2017年8月31日木曜日

『旬のものは旬が』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『旬のものは旬が』

 教会のささやかな庭には、いまブロッコリ-とタカナが植えてあります。偉そうにいっても、あわせて五本ですが。大部分の場所は春に備えて休ませているのです。土地を休ませるなどということは最近教えていただいたのですが。
 
 さて野菜を作らせていただいて思うことは、買った方がはるかに安いということです。苗や種はそんなに高くないのに、それに必要となる手間、時間、虫との戦いを考えると溜息がでてきます。しかもよく取れる時にはス-パ-でも、とても安く買えるのですから。それでも作らずにはおれないのはどうしてなのか。いろいろ考えてみると、こころから感謝して食べることができるからだと思います。なんというか、神様が作られたものを食べるという実感。命あるものをいただいているという実感。その命に少しでも参与しているという思いが感謝につながるのです。食卓の野菜から感謝が広がっていくのです。
 
 反面、いま収穫されない野菜が並んでいると、複雑な気持がいたします。旬のものは旬がおいしい。

2017年8月30日水曜日

「清楚感」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「清楚感」

マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

秋になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。

  かあさんいない落葉がとんでいくばかり

 この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。もうひとつ。

秋の空やわらなそうな雲の城

 青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。

 秋はとても清楚な気持ちになります。これはどこからくるのでしょうか。きっと神様が造ってくださった自然が秋の「清楚」なものを持っており、夏の激しさからの安心を与えてくれているのかもしれません。私たちはこの清楚の中にある清潔感が好きなのかもしれません。

 クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。

 あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。

 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事のなかに、神様の清らかさ清楚を感じます。

2017年8月29日火曜日

『ポロロ~ン』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『ポロロ~ン』

 東京へ久し振りにいってまいりました。しかも、広島から十二時間の道のりをバスに揺られて。明け方の雨の中でみた東京は、初めて上京した時の新鮮な気持を持たせてくれました。しかし、バスの旅は一度で充分です。
 
 今回もまた東京で新しいことにであいました。それは、新宿駅のホ-ムの発車ベル音が琴の音に変わっていたのです。確か去年までは、「ジリリリリ~ン」というやかましいものでした。今回は、「ポロン、ポロロ~ン」という音でなんとものどかな感じなのです。
 
 新宿駅といえば毎日、何百万という人が乗り降りする駅として有名です。しかも緊張した、もっといえばイライラした気配の駅でもありました。そこでは、発車寸前に飛び乗る人もいれば、怪我をする人もあったことでしょう。ケンカなどはよくしてたものです。ところが今回新宿駅にいった時、まったく違った感じを受けました。
 
 このポロロ~ンという音が、その駅を変えてしまったようです。ジリリリ~ンと警告の音をやめて、心に余裕がもてるポロロ~ンという音に変えたことにより、警告しなくてもよくなったのです。心に余裕をもって御言葉を聞きたい。

2017年8月28日月曜日

「光を迎える」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「光を迎える」

 ヨハネ 1:4-5 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。

中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。

 ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。

クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第22番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときでだいたい1222日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ4世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。

イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。

2017年8月26日土曜日

きままな休日・油揚げコロッケ

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   不作だったというじゃがいもをたくさんいただきました。
   ということで定番のコロッケとガレット!芋尽くしです。
   コロッケってほんとうに家庭の味ですよね。
我が家は最近ころもに油揚げを使用しています。
中に詰めてあげるだけ。簡単なんです。
   コロッケに味の素と醤油をぶっかけて食べるのが大好きです。
最高にに合わせな時間ですばい。

2017年8月25日金曜日

2017年8月24日木曜日

『誓約の見直し』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『誓約の見直し』

 教会では、今結婚式の依頼が多くなってきました。いままで結婚式の式文をあまり注意してみませんでしたが、最近いろんなところを見直しはじめました。キリスト教の結婚式では何を大切にしているか、誰でもわかるようにしようとしているのです。その中で一番見直したのは誓約の部分です。次のような誓約もあります。
 
   〇〇さんに、尋ねます。
  問 あなたは〇〇さんを妻としますか。
  答 はい。     
  問 あなたは、あなた自身を彼女に与え
    彼女の夫として、仕えることを誓いますか。
  答 神の助けによって、約束します。

 キリストの生き方は、ご自分を与え仕えることに徹しておられたのではないでしょうか。これが結婚をささえる誓いではないかと思うのです。

2017年8月23日水曜日

「定められています」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「定められています」

ルカ 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。

 イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。

 動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。

 イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオンの預言をとおして受難を知った母マリアでしたが、その預言ゆえに今をいきることができたのです。

2017年8月22日火曜日

『慣れても忘れない』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『慣れても忘れない』

 今年は珍しく雪が降りました。といっても六日市の方からすれば、少ないと言われそうですが・・・。それでも娘にとっては生まれて初めての雪です。華美がどんな反応をするか楽しみで外へつれだしました。初めて雪を見た華美は、目をパチクリしながら動こうとしません。ついには泣き出してしまいました。たぶんいつもと違う世界に怖くなったのかもしれません。そういう意味では慣れということが、私たちに安心を与えてくれるのです。しかし反面これは大事なことを見過ごしてしまう恐れもあります。
 
 雪が降らないことに慣れていた私は、ベコニアを外へ出したままにしておきました。すると雪が解けてみたら、全部枯れていたのです。雪には弱いと知っていながらも、いつのまにか雪は降らないことに慣れてしまい、大失敗でした。
 
 神様と私たちの関係も同じかもしれません。私たちが神様に慣れてしまう。ある意味では安心感があってのことですが、反面忘れてしまうのではないでしょうか。神様の場合は『慣れても忘れない』が基本だと思います。神様は決して私たち一人一人を忘れないお方なのです。

2017年8月21日月曜日

「約束を信じる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「約束を信じる」

ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。まずは神様の力を信じることが求められていると思います。

 イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。

 保育園では新年度がはじまると、帰りの時間近くに門のところに立っている子どもたちがいます。お迎えを待っているのです。保育園に泣きながらやってくる子どもたちです。小さな子どもたちが、たとえ昼間であっても親元からはなれて園で生活するのは大変ことです。不安で寂しいのでしょう。朝から泣き叫ぶ子どもに親たちは約束をしていきます。「5時には迎えにくるからね」と。だから門のところで待っているのです。しかし、多くの親は5時に迎えに来ることはできません。園長先生は「できない約束はしないでください」と言われます。この時、子どもの心のなかで「信じる」ということがどのように受け止めているのでしょうか。

 エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。

2017年8月19日土曜日

きままな休日・鹿児島はとんかつでしょ!

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ま~~~~~お盆の帰省客で鹿児島はいっぱい。
まさかこんなに暑いので観光ではないでしょうが人がいっぱいです。
で、いつもなら少し並べば食べられる豚カツも時間がかかるんです。
それでも食べなきゃきがすまないんですね~
やっぱり豚カツは大好きです。元気も出ますし。
栄養もいいでしょう!
また来週もたべたいな~~~

2017年8月18日金曜日

鹿児島教会に中高生が!

九州教区中高生キャンプが
鹿児島教会で行われました!
ルターとザビエルがてーまでした!

2017年8月17日木曜日

『身のほどほど』



クレヨン牧師のミニエッセイ

『身のほどほど』

 身のほどほど   平岩弓枝「自分の限界というものを考える年令になってしまった。折にふれて、身分相応とか、身のほど知らずなどという言葉が頭の中を走り回る。そのくせ。自分を制御出来るかというと、そうでもない。
 
 身のほどを知ったほうがいいのか、それとも知らずに過ごせるのが幸せか、それが問題である」 (新潮社『波』19902より転載)新共同訳聖書で創世記から読んでいます。新しい訳で読むのは初めてですが、なかなか考えさせられています。いまアブラハムにイサクを神様が与えられるという場面です。主が老齢のアブラハム・サラに「あなたは男の子を生む」と言われたときに、ふたりは『笑った』と記されています。そんなバカなことが、身のほど知らずと思ったことでしょう。しかし、実際にはイサクが生まれてくるのです。
 
 身のほどを知ることは、自分の人間としての限界を知ることでもあり、それを越えた神様の業を知ることでもあります。身のほどを知ったうえで、神様の無限に信頼したいですね。

2017年8月16日水曜日

「心強い存在がある」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2017年8月15日火曜日

『小説家を分類すると』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『小説家を分類すると』

 作家・開高健氏が、ある本の序文の中で次のように書いています。
 
 「小説家をある観点から分類してみると、大別して二種類あるようである。一つは自分の書いたものが活字になり単行本になると、それを手にとって繰り返し繰り返し読んで舌打ちしたり恍惚となったりしている人物。もう一種は書いている時は熱中もし、真撃でもあるのに、書き上げるとつきが落ちて、雑誌や単行本になって送られてきたのを押し入れかどこかにそそくさとほりこんで見向きもしない人物である。そして数年後ふと思い出して夜更けに読み返し、オヤ、なかなかいいこと書いているじゃないかと、ニンマリしたりする」最近、聖書日課の原稿依頼を受けました。気安く引き受けたものの、ことの重大さに胃がいたくなりそうです。しかし、これも神様が与えてくださったチャンスと考えて、祈りつつ熱中しているところです。
 
 私自身を開高氏の分類からすると、前者の方じゃないかなと思います。自分が人に神様の話をしたその話で、自分が慰められるような福音を語りたい。

2017年8月14日月曜日

「わかっているから」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

2017年8月12日土曜日

きままな休日・大地の恵みポーク・ももハム


中高生キャンプでは8キロのももハムを食べました。
何とも贅沢。熊本にある大地の恵みポークからです。
ドイツを学びポークハムを食べる。楽しい企画でした。

2017年8月8日火曜日

『二九時間一二分』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『二九時間一二分』

 「一日に何時間あればいいと思いますか?」というアンケ-トをビジネスマンにした。その結果、回答の平均は何と「二九時間一二分」だったそうです。皆さんあと五時間欲しいと思っておられるのでしょう。その五時間が生活にゆとりができる時間と考えておられるのかもしれません。
 しかし、実際には残業が五時間増えるだけになりそうです。この結果にもとづき売り出されたのが、二五時間時計です。とても実用性には欠ける品物ですが、飛ぶように売れていると聞きました。これに気をよくして売り出されたのが、十時までしかない時計です。もっとゆったりとした一日を送りたいと願っている人もいる、という逆転の発想です。この時計は1時間を七二分に分割してあるのだそうです。
 神様が私たちに平等に与えられているものに、「時間」というものがあります。その時間をどのように使うかは、私たちに任されています。ある旧約学者は次のように言ってます。「人間の時間は、いつも脅かされ、危険に満ちた時間でもある。人間の時間は、救済し、解放することによって、新たに授け直される必要がある。病気によって危機がくるように、治療によって救いがくる」

2017年8月7日月曜日

「別の道を」

 
鹿児島ルター君の朝のみ言葉

 
「別の道を」

マタイ 2:12 「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ある教会からの帰り道でのことでした。通り抜けようとス-パ-の信号へ差しかかったとき、地面を動いているものを発見しました。よく見るとカニが道路横断中だったのです。わりと大きなカニで体調十センチはあったでしょうか。しかも、車がどんどん通り過ぎるなかを、車に対してはさみを振り上げ威嚇していたのです。それを見ながら二つのことが頭に浮かびました。「一、自分を知らないということは恐ろしいことだな。二、ここに道路さえなかったら、カニは死なないでよかったろうに」ということです。そしていろいろと考えながら、自分を知らない人間ほど恐ろしいものはないという結論に達したのです。自分を知ること。これには自分を別な角度から見ることが求められます。第三者の視点、それがは別の視点であり、神様の視点だと思います。

イエス様の誕生のとき、東方から3人の博士がやってきます。彼らはまず、ヘロデの所に向かいます。ユダヤ人の王様が誕生することを星によって知らされていました。ヘロデはこれを聞いて不安を感じます。自分ではない王様が誕生するというのです。その後3人の博士はベツレヘムでキリストを拝みました。これがクリスマス礼拝です。ところがイエス様の誕生を知ったことで、ヘロデから命を狙われることになり、神様が示される別の道を通って自分たちの国に帰ることになりました。

 大都市の交差点には、目の不自由な方のための音の出る信号が設置されています。とくに車の流れが多く危ない所に設置されています。ところが、ある都市ではこの音がなるのは午後7時までと決まっているそうです。理由は周辺住民から、その音がうるさくて騒音だという苦情があったのだとか。市の管理、警察が話し合って午後7時までにしたというのです。「目の不自由なものは午後7時以降の外出はするなということですよ」と、それを利用している方が言っておられました。それが必要ない方にとっては騒音になる。しかしそれが必要な方々おられる。何かよい別の方法はないのかなと思いました。その方法を考えるのは「管理者、住民、目の不自由な方」の3者と、それを聞いた私たちなのだろうと思います。共に生きるという視点から考える時に、神様が別の方法を教えてくださるのではと思うのです。

 クリスマスの時、3人の博士は「別の道を通って・・・帰って行った」とあります。この別の道を示されたのは神様でした。ヘロデの難から逃れるための道です。私たちの人生、行き詰ったときでも必ず道が用意されています。その道を見いだすには、つねに神様のみ言葉に触れていないといけません。別の道も神様の道なのです。

2017年8月3日木曜日

『涙は必要です』



クレヨン牧師のミニエッセイ

『涙は必要です』

 保険会社が、「家庭生活と涙」をテ-マにしたアンケ-ト調査を試みました。涙を通して家庭に求められている潤い、コミュニケ-ションの大切さを考えるためのものでした。その結果をみれば、人はどんなときに涙をながすかうかがえます。例えば、主婦の七割が自分を、「涙もろい」と判断しています。また主婦の過半数が、「人知れず涙を流すことがある」と答えています。人知れず流す涙は、「思い切り泣ける」「家庭が暗くなることへの配慮」であり、その涙は「悲しい涙」が最も多いとあります。また仕事を持つ主婦の三人に一人が「悔し涙」をあげています。
 
 ところで、夫の涙を見たことがある主婦は約四割にのぼります。感想として、「素直に見せてくれてうれしかった」「夫の気持が分かるようになった」と、互いに心通じあう効果を認めています。そんなこんなで、八割以上が家庭生活に涙は必要と評価しています。
 
 「涙は人間がつくるいちばん小さな海です」と言ったのは、寺山修司氏です。そういえば、イエス様が笑ったという記事はありませんが、涙を流されたことはありました。涙を通して通じあうものが「愛」なのでしょう。 

2017年8月2日水曜日

「向かい合う

鹿児島ルター君の朝のみ言葉
「向かい合う」
マルコ  12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。
はじめて赴任した教会には幼稚園がありました。その園で飼っている鶏とアヒルは、注意深くみると私たちに素晴らしい警告を与えてくれました。それは人間も同じだなということです。
ある時、こんなことがありました。毎朝えさをあげるのですが、えさの桶は二つあります。二羽しかいませんので、一羽に一桶という計算になります。単純にはそうですが、この桶の取り合いが傑作なのです。ちゃんと同じにわけても、一つの桶を二羽が取り合いをするのです。しかも最初に口をつけたほうを、二羽で取り合いをしている。たまたま一羽が途中でもう一つに移れば、またそれを取り合いしているのです。これを眺めながらある意味でぞっとしました。他人のものはよくみえるということは、人間に限らないということです。そこに欲望・恨み・嫉妬の根源があるような気がします。自分は何を見ているか、何と向かい合っているかが問われます。
 イエス様の時代には、神殿にラッパの形をした献金箱がおかれていました。人々はこのラッパに向かって多くの献金を投げ入れていたのでしょう。その中にわずかな献金を入れたやもめがいました。イエス様は、やもめを無視なさいませんでした。金額の大小ではなく、やもめの信仰に目をとめられています。投げ入れたか、入れたかは大きな違いです。イエス様は賽銭箱の向かいに座っておられ目をとめられたのです。
 いじめが原因で自殺した小学生のニュースがありました。いつ聞いても胸がつまります。同じ年頃の女の子をもつ親として痛みを覚えます。今回も学校の対応、教育委員会の在り方に疑問をもちました。PTA会長をやっていた時と同じ疑問です。なぜ向かい合うことができないのかなと。ある時、市PTA連絡協議会で中学校のPTA会長さんと席が同じになりました。その方が、なぜPTA会長をしているかを話してくださったのです。彼は「自分の娘は中2で妊娠し子どもを生みました。そこから地獄の日々を過ごしました。学校も先生も教育委員会も娘を助けてくれなかった。でも親である私はそこで娘と真剣に向かい合ったのです。その時、私一人が最後まで向かい合う決心をしたのです」と教えてくれました。
 イエス様は、賽銭箱の向かいに座っておられました。すべての人と向かい合っておられたのです。そこで1人の貧しいやもめと出会われました。イエス様が彼女の中に何をみたのか。それはすべてを神様に捧げる信仰だったのです。向かい合ってはじめてわかることがあります。

2017年8月1日火曜日

『ほほえみ』

クレヨン牧師のミニエッセイ

『ほほえみ』
 8月になりました。一年というのは早いものです。
 今年は何をしたか、いやしなかったか。あれこれ考えながらクリスマスを迎えようとしています。
 今春は思い出の多い年でもありました。そのなかで、『ほほえみ』という詩にであった年でもありました。
    もしあなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら
   不愉快になるかわりに
   むしろあなたの方からほほえんでごらんなさい
   実際、ほほえみを忘れた人ほど
   あなたからのそれを必要としている人はいないのだから                    (                渡辺和子著作集より)
 一息ついて隣人のことを考えることができたら、といつも思います。