのことがどれだけ難しいかを実感します。    もういちど、最初に戻ってみましょう。そのときの喜びを感じてみましょう。それが失われていないならば、あなたは毎日キリストと出会う感激をもつことができるのです。

「マイナスがあるから」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「マイナスがあるから」 2 コリ   12:7 そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。  私達は試練が与えられると、その「できごと(試練)」しかみえなくなります。そこしか見えなくなると、試練ばっかりをみつめてそこから抜け出せなくなるのです。ヘレン・ケラー女史は「苦しみの扉が一つ閉まると、新しい幸せの扉が一つあく」と言う言葉を残されました。苦しみの中にあっても、かならず幸せの扉はあいていると言うのです。苦しみを受け入れた時、神様は必ず幸せの扉をあけてくださるのです。 パウロの生涯は、誇ってもいいものです。現在のキリスト教があるのもパウロの宣教力があったからだと思います。しかし、パウロは思いあがることのないように神様から「とげ」が与えられたと言います。具体的にそれが何かはわかりません。しかし、その「とげ」のゆえにいつも神様と向き合うことができるというのです。試練や苦しみをひとつの「とげ」として、それをマイナスに捉えず、神様との出会いのチャンスと考えているところが信仰だと言えます。この信仰のゆえに、どんなこともあきらめない信仰者パウロが生れたのです。  パ ウロ使徒言行の旅をしたことがあります。そこで、パウロをそこまで宣教へ駆り立てたものは何だったのかと考えていました。イエス様との出会いによって回心したパウロ、しかしそれだけではなかったことでしょう。何回も彼の宣教旅行、回心などを読んでいまして、ふとこれかもしれないと思えることにぶつかりました。それは、聖ステファノの殉教です。パウロ(当時はサウロ)は、ステファノの殺害に賛成しています。しかし、自らは石を投げず、彼を取り囲んで石を投げている者たちの洋服の番をしていたと聖書には書かれています。パウロの原点はここかもしれないと、ピンと思い当たったのです。殺害に賛成しながらも自らはあたかも傍観者のごとくに振る舞ってしまったパウロ。そのことが彼の心の痛みになっていたのではないかなと思います。最後まで自分に石を投げつける者たちのことを祈って召されたステファノ。その輝きの中で、主イエスにパウロはであったのではないかなと思います。そのことの悔い改めが、彼を救ったのでしょう。 神様の前で完全であること...

「悔改めを」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「悔改めを」    ある歴史雑学の本に、アレクサンダー大王のことが書かれてありました。アレクサンダー大王といえば、全世界を自分の手に治めた王です。    その雑学の本には、「アレクサンダー大王は、当時の世界を自分の手の中に握っていた。その彼が死ぬとき、『われを葬るときに、わが両手を開いたままで、棺の外にだしておいてくれ』と遺言したそうである。天下を握ったと思った手に、実は何も握っていなかったことを知った、というなぞなぞだったのだ」と書かれてありました。    この本を読んだとき、さすがに天下を統一する人は違うなと思いました。しかし、よくよく聖書を読めば、神様に従った王様はダビデをはじめとしてすべて謙虚であることに気がつきます。実は全てを手に入れたと思ったときに罪を犯しているのです。    神様の前で謙虚になる時はどんな時でしょうか。それは全てが自分の手ではどうしようもなくなった時です。そこにくるまでに人は分からないのです。    ところがもっとも謙虚にならなければいけない時があります。それは全てが順調にいってる時です。「いま神様がなさっている」「これをしてくださっているのは神様だ」と感謝し、ひれ伏すことです。もしそれができないのであれば、「悔い改め」を祈るしかありません。

「食事時間に向かい合う」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「食事時間に向かい合う」 マタイ   26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 最近の調査では。ごはんを一人で食べる人が増えてきたといいます。それぞれが生活のリズムをもっており、一緒になることが減ったのでしょう単身赴任のときは食事はひとりでとりました。でも一人はとてもさみしいものです。会話も味の内ですから、食事は一人で食べるよりも、みんなで食べる方がおいしいのです。教会では礼拝後に共に食事をします。それだけでも有意義な教会の交わりです。そこに会話が生れます。その場所を創っていくことも必要と思います。  イエス様は、人々と食事を共にすることを大切にされました。あるときは罪人とされた人達と。ある時は5千人の人たちと。またある時はファリサイ派や律法学者たちとも食事をされています。この食事のときに奇跡が行われたり、重要な対話がなされたり、福音のみ言葉を語っておられます。十字架におかかりになる前にも、「どうしてもこの食事がしたい」と、過越しの食事をされました。   我が家では食前の祈りを、子どもたち一人一人がするというルールがありました。まだ小さかったこともありますが、長女はいつも「神様。今日も一日守って下さい。お食事をイエスの名によって感謝して、アーメン」と祈っていました。次女もいつのまにか祈るようになりましたが、2歳でしたので言葉がわかりませんでした。さて、それからしばらくして。夜の食事になり次女から祈りはじめました。するとはっきりわかるように「神様。今日も一日守ってください。おねえちゃんが元気で幼稚園にいけますように。お食事をアーメン」と、自分の言葉で祈ったのです。実はその日は、長女が風邪をひき幼稚園を休んでいたのです。幼子というのはこれだから神様の祝福をうけるのだなと悟りました。食事の時に奇跡は起こるものです。  イエス様は、弟子たちと十字架のまえの食事でパンをとり「 取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。それは 弟子たちとの最後の食事(最後の晩餐・過越しの食事)のときでした。この食事は現代の教会でも聖餐式として...

きままな休日・アメリカのランチ

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バーベキュウのお店で。 これで一人分だって、、、 無理無理!お腹いっぱいでした。

鹿児島教会にCaféができる

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間もなく教会にCaféができます。 インターネットが使用できるカフェです。 お楽しみに