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明日は礼拝と総会です。

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説教:立野泰博牧師(主任) 礼拝後に定例総会が行われます。

「その人に応じるサービス」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「その人に応じるサービス」  礼拝のことを「サービス」といいます。いわゆるあの「サービス」と同じです。しかし誰が「サービス」を受けるのかといえば、それは私たちです。ということは、「サービス」してくださるのは神様ということになります。  先週、今年西教区に来られた牧師の歓迎会があり、有馬温泉に行ってきました。日本三大温泉のひとつとあって、なかなかのものでした。しかし、もっと満足したのは、その旅館の「サービス」でした。いろいろとあるのですが、一番感動したのは、タオルです。実は私たちは4人部屋だったのです。当然タオルも4本ありました。そこまでなら普通のことです。しかしそこのサービスは、タオルの柄は一緒でも、色が4色用意されてあったのです。つまり、間違わないように色を変えてあったというわけです。本当のサービスとは、このようなものかなと思いました。お風呂のタオルひとつとっても、この旅館のサービスがわかるように、それはもういたれりつくせりだったのです。  神様の「サービス」とはこのようなものだと言えます。なにからなにまで、用意してくださっている。しかし、その人に応じてすべて変えてあるのです。その人の状態によって、試練を用意してくださる。これもサービスです。同じように計り知れない恵みも用意してくださっている。このような神様が、羊飼いである主イエスなのです。今日の礼拝ではどんなサービスをいただきましたか。

「内面で何を考えるか」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「内面で何を考えるか」 2コリ  5:15  生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 牧師候補生の面接では、まず召命観について聞かれます。簡単にいえば「あなたはなぜ牧師になるのか」ということです。しかし、それだけではありません。本当は「神様から牧師になるためのどんな招きをうけましたか」ということです。この微妙な違いは卒業が近くなると変わってくるように思います。初めの頃は「自分が、自分が」と語られるのですが、「主が、主が」となってくるからです。私が中心でなく、キリストが中心になったときに牧師として宣教に立つ準備完了となるわけです。 パウロは自己推薦と誇りの問題について再び語ります。パウロが語る福音は、自己推薦ではなく神様と人々の和解ということです。その務めを果たしてきたといいます。また誇りというのは、外面的なものでなく内面的なものであり、その人の内面になにがあるかを問われるとのべています。自分自身のために生きる人が多い中で、自分の救いのために死んでくださった方がおられる。そのことを思い、その方のために新しい生き方をしていこうと励ましています。その方こそキリストであると言うのです。 カトリックの黙想集「実る人生」に次のような文を見つけました。「外面の静けさと内面のあらしといった対照的な状態がよくあるものです。重要なのは、どこにいるか、ではなく、なにを考えているか、ということです」復活の朝、その知らせを婦人たちから聞いたペトロは走って墓を見に出かけています。ペトロにとってこの出来事は内面のあらしではなかったかと思います。十字架の上で死んだイエスがそこにおられないのです。外面上は静かな時間が過ぎています。人々はイエスの十字架の出来事に打ちのめされていたのですから。ペトロは空っぽの墓をのぞいたとあります。そこには亜麻布しかありませんでした。このとき何をペトロは考えていたのでしょうか。大切なことは、この出来事を前にして何を考えることができるかということです。  パウロは「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」といいます。パウロの内面にはキリストが生きています。そのキリストがパウロの内面にあって福...

「水仙の小径」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「水仙の小径」  まさかこんなに、時間の余裕がなくなるほど仕事が多くなるとは思ってもみませんでした。毎週あちこちと出張旅行していると、春を感じる余裕さえないことに悲しさを覚えます。  そんな生活の中で、ふと足を止めてみたくなる小道を発見しました。その小道は柳井から田布施へむかう道の途中にあります。昔はたんぼの畦道だったのでしょうが、いまは小さな舗装道路になっています。その小道はたんぼの間を一直線に山へむかっているのです。それだけなら足を止めたくはないのですが、なんとその小道は道の両側に花が咲いているのです。たぶん水仙の花だと思うのですが、片方には白い水仙が一直線に咲いています。もう片方には黄色の水仙がこれまた一直線に咲いているのです。山に向かう約500㍍ほどでしょうか、それはもう水仙の滑走路のようにただひたすら真っすぐに咲いているのです。なんとすてきな小道なのかと、つい車からおりて歩いてみました。とてもすてきな気分になり春を満喫したのです。  先週からクロスウェイズ聖書研究会がはじまりました。この会を通して私たちは一直線に聖書のメッセージを聞くことができました。とにかく分かりやすいのです。この道を歩いていけばきっと聖書がわかるような気がします。あの水仙の小道を歩くようなすがすがしさを感じるのです。

「本当に所有しているの」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「本当に所有しているの」 マタイ  13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。  「あなたは何を持っていますか」と聞かれた時、どのようにこたえるでしょうか。特別に何をと言う答え方ができるかなと思います。物はたくさん持っていますが、人や、思い、考えなども持っているものになるならば、いったい何を持っているのかと考えてしまいます。もしかすると持っていると思っているだけで、本当は持っていないかもしれません。私はこれを持っていますと言える人は幸せな人生を送っているのです。 「種まきのたとえ」を聞いた弟子たちは、「なぜたとえで語られるのですか」とイエス様に質問をしています。たとえ話は、み言葉の真理を分かりやすく説明するものです。弟子たちにとって、なおわかりにくい話だったのかもしれません。弟子たちは、与えられている神様のみ言葉を自覚し何を持っているかがわかっていなかったのでしょう。そうなるとイエス様のたとえ話も理解できない難しい話となります。 何回かの引越で「ため込む」「捨てる」という問題にぶちあたりました。引越の荷物より、捨てる荷物が多かったのです。どうしてこんなに物をため込んだのか?結局2tトラック2台分ありました。3人の子どもの小さいときからの洋服や物。思い出があり捨てられない物。2,3回つかって放置された運動品。趣味でためこんだ陶器。布団。結局どうしようもなくて、すべて処分してしまいました。「捨てる」ことの難しさを感じます。「もったいない」と思うと、捨てられないのです。かといって使用するわけでもなく。けれど捨てられずに悩んでしました。どうすれば捨てられるか?引越屋さんが来て荷造りが間に合わない瞬間に捨てる決心がつきました。イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を背負って従ってきなさい」と教えてくださいました。捨てることの難しさを知って、あえて言われたのです。物が捨てられない私が、自分を捨てることができないのは当然のことです。ため込むことがいかに無駄を生み出すかを知らされました。内にため込んでしまうと、新しいものは何もはいってきません。自分という大きな荷物を空っぽにしてはじめて、神様を迎えるスペースが空くのです。捨てられないのは、た...

気ままな休日・阿久根教会のおにぎらず

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礼拝後にすぐに鹿児島教会に移動! すると阿久根教会の皆さんが「おにぎらず」を 作って持たせてくださいました。感謝!

世の光として輝く

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鹿児島教会の電灯をきれいにしてくださいました。 輝きが違います。感謝!