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麦の芽ホーム訪問のあと

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麦の芽ホームへ訪問のあとは ソフトクリーム!美味しかったです。

明日は礼拝です

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「どこに焦点を」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「どこに焦点を」    説教集「神様の色鉛筆」がやっと出版にこぎつけました。ひとつの本を出版すると、さまざまな反応が返ってきます。その反応が、ときには大変な気づきとなることがあります。    さて、今回の説教集への反応は二通りあります。その一つは、「若い感覚の説教集ですね」「わかりやすい説教です」「簡単な言葉で神様の福音が語られているような気がします」といったもの。これはルーテル教会内の方々からの反応です。    一方、もう一つの反応は、「前回のクレヨンからはちょっと難しくなりましたね」「私たちにはついていくのがやっとです」「考えさせられる内容でした」「少しミッションの学校でのことを思い出しました」といったものです。この反応は教会外の方々、結婚式で教会に来てくださった方々の反応です。    この二つの反応から、牧師が語る内容は、とても難しく受け止められているのだと思いました。教会内の方々は聞き慣れた内容だけに、それが変わった視点で語られることに好意的だといえます。しかし、教会外の方々にとっては、もっと分かりやすい内容、言葉にしなければ福音は届いていかないのだと気がつかされました。言葉(キリスト)を伝えることは、大変な作業です。どこに焦点を合わせるのか、そのことがこれからの課題です。

「大切であるとわかる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「大切であるとわかる」 ルカ  15:6  人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。 東日本大震災救援活動の時、関西にある保育所の園長さん2名をつれて、石巻市北上にある相川保育園を訪問してきました。阪神・淡路大震災を経験された園と、東日本大震災で被災された相川保育園をつなぐ役割を果たしました。子どもたちの命、防災、心のケアについて熱心に語られていました。相川保育園の玄関には7段ひな人形が飾られていました。趣のあるしっかりとしたものです。相川保育園の被災のことを新聞で知った関西の老夫婦が、長年大切にしてこられたひな人形を寄贈してくださったのです。ひな人形から感じられる雰囲気でしょうか、これまで大切にされてきた様子を感じました。子どもたちもしっかり眺めて大切にしているそうです。きっと人形から、大切にされてきたことを感じ取っているのでしょうと、園長先生が語られていました。 イエス様はルカによる福音書で「見失った」たとえを3つ語られました。「見失った羊」「見失った銀貨」「見失った息子(放蕩息子)」の話です。これらの話に共通することは、失われたものが発見されたときの喜びの大きさです。その喜びの大きさによって、それがいかに大切なものであるかを知るというのです。失くしたものの大切さは、再び得たときにわかるものです。 熊本地震支援活動も、新しい段階にはいりつつあります。益城などはまだ緊急支援です。しかし、宮地、一の宮の阿蘇は落ち着いて今後は自立支援に変わっていきます。この自立支援へ移行するのが一番大変です。ここでうまくいかなければ、これまでも、今後もかなり生活支援が難しくなると東北で学びました。その中で被災地の子どもたちのために、阿蘇 YMCA 尾ヶ石保育園では森のブックカフェができています。自然災害でうけた心の傷は、自然が癒す。思いっきり自然とあそんで、森のブックカフェでひとやすみ。一人の魂を大切にするブックカフェです。 イエス様は、見失った羊を見つけた羊飼いは人々を集めて「 見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うと教えられました。羊飼いにとって1匹の羊は、大切なかけがえのない存在です。それがわかるように羊飼いは人々に示すと言われ...

「それぞれの信仰」

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クレヨン牧師のミニエッセイ牧師 「それぞれの信仰」    娘が3人与えられていますが、それぞれの性格の違いに驚いています。その中で(まあ、3番目はまだわかりませんが)、かなり積極的なのは、次女です。誰に似たのでしょうか。    実は次女には「ゆうすけ」くんという、好きな男の子がいるのです。その子へのアタックは親も驚くほどなのです。まず、ゆうすけくんに「誰が好きか」と聞いたそうです。彼は「まなちゃんといっちゃん」と答えました。すると次女は、遊んでいたいっちゃんを連れてきて、「どっちが好きか」と聞いたらしいのです。彼は優しいので、「両方」と答えました。納得しないのは愛美です。「それじゃどっちと結婚するか」と詰め寄りました。彼も「両方」とは言えなかったのでしょう。「○○ちゃんとする」と答えてくれたのです。次女は得意になって報告してくれました。「わたしゆうすけくんと結婚することに決めた」。    この押しの強さを少しわけてもらいたいほどです。たぶん次女の信仰もこのようなものではないでしょうか。「ストレート信仰」だと思います。一方長女は違います。これは「てれやの信仰」でしょう。良く言えば「おしとやかな信仰」でしょうか。彼女の信仰は「イエスさまおまもりください」によく現れているといえます。    どんな信仰でも、受け継いでくれたらそれだけでアーメンです。

「はじまりの視点」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「はじまりの視点」 1ヨハネ   4:6 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。 海外で出版されたビジネス書の翻訳本を読んでいます。面白い内容ですが、どこかできいたようなフレーズがたくさんでてきます。「人にしてもらいたいことをする」「大勢よりも一人を大切に」「種が全体を膨らませる」「内から出るものに気をつけよ」。そこには聖書の言葉がたくさんでてきます。表現自体は変わっているのですが、翻訳の問題なのでしょう。しかし、あえてビジネス本の中でよむと新鮮に感じました。結局基本は神様のみ言葉にあるということです。み言葉を生活の中で聞いているか、それをどう生きているかを問われています。どの視点から聖書を読むかで全く違うのだとおもいます。ただ、始まりの視点がどこか、神様か人か金かでまったく違うものです。私たちはすべてのことを「神様」から始めねばなりません。  ヨハネは「霊」に関して、それが神様からでた霊かどうか確かめなさいといいます。ヨハネにとって「霊」の問題は、イエス・キリストとの関わりの中で考えられるべきであるというのです。その見分けかたは、イエス・キリストが肉をとってこられたと告白する霊か、そうでないかによるといいます。根本にあるのは信仰告白であり、中心はイエス・キリストであるということです。そのことはイエス様のみ言葉によって公にされていることを確かめることです。  教会では臨床宗教師と行政の話し合いが持たれました。現在被災地にカルトが入ってきているとのことでした。キリスト教や仏教の顔をしながら、支援品やお金をばらまいているようです。人の痛み苦しみにつけ込んで、最終的には人を惑わす道に引きずり込もうとしているのかもしれません。私たち臨床宗教師は公共性をもちながら活動しています。公共性と言う中には「惑わす」と言うこといっさいありません。宣教を目的としない宗教者とは考えられませんが、それこそが公共性であり惑わさない寄り添いだと言えます。  ヨハネは「 真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」といいます。それは神様を知ることに...

きままま休日・初めてのシュラスコ!

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初めてシュラスコを食べに行きました。 どんどん出てきます。さすがにおなか一杯。 ブラジル料理・串焼き肉などをそいで食べさせてくれました。