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「否定語を使わずに」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「否定語を使わずに」    「ひと言のちがい」という本に次ぎのような話がありました。    「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。    さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけづにすむものです。「京都の人は否定語を使わずに断るのがうまい」と作家・渡辺淳一さんは言います。どのようにうまいかといえば、男性がデートに誘う。相手方がその気がなければ次のようにやわらかく断る。「おおきに、ほんまごいっしょでけたらよろしおすな」。こういうふうに言われると傷つくほうも少ないように思えます。    さて、主イエスの言葉はどうでしょうか。主イエスによる否定語ということを考えてみますと、あまりピンときません。むしろどんな御言葉にも励まされているように思えます。たとえいけないという言葉でも、それが私たちのことを考えた深い言葉であるならば、人は前向きに受け取ることができるのです。主イエスの御言葉はどんな言葉でも感謝して受け取ることができるのです。

「ミッションを明確に」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ミッションを明確に」   ヨハネ   2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。 震災救援活動も3ヶ月目に入りました。緊急救援からはじまり、物資支援、がれき撤去、仮設支援とその活動も広がってきました。ところが「活動は点が多く線になってない」「線と線がつながって面になっていない」と心配されています。東日本で活動した私にとってもそれは心配するところです。 支援センターを訪問し、なぜ点が線、線が面になっていかないかを考えてきました。そこで問題となるのは「救援活動のミッションは何か」ということです。スタッフ・ボランティアもこのミッションが共有されているかどうかです。ルーテル教会救援「でしたしこ」のミッションは被災者と徹底的に寄り添うことだと思います。そのために物資支援等が行われてきました。このミッションがはっきりしていることで、活動の原点に立つことができつながりが生まれるのです。しかもこのミッションは、これから被災地で一番求められることです。  ガリラヤのカナで婚礼が行われ、イエス様と母マリア、弟子たちが参加していました。婚礼の席でぶどう酒がなくなり、母マリアはイエス様にぶどう酒がなくなったことを訴えます。その答えが「 わたしの時はまだ来ていません」というものでした。イエス様の時とは、この世にきてくださったミッションが完成する時です。ヨハネ福音書では「栄光の時」と示されています。  イエス様は「 わたしの時はまだ来ていません」と言われました。イエス様の時とは十字架と復活を意味しています。そのミッションに集中しておられる。そのミッションのためにすべての出来事はつながっています。私たちキリスト者によって大切なことは、イエス・キリストのミッションを絶えず確認し、それを共有し、共に福音にあずかることです。

「自然と求めるもの」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「自然と求めるもの」    「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているもの」と、どこかで読みました。そこで振り返ってみますと、私の場合は野菜が食べたくてしかたありません。ということはビタミン不足かなと思います。    さて、あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきにくらいに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返したのではなかったでしょうか。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。    いまにして思えば、あの頃の母は仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。    自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうとか、この本ばっかり読んでいるとか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の求めているものだと言えます。私はどれだけ、主イエスのことを考え、御言葉を口に出しているだろうか。そこに求めているかどうか、自分を吟味している秋です。

「それでも寄り添って」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「それでも寄り添って」 マタイ  17 : 6  弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 熊本地震と東日本大震災の違いがあるとすれば、被災者の心のケアと自立支援だと思います。「恐れ」と「不安」の違い、家は残っているがこれからどうするという問題もあります。どうしてよいかわからない状況の中で、いま一生懸命に踏ん張っておられる方があります。しかし、それでも、これでもかと続く余震と大雨。もううんざりします。しかし、その中に私たちは神様をみる瞬間があります。 イエス様はエルサレムへ向かう前、タボル山で変容されたと聖書は記しています。そのとき、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけがそこにいました。真っ白に輝き、モーセとエリアと話しておられる姿を見た時、神様の言葉が聞こえてきたとき、弟子たちは「非常に恐れた」とあります。直接、語りかける神様の声を聞いたからです。その体験は弟子たちの心の中に深く刻まれています。受け取った出来事は、弟子たちにとって恐れとして刻まれたのです。 先週は大きな余震がありました。これまでも毎日のように余震はありましたが、最近では久しぶりに特に大きく揺れました。もっとも恐怖だったことは「大雨・洪水警報」が出され、各地で大きな被害がでたことでした。被災者のみなさんは時間がさかのぼり 4 月 14 日 16 日が再び心の底から突き上げてくる状況におかれました。共に働いている被災者の方は、「もういや。もうたくさん。なんで地震や大雨がくるの」との叫んでおられました。復旧への道を歩み始めた被災者に、これでもかというくらい余震が続き、更に別の災害がおこる。そのたびにあの日がよみがえってくる。私たちも何もできずに寄り添っているしかない。毎日が痛み苦しみとの戦いなのだということを教えられています。やっぱり、それでも踏ん張るしかないのです。 イエス様は恐れている弟子たちの近づき、手を触れていわれました。「恐れることはない」。恐れる弟子たちに近づいて手で触れておられます。ここにイエス様の愛を見ることができます。恐れのなかにあっても、イエス様は共にいてくださるということです。手で触れてくださるというのです。私たちのとなりにいてくださるイエス様が恐れる人たちに触れてくださる。私たちはそう信じて寄...

きままな休日・じじやの新幹線寿司

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新幹線が運んでくるお寿司です。 これで3400円はすごおおおおおおい また味もおいしかったですよ。

阿久根でコンサート

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チェンバロ 加藤麻衣子さん プロフィール エリザベト音楽大学、東京藝術大学大学院修了。 2010 年、トゥールーズ地方音楽院をプルミエプリを得て卒業。 2013 年、同音楽院にてチェンバロの DEM 取得。 2014 年、トゥールーズ高等芸術院にて、国家演奏家の資格を取得。これまでに、トゥールーズの国立オーケストラ、 J.P. カニヤック率いる古楽アンサンブルのサックブチエを始めとする数々のアンサンブルと共演。また、古楽器ホルン奏者の J. ランバックやサックブート奏者の D. ラサル、 F. ミリシェールと共演。 2010 年、ジャン = ルイ・フローレンツ国際オルガンコンクール優勝並びに、フランス芸術院よりグランプリ受賞。 2013 年、ジンバーマン国際オルガンコンクールファイナリスト。同年、グザヴィエ・ダラス国際オルガンコンクール第 3 位、聴衆賞受賞。オルガンを戸沢真弓、廣野嗣雄、椎名雄一郎、 M. ブヴァール、 J.W. ヤンセンの各氏に師事。 日本福音ルーテル東京教会オルガニスト。日本オルガニスト協会、日本オルガン研究会会員。   ヴィオラ・ダ・ガンバ 木村鐘靖さん  プロフィール 1959 年生まれ、幼少よりヴァイオリンを広瀬大喜氏に師事、高校 2 年生の時、熊本交響楽団に入団。大学生の時、グループ葦と出会い、ヴィオラ・ダ・ガンバを引き始める。

土曜日は鹿児島教会へ

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説教者:立野泰博牧師(主任) どうぞお越しください。