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5月, 2019の投稿を表示しています

明日は礼拝です

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説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)

「スタートでありゴール」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「スタートでありゴール」    「古賀政男メロディー」といえば、日本人の心に響く音楽だと言われています。私の時代ではないですが、古賀メロディーを聞けばなんとなくホッとするのも事実です。父などは大正琴でよく聞いておりました。    さて、古賀さんが残した四千曲のなかで、一つだけを選んでくださいといわれたら、あなたは何を選びますか。ほとんど人たちが「影を慕いて」を選ぶのだそうです。ということは、古賀作品の最初の曲です。古賀さんがまだ大学生だった頃の作品で、全く無名時代のものです。    「初めがスタートでありゴール」という言葉があります。最近このことの重みを感じます。それは、毎日聖書を読んでいても、初めて読んだあの高校生の時のような感激がもどってこないのです。そのような経験はありませんか。ルターは「毎日、あたかも初めて開くかのごとくに聖書を読む」と言ってます。そのことがどれだけ難しいかを実感します。    もういちど、最初に戻ってみましょう。そのときの喜びを感じてみましょう。それが失われていないならば、あなたは毎日キリストと出会う感激をもつことができるのです。

「マイナスがあるから」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「マイナスがあるから」 2 コリ   12:7 そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。  私達は試練が与えられると、その「できごと(試練)」しかみえなくなります。そこしか見えなくなると、試練ばっかりをみつめてそこから抜け出せなくなるのです。ヘレン・ケラー女史は「苦しみの扉が一つ閉まると、新しい幸せの扉が一つあく」と言う言葉を残されました。苦しみの中にあっても、かならず幸せの扉はあいていると言うのです。苦しみを受け入れた時、神様は必ず幸せの扉をあけてくださるのです。 パウロの生涯は、誇ってもいいものです。現在のキリスト教があるのもパウロの宣教力があったからだと思います。しかし、パウロは思いあがることのないように神様から「とげ」が与えられたと言います。具体的にそれが何かはわかりません。しかし、その「とげ」のゆえにいつも神様と向き合うことができるというのです。試練や苦しみをひとつの「とげ」として、それをマイナスに捉えず、神様との出会いのチャンスと考えているところが信仰だと言えます。この信仰のゆえに、どんなこともあきらめない信仰者パウロが生れたのです。  パ ウロ使徒言行の旅をしたことがあります。そこで、パウロをそこまで宣教へ駆り立てたものは何だったのかと考えていました。イエス様との出会いによって回心したパウロ、しかしそれだけではなかったことでしょう。何回も彼の宣教旅行、回心などを読んでいまして、ふとこれかもしれないと思えることにぶつかりました。それは、聖ステファノの殉教です。パウロ(当時はサウロ)は、ステファノの殺害に賛成しています。しかし、自らは石を投げず、彼を取り囲んで石を投げている者たちの洋服の番をしていたと聖書には書かれています。パウロの原点はここかもしれないと、ピンと思い当たったのです。殺害に賛成しながらも自らはあたかも傍観者のごとくに振る舞ってしまったパウロ。そのことが彼の心の痛みになっていたのではないかなと思います。最後まで自分に石を投げつける者たちのことを祈って召されたステファノ。その輝きの中で、主イエスにパウロはであったのではないかなと思います。そのことの悔い改めが、彼を救ったのでしょう。 神様の前で完全であることは素晴ら

「悔改めを」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「悔改めを」    ある歴史雑学の本に、アレクサンダー大王のことが書かれてありました。アレクサンダー大王といえば、全世界を自分の手に治めた王です。    その雑学の本には、「アレクサンダー大王は、当時の世界を自分の手の中に握っていた。その彼が死ぬとき、『われを葬るときに、わが両手を開いたままで、棺の外にだしておいてくれ』と遺言したそうである。天下を握ったと思った手に、実は何も握っていなかったことを知った、というなぞなぞだったのだ」と書かれてありました。    この本を読んだとき、さすがに天下を統一する人は違うなと思いました。しかし、よくよく聖書を読めば、神様に従った王様はダビデをはじめとしてすべて謙虚であることに気がつきます。実は全てを手に入れたと思ったときに罪を犯しているのです。    神様の前で謙虚になる時はどんな時でしょうか。それは全てが自分の手ではどうしようもなくなった時です。そこにくるまでに人は分からないのです。    ところがもっとも謙虚にならなければいけない時があります。それは全てが順調にいってる時です。「いま神様がなさっている」「これをしてくださっているのは神様だ」と感謝し、ひれ伏すことです。もしそれができないのであれば、「悔い改め」を祈るしかありません。

「食事時間に向かい合う」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「食事時間に向かい合う」 マタイ   26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 最近の調査では。ごはんを一人で食べる人が増えてきたといいます。それぞれが生活のリズムをもっており、一緒になることが減ったのでしょう単身赴任のときは食事はひとりでとりました。でも一人はとてもさみしいものです。会話も味の内ですから、食事は一人で食べるよりも、みんなで食べる方がおいしいのです。教会では礼拝後に共に食事をします。それだけでも有意義な教会の交わりです。そこに会話が生れます。その場所を創っていくことも必要と思います。  イエス様は、人々と食事を共にすることを大切にされました。あるときは罪人とされた人達と。ある時は5千人の人たちと。またある時はファリサイ派や律法学者たちとも食事をされています。この食事のときに奇跡が行われたり、重要な対話がなされたり、福音のみ言葉を語っておられます。十字架におかかりになる前にも、「どうしてもこの食事がしたい」と、過越しの食事をされました。   我が家では食前の祈りを、子どもたち一人一人がするというルールがありました。まだ小さかったこともありますが、長女はいつも「神様。今日も一日守って下さい。お食事をイエスの名によって感謝して、アーメン」と祈っていました。次女もいつのまにか祈るようになりましたが、2歳でしたので言葉がわかりませんでした。さて、それからしばらくして。夜の食事になり次女から祈りはじめました。するとはっきりわかるように「神様。今日も一日守ってください。おねえちゃんが元気で幼稚園にいけますように。お食事をアーメン」と、自分の言葉で祈ったのです。実はその日は、長女が風邪をひき幼稚園を休んでいたのです。幼子というのはこれだから神様の祝福をうけるのだなと悟りました。食事の時に奇跡は起こるものです。  イエス様は、弟子たちと十字架のまえの食事でパンをとり「 取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。それは 弟子たちとの最後の食事(最後の晩餐・過越しの食事)のときでした。この食事は現代の教会でも聖餐式として行われて

きままな休日・アメリカのランチ

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バーベキュウのお店で。 これで一人分だって、、、 無理無理!お腹いっぱいでした。

鹿児島教会にCaféができる

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間もなく教会にCaféができます。 インターネットが使用できるカフェです。 お楽しみに

明日は礼拝です

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説教者:立野泰博牧師(主任)

「一冊の本から出会い」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「一冊の本から出会い」    関西地区の「教会学校キャンプ」に参加してきました。今年が三十二回目のキャンプだそうです。歴史の重さと内容に感動して帰ってきました。このキャンプのスタッフの中には、キャンプで育てられた青年たちがいます。その青年たちがこのキャンプの機動力となっているのです。    さて、その青年スタッフから声をかけられました。めったに若い女性から声をかけられないので、ビックリしました。その内容はといえば、「『神様のクレヨン』を書かれたのは先生ですか。毎晩寝る前に一頁づつ読んで日課にしています」ということでした。    なんだかとっても嬉しくなりました。そして、神様のなさることに感謝しました。あの一冊の本を通していろいろな方と出会わせてくださるのです。「『神様のクレヨン』が聖霊の力に導かれますように」と祈ってきました。その祈りに神様が応えてくださっています。これからさきこの一冊の本がどのような働きをしてくれるのでしょうか。いまはこのように祈っています。    「神様、私と『神様のクレヨン』をどんどん用いてください」

「合わせる」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「合わせる」 1 コリント   3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。 ちょっと前に事ですが、マクドナルドの注文カウンターに60秒の砂時計が置かれていました。どんなサービスでしょうか。これまで、平日半額とか、バリューセット、いろいろ選べるマックチョイスなどがありました。今回は注文したものが60秒以内に出せない場合はポテト無料クーポンをプレゼントするというサービスです。これは、お客さん自身が食べたいものを組み合わせるようになったため、何百通りの組み合わせができます。そのことで商品を出す時間が遅くなり、お客さんの回転率が下がり、売り上げが落ちてきているということのようです。面白い企画だなと思いました。お客さんにとっては「早い」という利点があります。もし遅い場合でも、ポテトで得したという喜びがある。お店にとっては、回転が速くなることで売り上げがあがる。一番大切なことは社員教育・サービス向上になるということです。待たせないサービス訓練です。驚いたのは、一つの企画がサービスする側と受ける側の両方に働くということでした。しかし、よく考えるとこれは共に働くと言う事ではないかなと思いました。 パウロは教会を、神様が奉仕者たちを用いて「耕作する畑」「建てる建物」といいます。ここに神様の同労者であるという表現が用いられています。これは神様と共に働く者という意味ではなく、神様のために、神様に用いられて、私たちが共に働く者という意味です。神様と同じことをしているという意味ではありません。 組織の中で心が落ち込んでいく原因は3つあるといいます。それがひどくなると鬱(うつ)になるそうです。その3つ思いは、1)誰からも好かれたい。2)完璧にしようと思う。3)自分の思い通りになる環境を求める。だそうです。この3つ目がなかなか難しいものです。自分の思い通りの環境に人を合わせることを求めるのです。自分があわせるのではなく、人を自分に合わせようとする。それは、人を無理やり作りかえることです。それができないことに苦しみ落ち込んでいくのです。自分の方がその環境に合わせて、その中で何が出来るかを考える方がよいのですが。 パウロは「わたしたちは神のために力を合わせ

「生かされて人を見る」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「生かされている人を見る」    「信仰の継承」という言葉をよく聞きます。しかし、それがどんなことなのか、どんな信仰を継承するのか疑問に思えることがあります。継承することは大切ですが、信仰の押しつけにならないことを望みます。    我が家の娘たちも自分の言葉で祈るようになりました。少し祈り方を教えましたが、あとは自由に祈ることを黙認してきました。聞いていて首をかしげるものもありましたが、その一生懸命さに感激しています。そんな娘たちも、最近は驚くべき祈りをします。先日もこのように祈ってました。    愛美「神様、この食事を感謝します。食べれない人も祝福してください。○○ちゃんが風邪をひきました。癒してください。アーメン」。    華美「神様、この食事をおいしく食べられるようにしてください。今週礼拝にこれなかった人も祝福してください。病気の人も祝福して、なおしてください。イエス様によって祈ります。アーメン」。    きっと、教会でどなたかが祈っているのを聞いていたのでしょう。そしてその祈りを覚えたのだと思います。「祈りなさい」と教え込むのではなく、祈ることの素晴らしさを感じとってほしいものです。娘たちがこれからどんなことを継承してゆくのでしょうか。しかし、大切なことは子どもたちがどんな大人たちの背中を見ていくかです。その点、教会に集う子どもたちは幸せです。キリストに生かされている大人たちをみることができるからです。  

「蒔こうよ種を」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「蒔こうよ種を」 マルコ  4:3  よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 地方の教会を訪問しました。徐々に人がいなくなり、すでに礼拝出席10名の教会になっていました。礼拝のあと食事をしながら、この教会はあとどれくらい存在していられるかという話になりました。もって10年という意見が多く、みな暗い雰囲気につつまれました。そのとき一人の青年が次のように言いました。「イエス様の種まきのたとえを読んでいるのですが、収穫は大切なことです。でも、種を蒔かずに長年刈り入れを続けてきたせいで、種を蒔く必要性を忘れてしまったのではないかと思います」と。種を蒔かなければ収穫はありません。蒔かないところから収穫をしようとしているのが今の教会かもしれません 。 イエス様が語られたたとえ話のなかでも「種まき人」は有名です。種まき人が種を蒔いたところ、道ばた、土の薄い石地の上、茨の中、よい土地の上に落ちたというものです。良い土地に落ちた種は、芽を出し、成長し、実を結びます。他の所に落ちた種は実を結ばないという教えです。イエス様はこの種のことを「神の言葉」であると言われました。すべてのものに蒔かれている「神の言葉」は成長し、実を結ぶと教えておられます。 野村克也元楽天監督の本を読んでいます。そこに「監督の大きさ以上のチームにはなれない」とありました。そのとおりだと思いました。監督の人間的な大きさが、そのチームの大きさとなるのでしょう。これを牧師のスケールの大きさが、その教会の大きさとなると読むと、なかなか厳しいものがあります。どんなチームでも上にたつものの大きさが問題かなと。どこまで状況を受け入れ、指示がだせるか。一番大切なことはどれくらいそのチームを愛しているかということかもしれません。 イエス様は「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われました、この「よく聞きなさい」をいままで、種が落ちたところのことについて「よく聞きなさい」と言われたのだと聞いていました。しかし、「種蒔きに出て行った」という言葉についても言われたのかもしれません。教会の成長はやはりみ言葉の種を蒔くことからだと思います。

きままな休日・ピーナッツバターのハンバーガー

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衝撃的な味でした。 う~ん、ピーナツバターはいらないよね~

ユースセンスカフェ

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鹿児島教会は インターネットカフェを準備中です。

明日は礼拝です

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説教者:立野泰博牧師(主任牧師) お待ちしています。  

「ケンカしてても」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「ケンカしてても」    いつもケンカばっかりしていても、やっぱり姉妹はどこかで助け合っているものだなと思います。我が家の娘たちは、時間があればささいなケンカをしています。親が注意するのが面倒になるくらいケンカをしているのです。    さて、先週のことでした。長女が一泊保育のために幼稚園へ行きました。次女もその日ばかりはケンカする相手もなく、静かに遊んでいました。ところが次の日のことです。次女がいつもより早く起き、その日の第一声は「おねえちゃんを迎えに行こう」でした。きっと一人でさみしかったのでしょう。ところがそれからが大変。お姉ちゃんの下駄をもって、「はやく迎えに行こう」の連発。郵便局へいっても、スーパーへ行っても、その下駄を握りしめて離さないのです。やっぱり姉妹なのだなと思いました。いつもあんなにケンカばっかりなのにと。    キリスト者は兄弟姉妹といわれます。兄弟姉妹には仲がいいときもあるし、意見が食い違うときもあります。はたまたケンカになることだってあります。しかし、キリストの十字架というきずなで結ばれているのです。そのきずなにあって赦しあうことができるのです。    正午に幼稚園に迎えにいったときの次女の第一声は「なにしとったん」でした。長女は「いいじゃん」といってまたケンカがはじまりました。  

「ありがとうを返す」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「ありがとうを返す」 ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。イエス様と私たちの関係も同じかもしれません。  ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。   真夜中のことでした。午前2時頃にベットに入りました。三女がいつものように隣に寝ていました。ちょっと頭をなでてあげていたら、なんと寝言で「神様いつもありがとうございます。アーメン」とお祈りしたのです。夢でもみているのでしょうが、寝言の中でもお祈りできるって素晴らしいなあと思ってしまいました。この話を家族にしました。すると全員「ご飯を食べている夢を見てたんじゃない」というのです。そう考えれば、毎回の食事時にそれぞれがお祈りすることになっていますので、「神様ありがとう。アーメン」は三女の毎日の祈りでもあるのです。しかし、夢の中でたべる食事でさえもお祈りして感謝できることって素晴らしいと思ったのです。  神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛され

「一歩一歩を」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「一歩一歩を」    「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。    私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。    いま徳山教会はどこに行こうとしているのか。目的地はどこなのか。それを考えています。宣教する教会となるには、目的が必要です。主イエスはそのことでどのような御言葉をくださるのでしょうか。    「向こう岸へ渡ろう」。私たちにとって向こう岸とはどこなのか。みなさんといっしょに向こう岸を探したいと思います。そして一歩一歩をていねいに歩いていきましょう。

「本当の勇気を教える」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「本当の勇気を教える」 マタイ 5:39 わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 ブッダの教えに「先に傷つくのは自分」というものがあります。たとえ相手が悪人であっても、怒ったり攻撃したりすれば、自分もよけいな罪を犯して不幸になると。悪をなすのは相手であって、それに対して怒ると、自分もその怒りに汚染されるというのです。たとえば、怒りによって相手に汚物や炭火を投げようとすれば、先に汚れ、火傷をするのは相手ではなく自分である。相手が身をかわせば自分の手だけが汚れるというのです。 イエス様の教えで、最も知られたものの一つです。これは律法の中にある「目には目を、歯には歯を」という「同害報復」をとおして、加害者も被害者も同じ痛みを受けることを定めたものです。これに対しイエス様は、一切の復讐を放棄しなさいといわれました。それは悪への屈服でも単なる無抵抗でもありません。それができるためには、よほどの勇気が必要であり、弱い態度ではありません。イエス様の十字架も敗北(死)をもって勝利(復活)へと導かれたものでした。 ヒンズ-教の聖典に、バ-ガヴァタ・プラ-ナというものがあります。そのなかに次のような話があります。あるとき、一羽のカラスが、くちばしに一片の肉をくわえて空を飛びました。二十羽のカラスがそれを追いかけて、意地悪く攻撃しました。するとついにカラスは肉片を落しました。追いかけていたカラスは、彼一羽を残し声をあげながら肉片を追って飛び去りました。一羽だけ残ったカラスは、「ここは平和になった。空全体がぼくのものだ」といいました。本当に大切なものは何かを見分けるのは、とても難しいものです。捨てることによって与えられることがあります。 イエス様は「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。律法を再解釈されたように思えますが、実は律法の本来の意味を教えてくださいます。神様の御心がどのようなものであるか。「目には目を、歯には歯を」という律法も、否定という形において本来あるべき姿を示されたものです。

気ままな休日・アメリカのスペアリブ

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アメリカ滞在中に食べたスペアリブ。 何と自分でスペアリブを買ってきて、 自分で調理して、バルコニーで自分で焼いて、食べる。 へ~~~こんなに美味しいのですね。 アメリカの肉文化はさすがでした。

看板が移設されました

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新しく看板が移設されました。

明日は礼拝!

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説教者:中村朝美牧師(宮崎教会) どうぞいらしてください。

「うな重が牧師に必要?」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「うな重が牧師に必要?」    西教区牧師退修会が津和野で行われました。現代のキリスト教にとって津和野(キリシタン殉教の地)はとても意味深いところです。宣教二世紀に入ったルーテル教会にとって、西教区の牧師たちが津和野から宣教二世紀を踏み出すことに神様の導きを感じています。    さて、その牧師会の最終日は、「ドライブイン津和野」で昼食をとることになりました。それぞれに自由にメニューを注文してよいことになりました。誰が何を注文するのか興味深くながめていました。結果は中華丼・八宝菜定食・焼き肉定食・ハンバーグ定食・ざるそばが各一個づつ。圧倒的人気はうな重で十三個でした。    牧師はやっぱり体力勝負なのでしょうか。自然と体が求めているようです。神様はその人にいま必要なものをご存知です。そしてそれを求めるように導いておられるのでしょう。    あなたがいま無意識に求めているものは何でしょうか。祈りですか。御言葉ですか。愛ですか。お金ですか。食べ物ですか。しかし、求めても与えられないのならば、本当に求めなければならないものを求めていないからです。必要なものは信仰によって与えられるのです。

「キリストのちょっとうれしい」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「キリストのちょっとうれしい」 マタイ  4:25  ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。 書店でビジネス書を立ち読みしました。「あなたのお客さんになりたい」という本の扉に次のように書いてありました。「いままでのサービス業は、『お得』ということがサービスでした。やがてそれは『便利』に変わりました。これがスーパーからコンビニへの移行です。これからは何か。それが『ちょっとうれしい』です。あなたがお店へ行ってあの店はよかったと覚えているのは、ちょっとうれしかったからです」。礼拝もまたサービスといいます。神様の福音は変わらないのですが、教会が人々に与えてきた恵み、人々が受け取る平安は、時代によって変わってきたのだと思います。キリスト教ブームといわれた時代がありました。その時は教会が人々のニーズにあっていたのでしょう。ところが、教会はそのときから変化したかといえば、その当時のままかもしれません。伝道の不振というより、時代をつかめないのではないでしょうか。これからの時代は「ちょっとうれしい」だとすれば、それは感動を与えられるかということです。ちょっとした感動を与えられるかということです。 イエス様の宣教活動の様子が記されています。まず最初は「おびただしい病人をいやす」ことでした。この評判を聞きつけて大勢の群衆がイエス様のもとにやってきました。イエス様の宣教の働きは「教え」「福音を宣べ伝え」「いやす」の3点にまとめられています。集まってきた群衆の地域性はかなりオーバーな表現ですが、その評判は絶大なものだったようです。イエス様のファンが増えてゆく様子がわかります。 大江教会は新しい方向転換をして3年になります。集会室をカフェにすることを承認し、計画を実行しました。教会が、地域の教会として九州学院へも宣教する教会となるための整備でした。 再び地域に開かれ、人が集まる場所になるための計画を立てました。それが「集会室のカフェ化」です。新しい方向転換でした。現代の若者たちは、時間のある時、ちょっとした集まり、仕事をするとき、勉強をする時「カフェ」を利用します。スタバなどはいつも満員です。ここに注目しました。集会室をカフェにすることで教会

「マカオからの葉書」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「マカオからの葉書」    毎週一回、必ず葉書が送られてきます。しかも国内からではなくマカオからのものです。マカオの友人が祈りや黙想の中で気がついたことを書いて送ってくれるのです。先週も木曜日に送られてきました。しかし、今回の葉書は読みつつ考え込んでしまいました。そこには次のように書いてありました。    「変えようと思わないこと。変えようと思う欲望は愛の敵。自分を変えようと思わないこと。ありのままの彼らを愛すること。世界を変えようと思わないこと。それは神様の手の中にあるから。そして神様はそれを知っている。このことがわかれば不思議と変わってくるものだ。荷物に邪魔されないように人生の流れに身をゆだねること」    まるで禅問答でしたが、神様がなさることを変える力など人間にはないということでしょう。神様だけでなく、人を変える力も持ち合わせてないのかもしれません。イエス様の時代でさえ、たくさんの人たちがイエス様のもとを去っていったのです。    宣教とは神様や人を変えることではありません。今は福音の種まきでしかないのかもしれません。そのためになんでもやってみることです。創意工夫して、たとえそれが自分でむなしくなってきても、続けることしかないのです。種は神様の力で芽を出すのですから。

「今日を生きること」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「今日を生きること」 マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。 本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。 新潮社「波」に、作家の城山三郎氏が次のように書いていました。  一日即一生私たちはよく、今年はどんな年にしようかと考えます。しかし、聖書にも書いてあるように、明日のことを思い悩むことはないのです。むしろ、今日という日を大切に生きていきしかないのかもしれません。自分で書いていて冷や汗が出るのですが、今日やらなければ明日はできないという思いで、何事も誠実に取り組みたいと思います。誰にだって明日はわかりません。手探りだけれど確実な今日が一生なのです。この思いを胸に祈りつつ歩める一日としたい。 イエス様は「 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。 今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

気ままな休日・博多の活きイカ

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 博多の会議が夜まで続きました。 疲れたな~と思っていたら、 なんと夕食に活きイカが!!! 美味しかったです。

鹿児島教会も春が来て元気

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明日は礼拝です

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説教者:関 満能牧師(水俣教会) どうぞいらしてください。

「冷や汗の講演会」

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クレヨン牧師のミニエッセイ 「冷や汗の講演会」    母校「九州学院」で、宗教特別伝道週間の講師として招かれました。とても不思議な感じがしました。なにせまだ恩師の先生方がたくさんおられたからです。つまり、自分の高校生時代のことを知っておられる先生方の前で講演をしたのです。    一日目は先生方への講演の日でした。初めは「なんとかなるさ」と思っていましたが、いざ講壇に立つと、足は震え、冷や汗はでてくる。しかも見渡せば皆が注目してくださっているけれど、目をあわせることができないのです。深呼吸して祈りました。「イエス様、私には話すことができません。あなたが語ってください。よろしく。アーメン」。すると自然に言葉が出てきました。この高校で聖書に出会ったこと。そしてキリストに導かれて教会生活を送ったこと。牧師として導かれたこと。証しができました。    二十分の話が終わった時、「自分はなんて幸せな牧師だろうか。恩師の先生方にこのような形で感謝することができた」と思ったのです。ついでに「神様のクレヨン」を全員の先生にプレゼントすることができました。じつは国語の成績は悪かったのですが、国語を教えてくださった先生がすれ違いざまに「ニコッ」と微笑んでくださいました。まさに冷や汗の一瞬、しかし喜びの一瞬でした。

「間に合う」

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「間に合う」 ルカ   4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。 ニュースで、「両親による幼児虐待で1歳児が死亡」というのがありました。このようなニュースを聞くたび、心が痛いものです。子どもたちは虐待する親を信頼しているはず。どんな思いでその親からの虐待を受けてきたのだろう。しかし、そのニュースにはもう一つ思うことがありました。虐待の事実があるという医者の報告に、児童相談所は会議をして「明日抜き打ちで訪問しよう」と決めたというのです。じつはその夜に子どもは虐待をうけて亡くなっています。なぜ「今日でなく、明日だったのか」。なぜ「すぐに」ができなかったのだろうと思いました。 イエス様の公生涯は、「み言葉を告げ」「悪霊を追い出し」「病気を癒す」ことから始まりました。カファルナウムと言う町では、シモンのしゅうとめを癒しておられます。このシモンは弟子のペトロで、イエス様から召される前の出来事でした。今朝は「すぐに」ということ考えました。癒されて「すぐに」人々に仕えた彼女の生き方、あり方が、いまの私たちに問われていると思ったからです。イエス様に愛をうけ、癒されたものは「すぐに」仕えるものになるのです。 依頼を受けて、外部の結婚式奉仕に行っときのことです。場所が変わればハプニングがあるもので、式が始まって結婚指輪が聖卓にないことに気がつきました。すぐに信徒のかたに合図を送り、探していただきました。そうこうしているうちに、説教壇にメモが届けられました。そこには「指輪はまだ披露宴会場にあります。すぐに来ます。少し説教をのばしてください」と書かれてありました。突然のことなので、いつもは十分で終わる説教を二十分かけてゆっくり話しました。もう冷や汗がでました。しかし、自分が話したものをその場で確認しながら、自分でも聞くという作業に恵まれました。そこで、聞いた自分が語る御言葉は「人生にはいろいろなことがあります。苦しいこと、悲しいことにぶつかります。突然起こってくる災難もあります。しかし、神様はきっと導いてくださり、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それを信じてください」でした。そう語り終えたときすぐに指輪が届きました。 イエ