「主は罪人を招かれる。」   マルコ福音書2:1317  小山 茂 

《レビを招くイエス》
 今朝の福音は、主イエスが徴税人レビを弟子にする物語です。マルコ1章で漁師4人が弟子にされました。その召命の様子は今朝の福音に似ていますので、振り返ってみましょう。ガリラヤ湖畔を歩いておられた主イエスが、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ二組の兄弟に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招かれ、彼らは網を捨て、父や雇人を残して従いました。そして今朝の場面でも、主イエスはガリラヤ湖畔に来られて、収税所に座っているレビを通りすがりに見かけられます。そして言われます、「わたしに従いなさい。」彼は言葉で応答せず、行動で立ち上がって主に従います。どちらの召命の場面でも、招かれた者が仕事中にもかかわらず、直ちに呼びかけに応じます。 

 主イエスが意図して導かれ、召された者が弟子として従います。私たちにとって不思議な出来事に思えます。聖書は事実だけを語り、弟子とされた者たちの心の動きを伝えません。牧師とされた私にとっても、弟子の召命は他人事ではありません。ですから漁師4人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、今朝の福音から知りたいのです。 

《徴税人・罪人と囲む食卓》
 ところで、徴税人の仕事はどのようなものでしょうか。当時国境を通過する物品に通行税が課され、その税を集めるのが徴税人の仕事です。その業務はローマの税金徴収を請け負った者が、税額を立て替えて先に納め、人々から税金を集めて穴埋めをします。多く集まれば利益を上げられます、少なければ損失を被ります。ルカ福音書にも徴税人ザアカイが登場します。ザアカイとレビとでは、同じ徴税人でも立場がまるで違います。ザアカイは徴税人の頭で金持ちですが、レビは徴税をするために雇われた者です。言ってみれば、社長と従業員の違いがあります。一方は利益を得られる経営者であり、他方は日雇い労働者にすぎません。当時は税率が決まっていなかったので、高く税金を取り立てて私腹を肥やす者も現れました。また異教徒と交わるため、ユダヤ人から汚れた者とみなされました。そんな訳で、徴税人はユダヤ人から軽蔑され、嫌われる仕事でしたから、罪人と同様に扱われました。 

 主イエスがレビの家で、食卓についている時のことです。大勢の徴税人や罪人も、主イエスや弟子たちと同席しています。ファリサイ派の律法学者たちは、その様子を見て弟子たちに言います。「どうして彼〔イエス〕は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」彼らは主イエスを非難して、遠まわしに弟子たちに言ったのです。

 今朝のマルコ福音書のユダヤ人社会にとって、同じ食卓を誰かと一緒に囲むことは、相手を同じ共同体の仲間と認めることです。たまたま食事を一緒に摂るだけではありません。公式に仲間として迎えることであり、その食卓に招かれた人、招かれなかった人、その選びによってどの共同体に属するか決められます。主イエスが罪人や徴税人と一緒に食卓を囲むなら、ファリサイ派は主イエスと弟子たちを、罪人と同様に看做します。そして、彼らは主イエス一同とは、これ以降交わりを断つことになります。ですから、たかが食事を一緒に摂るではなく、その後の人間関係に大きな影響を及ぼします。ですから、律法学者は聞いたのです、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」彼らにとって、誰と食卓を囲むかは大問題なのです。 

 食卓の交わりに関するファリサイ派の問いは、その後のキリスト者の間での関心事であり、筆頭弟子ペトロにも同様なことがありました。「ケファ〔ペトロ〕は、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れて尻ごみをし、身を引こうとしだしたからです。」《ガラテヤ2:12》ユダヤ人社会において、異邦人や罪人と食卓を囲むことに、ペトロでさえ気を使っていたことが分かります。 

《罪人を招きに来た》
 主イエスはファリサイ派の非難を聞かれ、律法学者に直接答えます。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」まるで医者について格言を語るように、主イエスは明言されました。それは、ファリサイ派に挑戦するかのように聞こえてきます。確かに病人には医者が必要であり、丈夫な人には必要ありません。さらに、主イエスがこの世に派遣された目的をはっきり伝えられます。ご自分は義人を招くためではなく、罪人を招くためにこそ来られたと。 

 この罪人というのは、彼らの律法を守れない人、律法どおりに暮せない人に、ファリサイ派が貼った「罪人」というレッテルです。そして、彼ら自身は律法を厳格に守るゆえに、神の前に義人であると自負しています。日々の生活に精一杯で余裕がなく、律法を守ることができない人を、彼らは神の前に汚れていると看做しました。主イエスは、律法に従って生きるユダヤ人のために、または律法を守れない異邦人のために、どちら側を招くために来られたのでしょうか。主イエスは罪人を招くために来られた、と神と罪人の間に立ちはだかる壁を突き破られます。それは、驚くべき逆転の真理でした。義(ただ)しい人を招くなら当たり前ですが、罪人を招くからです。ファリサイ派の律法学者は、主イエスから完膚なきまでに論破されました。彼らにとって大きな躓きとなりました。彼らの拠り所である、「自分たちは律法を守る義(ただ)しい人である」、それが木っ端みじんに砕かれたからです。 

 パウロはローマの信徒への手紙でこう語ります。「正しい者はいない。一人もいない。」《3:10》なぜなら、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」《3:23》からです。ルターはパウロにならって、律法によって罪は消えないが、ただ律法によって罪を知ることができる。その罪を認識させ悔い改め、キリストによる赦しが信じられる時、その信仰のゆえに神の前に義とされると言いました。いわゆるルターの信仰義認論で、信仰とは神への100%の信頼にあります。それゆえルターは、信仰者は「罪人であり、同時に、義人である」と言いました。私たちは罪人でありながら、主の憐れみに依り頼み、義しい者とされます。ですから、罪人でありながら、義人でもあると言ったのです。主イエスは漁師たちや徴税人を弟子に招かれただけでなく、罪人もご自分への信仰に招かれます。

《招かれる罪人》
 最初に漁師4人と徴税人レビが、どのような気持ちから主に従ったのか、知りたいと申し上げました。主イエスの見つめる眼差しが、その5人を捕えて離さなかったのです。「わたしに従いなさい」とは、主イエスがあなたの生涯をわたしに委ねなさい、わたしがあなたの人生全ての責任を負いましょう。その招きの言葉が、彼らの心に響いたのでしょう。そして、徴税人レビ自身が医者を必要としていたのです。彼は道端に座って通る人々から税を集めて、軽蔑の眼差しが注がれていました。できることなら徴税人を辞めたい、でも代わりの働き口が見つからない。彼はそんな風に思っていたのではないでしょうか。主イエスはレビの心を見抜かれて、彼を招かれたのです。弟子とされる根拠は弟子にあるのではなく、主イエスの方にあるのです。 

 かつてルーテル神学校の教職神学セミナーで、カトリックの晴佐久司祭の話を聞きました。この方はカトリックで注目される五十代の司祭で、一度に80人もの受洗者を出すことで知られ、何冊もの説教集を出されています。私が参加したセミナーで、ご自分の神信頼をこう語られました。神が招かれたのだから、神が責任をもって私に関わってくれます。もし上手くいかないなら、神さま何とかしてください、あなたが招いた責任を取ってください。それを伺って、神からの召命をこのように考えてもいい、と本当に驚かされました。主イエスに委ね切る信仰は、傍から見ると不思議なくらい楽観的に見えます。私がルーテル教会の幼稚園から、見守ってくださった牧師夫人の福山ハルヨ姉もそうでした。数年前105歳で天に召されましたが、帰省すると老人ホームに訪ねました。一緒に讃美歌を歌ったり、教会の話をしたり、生き方が前向きで思い煩うことがありません。主イエスに委ねる信仰とは、傍から見ると楽観的に見えてくるものです。

 話を元に戻しましょう。今朝の聖書箇所より、主イエスから「わたしに従いなさい」と呼ばれたら、レビは疑問もなく御後について行きました。主イエスの招きは無条件で即座に従う、それがマルコの召命なのです。徴税人レビの場合は、自ら辞めるなら復職はもうできません。漁師4人は元の仕事に戻ろうと思えば戻れますから、レビの召命の方が厳しいものです。ですから、徴税人レビの覚悟は漁師たちより、優っていたでしょう。 

 
 

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牧師のデイビット・ネルソンです