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2019年感謝!

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今年も感謝でした。 新年礼拝は熊本の大江教会のみで行われます。 2020年もどうぞよろしくお願いします。

「何のために片づけ?」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「何のために片づけ?」 マルコ  11:13  葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 広島ではお好み焼きをよく食べます。広島の人たちはお好み焼きが大好きで、いたるところにお店があります。美味しい店の特徴は、鉄板の種類とその厚みにあるようです。20ミリ以上というのがいいとか、銅板がいいとか、いろいろありますが。先日のお店は鉄板を大切にされており、焼くたびに鉄板を綺麗に磨き整えておられました。いつもピカピカです。お店のご主人に「なぜ?たびたび磨くのですか?」と聞いてみました。すると、意外な答えでした。「今日最後の片づけのために」でした。火を落とすときのためだと言われたのです。 イエス様はベタニアの街で、1本のいちじくの木を呪われました。しかし、この話は私には釈然としないものがあります。イエス様は、いちじくの実がなる季節ではないときに、「実がなっていないか」と思われたのです。それがなっていなかったために呪われ?(聖書では言葉を言われただけですが)たのです。いちじくの木は枯れてしまいました。神様に求められたときにすぐに応えることができる「準備」をしておかねばという話なのだと思います。しかしそれだけではなさそうな気がします。 鞆の浦・仙酔島というところで宣教会議が行われました。なぜ?なにのためにここなのかと思いました。ここは離島になっているからです。午後10時になると船がなくなってしまいます。家に帰れない、何もない所での会議でした。しかし、「何のために生きているのか気づかせてくれる島」というコンセプトで、新しくオープンした民間委託の国民宿舎でした。しかも、目の前は海。ですから自然を感じていただくために、部屋にはテレビがありません。料理は最高。温泉も最高というところです。私たちは朝から晩まで、模造紙を広げてとことん話し合うことができました。島から出られないし、遊ぶ場所もない。雨が降っているので外へは出られず。こんなもってこいの環境でした。しかも、波の音がすばらしく感動しました。なんと寝るときにたえず波の音が聞こえてくるのです。こんなにリラックスして眠れたのは久しぶりでした。 私たちの実は何だろうか。信仰の実は何...

きままな休日・ポットラック!

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教会の特別な祝日には よくポットラックがあります。 いわゆる持ち寄りパーティです。 これがすごいんです。 次回はいつかな~

クリスマス礼拝

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今年も無事にすべての礼拝を終えることができました。 クリスマス礼拝には30名を超える方々が! 新しい年も神様の祝福を祈ります。

明日は今年最後の礼拝

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2019年最後の礼拝です。 説教:立野泰博牧師(主任) どうぞお越しください!

「信仰のセンターライン」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「信仰のセンターライン」  六日市集会の行き帰りはとても楽しいひとときです。落語を聞いたり、音楽を聞いたり、説教を考えたり、伝道計画を練ったりしています。ところが、帰り道で大変なこともあります。それは、濃霧がでたときです。それでも1年に5回位でしょうか。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうこともあります。先々週がそうでした。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。  私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。ところが、足元をみれば、きちんとセンターラインがあり、それが道を教えてくれるのです。 私たちの人生は道だとすれば、センターラインとは何にあたるのでしょうか。それぞれの人によって違うでしょう。私たちキリスト者にとっては、「キリストの御言葉」でしかありません。ひとつひとつの白いラインが「キリストの御言葉」であるならば、その道は確かに神様へとつながった平安の道であるといえます。 濃霧に悩まされながらも教会の十字架の灯が見えたとき、守られていたことを実感できます。すべてのラインは主の十字架へとつながっているのです。

「何がわかるか」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「何がわかるか」  フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。  フランシスコ・ザビエルの言葉に「神もイエスも知らない人は、いったい何をしっているのだろう」というものがあります。自分が何を知っているかを考えるとき、本当に知らねばならないことを知っているのかと問いたくなります。たくさんの本を読んで知識があっても、その人が本当に知らねばならないのは、他にあるかもしれません。生命の神秘を探求するために顕微鏡をのぞいても、そこに神を発見できないならば真実を知っていることにはなりません。どんなに多くの知識があってどんな難問に応えることができても、イエス様の何を知っているでしょうか。それに答えられないとすれば、真実を知っていることにはなりません。だとすれば「何」をという問いは私たちにとって永遠の問かもしれません。  パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。私たちが「何」を知り、それをどう求めているか。いつも考えています。 ある新興宗教の宣教師たちと対話を持っています。82万の信徒がおられるそうです。全世界には何人かはわかりませんが。キリスト教ではないと扱われてきました。どこがどう違うのかを知って話し合う機会が与えられたのです。しかし、やっぱり対話にはなりません。マニュアル通りの受け答えしかないからです。いくら質問してみても、マニュアルのような本で「それはここです。その問題はこれです」という具合です。わたしはこう信じています、という声が聞こえてこないもどかしさを感じます。それでもまた来ますといわれると、「マニュアル通りではないあなたの言葉を聞かせて」と思うのですがだめなのです。信仰にはマニュアルはないと思います。信仰にあるのは、「私はこのように信じさせていただいている」という自分の告白だけです。何を信じているか、どのような信仰を与えられているか、それ...