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雪が少ない

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『雪がすくない』  冬という季節なのに、暖かい日が続いています。今年は雪が少ないというより、雪がないのです。私にとっては大変有難いと思っています。なぜかと言えば、雪道を車で走った経験がないために、六日市礼拝の時、雪が降って道路が凍ってしまったらどうしようかと考えていたからです。  しかし、やれやれとばかり思ってはいけませんでした。先週六日市で「今年は雪がなくて良いですね」と言いましたら、「結構なんですが、畑をしている人にとっては良いとは言えないのです」と教えて下さいました。なぜなら、「雪が降り積もることで畑の害虫が死ぬのですが、今年はそれがないので作物への被害があるのではと心配なのです」ということです。  神様は私達のことを考えておられる。それは決して個人の我がままを考えてくださるのでなく、もっと大切な命の問題で考えてくださっているのです。私達は自分で生きているのでなく、生かされていることに気づきたいと思います。生かされているということは、命に我がままということではなく、あなたの命の大切さを教えてくれるのです。 

友と呼んでくださる

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「友と呼んでくださる」  ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。  ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。  日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。  イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。

鹿児島へ行きます!

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気ままな休日

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   阿蘇で青高菜を買ってきました。いつもは母が漬けたものをたべていました。仮設でも漬けられるけど、高菜がないとのこと。    そうでした従姉妹の畑が被災して高菜を植えられなかったのでした。来年は漬けると張り切っておりましたが。畑の断層をなんとかしなきゃと。    希望持って待ちます。でも、これは美味しいです。

痛みを負う

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「痛みを負う」  イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。 中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。  イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。  注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。 ...

何が見えるのか

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クレヨン牧師のミニエッセイ 『何を見るのか』  ヒンズ-教の聖典に、バ-ガヴァタ・プラ-ナというものがあります。そのなかに次のような話があります。      あるとき、一羽のカラスが、くちばしに一片の肉をくわえて空を飛びました。二十羽のカラスがそれを追いかけて、意地悪く攻撃しました。するとついにカラスは肉片を落しました。追いかけていたカラスは、彼一羽を残し声をあげながら肉片を追って飛び去りました。一羽だけ残ったカラスは、「ここは平和になった。空全体がぼくのものだ」といいました。      本当に大切なものは何かを見分けるのは、とても難しいものです。捨てることによって与えられることがあります。ペトロ・ヤコブ・ヨハネらは全てを捨てて従うことにより(ルカ 5:11 )、全てを与えられたのです。あなたが神様のまえで捨て去るものはあなたを捕らえて離さないものです。それはイエス様よりも大切なものですか。     「わたしの家が燃え尽きたとき、わたしは夜空を何にも妨げられずみることができた」と言った人がいます。私たちは何をみなければならないかを見極めるセンスを与えられたいと思います。

中を見たい

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鹿児島ルター君の朝のみ言葉 「中を見たい」  ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・ ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。  イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。 あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。  さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。