「無一物」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「無一物」 2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。 先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。 コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。 千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。 松平不昧公( 1751 ~ 1818 )所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。 無一物 とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。 パウロは「 無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人...